伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

神無月の半ば…、伊勢市内散策の記

2012年10月14日 | 伊勢の自然と風物
Rendaijigaki

 神無月に入って、早や半ばとなった。この処、秋晴れの好天が続いている。市街地背後の小山では、特産の蓮台寺柿が色づきはじめ、山畑一面を黄色く染めている。正に「実りの秋」 「味覚の秋」の到来である。

 伊勢では先週の連休に「伊勢まつり」があった。市街地のメイン道路は交通規制がなされ、好天続きのせいもあって大勢の人出でにぎわった。祭の後は、又日常の町風景に戻り静かになったのだが、今年はこれで終わらない・・・。


 やはり秋は、晴れれば祭には最適のシーズンである。昔は、10月の伊勢の祭は「大祭り」と言って、伊勢神宮の神嘗祭(かんなめさい)に合わせて行われていたが、ごく最近になって分離し、「大祭り」はイベント的な「市民の祭」となったのだ。

 一方、伊勢神宮の神嘗祭は、年間を通して一番大きな両神宮(外宮・内宮)の祭典であり、秋半ばの実りの時期(伊勢神宮の神嘗祭は10月15日~17日)に、天皇がその年の新穀を伊勢神宮に奉る祭りであって、戦前は国の祝日でもあった。伊勢市民も昔からお祝いのしきたりとして、町をあげて「初穂曳き」を行ってきた。秋の収穫に感謝して行われる、伊勢ならではのこの祭典も、今は全国各地から食産物が奉納されることもあり、市民感覚は「食の祭典」のように変化しつつあるみたいだ。Matsurino_poster

 今年の神嘗祭は、伊勢では15日と16日に神嘗奉祝祭=「祭のまつり」として、先の「伊勢まつり」に続いて執り行われ、前々日から外宮北口前の広場では、全国各地の食産物の即売市が開かれているが、祭の当日には、初穂曳きとともに、1府14県二十二の団体が来勢し、伝統の踊りや民謡などを披露する。


 ところで、伊勢神宮の神様は特別なのだろうか。一年で一番凌ぎ易い秋の真っ只中の10月に合わせて、年に一度だけ、全国各地の神様が出雲の国に集まるのだそうで、何処もかしこも神様がいなくなるから「神無月」となったのだと言われている。但し、出雲の国だけは、今月を「神有月」とも言うそうだ。伊勢の町では、神様がいてもいなくても、この「神無月」には大々的な祭が催される。
 ちなみに、戦前はこの宇治山田(伊勢市の前身)の町を、「神都」(しんと)と呼んでいた。

 我が町伊勢市には、古来、全国で一番格式の高い「天照皇大神」と「豊受大神」の鎮座する神宮があって、それぞれ「内宮」、「外宮」と呼び、合わせて「伊勢神宮」と称し、年中、全国からの参詣客があとを絶たない。当市にとっては、真にありがたい神様であり、伊勢の町も古来その門前町として栄え、今日に至るまで、神様のお陰で発展を遂げて来たとも言える。


 好天に誘われて、伊勢すずめも少しだけ、伊勢まつりの後、伊勢の町を飛び回ってみた。とは言っても、見慣れた殺風景な市街地はパスし、周辺の自然界と市街地の境界付近の散策である。

 伊勢の町なかにも、散策地として、伊勢神宮関連の「摂社・末社」などがあり、神社仏閣も各町内に見られ、かつての伊勢参宮にゆかりの街道筋には、史跡や道標など、謂れのある場所も数多く残っている。歴史家や郷土史家にとっては、見て回るのにいろんなコースがあるだろうが、我輩はそれ程の興味はない。

 長年伊勢に住んでいてまだ通った事のない、今まで全く知らなかったような道路や路地、小路・・・。見知らなかった風景のちょっとした新鮮味に、新たな発見もありそうだが、今回は通り抜けてみるだけにした。
Ohzeko


 伊勢の町では、昔から細い裏道(小路)や通り抜けの出来る路地を、「世古」(せこ)と呼んでいる。それぞれに名前が付いていて、例えば町名にもなっている「大世古」(おおぜこ) ・・・。
 市街は歴史のある町ゆえに、近年になって、主だったそれぞれの世古の入口(分岐点)には石標が立てられ、観光に一役かっているが、昔の伊勢(宇治山田)の地図には、さらに詳しく、細かな世古まで多数明記されている。
 昨今、忘れ去られて行く各々の世古の名を惜しんでか、近年「石標」を立てた事で復活した感があるが、地元民以外には、懐古感も郷愁なども全く無いのは当然であり、町なかでの伊勢だけの呼び名にすぎない。
 散策に当たって、戦前の地図を開いたついでに、印刷してあった世古名を記しておく。(但し、その後の都市整備や道路の拡幅で、現在では消えて行ったものがかなりある)

 大世古、松之世古、竹内世古、飛木世古、御屋敷世古、御師世古、河崎世古、 極楽寺世古、 主馬殿世古、坊之世古、道場世古、阿弥陀世古、藤六屋世古、  長之世古、坂世古、弘正寺世古、貝吹世古、烏帽子世古、藪之世古、堤世古、 正法寺世古、鉋屋世古、小島世古、上地世古、稲荷世古、溝世古、正壽世古、 今世古(複数)、清水世古(複数)、西世古(複数)、びっくり世古、


Isuzugawanokakou

 市街地を離れれば、北方には伊勢平野の田畑を隔てて、伊勢湾南岸の遠浅の砂浜海岸が続き、二見町の今一色から五十鈴川対岸の一色、勢田川を隔てたその対岸の神社(かみやしろ)や大港と、かつての農漁村の海辺の村落(今はそれぞれ、~町と呼ぶ)が西方に続き、さらに御園(みその)から宮川河口を経て、有滝、村松、東大淀へと続いている。
 市町村の統廃合で、かつての「二見町」と「小俣町」と「御園村」が伊勢市に編入され、市域が広がったが、北方以外は、こんもりとした雑木林や山林が周囲をとり囲み、市街地のすぐ南方は伊勢神宮の宮域林で、自然環境豊かな自然の風景が眺望される。
Saigyoudani01

Saigyoudani02 森林に分け入り、五十鈴川や島路
川(五十鈴川の支流)、横輪川(宮川の支流)の上流に行けば、渓流や早瀬、淵、小滝、巨岩や巌など、昔の名所案内(伊勢参宮名所図絵、他)に記された、風光明媚な見どころ等が色々とたくさんあるのだが、流域の殆どが伊勢神宮の宮域であって、観光資源としての開発は出来ず、訪れる人もごく限られている。


 伊勢すずめが見てきた場所は、掲載写真のとおりであるが、紅葉の時期になれば、さらに秋の散策名所となるかも知れない。
Tsuzuraishi

Tstzuraishinoiware_2


 



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五十鈴川界隈の散策、あれこれ …。

2012年09月12日 | 伊勢の自然と風物
Jrtekkyou


 九月に入って、久しぶりの上天気である。早朝の秋めいたまぶしい陽射しは、心地よい秋の風とともに、思わずして外出を誘う・・・。



 昼前になっても、快晴そのものなので、近くの五十鈴川に出向くことにした。宇治橋より上流は、伊勢神宮の宮域なので、今日はその下流の川原に行った。
 浦田橋付近の河川敷の駐車場が有料化されてからは、その下の広々としたIsuzugawakawara
川原で遊ぶ人々の姿がめっきり少なくなった感じである。以前なら、朝早く車に犬を載せて遊ばせに来ていたり、親子でキャッチボールをしていたり、ゴルフの練習さえしていたものだ。又、豪雨による出水の引いた後など、流木を拾う地元民も何人かみえた。

 五十鈴公園に隣接する河川敷の駐車場も、平日なのでガラガラである。さっそく中村町に渡る御側橋(おそばはし)の土手下に車を止めて、川原に下りた。どうしても、川原を歩くと転石に目がゆく。石マニアゆえの性分なのである。川面を渡るかすかな微風が爽快ではあるが、衰えを知らない残暑の陽射しは、夏の日のままである。ついつい石を探す・・・。


 五十鈴川は、神路山や島路山の源流からV字谷の河谷が形成され、上流域は西南日本外帯地質区の各地層の走向を横切るように、渓流や早瀬となって流れ、宇治橋付近で川床が平坦化し、各所に小広い川原を形成しているので、岩石の種類は豊富である。それ故に、いろんなAsamaishi_3
鉱物も見つかるのだ。30分ほど遊んで、手にした石は五つ六つ・・・。  Siro_chert_4

 茸のように水食を受けた掌大の「朝熊石」(姿石)、白色チャートの晶腺(小穴)にキラキラと輝くミニ水晶。変質チャートの表面等に層状脈を成す赤鉄鉱、きれいなピラミッド型の風食小礫や三稜石、そしてYの字形の神足石・・・。


Hematite_3


Tenseki

 


         

 次に、楠部町に入り、落成式を待つばかりの、架け替え工事の終わった新しい「五十鈴橋」を見ながら、鹿海町の堀割橋に行った。川の両サイドの氾濫原に広がる田んぼには、一面に黄金色の稲穂がなびき、一角で稲刈りが行われていた。



 Horiwaribashi_2


 この橋を渡った左手の方向、右岸のすぐ先に「鏡宮」(かがみのみや)がある。ここは、Kibanoato_2
かつての木場(内宮造営貯木場)の跡(川曳き用のお木をあずかってKagaminomiya
いた所)でもあり、そばに、その事を記した立札が立っている。初秋の日和に誘われて、写真を撮った。今日は全くの写真日和である。


 


Siwaino_kidouato




 最後に、汐合橋付近の市電の軌道跡に行った。昭和30年代までは、伊勢の市街地から遥か先の内宮前と、当地二見町に向かって、路面電車の軌道が延びていた。その軌道跡が今もはっきりと残存しているのは、ここぐらいであろう。当時の名所・名物だった「汐合の鉄橋」の橋桁も、その先の川の中にしっかりと残っている。
Kidouato
僅か数十メートルであるが、軌道跡の砂利道の両サイドには、桜の木々が、さながら並木道となってアーケードを作り、木影を映しながら木漏れ日が降り注ぐ。ふと耳を傾けると、夏を惜しむかのように、何匹ものアブラゼミが盛んに鳴いている。
 少し先には、JR参宮線の昔ながらの鉄橋が見渡せる。もし、今もSLが走っていれば、見事な風景となるに違いない。



 散策のラストは、このすぐ左手前方(五十鈴川の右岸)にある、こんもりとした林の中に見えている赤い鳥居の神社への参拝となった。「姫宮稲荷大明神」の裏門である。デジカメを手にし、防波堤隣接の側溝沿いに細道を進み、神社に参拝した。




Himemiyainari




 誰もいない林間に注ぐ陽射しだけが、お稲荷さんのお堂をまぶしく照らす。お賽銭はいつもの通り「45円」である。始終はご縁がないのだけれど、習慣になっているのだ。鈴を鳴らして拍手を打ち、拝礼し、左右の本尊のお使いさんの狐の石像にも手を合わせる。
 帰りは、幾重にも鳥居の続く表参道を潜りぬけ、鎮座する門番しかりの唐獅子顔の、阿形・吽形の「駒犬」達にも一瞥し、道端に駐車した車に向かった。時刻は、昼下がりの2時過ぎであった・・・。


 


Sandou

Komainu




 







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝熊山の自然~岩石・鉱物、地質、植物など…。

2012年02月15日 | 伊勢の自然と風物


戦前の朝熊山の風景・田んぼの真ん中を岳電が走る~古い絵葉書より


 伊勢の両神宮とともに、昔からお伊勢さんの名刹、金剛証寺のある朝熊山の事を少し書いておこう。


  伊勢の朝熊山

 朝熊山は、伊勢志摩国立公園の最高峰(朝熊ヶ岳、主峰の経ケ峰は海抜555m)で、その山上からは、鳥羽湾はもとより、東海十八州を一望におさめ、晴れ渡った日には遠く富士山までも見渡せる程雄大な眺めをもっている。
 この山の名前の起こりについては、既にブログのバックナンバー(2010年5月、「伊勢の朝熊山あれこれ」参照)に記しておいたが、昭和の半ばに伊勢志摩スカイライン(有料道路)が通じてからは、信仰のみならず、観光の名所としても広く知れ渡るようになった。その陰で、この山地が地質学や岩石・鉱物、動・植物学上の、大変価値のある貴重な場所だと言う事は、あまり知られていない。


  朝熊山の地質と岩石

 朝熊山は、伊勢市から鳥羽市にかけて聳える東-西性の山地で、紀伊山地の東北端にあって、海抜350m~550mのほぼ定高性の尾根が続いている。地質は、中央構造線のすぐ南に位置する関係上、西南日本地質区外帯の地質構造に支配され、山地を挟む縦走断層や構造線によって地塊化し、尾根を軸とする中心部には、先新生代の蛇紋岩や橄欖岩、斑糲岩などの塩基性深成火成岩類の貫入があって、山肌や道路沿いの崖面など至る所で露頭を見る事ができる。
 朝熊山の北斜面は、山麓を東西に走る活断層(朝熊ヶ岳断層と言う)の影響によって、35度以上の急斜となっているが、南方は褶曲山地を成す島路山へと続き、河谷の発達した壮年期地形を見せている。
 この朝熊山の貫入岩体を挟むように、広域変成帯(三波川変成帯と言う)が広がり、山の中腹までは、主に角閃岩や緑色片岩、石英片岩などの結晶片岩と、石墨千枚岩が分布している。


朝熊山地質断面模式図


  朝熊山の鉱物

 最近、鉱物コレクターが少しずつ増えていると聞く。特に、中国産の巨大で美しい結晶や美・貴石が頻繁に輸入され、リーズナブルな価格で取引され、市場に出回るようになった事も、その一因であろう。だが、国産鉱物となると、昭和年代まではたくさんあった大小の鉱山が全て閉山し、昔ながらの産地の消滅も著しい昨今、とても中国産の多彩な鉱物には太刀打ちが出来ない。そのような時代ではあるが、各地の鉱産地についての情報が、なぜかブログで氾濫しているように思う。新種や希産種、美晶鉱物の採れる場所などは、もっと情報を管理しなければと思いながら、朝熊山の鉱物を知ってもらう為に、少しだけ紹介する次第である。

 これまでに、採取され朝熊山の鉱物種としてチェックされているものは、およそ40種である。代表的なものは、蛇紋石、異剥石、透輝石、方解石、霰石、水苦土石、含水石榴石、ソーダ珪灰石、磁鉄鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、武石である。このうち、含水石榴石は、東京の国立科学博物館にライトブルーの標本が保管されているが、その産出場所の詳細は未だに不詳である。そして、朝熊山上にあった野間万金丹跡辺りの路面から、かつては頻繁に採集された武石と、伊勢志摩スカイライン中腹の崖面に小脈を成して産した水苦土石は、残念ながら幻の鉱物となってしまった。
異剥石の巨晶を産する斑糲岩ペグマタイトの露頭~朝熊山上にて
 山上の露頭から今でも採集できる鉱物と言えば、蛇紋石と異剥石であるが、この異剥石の巨晶は裂開面が大変きれいに輝き、全国的な希産鉱物ではないかと思われる。


  朝熊山上の植物

 山上広苑の自然観察遊歩道に沿って散策すると、ウバメガシが目に付き、ヤブツバキやアラカシ、ツブラジイ、シロダモ、ソヨゴ、ヤブニッケイ、ヤマモモ、ヒメユズリハ、アセビなどの常緑樹もよく目立つ。朝熊の名を冠したアサマリンドウやアサマツゲなどもあり、ジングウツツジ、ドウダンツツジ、サラサドウダンなども、花時の美しさは格別である。
 植生の垂直分布の上からは、ツブラジイ、アラカシ、ヤブツバキ、サカキ、ヒサカキなどの生育する暖地性の常緑広葉樹林域である。
 かつて、山頂付近にはスギの老齢林があって、林床にはアサマツゲや次に記す「朝熊(山)七草」が生育していたが、昭和半ばの伊勢湾台風の際この林は全滅してしまい、現在はと言うと、著しい自然環境の変化によってその跡地に発育したシイ、カシ類を中心とする萌芽林が成長し、常緑のブッシュ(雑木林)を呈している。林床の各所には、ウラジロやコシダなども繁茂し、蛇紋岩地帯の尾根を歩くと、クロマツの疎林が残存し、カマツカやコバノガマズミ、コバノトリネコ、メギ、ツクバネウツギ、コウヤボウキ、コガンビ、キハギ、ハイネズなどが観察される。
 特に、当地の蛇紋岩地帯を代表する植物種としては、ジングウツツジ、ヒロハドウダンツツジ、アサマツゲ、シマジタムラソウ、シュンジュギク(別名、アサマギク)などが数えられる。

  朝熊山七草

 三重県植物誌の著者、伊藤武夫先生(故人・著名な植物学者)は、1932年発行の同書において、朝熊山に顕著な代表的植物として、次の七草を選び「朝熊山七草」として発表している。

  アサマギク、テイショウソウ、スズコウジュ、アサマリンドウ、トリ
 ガタハンショウヅル、ミスミソウ、チャボホトトギス


朝熊山七草~孫福 正 著、「朝熊山の植物」より


 いつも思うことだが、人類社会の近代化は、歴史を通じて、家屋や食物から生活道具、調度品に至るまで、長い間自然物を利用し、自然の恩恵のもとに暮らしてきた。ある地方の史跡や観光資源の根源も、自然環境への崇拝やその活用であり、暮らしと自然界の姿(地形や地質、岩石・鉱物、動・植物、気候など)との拘りが当たり前だった時代からの遺産である。その事を念頭において、観光化された自然景観(山々や渓谷、海岸など)を真摯に見つめ直さないと、誰が政治や行政を担当しても、開発と保全の表裏をはき違え、「する事、成す事」において、今あるかけがえの無い自然資産の後世への継承を、大きく見誤ってしまうのではないか・・・。人は亡くなれば「自然の土に帰る」と、昔の人はよく言ったものだ。

 今回は、伊勢の身近な観光化された名峰である「朝熊山」について、ちょっとした「自然ガイド」を綴ってみたのだが・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二見町の話 ~ 名所・風物回想記 ~

2010年06月23日 | 伊勢の自然と風物

二見ヶ浦・神前岬・海食洞門

 

お伊勢参りの名所・名勝地

 二見ヶ浦と言えば、古来、お伊勢参りの名所・名勝地であり、夏至の頃大小二つの海中岩(立石。一般には夫婦岩と呼んでいる)の間から昇る日の出の遥拝と、海水浴発祥地の一つとして名高い。
 早くから、鳥羽に至る参宮線、並びに神都線(伊勢の市電。後の三重交通電車)が通じており、五十鈴川や勢田川の水路を利用した船参宮や物資輸送とともに、交通至便な臨海地として発展を遂げてきた。
 町並みは、興玉神社の門前町の形態を保ちながら、かつての伊勢の町(宇治山田市)とともに観光街として発達し、今のJ.Rの二見駅前から海岸近くまでは、真っすぐな繁華街が続き、右に折れて道路の海側には旅館が連なり、立石崎に続くその道路の真向かい側には土産物屋がひしめき合っていた。今で言う、正に伊勢湾南岸の一大観光リゾート地であった。

二見へのちんちん電車

 戦後から昭和30年代にかけては、伊勢市内の小学生達は、夏が来ると学校行事として「ちんちん電車」に詰め込まれ、田んぼのど真ん中を二見へと単コロ電車が走って、海水浴や林間学校を楽しんだものである。
 広々としたきめ細かな砂地の海浜と防風林の松林・・・。そして、一日が瞬く間に過ぎ、夕陽を西に、五十鈴川に架かる汐合(しわい)の鉄橋を市電が渡ると、伊勢の町に近づき、ちょっとした旅行気分を満喫したものである。
 戦前には、一時期、音無山に昇るのにあったと言う、ロープ・ウェイの話も懐かしい・・・。
 幼少の頃の二見ヶ浦の記憶を辿る時、伊勢からのアクセス道路(国道、他)も一段と整備が進み、ずいぶん速くて楽にはなったが、かえって殺風景になってしまった。町が近代都市へと変貌を遂げてゆく中で、二見町界隈を見ると、かき消されていった風景や風物ははかり知れない。

二見町の見どころ

 しかし、一般にはあまり知られていないが、この二見町には、昔ながらの聖地や名所、名物が幾つかある。まず、立石崎の上方、音無山への山道が最近遊歩道に整備され、かつて荒れ果てていた山上広場が展望台公園となり、伊勢湾が一望できる名所として復活した。この山の東麓には、藤の花で著名な由緒ある札所の太江寺があり、今はペット供養を兼ねたお寺となっているが、散策者が絶えることはない。
 次に名所となる場所は、江海岸のさらに東の突端、神前岬(こうざき)にある「潜り島」である。江の橋の東方約600mから先の海岸は、古名を千尋の浜(ちひろのはま)と言い、神前岬まで約800mにわたり千枚岩や結晶片岩が露出し、荒磯(岩石海岸)となって真っ直ぐに続いている。ここには、当地では比較的大きな海食洞門(潜り島)があって、注連縄が張られ、アレサキ姫が祭られ神聖視されている。さほど遠くない東西二つの岬に、それぞれシンボル的な微地形があるからには、昔は「潜り島」の洞門は、おそらく立石とともに「男性神・女性神のセット」として崇拝されていたに違いない。ただし、潜り島へは、大潮の引き潮時でないと辿り着けないので、要注意である。

立石(夫婦岩)以外にも、数々の謂れ石が ・・・

 当地は、立石(夫婦岩)で全国的に著名な二見町らしく、幾つか石にまつわる名所がある。昔の名所図会などにも出ている謂れ石に、硯岩(すずりいし・硯石とも書く。三津の裏山)、退石(すさりいし、但し今は不詳。三津の裏山)、天狗石(天狗の力石。三津の裏の田んぼの中)、並びに猿田彦石と猿田姫石(江の町内の旧道沿い)がある。この他、溝口の南はずれの五十鈴川右岸に、破石(われいし)という岩があり、中央が上下に裂け、ぽつんと川岸に取り残されたように突き出している。

昔の二見を知る人は、今 ・・・

 かつて、度会郡であった二見町が伊勢市に吸収された今、昔を懐古し、往時を物語る人も数少なくなってしまった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする