伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

初秋雑感…。

2013年09月14日 | 随筆・雑感・回想など
Kikukaseki

 人類は、古代より群れを成し共同生活を営む中で、 社会を形成し文明を構築して来た。そして、ビル街には人や乗り物がひしめき、さまざまな商品の密集した大都会から、最果ての閑散とした農・漁村に至るまで、経済の流れと共に、これらの生活圏を結ぶインフラを整備しながら治安を維持し、あらゆる自然物を生活の道具や糧として活用して来た。
 自然物の中で、動・植物などの食料資源や地下資源(エネルギー資源)はもとより、特に火(明かりや暖房)、水、塩(海塩や岩塩)、樹木、衣類、履物などは、日常生活には今も昔も欠かせないものである。 これらを生み出しているのは、山水美の豊かな地表の自然環境であり、広大な海洋である。そして、全ての根源は太陽の放つ莫大な熱エネルギーであるのだが、忘れてはならないのは、絶妙なほど完備し、そのバランスを保ちながら、地質時代を経てコントロールされて続けて来た、「地球」そのものの「地表の保温システム」の仕組みである。これには、程よい距離に、程よいサイズのただ一つの衛星、「月」があった事も否めない。
 昨今、地球上に増え続ける人間集団を考えると、地表の自然界と国際社会の未来はどうなるのだろうか。あらゆる分野での「社会システム」の至便化は、必然的な不可逆現象であり、生産活動の向上から来る歯止めの効かない「地表の加工」や増え続ける「産業廃棄物」、西洋の産業革命に至るまでは地下資源として封じ込められていた、太陽エネルギーの缶詰めとも言える「化石燃料」の採掘と消費、そして日増しに進む「海洋の汚染」や、温室効果の進行による「大気の大循環の異変」等について見てみると、少なくとも数百年前まではほぼ安定していたエコシステム(地球生態系)に、甚大な悪影響を及ぼし、その結果、かけがえのない地表の保温システムを、年々狂わせている事は否めない。 地表の温暖化による極地圏の加速度的な氷解も、そして全世界的な海水準の上昇や大気圏の異変も、次の氷河期が来れば一気に解決はするのだが、今や手遅れであり、それまでに人類社会が「文明のピーク」に至るのは目に見えている。 
Takiishi

 古来、人類は視覚を介して、山水の「風景美」や海辺の「絶景」を、日夜、脳裏に刻み続けながら現代人へと進化の道を辿り、社会環境を都市化文明へと移り変えるように突き進んで来た。特にここ2~3世紀間は、目覚しい科学技術の進展のもと、多数の近代国家の成立と共に、日本も先進的な「社会進化」を遂げた。今やパソコンも携帯端末機材に組み込まれ、通信のみならず電子マネーまで飛び交う、「電子ネット・システム化」された新文化の時代である。 我輩もそんな暮らしの片隅にいて、日夜、目覚しいスピードで変貌してゆく社会情勢の多様化に振り回されながら、とり残されたように蠢く一人である。体内の神経回路への情報刺激のアクセス作用も、急テンポで増量・複雑化を窮め、自身の内部環境(精神文化面)をもアップデイトしてゆかねば、追随出来ないようなネット化社会の環境下で、どうにかノート型パソコンを駆使しつつ、老朽化した脳細胞にムチ打ちながら、何とか凌いでいる。 社会的には全く不器用であり、学習能力も人並み以下の人間であっても、その知的活動に基づく「生き様」となると、人は10人十色であり、やる事成す事は多岐多様にわたっている。 
 そのような社会環境の下で、人々は生理的な必須欲求を除けば、実生活のための「労働」(稼動)や、気晴らしの為のスポーツやレクリエーション、そして「趣味」などから来る付随的な欲求が、不自由なく満たされれば、誰もが至福の気持ちに至るのは当然である。 「一日=86,400秒」に過ぎない持ち時間の中で、睡眠や食事等の生理的な必須時間を除いて、どれだけ「好きな事」に使えるかで、その人の「生活の自由度」(かつて提唱された「新エンゲル係数」)が決まる。社会の仕組みや他人に殆ど拘束されずに、衣食住に困らず、若くして好きな事を「職業=仕事」にして高所得を得ている人は、生き甲斐も桁外れに違うと思う。例えば、マネーゲーム的な投資を専業にして利益を得ている資産家や、大学の教授(研究職)などは、羨ましい限りだ。
Enokawa
 どうやら猛暑の極まりなかったひと夏が過ぎ、彼岸を前にしのぎ易い秋がやって来た。やりたい事はいっぱいあるのだが、更年期障害が出始めガタの来つつある体はひとつ・・・。自由な時間はあってもお金が無い。その日暮らしである以上、どう考えても「生活の自由度」は、人並み以下であるのだ。長年懸命に働いて来た割には、目の前に見え隠れする老齢世代に踏み出した生活を考えると、不安ばかりである。 現実をみれば、限られた年金生活(所得税天引き)の中で、市・県民税や固定資産税、種々の保険料に、少なからず医療費もかかる事だし、車のガソリンから食料に衣類、電気・ガス・水道などの光熱・居住費の値上げ、さらに消費税の値上げとあっては、もうアップアップである。この先々、何を切り詰めたらよいのだろう。 若い頃に聴いたフォークソングにあったように、「こんな暮らしに誰がした・・・。」と叫びたい心境である。





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いよいよ「趣味の秋」到来 !!

2013年09月01日 | 随筆・雑感・回想など
Mitibatano_hagi

 今日から9月・・・。九月と言えば、陰暦で「長月」(ながつき)とも言い、「長月草」とか「長月花」は「菊」の異称である。秋の到来で、野辺の草花を思い浮かべる人は、まず「彼岸花」こと、真っ赤な曼珠沙華に、「秋の七草」、そして品種あふれる色とりどりの「菊花」であろう。 秋は英語では、「セプテンバー」(September)である。「セプテンバー・ムーン」という言葉があるが、9月は観月のシーズンでもある。 十五夜に彼岸、秋祭や体育祭(運動会)など、秋ならではの恒例の行事も多い。

 秋を言い表すのに、色んな喩えや修飾語がある。「天高く、馬肥える秋」だとか、「秋の日は釣瓶(つるべ)落し」、そして「秋の夜長」などなど・・・。又、秋風に稲穂がなびく姿を見れば、まさに「実りの秋」であり、晩秋に至れば「紅葉の秋」となる。 さらに、「スポーツの秋」「読書の秋」「芸術の秋」「文化の秋」「食欲の秋」などと共に、昨今は、「ロマンスの秋」ならぬ「婚活の秋」などとも言う。
 今年は厳しさを越えた真昼の猛暑が、8月を過ぎてもいっこうに衰えをみせず、残暑の中に秋風のそよぐような、「夏の終わり」が見えて来ない。人それぞれの秋の到来ではあるが、このド暑い季節のずれは、人体に良くない事は確かだ。

Hikoyamagawanogenryuu

 さて、我輩の秋はと言うと、毎年ながら「趣味の秋」である。その趣味は目下の処、「石」であり、水石の探石と鑑賞である。 石にも色々なものがあるが、とにかく山野や川原、渓流、海岸に赴き、石を探すのは楽しいものである。 「石の趣味」などは、その道の通人(つうじん)とならないと、一般人には理解し難い性質(たち)のものかも知れないが、無数に転がっている自然石の中から、現地で、その中に「山水美=自然景観」の凝縮されたひと塊の名石を手にした時は、人には語れない程の満足感に浸れ、見とれつつ酔い痴れてしまう事すらある。
Iseakaishinotakiishi

 水石には、このような「山水景石」の他に、「紋様石」や「色彩石」、「形象石」(姿石)、「奇石」など、たくさんの種類があるし、又、鉱物質を含む粒塊や結晶でも、気を引くようなものがあれば、とにかく拾い上げ眺めてみる。そして気に入ったものを持ち帰る。
 かつて江戸時代には、文人墨客たちの高尚な嗜(たしな)みとして見られていた「水石」は、幽玄の世界に分け入った人々や、茶の湯を嗜好する風流人、神仏に帰依する雲水の行く道にも通じるものがあり、寺社仏閣等著名な古刹には、幾つかの「銘石」(由来石)が「寺宝」や「神石」として秘蔵されていた。Takiishi
 そのように捉えられてきた「水石」も、あの昭和半ばのブームが過ぎたとは言え、愛好家はあとを絶たず、水石同好会なども各地に結成され、息長く存続している。 今や誰しもが、気軽に物事を楽しめる時代である。山野で見つけた山水美などを呈する自然石を持ち帰り、一家に一石、台座を添え、「銘」を付けて石を飾る。そしてそれを「銘石とし、家宝とする」のがよいと言う・・・。 病みつきになった「石人」(せきじん)は、自らその「愛石」に相応の台座作りにこだわる楽しみもあって、それもまた格別だと言う。Aoishinotakiishi

 とにかく我輩は、フィールドに出向く度に、一年に10個程度は「名石」と言えるものを見つけたいと思っている。今年はまだ4個しか揚げていない。 この初秋から冬場に至るまでに、「趣味の秋」を堪能しつつ、あと数個はものにしたいと思う次第だ。




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