伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
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伊勢の国・「丹生」の地名を考える

2010年09月27日 | 三重県の地誌・歴史など

丹生の大師堂

 

伊勢の国の「丹生」は、「丹砂」の大産地

 伊勢志摩に程近い松阪市の南方、多気郡多気町(旧勢和村)に、「丹生」(にう、にゅう)という、街道風の古道が通るかなりの戸数の古風な農村がある。ここは蛇行する櫛田川中流の右岸に興った、奈良朝時代から続く昔ながらの歴史的由緒ある村落である。在所の要には、一対の仁王堂のある立派な山門と本堂に登る回廊を備えた「丹生神宮寺」(丹生の大師堂)、並びに「ニウズヒメ」を祭る「丹生神社」が隣り合わせにあって、正面に伸びる古街道はさながら門前町のようでもあり、宿駅のようでもある。当地は、その名の通り、日本において古来「丹」が「生産」され、昭和の終わり頃まで永きにわたって鉱石の採掘が断続的に続けられて来た、古い鉱山町の名残の地なのである。「丹」とは、ここでは「丹砂」、すなわち硫化水銀(鉱物名は「辰砂」。「朱砂」とも言った)の事であり、村内各所の地山(じやま)はもとより、田畑の際や川岸など、数百はあると言う「狸掘り」(たぬきぼり)の旧坑跡が至る所に点在する。この内、主なものは、県の史跡に指定され(史跡・水銀山。保賀口坑や池ノ谷坑等)、又、戦前、旧坑の一部を再開発した日の谷坑跡は、自家精錬施設の「レトルト炉」の残骸とともに、町の行政により鉱山遺跡として整備され、保存が成されている。

 

いにしえ最大級の鉱山村落、並びに「丹生鉱山」の事など

昭和50年前後、稼行していた当時の丹生鉱山  かつて当地は、「丹生千軒」という言い伝えが残っているように、奈良朝時代からわが国最大級の鉱山村落として栄え、 東大寺の大仏鋳造の際の金メッキには、当地の「伊勢水銀」が溶剤としてふんだんに使用された。他では「大和の水銀」も使用されたであろうが、量的には問題にならなかったようだ。

丹生の村内の採石場に出現した「狸掘り」の旧坑跡  昔の素掘りの丹生鉱山は、膨縮し断続的に地下に続く鉱脈の露頭の富鉱部を、犬下がりに掘って追跡していったようで、今も地下深くには脈幅1mを超える最大規模の超富鉱脈が眠っている。昭和52年頃、数年間続いた野村鉱業再開発の「丹生鉱山」(旧・保賀口坑の地下を探鉱し採掘)が閉山となる間際に、地下150 m程降りた一番下の切羽まで見学に入れて頂いた事がある。所長さんが直々に案内して下さったが、出鉱品位を一定に保つ必要上、富鉱部と貧鉱部を同時に採掘し、最大規模の超富鉱脈は最後まで温存していたのだという話だった。坑道先端の壁も天井もレンガ色の辰砂の富鉱脈であり、良質の粒塊が、塗りつぶされたように一面にキャップ・ライトにキラキラ輝いていたのを記憶している。正に、そこはお宝の殿堂であった。

 

「丹生」と言う地名について

丹生鉱山・旧坑「日の谷坑」の前に残存する「レトルト」の残骸  ところで、この「丹生」の地名を三重県下で探してみと、多気町(旧、勢和村丹生)の当地以外に、近隣には丹生寺(にうでら。松阪市)や丹生俣(にうのまた。津市美杉町)があり、他に北勢に丹生川(にうがわ。いなべ市大安町)がある。南の尾鷲市須賀利町にも「丹生」と書く字名(あざめい)が見られる。伊勢志摩ではと言うと、合歓の郷(志摩市浜島町)の郷内に「丹生池」なる小さな池がある。各地の字名や津々浦々の通俗名まで詳細に調べれば、まだまだたくさんあるであろうし、「にう」や「にゅう」とは読まず、「にぶ」とか「にじょう」、「にしょう」、「にき」等と呼ぶ場所があるかも知れない。これは、「神戸」と書いて大都市の「こうべ」以外に、「かんべ」と読んだり、「かんど」と言ったりするケースと同じ事が言える。

 これらの中には、歴史上、「丹砂」(朱砂)に繋がる地名もかなりあるであろうが、全てが水銀鉱物の産地に由来するものであるとは考えられず、「青丹」(あおに)の鉛丹や、「紅殻」(べにがら、べんがら)の赤色(赤鉄鉱の粉末)などと混同し、それらの生産等と関わって生じたものもあるのかも知れない。

丹生鉱山跡への案内板

 

「丹生神社」及び「丹生」の地名と、水銀鉱床の分布

 さらに、「丹生」を冠した名称は、神社名や人の苗字にも認められる。特に三重県から奈良県にかけての神社に数多く見られ、「ニウズヒメ」をご本尊とする「丹生神社」や、「ミズバメ」を祭神とする「丹生川上神社」(にうかわかみじんじゃ)などは、あまねく知られている。このような神社は全国各地に散らばり、鉱山の守護神を祀る「大山祇神社」(おおやましじんじゃ)とともに、空海ゆかりの高野山の周辺をはじめ、中央構造線沿いの修験者の山駆けルートや弘法伝説の地に関わっても存在する。特に西南日本の中央構造線沿いは、水銀鉱床の密集地(鉱床帯)であり、九州から四国を経て紀伊半島を横切り、愛知県にまで、かつての水銀鉱山の跡が広範囲に点在していて、県外では「丹生」の地名の分布とは著しい合致を見る。奈良の大仏建立の前、秩父の国に初めて「和銅」(自然銅)が発見されてから後、空海をはじめとする高僧や雲水、帰化人を交えた修験者たちは、当時の鉱山師(やまし)であったに違いない。昔は、伊勢の丹生からも「自然水銀」が多少は産したようだ。

 

「丹生」の研究、その他

丹生鉱山産 辰砂  後になってしまったが、本稿で取り上げた伊勢の国の「丹生」については、地質学や鉱床学ばかりでなく、古代史中心の史学や考古学、人文地理学、郷土科学等、幅広い分野にわたって、数多くの詳しい研究がなされ、膨大な資料や文献が山積し、郷土史・誌をはじめとする色んな書物にまとめられ、紹介されている。

 また、当地「丹生」の水銀鉱山に関係する数々の古文書や、往時の道具、遺物、鉱石などは、同町古江にある「ふるさと資料館」に展示され、一般に公開されている。ついでに記すと、室町時代の歌僧、東福寺の正徹(1380~1458年)の歌集「草根集」には、伊勢水銀の採取のために山林の荒廃していく様子が、次のように詠まれている。

根を絶えて 切らぬ立木もあれぬべし 水の金掘る丹生の杣山

 以下に、「丹生」に関連する名著や主な文献を記しておく。

 

【名 著】

丹  生-近鉄沿線風物誌 歴史3-
昭和34年、近畿日本鉄道宣伝課 発行
丹生の研究-歴史地理学から見た日本の水銀- 松田壽男 著
昭和45年 早稲田大学出版部 発行
古代の朱 松田壽男 著
昭和50年、株式会社 學生社 発行
わたしたちのふるさと   勢 和
平成7年、三重県多気郡勢和村 発行

 

【文 献】

大西源一 大正七年・1918年
「日本産水銀(特に伊勢水銀)の史的研究」(1)~(3)
  考古学雑誌・第8巻10~12号
堀 純郎 昭和28年・1953年
「本邦の水銀鉱床」   地質調査所報告・第154号
岸本文男 昭和50年・1975年
「伊勢の国 丹生の水銀(みずがね)」 地質ニュース・第251号
高田雅介 2003年
「三重県丹生の" 辰砂 "紀行」   ペグマタイト・第62号

画像上から

  1. 丹生の大師堂
  2. 昭和50年前後、稼行していた当時の丹生鉱山
  3. 丹生の村内の採石場に出現した「狸掘り」の旧坑跡
  4. 丹生鉱山・旧坑「日の谷坑」の前に残存する「レトルト炉」の残骸
  5. 丹生鉱山「日の谷坑」跡への案内板
  6. 丹生鉱山産 辰砂(標本のサイズ:左右約6㎝。丹生鉱山の坑内にて採集)
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