伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

春らしくなった3月25日、二見町の太江寺に詣で、江海岸を散策

2022年03月30日 | 伊勢

二見町の山寺 「太江寺」( 2022年3月25日に撮影 )

 今年の彼岸 ( 3月21日 )は、昼過ぎにお寺 ( 光明寺 )に行って彼岸供養の卒塔婆を授かり、当家の墓参りをした。 動物供養のお墓のある二見町の太江寺へも、彼岸には飼い猫達の供養に毎年出かけているので、翌日にでも出かけようと思っていた処、あいにく22日は肌寒い雨天となった。


二見町の山寺 「太江寺の山門」( 2022年3月25日に撮影 )


 今春は、伊勢市ではまだ桜の開花が満開では無く、例年に比べてやや遅れがちのようで、ひと雨ごとに暖かくなって来てはいるものの、ここ数日は寒暖の差が著しく、少し油断をすれば風邪をひいてしまいそうである。
 伊勢市での弥生の春は、まだ「春寒料峭」といった感じで、紅梅・白梅がきれいに咲きほこり、唱歌「早春賦」の歌詞さながらである。


「太江寺の境内」( 2022年3月25日に撮影 )


 天気が回復した3月25日になって、やっと外出する気になった。 太江寺へは昼前に着いた。 伊勢市の界隈では、普段は閑寂な真言宗の山寺 ( 伊勢西国一番札所 ) で、立石崎の「興玉神社」背後の音無山の南東斜面の中腹にある。
 興玉神社境内の「夫婦岩」 ( 立石 ) は、天下の名勝地であり、伊勢神宮と共に観光の名所として、平日でも連日観光客でにぎわっているが、 注連縄のかかる「夫婦岩」は、元は少し沖合の海中に水没した「興玉石」( 御神石 )を遥拝する為の「門石」である。


「太江寺の本堂」( 2022年3月25日に撮影 )


 太江寺には、石段上の小広い境内の入口に、一対の仁王像を備えた立派な山門があり、山門をくぐったすぐ右手の石段をさらに上ると、真正面に本堂がある。
 この著名な古刹に、昔はお詣りする人も絶えなかったようだが、近年は動物供養のお寺として広く知れわたっている。 境内のかなりのスペースに、愛犬家や愛猫家の築いた墓標や卒塔婆が、何列か並んでいる。 彼岸やお盆以外は、参詣人もごく僅かで、閑寂な霊場の雰囲気があり、本堂の隣りには「元興玉神社」が建立され、ひっそりと祀られている。
 境内に神仏がセットで祀られている事から、古来からの信仰の厚さが伺え、昔時の趣きを備えた散策者向きの小径の整備も、程良く成されていて、ここから細い山道を登れば、短時間で音無山の山上に至る。


太江寺境内の 「ペットのお墓」( 2022年3月25日に撮影 )


「ペットのお墓」 の一角( 2022年3月25日に撮影 )


 かつて、いっしょに生活をした愛猫や野鳥達の霊に、彼岸供養のお参りを済ませた後、海風は小寒いものの、堪えがたい程ではなかったので、帰りに少し江海岸に立ち寄った。
 江海岸と言えば、伊勢の町からすぐ来れる磯釣りの近場である。 かつては筆者も、遊びがてらカイズ ( チヌ ) やセイゴ、ウミタナゴ、アイナメ、シロギス、クロメ、コチ、カレイ、カワハギ、ベラなどの海水魚をよく釣ったものである。その頃の風景は、「伊勢シーパラダイス」の建物を除けば、昔時と殆ど変わっていない。

江海岸の突堤から眺めた 「神前岬」( 2022年3月25日に撮影 )


 立石崎を西に眺め、五十鈴川の分流「江川」( えのかわ )より東は、数百メートル程砂利浜が続いているが、やがて山裾が直接海岸線と化したリアス式の沈水地形に変わり、その先端の神前岬(こうざき)の海食洞門「潜り島」に至る。 直前には「アレサキヒメ」を祀る小さな祠があり、洞門の上には注連縄が渡されている。
 ここも、かつては「夫婦岩」とセットでの、二見町の性神崇拝のシンボル名所であり、古い絵葉書に垣間見る事が出来る。


古い絵葉書に見る、二見浦の名所 「潜り島」


 当地の荒磯や砂利浜を歩くと、時として広域変成岩の青石 ( 伊勢青石 ) の手頃な水石 ( 主に島形石 ) や、波食によって生じた「漂礫のキノコ石」を拾う事が出来る。
 このほかにも、現地性の石英礫のきれいなものは「白石玉小石」になるし、宮川や五十鈴川起源の「伊勢赤石」や「赤玉石」の小礫も、渚の漂礫の中に混じっている。

二見町江海岸産・伊勢青石の 「島形石」( 横幅約19cm )
二見町江海岸産の 「漂礫のキノコ石」( 長さ概ね6cm ~ 9cm ) 
 当地の緑色片岩等に伴う珍しい鉱物としては、これまでにスチルプノメレンや、銀色微粒状の赤鉄鉱 ( 雲母鉄鉱 )、藍閃石、葡萄石 等があるが、かつて国道167号線の「新二見トンネル」の掘削時に、これらは黄鉄鉱や磁鉄鉱と共にかなりの産出をみている。





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伊勢市内で 「 一番低い山 ~ 坊山 」 の話 !

2022年01月25日 | 伊勢


宇治山田駅から眺めた昭和28年頃の 「坊山」 ~ 外宮の高倉山手前の繁み

 先日、インターネットのニュース記事で見たのですが、西日本には「日本で一番低い山」が四国にあるらしい …。 その場所は、一つは徳島市の中心から南へ車で20分程の、同市方上町 ( かたのかみちょう ) で、田園地帯の中に緑の木々がこんもりと茂った小山がぽつんとあるとの事 …。
 そして、その場所には、「日本一低い山 弁天山 ( べんてんやま ) 標高 6.1m」の看板があって、「登り口」には「厳島神社」と書かれた赤い鳥居があり、「登山道」はコンクリートで舗装され、手すりが設けられている、とあった。

 この日本一低い山は、登山開始から約15秒で山頂に達し、山上には厳島神社の小さな社 ( やしろ )と、記所があって、案内板によると、この辺りはかつて海であり、海の守り神である弁財天が山頂の神社で祭られて来たと言う、由来が記されているそうである。
 神社の宮司さんによると、弁天山を「日本一低い山」として、本格的にPRを始めたのは、今から20年前で、国土地理院の地形図に記載された山のうち、大阪の天保山 ( 4.5m ) と、津波被害に遭う前の仙台の日和山 ( 当時 6.05m ) に次ぐ3番目の低さだったそうだが、この上位2つはどちらも人の手で盛った「人工の山」であるのに対し、「弁天山は自然によって造られた山です。だから、日本一ひくいんです。」とのコメントが付記されている。
 そして、お社の手前には、登頂証明書やお守りなどが収められたガラスケースが置いてあるそうで、入金箱に100円を入れると、記念の証明書一枚を頂けるとの事。

 さて、もう一つはと言うと、香川県東かがわ市松原の白鳥 ( しらとり ) 神社である。 当地は、日本武尊 ( やまとたけるのみこと ) が亡くなった後、その霊が白鳥になって舞い降りたと言う、由来を持つそうだ。
 その境内にある山も「日本一低い山」を称していると言う。標高は、弁天山の半分程の3.6mである。
 ここの宮司さんの話では、同神社は阪神甲子園球場3個分の約13ヘクタールの広さがあり、白砂清松100選の一つ「白鳥の松原」が広がっており、社務所を出て5分ほど平坦な松林の中を歩くと、樹齢200年ほどの松の大木のそばに、「御山 ( みやま ) 日本一低い山 3.6m」と刻まれた石碑が立っているとの事です。

 ちなみに、国土地理院によると、そもそも山の定義は決められておらず、「日本一低い山は公表していない」との付記が、このニュース記事を締めくくっていた。


昭和50年代中頃の 「坊山 」 ~ 中央右上の森( 伊勢市の航空写真 )


 前文が少し長くなってしまったが、それでは今回のブログのタイトルに記した「伊勢市内で一番低い山」は、いったいどこなのであろうか …。
 近年になって、近隣の町村の合併よって市域がかなり増大し、特に伊勢湾南岸の二見町が加わったので、沿岸部の樹木の茂った小山や、岩盤から突き出した海中の「離れ岩」なども、ある程度の高さがあれば「山」と見なせるのかも知れないが、今回は内陸部の旧伊勢市内の低い山に限って考えてみようと思う。


大正14年2月15日発行の 「伊勢参宮案内地図」 の中に記された 「坊山」 ~ 中央の下


 周知のように、伊勢市は市域背後の南方に、紀伊山地から東の方向へと続く、海抜100m~数100mの急峻な壮年期地形の山地が連なっており、その最高峰は「朝熊山」( 朝熊ヶ岳 ) の経ヶ峰 ( 海抜555m ) である。 そして、その北麓の市街地にも東西性の海抜100m前後の山々があり、低高度の山並みを見せている。
 西方から辿ると、三郷山、蓮随山、高倉山、高神山、世木寺山(瀧浪山)、八幡山、虎尾山( 松笠山 )、永代山、倉田山、貝吹山、昼河山 ( ひるごうやま ) 音無山など、三波川変成帯の結晶片岩や千枚岩からなる小高い山々である。

 他の自然地形の小高い山としては、第三紀層を基盤として形成された残丘を成す「秋葉山」( 徳川山 )や大仏山 ( 小俣町 )、さらに、中~高位段丘堆積層より成る段丘地形の「白石山」「妙見山」「金刀比羅山」、そして古市町から桜木町へと続く台地状の「長峰」( ながみね ) などがあるが、丘と山 ( 丘陵地と山地 ) との区別も、地形としてはかなり曖昧である。


大正7年6月30日発行・2万分の1地形図の 「坊山」 ~ 中央の小判形の等高線


 もっと低い山は無いものかと思って、少年時代の遊び場だった小山などの記憶を手繰ってみると、伊勢市岡本の南の田畑の真ん中に「丸山」( 神社の森 )がポツンとあり、現在も昔時のままであるが、この小山は古墳であり、自然地形の低い山とは言いがたい。
 他にも、世木寺のすぐ南に「白子山」という赤茶けた小山があって、よく登って遊んだ場所であるが、今は世木寺の周囲一帯が宅地化してしまい、民家となっているので、その場所は何処だったのか全くわからなくなっている。


完全に切削された 「坊山」 跡に建つ現在の 「カトリック教会」 ~ 2022年1月24日撮影


 そう言えば、もう一つ消滅した市街地の遊び場だった自然の小山に、確か「坊山」( ぼうやま・ぼやま )と言う名前の山があったのを思い出した。
 小学生の頃であるが、外宮の勾玉池から旧道を隔てた真向いに、千枚岩や石英片岩の岩盤が裾地から山上にかけて露出し、樹木の蔽い茂った数m程度の低い自然の山があり、丁度その山続きの隣接地に友人宅の民家があって、よく探検気分で登って遊んだものである。
 この北側には御幸道路があり、その間の沿道には小さなカトリック教会があった。 そして、その背後には半分程削られ高台になった小広い広場があり、この空き地でもよく野球をして遊んだものである。
 

現在は 「マリアこども園」 になっている 「坊山」 跡南半の一部 ~  2022年1月24日撮影


 その後、この「坊山」は次第に削られてしまい、北半は建て替えられた立派なカトリック教会になっているし、南側もサラ地化し、現在は「マリアこども園」となっている。
 伊勢市の市街地の真っただ中にあった、この「坊山」の事を知っている人は、今ではごく僅かであろう。
 古い市内地図を見ると、確かに「坊山」と記されているので、おそらくこの山が伊勢市内では一番低かった、樹木の茂った「自然の山」だったのではないだろうか。
 「マリアこども園」に隣接している友人宅裏の横壁には、今でも当時の岩盤( 石英片岩を介在する千枚岩 )が突き出しており、「坊山のなごり」を見る事が出来る。


「坊山」 跡南半の保育園隣接の友人宅に露出する 「千枚岩の岩盤」


基盤を成す 「坊山」 の岩盤 ( 上載写真のアップ )


 他に、一番低いと断言出来る程の、該当するような独立した「小山」が市内に見当たらない限り、伊勢市内で「一番低い山」を記すならば、かつての独立標高峰だった、この「坊山」としておくべきだろうと思う次第である。
 ちなみに、明治初期の「坊山」の北端には、小川 ( 豊川 ) が中央構造線のリニアメントに沿って流れ、勢田川に合流していた事が古地図から読み取れる。
 西南日本最大の活断層でもある「中央構造線」は、その一部が宇治山田高校の直下から、外宮前 ~ 伊勢市役所の真下辺りを通り、黒瀬町を経て二見町の今一色付近へと続いていると推測されている。



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神無月の下旬に伊勢の市街地で、昔ながらの風景を探しながら、昔時の残存物をウォッチ

2021年10月24日 | 伊勢



古い絵葉書に見る、当時の伊勢名所てもあった 「錦水橋」

 神無月も下旬となった。少し前の中旬は雨天続きの後、3日程暖かい秋らしい好天に恵まれていたが、買い物以外はどこへも行かずじまいに過ごしてしまった。 ここ2~3日は、天気は良いのだが朝夕は冷え冷えとし、一気に冬が来たかのような北風の吹く肌寒い日々が続いていたが、24日は珍しく朝からやや冷たいものの無風の秋晴れとなった。 但し、日曜日なので遠出はせずに、昼前になって買い物のついでに、自転車で少し伊勢の市街を走ってみた。

 幼少の頃から少年時代を過ごした、昭和の戦後の頃から見れば、伊勢の市街地の風景も時代と共に変遷し、寺社仏閣を除けば、どこもかしこも同じような都市風景となってしまった。 街路ばかりでなく裏通りの細道までが舗装整備され、並行する上・下水道や電柱などのライフラインもきれいに刷新され、特に勢田川の護岸は都市河川へと改修が成され、昔眺めたような趣きがすっかり失せてしまった。
 そんな中で、普段は気にも留めない昔ながらのものがある事に気づき、ふと立ち止まると妙に懐かしさを覚える。 この日に目にしたもの幾つかを、写真で紹介しよう。


古い絵葉書に見る、市電の走る御幸通の 「錦水橋」


 我が家の前は、外宮から内宮に至る御幸道路であるが、この沿道に昔ながらの地物や風景は殆ど残っていない。 昭和30年代までは、自宅の真ん前を市電が走り、すぐ裏手には改修前の土手道のある勢田川が流れ、当時としては唯一の近代的なコンクリート製の立派な架橋であった御幸道路の「錦水橋」には、立派な金属製の擬宝珠があって、ちょっとした伊勢の名所であった。 その路面を神都線の線路が走り、市電の行く風景は当時の絵葉書にもなっている。
 改修後の勢田川は、自宅の2軒先の東側を流れているが、架け替えられた錦水橋など、誰も伊勢市の名所とは思っていない。


田川に架かるJR参宮線鉄橋の 「赤いレンガ積みの橋桁」 ~  2021年10月24日撮影


上載写真の 「赤いレンガ積みの橋桁のアップ」 ~  2021年10月24日撮影


 この錦水橋から400m程下流に行くと、JRの鉄橋があり、左岸の吹上から右岸の神久側へと勢田川を横切り、土手積みされた盛土上に、参宮線の線路が二見町へと真っすぐに延びている。
 昔は春先になると、スギナの中に土筆 ( つくし ) が芽吹いていて、親子で摘む人々の姿を見かけたものである。 そのような付近一帯の風景も、今はずいぶん変わってしまったが、そんな中で河川の改修時にも刷新されずに、昔のままに残っている唯一のものと言えば、赤いレンガ積みの橋桁ぐらいではなかろうか … 。


古い絵葉書に見る、かつての勢田川沿いの 「河崎の魚市場」


 鉄橋を越えてさらに下流に200m程行くと、清浄坊橋があり、この先がかつての河崎の問屋街筋裏の海運商品の荷上場であり、勢田川は南新橋、中橋、北新橋を経て、船江へと流下するが、その左岸に魚河岸 ( 魚市場 )があった。
 かつては、さまざまな問屋の続く街並みと共に、この町街筋ならではの土蔵の続く独特の川沿いの風景が眺められたが、今は、一部が保存されてはいるものの、左岸の河崎通りに昔ながらの問屋街の面影を見出すのは、かなり難しい … 。


河崎入口右側の土蔵に見られる 「伊勢青石の化粧積みの礎石」 ~  2021年10月24日撮影


上載写真の 「土蔵の礎石のアップ」 ~  2021年10月24日撮影


 この河崎通りの道筋南側の入口は、一本木 ( 吹上2丁目 ) になるが、すぐ先の右側に整備された土蔵が残されている。 外壁は完全に張り替えられていて、昔の白壁造りの土蔵のままではないが、化粧積みされた「伊勢青石」を含む礎石だけは、昔時のままのようだ。


八間道路の船江交差点に残る 「赤い円筒形の郵便ポスト」 ~  2021年10月24日撮影


 河崎通りを走り抜け、八間道路の方へ左折をし一回りをすると、船江の交差点にポツンと昔ながらの円筒形の赤いポストが残っていた。
 この赤いポストについては、以前に伊勢市の町なかをぶらついた時に、市街地の中で幾つか目にしたものをブログで紹介をさせて頂いたが、 その後、他にも古市通り先の中之町のバス停付近と、宇治浦田町のバス停の前にも残っている事が判った。


一誉坊の墓地の水汲み場にある 「手漕ぎ式のポンプ」 ~  2021年10月24日撮影


 他で目にした昔ながらの古い物といえば、彼岸の墓参りの時に色の塗り替えに気づいた、一誉坊 ( いちょぼう )の墓地の水汲み場にある「手漕ぎ式のポンプ」ぐらいであろう。

 かつてのお伊勢詣りの参宮街道沿いの風景も、間の山から古市、そして中之町から桜木町へと続くが、道を挟んで軒を連らねていた旅館街 ( 江戸時代 ~ 戦前の歓楽街 ) などは、見る影も無く、完全に廃れてしまった。 変わらない風景と言えば、その先の宇治浦田町へと下る「牛谷坂」の坂道だけかも知れない。



舗装道路となってはいるが、昔のままの 「牛谷坂」 ~  2021年10月24日撮影

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続・古い写真や絵葉書などに見る 「昔の伊勢名所」

2020年03月28日 | 伊勢

明治期の版画に見る 「朝熊岳雪之景」

 戦後の昭和30年代までは、伊勢の町の 「伊勢名所」 となっていた場所も、昨今はすっかり様変わりをしてしまった。
 伊勢神宮の内宮・宇治橋前の広場は、殆どが駐車場となってしまったし、規制が厳しくなった五十鈴川上流へは、観光客は全く足を踏み入れ無くなった。
 外宮前を含む神苑のスペースも、隣接の勾玉池も大きく変貌し、観光客や地元民らの憩いの場所では無くなってしまっている。


古い写真に見る、五十鈴川上流の名所「鮑石」


 又、伊勢志摩国立公園の最高峰である朝熊山朝熊山ケーブル・カーへの乗換え駅であった「平岩駅」の山上へは、戦前は市電の楠部駅から、通称 「岳電」( たけでん ) と称していた単コロ電車に乗り換えて、終点の平岩駅まで行き、そこから当時東洋一の急勾配を誇っていた、ケーブル・カーに乗換えて登る事が出来た。
 その軌道も終戦間際の昭和19年には、戦争への鉄資材の供出で撤去され、戦後暫くは、山上の観光地としての名所度は失われていった。


 その後は、尾根道をボンネット・バスが途中でエンストを繰り返しながら、ダラダラと数少ない観光客らを運んでいたが、昭和39年に至って、伊勢志摩スカイライン ( 全長 16.3km の有料道路 ) が朝熊山上を経由して鳥羽へと開通し、山上広苑も漸次開発が進んで、観光バスやマイカーで容易に登れるようになった。


 かつての一大名所であった、ケーブル・カーの山上駅舎や駅前通りの風景は、駅舎の残骸を残すのみとなり、付近は雑草に蔽われていて見る影もない。
 名物旅館の 「とうふ屋」 や、金剛證寺門前の 「野間万金丹店」 などは、跡形すら無くなっている。


戦前の絵葉書に見る「朝熊山上駅」駅舎上の風景」

戦前の絵葉書に見る「朝熊山上駅前」の風景

戦前の絵葉書に見る「朝熊山上駅前沿道」の風景


 近年は、当時に代わって山上広苑の一角にレスト・ハウスや展望台が造られ、様変わりをした新名所となって、観光客が絶えないものの、金剛證寺の境内やその鬼門に位置する奥の院 ( 呑海庵 ) は、昔のままで殆ど変わっていない。


赤福の版画「伊勢だより」に見る奥の院・冨士見台


 昨今を顧みて、寂れた伊勢名所や様変わりをした伊勢名所を拾い上げてみると、朝熊山山上広苑の他、徴古館を含む 「倉田山公園」 や、二見町音無山の 「山上遊園地」 、宇治の 「五十鈴公園」 、そして伊勢市駅前通りや河崎の勢田川筋の風景、古市から中之町にかけての高台 ( 長峰 ) にあった、参宮街道沿道の昔ながらの旅籠街 ( はたごがい ) などが数えられる。


赤福の版画「伊勢だより」に見る宮川堤の桜


度会橋の袂にある、桜の名所「宮川堤の解説板」

上載写真の「解説板のアップ」


 今も昔も変わらないような、人出のある伊勢名所となると、前にも記したと思うが、二見浦 ( ふたみがうら ) の夫婦岩と、宮川岸の「 桜堤 」( 春季限定 ) ぐらいであろう。


中橋より川下を眺めた、昭和30年代の「河崎の勢田川」


 最後に、近年に新名所となった場所をチェックすると、内宮前のお祓い町通りの一角にオープンした 「おかげ横町」 や、二見町の 「シー・パラダイス」( 水族館 ) と 「伊勢戦国時代村」、そして横輪町の 「風輪」 界隈の里山ぐらいであろうか …。



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古い写真や絵葉書などに見る 「昔の伊勢名所」

2020年02月28日 | 伊勢

明治期の版画に見る 「宮川橋の風景」

 今も昔も変わらない 「伊勢名所」 といえば、伊勢神宮 ( 外宮・内宮 ) や徴古館、夫婦岩のある二見ヶ浦に、朝熊山上の金剛證寺、そして、桜の名所として知られている 「宮川堤」 や 「五十鈴公園」 ぐらいであろうか …。


戦前の絵葉書に見る 「宮川の鉄橋」


 しかし、伊勢神宮のある当時の 「山田」 (外宮の門前町 ) や 「宇治」 (内宮の門前町) へは、江戸時代からお伊勢詣りの参詣人達が幾多と訪れ、勢州 ( 当時の伊勢国 ) への参宮街道が発達するにつれ、街道筋には次第に村落や宿場が発生し、それに合わせて数々の名所や名物も生じた。


江戸時代の伊勢名所 「宮川の渡し」 の版画絵葉書


 旅の案内書である 江戸時代の 「伊勢参宮名所図会」 や、 「伊勢参宮独案内」 「伊勢名勝志」 「神都名勝誌」 等の和本と共に、一枚刷りの 「伊勢参宮順路之図」 や 「伊勢参宮道中の双六」 等の版画、さらに絵葉書や写真帖なども盛んに作られた。


明治期の一枚刷りの版画 「伊勢参宮順路之図」


昔の伊勢名所の 「案内地図 (左) と写真帖」


参宮協會発行の 「戦前の観光パンフレット」


上載写真右側の 「参宮と櫻」 に掲載の地図


上載地図の 「伊勢電の路線」 部分のアップ


 明治期に入ってからは、省線 ( 旧国鉄の古い呼び名・現在のJR ) が多気駅から分岐して宮川駅 ( 小俣町 ) まで線路が敷かれ、すぐ東の宮川に西洋の技術によって鉄橋が架かると、すぐ先の山田上口駅へと繋がり、そして山田駅 ( 現在の伊勢市駅 ) にまで延びた。
 その後、さらに東方の二見から鳥羽へと延長され、現在の参宮線 ( 多気 ~ 鳥羽間 ) が完通した。


戦後間もない頃の「宇治山田市案内図」


 この間に宇治山田の町 ( 今の伊勢市 ) には、省線にあわせて市電 ( その当時は合同電車と称した ) が 「山田駅前」 を起点に内宮・二見・朝熊へと線路を巡らせ、又複数の私鉄が大阪や名古屋から開通した。
 現在は、伊勢への鉄道と言えばJRの参宮線と近鉄電車だけであるが、旧街道の沿道と共に鉄道の沿線には、今は無き数々の名所があったのだと思う。


昔の伊勢名所の絵葉書に見る、五十鈴川川上の 「飛び石」


上載写真の現在の 「飛び石」 の風景 ~ 2020年2月26日撮影


 かつての伊勢名所は、先に記した外宮・内宮や二見ヶ浦、朝熊山上等と共に、町街地内外の寺社仏閣の古刹や名勝地、旧跡等を除けば、かつての 市電と 「松尾駅」都市化や宅地造成等市街地の膨張に伴い、立ち消えていったか、忘れ去られたものが少なくない。
 例えば、市電の松尾観音駅の周辺 ( 二つ池・他 ) や、世義寺山の藤棚、外宮隣接の勾玉池、高倉山の天の岩戸 ( 三重県下最大の横穴式古墳 ) 、五十鈴川川上の渓流、並びに宇治橋上流の飛び石や鰒石、鏡石、大滝・小滝等々 …。
 最も勾玉池や五十鈴川の上流は、伊勢神宮の宮域であるので、現在では規制が厳しくなっていて、昔のように庶民が自由に見物出来る、伊勢の観光名所とは言えなくなってしまっている。
 古い写真や絵葉書などを調べてみると、戦後生まれの我輩には知らな風景なども含めて、かつての 「伊勢名所」 が郷愁のようによみがえるのである。



戦前の参宮線 「山田駅前の風景」
現在の参宮線 「伊勢市駅前の風景」 ~ 2020年2月26日撮影


 省線が通じ 「山田駅」 が出来た当時には、蒸気機関車の発着する 「停車場」 そのものが珍しく、駅舎や駅前はまさに 「伊勢名所」 の一つであったと思わずにはいられない。
 暖冬のままに初春へと移行する折に、かつての 「伊勢名所」 の中から、幾つか昔の風景を拾い出してみた次第である。


かつては伊勢名所の一つであった 「豊宮崎文庫」

「豊宮崎文庫庭園の銘木 「御屋根桜」

かつての豊川沿いに咲き誇る 「豊宮崎文庫の御屋根桜」



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雨上がりの秋日和に、自転車で伊勢市の市街地を徘徊

2019年10月22日 | 伊勢

秋日和の伊勢市駅前の「外宮参道の風景」

 台風から変わった温帯低気圧のもたらした、昨日からの大雨も未明には小雨となり、一夜明けた10月22日の今朝は、時間が経つに連れて雲が晴れ、昼前にはカラリと晴れた秋日和となった。 大空にはかなりのちぎれ雲 ( 積雲 ) が西から東へと流れているものの、青空が次第に広がって、午後は雨上がりの爽やかな日射しの降り注ぐ、穏やかな秋日和となった。

 神無月も早や下旬となり、首都東京では天皇陛下御即位の「即位礼正殿の儀」が執り行われ、これから今年の暮れにかけては、元号が「平成」から「令和」へと移行した最初の年末年始となる事に合わせて、天皇陛下の御来勢 ( 伊勢神宮への御参拝 ) もある為、かなり慌しくなるものと思われる。


 そんな日の午後、ふと思い立って伊勢市内の町なかを、デジカメを持ってぶらりと自転車で徘徊してみた。 出来るだけ大通りは避け、旧街道や裏小路、狭いドブ板の路地世古 ( ろじぜこ ) など、今まで通った事のない市街地の裏町通りを辿って、旧参宮街道の「宮川橋」( 伊勢市宮川2丁目 ) まで行った。


宮川橋手前の曲がり角にある「宮川の渡しの案内板」


「宮川の渡しの案内板」のアップ


 この橋の真下は、かつての「宮川の渡し」のあった場所で、宮川右岸の堤防道路に入る曲がり角に、当時の版画図を拡大した写真を掲載した「案内板」が設置されている。
 橋が無く、渡し舟に頼っていた江戸時代から明治の初期にかけては、宮川にはこの他に下流の「磯の渡し」や、少し上流の「川上 ( かみ ) の渡し」などがあった。


伊勢駅すぐ西の昔のままの「開かずの踏切」


 町なかを徘徊すると、幼少の頃に眺めた昔ながらの風景は殆ど消えてしまい、市街地を囲む背後の小高い山並みさえもすっかり立ち消え、その風景が新開住宅地へと変貌してしまっている。
 今も変わっていないものとなると、寺社仏閣を除けば、近鉄宇治山田駅の駅舎ビル ( 正面 ) と、JR参宮線の「宮川の鉄橋」と、伊勢市駅すぐ西のかつての「梅花堂前の開かずの踏切」( 伊勢市宮後1丁目 ~ 2丁目 ) ぐらいであろうか … 。
 昨年まであったJR参宮線の「山田上口」の昔ながらの古びた「駅舎」は、簡素な作りの無人駅と化してしまっていた。


無人駅と化した、JR参宮線の簡素な「山田上口駅」


 昭和の戦後には、盛況をきわめた伊勢市駅西方の「銀座新道通り商店街」や、宇治山田駅前の「明倫商店街」なども、今は殆ど人通りも無く、中身はすっかり変貌し、シャッターを下ろしたままの仕舞屋 ( しもたや ) の方が多い様相である。
 メイン道路の「高柳商店街」や「浦の橋商店街」、「さくら通り商店街」 「浦口商店街」 「参宮通商店街」 「伊勢市駅裏商店街」などの中には、今も当時の名称を引き継いでいるものもあり、特に夏の「夜店」が風物詩でもある「高柳商店街」は、アーケード街となって車道ではなくなっているが、まばらな人通りは往来の通行人が殆どである。


現在の「しんみち商店街」の入口


 伊勢市駅前から外宮北口へと続いていた「参宮通商店街」や、宮後2丁目から河崎1丁目へと続いていた「伊勢市駅裏商店街」などは、今は一般道路の市道と化し、かつての商店街の名残りすら失せてしまっている。
 特に「参宮通商店街」が盛況だったのは、伊勢電鉄の走っていた戦前で、かつての「大神宮前駅」の駅前広場へと続いていたこの繁華街の面影を知る人は、もはやいないであろう … 。


現在の「伊勢駅前商店街」の入口


現在の「宮町名店街」の出入り口


 今も残る伊勢市吹上1丁目の「伊勢駅前商店街」や、伊勢市宮町2丁目の「宮町名店街」などのごく小規模な商店街も、内部の店舗は様変わりをし、殆どが喫茶店や飲み屋、カラオケ・スナック、飲食店など、夜の暖簾街となっている。
 河崎2丁目の八間道路の沿道にあった「河崎商店街」は、今年の初め頃に解体されてしまった。

 店舗といえば、昭和30年代には町なかの至る所にあった小売店は、今では殆ど見られなくなった。 八百屋や魚屋、精肉屋、タバコ屋、自転車屋、ラジオ屋、乾物屋、呉服屋、衣料品店、小間物屋、おもちゃ屋、駄菓子屋、瀬戸物屋、履物屋、傘屋、本屋、写真館 ( 写真屋 ) 、酒屋、金物屋、家具屋、文房具屋、時計店、布団店、化粧品店、豆腐屋、材木屋 ( 製材所 ) 、糸・毛糸屋、パン屋、和菓子屋、惣菜屋、米屋、瓦屋、質屋、パチンコ屋、昔ながらの宿屋 ( 旅籠 ) 、お好み焼屋などであろうか … 。


 自転車でゆっくりと走っていて、特に大きく変わったなと感じた風景は、御幸道路の沿道、伊勢市駅前から外宮前へと続く外宮参道の通りや、宇治山田駅前の周辺、それに旧伊勢電跡の市道の沿道、勢田川筋の両岸などである。
 又、道端や町なかに殆ど見られなくなったなと思ったものは、道しるべの「標石」や公衆電話、特定郵便局と赤い円筒形の郵便ポスト、児童公園の砂場、そして映画館 ( 映画館は近年、曽祢2丁目に「伊勢新富座」が一軒だけ復活をしました ) や銭湯も数少なくなった。


〒マークのある民家の前の「昔ながらの赤いポスト」( 伊勢市曽祢2丁目の裏通りにて撮影 )


 逆に昔は無かったもので、際立って目に付いたものは、家々のエアコンの室外機やパラボラアンテナ、鉄柱ポール上の四角い郵便ポスト、路面のマンホール、ゴミの集積箱、赤い消火栓や消火器、歩行者用の信号機、飲物やタバコの自動販売機、コンビニエンス・ストア、そして、電柱などに貼られたその場所の「海抜表示の貼紙」であった。
市街地の各所に見られる「海抜表示の貼紙」( 伊勢市曽祢2丁目の裏通りにて撮影 )
 最後に、伊勢市内に昔ながらの「赤い円筒形の郵便ポスト」がある場所を記すと、朝熊山山上広苑の「天空のポスト」の他に、この日に市街地で僅かに目にした、以下の4箇所である。

 ・ 伊勢市宮後1丁目、 てんぷらの「西田屋」の前 ( 元 「梅花堂」の跡辺り )
 ・ 伊勢市曽祢2丁目、 「伊勢新富座」の近くの裏通り
 ・ 伊勢市宮町2丁目、 近鉄「宮町駅」前の、JR参宮線の踏切際の生花店前付近
 ・ 伊勢市宮川2丁目、 「宮川橋」手前の旧参宮街道のT字路の角


宮川2丁目の大通りに復活された「伊勢街道松並木」

   ( ※ 掲載写真は、全て10月22日の午後に撮影致しました。 )

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「 伊勢神宮 」 の謎(なぞ)を考える ・ 後編

2019年02月22日 | 伊勢

朝熊山の中腹から眺めた、五十鈴川下流域の地形 ~ 左端中央の「鹿海」(かのみ)の村落名が示すように、古代には一帯が海湾であった

 前編に続き、伊勢神宮の謎(なぞ)について、文章を続けてみよう。

 さて、地名の類似地を述べた処で、一考してみるに、当時倭姫の一行が皇大神宮の鎮座場所を探し求めた際に、多くの書物には結果的に、今の伊勢の宮川下流域の「五十鈴川の河畔(ほとり)」となっているが、その拠り所は「日本書紀」の垂仁天皇の条にある、「大神の教えのままに、その祠(やしろ)を伊勢国に立てたもう。 よりて斎宮(イツキノミヤ)を五十鈴川の上(ほとり)に興(た)つ。 これを磯宮(いそのみや)という。」であろう。

 しかし、この時代には、氷河期以後の完新世時代に入ってからの海進で、縄文時代には伊勢湾の海面が数m は上昇しており、明応の大地震(明応7年 ~ 1498年9月20日に発生)で、大津波と土地の隆起によって元は入江だった五十鈴川の流域が陸化し、その流路が今のようになるまでは、二見町の音無山などは離島であり、今の楠部町から中村町あたりまで、広範囲にわたって、鳥羽湾に似た小島の点在する多島海的な湾入を形成していたはずである。


内宮の宇治橋から眺めた、下流方向の五十鈴川


 当時の五十鈴川は、現在の五十鈴公園あたりがその河口であり、倭姫には目に映る地形とその地方の信仰(神聖さ)だけが場所選定の拠り処となっていたはずである。
 この事は、今の内宮の宇治橋の架かる方向が、冬至の日の「日の出・日の入り」の方向に一致している事からも伺える。
 当時の見識を考えれば、場所の選定にあたっては、その土地の地質や地質構造は無視をしてもよい要素だと思う。


 こうなると、「磯宮」の呼称はうなづけるが、どの歴史書にも、当時の地形的な要素の間違いが記されていない。 太陽神であるアマテラスの鎮座場所を、大和朝廷が最終的に「日の出(いず)る東方」に求めたのは妥当であるが、その成立の時期となると、伝説や伝承が入り混じり、出来るだけ古昔に遡らせたのではないかと思われてならない。


近畿地方の地勢図 ~ 大江山-京都-伊勢の内宮が一直線に並ぶ


 ちなみに、既述の福知山市(京都府)の大江山と伊勢の内宮を直線で結ぶと、そのほぼ中間に京都市(平安京 ~ 794年に遷都)があり、又、天皇の名代として皇大神宮をあずかる斎王の制度が、継体朝(512年 ~ 537年)のササゲ皇女に始まり、以後永年にわたり御醍醐帝(1320年~1336年)にまで続いた事を考慮すれば、その当時は、伊勢湾の南岸が海進によって、今よりも南方の明和町一帯の櫛田川流域の低地にまで進入し、その付近は遠浅の海域や干潟となり、さらに櫛田川の分流による中州や湿地帯等になっていたはずである。
 しかるに、今の祓川の辺りが櫛田川の本流だったと思われてならない。


「斎宮」(斎王宮跡)付近の現在の地図 ~ すぐそば(西側)に祓川が流れている


 そう考えると、元伊勢神宮(皇大神宮の前身)とされる「磯宮」は、当時の櫛田川の河口付近にあたる今の斎宮(さいくう)の地にあったのではないかと思う次第だ。
 詳しくは調べていないが、「斎王宮」の跡地も、内宮-京都(平安京)-大江山(福知山市)を結ぶライン上にあたるのではなかろうか … 。


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「 伊勢神宮 」 の謎(なぞ)を考える ・ 前編

2019年02月22日 | 伊勢

参拝客で賑わう、内宮の宇治橋

 伊勢に生まれ住んで数十年が経った。 しかし、伊勢神宮(内宮・外宮)の事となると、この町に伊勢神宮があって当たり前だという感覚で、物心のついた時分から育って来ているので、その起源(成立時期)や立地選定の謎などについて、これまで深く考えてみた事はなかった。


五十鈴川に架かる、内宮入り口の宇治橋


火除橋のある外宮の入り口


 しかし、よく考えてみると、いつ頃からなぜこの地に二つの大神宮がセットであり、「天照皇大神」(アマテラスオオミカミ)を祀る皇大神宮の内宮(ないくう)と、「豊受大神」(トヨウケノオオカミ)を祀る外宮(げくう)が程近い場所(直線距離で北西に約4km)に鎮座し、伊勢市内には倭姫宮(皇大神宮別宮)を初め、月讀宮(皇大神宮別宮)や月夜見宮(豊受大神宮別宮)のほか、猿田彦神社、二見興玉神社等の立派な神社があるのだろう … 。
 さらに近隣地域も見回すと、伊勢神宮に密接した摂社・末社や、伊雑宮(志摩市磯部町)や滝原宮(度会郡大紀町)など、格式の高い大きな別宮(大神の遥拝所)がある事も、不思議でならない。


上空から眺めた内宮の本殿


 既得の知識と言えば、両神宮共に20年に一度の御遷宮があり、事前に内宮の宇治橋の架け替えや、御用材等を運ぶ「御木曳き」と「白石持ち」(地元伊勢では、「白石曳き」とも言う)が、かつては神領民であった伊勢市民らが総出でとり行われて来た事と、唯一神明造りの本殿の千木や鰹木の形と数が内宮と外宮では違う事、そして金釘を全く使わずに造築が成されている事ぐらいである。


上空から眺めた五十鈴川と宇治橋


 さらに、内宮は皇室(天皇家)に縁のある皇祖神でもあり、外宮はそのミツケガミ(食物の神 ・稲の女神)とされ、後年に丹波の国から、山頂に三重県下で最大の古墳がある高倉山(海抜116m)の北麓に移された事。 そして、古(いにしえ)には、天皇の名代であった斎王の館「斎王宮」が、内宮から西北西約20km程の所にあって、大神宮への古道の途中に離宮院(伊勢市小俣町にある斎王群行の休息地 ~ 現在は跡地が「離宮院公園」となっている)のあった事、… ぐらいであろうか。


内宮の東方に聳える朝熊ヶ岳(朝熊山・海抜555m)


 又、後からのこじつけであろうが、内宮の東方に聳える朝熊ヶ岳(朝熊山・海抜555m)の山上(内宮からの直線距離約5km)には、空海によって開かれた「金剛證寺」があり、皇大神宮の鬼門を守る寺院とされている。


 さて、この二つの大神宮(内宮・外宮)の起源については、いろんな文献や書物に詳しく記述が成されているが、「日本書紀」によると、元々大和の宮中に祀られていた皇祖アマテラスのご神体を、十代の崇神(すじん)帝の時、神威を畏れ、宮廷外の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷され、さらに次代の垂仁天皇の折に、アマテラスの鎮座地をその皇女「倭姫」(やまとひめ)に探らせ、鎮座の地を求め大和の宇陀、近江、美濃をはじめ各地を巡り歩いた結果、伊勢に至り、五十鈴川のほとりに斎宮(いつきのみや)を建て、磯宮(いそみや)と名づけたとあり、これが伊勢神宮の起源だという。

 神宮文庫の「神宮年表」には、それは垂仁天皇27年(BC 3年)で、「皇大神宮(内宮) 伊勢の地に鎮座」とあり、日本の歴史書によれば、弥生時代後の倭国が小国家に分立していた時代である。
 そして、大和時代の雄略天皇23年(479年)に、「豊受大神宮(外宮)鎮座」とある。


 そう言えば、倭姫の巡行地と称する場所が、畿内から東海にかけての各地にかなりたくさんあり、伊勢市に隣接する度会町川上の「乙女岩」(露岩)もその一つで、伝説では倭姫の腰掛けた巌(いわ)とされているし、当地の谷間には倭姫縁(ゆかり)の湧水(川上の名水)や休息地(和井野の神社)があって、伝説や伝承は後を絶たない。


伊勢市を流れる宮川と度会橋の眺望


 さらに、伊勢神宮の周辺や近隣には、五十鈴川、宮川のほかに、祓川(はらいがわ・多気郡明和町)や西五十鈴川(伊勢市矢持町菖蒲)、日向(ひなた・度会町)、火打石(ひうちいし・度会町)、天の岩戸(「外宮」背後の高倉山山頂の古墳、及び志摩市磯部町の鍾乳洞「滝祭窟」)、天の岩屋(二見町立石崎・二見興玉神社の境内)、清渚(きよきなぎさ・二見町)などと言った特殊な地名があり、又、伊勢市内には御園(みその)や神園(かみその)、豊川(とよかわ)、二俣(ふたまた)、宮前(みやまえ・小俣町)、宮町(みやまち)、宮後(みやじり)、神社(かみやしろ)、お祓町(おはらいまち)など、大神宮に縁のある地名が幾つかある。


宮崎県日向市の地図 ~ 中央の上端・下端に、それぞれ五十鈴川と伊勢ヶ浜の地名が見られる


 類似した地名群は九州の宮崎県にもあり、又、「元伊勢神宮」と称する場所等も全国各地にあるようだが、この内、特に京都府福知山市の大江山付近の場所は、内宮の立地選定の謎に迫る程、注目に値する。




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幻の参宮電車・伊勢の市街地に残る「伊勢電の軌道跡」を辿って …。

2017年10月11日 | 伊勢

二俣の交差点から眺めた、「天神丘トンネル」の西口

 昭和時代の戦前の事であるが、子供の頃に祖父や母親から、近鉄電車とは別に、伊勢への参宮電車(さんぐうでんしゃ)として「伊勢電」(伊勢電気鉄道・伊勢電鉄)があった事をよく聞かされた。 この電車が走っていたのは、戦前の僅かな伊勢電の珍しい路線図 ~ 戦前のパンフより期間(昭和5年12月~昭和17年8月)であった為に、知っている人々は悠に80数歳を越えているはずである。
 戦後生まれの我輩は、残念ながら近鉄電車(旧・参急電車)と並行して走っていた、この電車を知らない。

 伊勢電が最初に開通し、開業したのは大正4年の9月で、最初は今の近鉄名古屋線の「白子 ~ 一身田町(現・高田本山)」であり、その後昭和1年には「四日市 ~ 津新地(現・津市愛宕町)」へと延長し、さらに桑名へと延長が成され、昭和4年に「津新地 ~ 桑名」間が開通し、養老電気鉄道を合併した。
 路線の延長は、その後桑名から名古屋へと成され、昭和5年に至って「津新地 ~ 新松阪」間と、「新松阪 ~ 大神宮前」間が相次いで開通し、全線の開通式典が催され、営業を開始した。

伊勢電鉄・山田線開通記念に発行された「絵葉書」

昭和7年発行の「5万分の1・地形図『宇治山田』」より、部分アップ

昭和15年発行の「宇治山田市立体図」より、部分アップ


 伊勢電の軌道は、当時は度会橋の南1km程の所に鉄橋があり、鉄橋を渡った宮川右岸の「秋葉山」(徳川山)と、その東の「天神丘」(天神丘山)に、2つの短いトンネルがあって、二俣町から常磐町の旧宇治山田高等女学校(後の宇治山田高等学校の旧校舎)真横の神社、「坂社」との間を経て、すぐ東方の外宮北口の門前に終点の「大神宮前駅」があった。

現在、NTT西日本のビルとなっている「伊勢電の大神宮前駅」の跡


 駅前の広場からは、国鉄(省線)の「山田駅」まで最短距離で結ぶ、北御門通が「参宮通」となって通じ、商店街にもなっていたと言う。

当時、国鉄の山田駅まで、最短距離で結ぶ「参宮通商店街」となっていた、北御門通


 この軌道の跡地は、今は人・車が行き来する市道になっているが、高校時代には八日市場町の「旭屋食堂」の辺りから入るこの道を、ずっと山高まで通学に通っていた。

NTT西日本・伊勢志摩支店の横から、山高の跡地へと続く「伊勢電跡の市道」

今は「伊勢市福祉健康センター」となっている、山高と山女の跡地を示す石碑


 その頃の「天神丘隧道」の軌道跡には、細い土道の人道が付いていたものの、天井から地下水の滴り落ちる、薄暗い不気味な場所であったのを覚えている。
 その西方の「秋葉山隧道」の内部は、安田製作所の工場用地となっていて、入口は閉鎖されていたし、西口の先は、宮川に残存する橋杭だけが西方へと点在していた。

市道となっている「天神丘トンネル」の東口

市道となっている「秋葉山トンネル」の東口

市道となっている「秋葉山トンネル」の西口


 この通称「伊勢電」と呼ばれていた、全線狭軌の複線軌道の参宮電車は、宮川左岸の川端駅を過ぎ、宮川の鉄橋を渡ると、秋葉山トンネルの入口に「宮川堤」駅があり、一つ目のこのトンネルを少し左にカーブしながら潜り抜けると、「山田西口」駅が天神丘トンネルの手前にあった。
 丁度、その場所に当たる民家の玄関の横には、当時のままに再現された「山田西口」駅の立札が貼られている。

二俣の民家(松月氏宅)の玄関横に貼られた、「山田西口」駅の立札


 そして、2つ目の天神丘トンネルを出たすぐ先に「常盤町」の駅があって、その少し東先の終点「大神宮前」駅へと至っていた。 ( 「常磐町駅」の跡は、沿道の「ヘアサロン・ユニオン」の前辺りになる )

「天神丘トンネル」の東口から眺めた、伊勢電・常磐町駅跡辺りの市道の風景 ~ 正面の森は坂社


 伊勢電鉄に魅せられた鉄道ファンや研究者は、県内外に少なからずいて、何度も鉄道関係の雑誌に取り上げられてきたし、その後も追跡ファンは後を絶たず、我輩らも含めた戦後生まれの世代には、正に「幻の参宮電車」である。

当時発行された、各種の「伊勢電のパンフレット」1

当時発行された、各種の「伊勢電のパンフレット」2

当時発行された、養老御案内の「伊勢電のパンフレット」


 我輩は、この電車にはさほど興味は無かったが、伊勢の事をいろいろと調べてゆくに従い、やはり触れておかないといけないなと思い、収集した古資料などをひもどき、軌道の跡地を辿ってみた次第だ。

当時描かれた、吉田初三郎作画の鳥瞰図「伊勢電鉄御案内」の表 ~ 裏紙


 ちなみに、この伊勢電鉄の詳細については、次の書物2冊に網羅されているので、是非とも参照をされたい。

 1.想い出の伊勢電特急 「はつひ」での85分の旅 昭和62年(1987年)
   編集発行者 椙山 満 (自費出版の私家本)
 2.保存版 伊勢電・近鉄の80年 平成8年(1996年) 株式会社 郷土出版社

「伊勢電」について詳述された、上記の参考書籍・2冊


天神丘の山上から、「伊勢電・大神宮前駅跡」へと続く市道を眺望



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伊勢について記された「古書の稀覯本」

2016年12月05日 | 伊勢

伊勢参宮名所図會 巻之四(原本)に見る「間の山」

 江戸の昔より、伊勢は外宮・内宮の両大神宮が鎮座する神聖な聖地であり、国内きっての門前町の神都であった。
 伊勢神宮の成立は、もっとはるかに昔であるが、伊勢への街道として東海道の日永追分(四日市市)から分岐する「参宮街道」や、同じく関町(亀山市)から分岐する「伊勢別街道」、大和(奈良)や伊賀方面からの「伊勢本街道」等が発達し、「おかげ詣り」や「伊勢講」などとして、伊勢神宮への参詣が盛んに行われてきた。

 それ故、明治から昭和の戦前にかけては、江戸時代の古文書はもとより、名所図絵、地図、鳥瞰図、紀行文、日記、書き物、刷り物、絵葉書、栞、引き札、パンフレット、チラシ類に至るまで、当地を紹介した案内書や土産物用の印刷物が盛んに出版され、当時の当地の交通情報や旅館、観光地をくまなく記した貴重な資料が溢れる程あった事と思う。


伊勢参宮名所図會 巻之四(原本)に見る「妙見山」


 筆者である我輩こと「伊勢すずめ」は、学生時代からこのような伊勢に関する書籍・文献や郷土資料などの内、戦後の伊勢には殆ど残っていないような貴重な印刷物は、目に止まれば手当たり次第いろいろと収集して来た。
 いわば、かつて伊勢から「伊勢土産」や「観光記念品」として、各地に拡散した書き物や版画、資料物等を逆輸入した格好である。

 全国各地の古書店や古本屋巡りも何度か行って来たし、東京の幾つかの古書店街へも幾度か足を運び、又、大阪や京都、名古屋、岐阜市などの古書即売会には折りある毎に出向いて来た。
 さらに、資料物を探しに各地の骨董屋やリサイクル・ショップ、ノミの市等へも足を運び、各古書店の出す古書目録にも目を通し、注文の申込みをして得たものも相当数にのぼる。
 最近では、ヤフーのオークションにも目を通し、又、逆に古書・資料物などの整理・放出にも利用し出した次第である。

伊勢参宮名所図會 巻之四(原本)の目録の一部


 伊勢市立図書館の「ふるさと文庫」や三重県立図書館の「郷土図書のコーナー」などに行けば、このような古文書をはじめ、郷土史・誌類や資料文献等は殆ど網羅され、又、それらのリストもあり、かなりの書物が蔵書として収蔵されているので、申し込めば閲覧も可能である。
 しかし、家に居ながらにして郷土についての様々な情報を得たり、伊勢についての調べ事をするには、それらが座右にあった方が便利なのは言を待たない。

 今年もラストの12月を迎えた今回は、「伊勢」について記された古書の中から、今となってはまず入手困難な書籍等の「稀覯本」を10冊ほど取り上げ、紹介をする事にした。
 これらの原書や限定出版の初版本の中には、昭和の半ば以降になってから、復刻出版や再版された書籍等も何冊かあるが、それらの価値が下がる事は無い。


「伊勢参宮細見大全」の目録の頁

伊勢参宮細見大全に見る「宮川」の頁

「伊勢参宮細見大全に見る「五十鈴川」の頁

1.伊勢参宮細見大全
 横開きの小形の和本
 宝暦13年(1763年) 芙蓉山人 著

2.伊勢参宮名所図會 巻之四(原本)
  B5版(縦27cm×横19㎝)の和本
  寛政9年(1797年) なはの海驢 著
  全・本文は、巻之一~巻之五と附録より成る。この内「巻之四」が、ほぼ伊勢市内についての記述となっている。
  昭和4年に、日本随筆大成刊行會から「日本図會全集 伊勢参宮名所図會」として、現代仮名遣いに改められた復刻版(A5版)が発行された。本書はその後、平成年代に入ってからも再版されている。


「伊勢参宮 道中獨案内」の表紙

3.伊勢参宮 道中獨案内
  横開きの小形の和本
  明治22年(1889年) 編纂者 大矢剱居

4.神都名勝誌 巻一上・巻一下・巻二~巻六(7冊セットの原本)
  B5版(縦26.4cm×横19㎝)の和本
  明治22年(1889年) 編輯・發行・版権所有 神宮司廳
  本書は、平成年代に復刻版が発行されている。


「度會郡誌 完」の表紙

「度會郡誌 完」の目録の頁

5.度會郡誌 完
  B6版。本文103頁、他
  明治30年(1897年) 著作者 小川稠吉
  当時の度会郡は、概ね現在の伊勢市に相当する。

6.伊勢名勝志(非売品)
  縦23cm×横15.3㎝ の和本。全 140頁
  明治37年(1904年) 著者 宮内默藏。發行所 好古社事務所(東京市京橋區)
  初版は明治22年(1889年)で、發行は川島九衛門。
  昭和49(1974年)に、三重県郷土資料刊行会から復刻版(三重県郷土資料叢書 第67集・B6版)が刊行されているが、会員実費配布の限定出版である。

7.両宮案内
  A5版。本文46頁、他
  大正2年(1913年) 編者 川原松聲。發行所 岡田商店(宇治山田市内宮前)


「伊勢神宮誌」の表紙

8.伊勢神宮誌
  縦長の准新書版(20.3cm×11.1cm)。本文44頁、他
  大正15年(1926年) 著者 鈴木暢幸。
  發行所 敬神圖書出版社(宇治山田市古市町) 定價 金弐拾錢


「茶話みやげ 伊勢山田」の表紙

9.茶話みやげ 伊勢山田
  B6版。本文292頁、他
  昭和8年(1933年) 著者兼發行者 中田政吉。
  發賣所 中田書房(宇治山田市本町) 定價 金壹圓
  本書は、個人出版の自家発行本である。

10.お伊勢さん
  B6版。本文84頁、他
  編集兼発行者 伊勢市観光課(発行年の記載は無いが、本書は昭和30年代前半の刊行書)
  本書の原書本は、昭和20年代の後半に宇治山田市観光課から発行されている。



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