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伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

伊勢志摩の水石について

2012年09月21日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク
Ichinosegawa

 伊勢志摩国立公園は、名勝二見ヶ浦の立石崎を境に、これより東方の鳥羽からその南の的矢湾や先志摩、そして真珠養殖の盛んな英虞湾にかけては、岬や島嶼(とうしょ)、大小の溺れ谷より成る湾入が続く。 志摩半島を中心に、この複雑なリアス式海岸の海景が織り成す四季折々の風光は、伊勢神宮界隈と共に旅情にあふれ、三重県下最大の観光地となっている。



Takiishi02

 当地のこの複雑な地形の骨格を成す地質構造は、殆どの地域が中央構造線より南の西南日本外帯地質区であり、西方の峻険な壮年期地形の紀伊山地から続いて来ている。
 故に北より、広域変成岩の地帯(三波川変成帯)、古生代~中生代の堆積岩の地帯(秩父累帯)、中生代のぶ厚い地層(四万十累帯)、そして特に志摩地方では、これを不整合に覆う新生代の海成段丘堆積層を載せ、各ゾーンが帯状になって東西に広がる。
 さらに、火成岩である塩基性深成岩類(斑糲岩、橄欖岩、蛇紋岩 等)も、朝熊山(海抜555m)や菅島の大山(海抜236.6m)の他、安楽島-五ヶ所構造線に沿って貫入している。Yoroiishi_2
 このような自然環境にある伊勢・志摩・度会には、古代より神聖視された二見ヶ浦の夫婦岩をはじめ、鸚鵡石(おうむいわ)や鏡石(かがみいわ)、燧石(ひうちいし。県指定、天然記念物)など、数多くの名物岩や謂れ石(いわれいし)が点在している。
 又、当地の海岸や山地、河谷等からは、遣唐使が中国から石の文化を伝えた古より、著名な庭石や水石、盆石など良質の鑑賞石もたくさん産出し、五十鈴川、宮川をはじめ、隣接する度会郡内の各河川や山地において、鎧石、伊勢古谷石、五色石等、数々の銘石を世に出している。


Gosikiishi

 「伊勢すずめ」事、我輩は、若い頃から伊勢志摩地方の「水石」を探し求めて半世紀になる。以前は、当地方にも、名うての水石蒐集家が何人かいたが、高齢で他界をされたのか、昨今は余り聞かなくなった。今になって惜しまれるのは、そのような先達の方々ともっと交流をしながら、情報交換を交え、石談話を楽しんでおけばよかったと思う次第だ。
 もうこの先、当地においては、地域やフィールド地学に精通した「水石家」は現われなくなるのではないか・・・。そんな杞憂から、せめてブログにでもと考え、当地の「水石情報」を公表する次第である。


Bairin



 1.一之瀬川の石
 一之瀬川は、度会町七洞岳(海抜778.3m)南の藤越付近に源流をもち、Kikkouseki
東麓の南中村に至り、穿入蛇行しながら北に20km程流下し、度会町棚橋付近で宮川の本流に合流する。その間、秩父累帯(西南日本外帯地質区)を横切るように流れ、途中、小萩川、彦山川、西山川、五里山川等の支流を合流し、当地では五十鈴川や横輪川と共に、多彩な数々の名石を産出している。

 2.栗原鉱山跡の石
Ryoumangan02
Barakiseki

 


 




 本郷の在所東の谷奥の山中にある、かつてのマンガン鉱山跡のズリには、各種のマンガン鉱石や脈石、母岩の入り混じったズリ石の塊がゴロゴロしており、「桜マンガン」や珍しい「蛇の目錦石」(我輩が命名)が出る。但し、どの石の表面も二酸化マンガン鉱に覆われ、真っ黒である。

 3.宮川(本流)の石 宮川は、その源を大台ケ原山(海抜1695m)等に発し、途中多くの支流を合流し、西南日本外帯の地質構造の支配を受けながら、紀伊山地の山間部を北東に流れ伊勢湾に注いでいる。行政区画では、伊勢市、度会郡、多気郡にまたがり、延長90km、流域面積920 km2に及ぶ三重県屈指の一級河川である。
 特に三瀬谷より上流の旧宮川村においては、鎧石、宮川桜、宮川梅林等、数々の名石を世に出しているが、伊勢市内の川原まで流れて来ているものもある。

 4.五十鈴川の石 五十鈴川は、剣峠付近に源流をもち、Isuzugawaishi03
高麗広を含む伊勢神宮の宮域を流下し、二見ヶ浦に注ぐ清流である。宇治橋上流の神路山や島路山には、あらゆる種類の見事な水石や奇石の産する小谷等が幾つもあり、本流へと合流しているが、高麗広に居住権を持つ地元住民を除けば、一般人は伊勢神宮の宮域ゆえ採石が禁止されている。江戸時代に宇治橋付近で発見されたという、足の形をした奇石「神足石」は、一部の人にしか知られていないが、宇治橋より下流であれば川原にて自由に探石できる。

 5.二見海岸の石 夫婦岩で名高い二見ヶ浦海岸においては、立石崎以外にも、江海岸の東に神前岬へと続く荒磯があり、緑色片岩を主とする広域変成岩が露出し、海食を受けている。当地は、引き潮時でも海食洞門である「潜り島」までしか辿れないが、時折、水石となる海石(うみいし)を拾う事ができる。ここの緑色片岩は、ほぼ立石崎と同じであり、この変成層(三波川変成帯)は答志島(鳥羽市)へと続くが、一般にはいわゆる「へげ石」である伊勢青石の類である。
 6.鳥羽市・安楽海岸の石 安楽島海岸は、恐竜の化石の産地として有名になったが、古生代~中生代の地層が急斜して複雑に絡み合い、石灰岩も介在する。大した石は見い出せないが、チャートの赤石や、紋様石としての貝殻石灰岩等の海浜礫がある。

 7.朝熊山の石 朝熊山は、山上に空海中興の金剛証寺のある霊峰であるが、連山の殆どは角閃岩とこれに貫入した塩基性深成火成岩体によって構成されている。火成岩は、斑糲岩や橄欖岩、蛇紋岩であり、鉄サビ色をしたこれらの風化岩が、山上の表土にまみれて転がっている。Asamaishi_01
 石の表面は、いわゆる巣立ち状であるが、形の良いものや奇異な形のものは、水石や盆栽の付け石として尊ばれている。かつて石ブームの頃には、一時「雲上石」(うんじょうせき)として販売されていた。 北麓の朝熊川に行けば、山から流下したこれらの石がたくさん転がっており、水食によって表土が拭われ、さらに逸品となった名石を見る事がある。

 8.横輪川の石 宮川の一支流横輪川は、伊勢市の市街地南方に聳える前山(海抜528.8m)及び鷲嶺( 別名袴腰山、海抜548m)背後の山間に狭小な河谷を形成して流下し、円座町付近で本流の宮川に合流する。源流は床ノ木付近に発し、延長距離は約15km、その間、矢持町、横輪町、上野町を流れ、川の各所において伊勢古谷石、伊勢赤石、鎧石、龍眼石等、古生代の地層に由来する数々の名石が揚石されている。 なお、沼木中学校の裏の河岸には、方解石脈を交える蛇紋岩の露頭があり、緑色の蛇紋岩を穿つ「滝石」が得られる。

 9.伊勢路川上流の石 サニー道路の鍛冶屋トンネルを抜け、南伊勢町に入った、道路の右下の谷が伊勢路川である。谷は急峻なV字を成し渓流となっているが、瀬戸橋付近の堰堤より上流約1kmが探石地であり、かつては業者によってワイヤーで大きな庭石用の赤石(チャート)等が運び出された。石の種類は、鎧石、赤石、紫雲石、龍眼石、伊勢古谷石等が見られる。

Isehuruya01

 10.志摩地方の石
  ① 鍾乳石 ・・・ 磯部町の天岩戸一帯には、石灰岩層が広範囲に山地を成し、各所に小規模な幾つかの鍾乳洞を形成している。神聖視されている水穴(瀧祭窟)や風穴以外にも、入洞できる鍾乳洞が複数あり、この内の一つ、石灰岩採石場跡の洞穴(通称、廃窯の穴、奥行き約80m)の内部には、大・小様々なツララ石や石筍、石柱、それに洞窟珊瑚などの鍾乳石があり、無惨に荒らされたまま、現在ではそれらの残骸が洞床に散乱し、放置されている。カットし磨けば鑑賞石になるものもかなりある。
  ② 鉄石英 ・・・ 阿児町立神の西山半島の一端、入り組んだ英虞湾の海岸にかつてマンガンを採掘した廃坑がある。ここの主な鉱石は含マンガン赤鉄鉱と二酸化マンガン鉱であるが、石英脈が網目状に入り組み、鉄石英等は、研磨によって石肌を出せば、赤白のまだら模様のきれいな鑑賞に堪える紋様石となる。
  ③ 石灰岩 ・・・ 伊勢市と磯部町を境する逢坂峠(伊勢道路の島路トンネルの上)付近から、磯部町の天岩戸を経て鸚鵡石付近の広の谷までのエリアには、至る所に石灰岩が点在する。Sazsreishi
石灰岩そのものは全く水石には不向きであるが、雨水や流水等による溶食の著しい岩石ゆえ、穴があいていたり、滑らかな凹凸が特異な形を醸し出していたり、中には混在する輝緑凝灰岩等と相まって龍眼石や雀石となり、水石の風格を持つものがある。希にさざれ石(石灰岩角礫岩)も見つかる。
  ④ その他 ・・・ 水石ではないが、阿児町の志摩自動車学校付近等の地層から、「高師小僧」と称する面白い形のコンクリーション(沼鉄鉱の一種で、普通は指の大きさ程度)が採れる。

Isehuruya03


 



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五十鈴川界隈の散策、あれこれ …。

2012年09月12日 | 伊勢の自然と風物
Jrtekkyou


 九月に入って、久しぶりの上天気である。早朝の秋めいたまぶしい陽射しは、心地よい秋の風とともに、思わずして外出を誘う・・・。



 昼前になっても、快晴そのものなので、近くの五十鈴川に出向くことにした。宇治橋より上流は、伊勢神宮の宮域なので、今日はその下流の川原に行った。
 浦田橋付近の河川敷の駐車場が有料化されてからは、その下の広々としたIsuzugawakawara
川原で遊ぶ人々の姿がめっきり少なくなった感じである。以前なら、朝早く車に犬を載せて遊ばせに来ていたり、親子でキャッチボールをしていたり、ゴルフの練習さえしていたものだ。又、豪雨による出水の引いた後など、流木を拾う地元民も何人かみえた。

 五十鈴公園に隣接する河川敷の駐車場も、平日なのでガラガラである。さっそく中村町に渡る御側橋(おそばはし)の土手下に車を止めて、川原に下りた。どうしても、川原を歩くと転石に目がゆく。石マニアゆえの性分なのである。川面を渡るかすかな微風が爽快ではあるが、衰えを知らない残暑の陽射しは、夏の日のままである。ついつい石を探す・・・。


 五十鈴川は、神路山や島路山の源流からV字谷の河谷が形成され、上流域は西南日本外帯地質区の各地層の走向を横切るように、渓流や早瀬となって流れ、宇治橋付近で川床が平坦化し、各所に小広い川原を形成しているので、岩石の種類は豊富である。それ故に、いろんなAsamaishi_3
鉱物も見つかるのだ。30分ほど遊んで、手にした石は五つ六つ・・・。  Siro_chert_4

 茸のように水食を受けた掌大の「朝熊石」(姿石)、白色チャートの晶腺(小穴)にキラキラと輝くミニ水晶。変質チャートの表面等に層状脈を成す赤鉄鉱、きれいなピラミッド型の風食小礫や三稜石、そしてYの字形の神足石・・・。


Hematite_3


Tenseki

 


         

 次に、楠部町に入り、落成式を待つばかりの、架け替え工事の終わった新しい「五十鈴橋」を見ながら、鹿海町の堀割橋に行った。川の両サイドの氾濫原に広がる田んぼには、一面に黄金色の稲穂がなびき、一角で稲刈りが行われていた。



 Horiwaribashi_2


 この橋を渡った左手の方向、右岸のすぐ先に「鏡宮」(かがみのみや)がある。ここは、Kibanoato_2
かつての木場(内宮造営貯木場)の跡(川曳き用のお木をあずかってKagaminomiya
いた所)でもあり、そばに、その事を記した立札が立っている。初秋の日和に誘われて、写真を撮った。今日は全くの写真日和である。


 


Siwaino_kidouato




 最後に、汐合橋付近の市電の軌道跡に行った。昭和30年代までは、伊勢の市街地から遥か先の内宮前と、当地二見町に向かって、路面電車の軌道が延びていた。その軌道跡が今もはっきりと残存しているのは、ここぐらいであろう。当時の名所・名物だった「汐合の鉄橋」の橋桁も、その先の川の中にしっかりと残っている。
Kidouato
僅か数十メートルであるが、軌道跡の砂利道の両サイドには、桜の木々が、さながら並木道となってアーケードを作り、木影を映しながら木漏れ日が降り注ぐ。ふと耳を傾けると、夏を惜しむかのように、何匹ものアブラゼミが盛んに鳴いている。
 少し先には、JR参宮線の昔ながらの鉄橋が見渡せる。もし、今もSLが走っていれば、見事な風景となるに違いない。



 散策のラストは、このすぐ左手前方(五十鈴川の右岸)にある、こんもりとした林の中に見えている赤い鳥居の神社への参拝となった。「姫宮稲荷大明神」の裏門である。デジカメを手にし、防波堤隣接の側溝沿いに細道を進み、神社に参拝した。




Himemiyainari




 誰もいない林間に注ぐ陽射しだけが、お稲荷さんのお堂をまぶしく照らす。お賽銭はいつもの通り「45円」である。始終はご縁がないのだけれど、習慣になっているのだ。鈴を鳴らして拍手を打ち、拝礼し、左右の本尊のお使いさんの狐の石像にも手を合わせる。
 帰りは、幾重にも鳥居の続く表参道を潜りぬけ、鎮座する門番しかりの唐獅子顔の、阿形・吽形の「駒犬」達にも一瞥し、道端に駐車した車に向かった。時刻は、昼下がりの2時過ぎであった・・・。


 


Sandou

Komainu




 







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言葉の遊び、あれこれ …。

2012年09月06日 | 随筆・雑感・回想など
Isuzugawa

 

 日本語と言うと、平仮名に、漢字、そしてカタカナと、世界各国で使われている言語文章と比較をしてみると、文法も含めて実に複雑すぎる。当たり前の事だが、この複雑な母国語を日本人は巧みに使いこなす。
 北海道の一部に残る「アイヌ語」を除けば、方言の違いはあっても、多民族国家のように地方によって言語が異なることもなく、全国どこに行ってもしごく普通に話ができ、文字が読め、文章が書ける。だのに庶民は、日頃、この日本語のことばのありがた味や、おもしろさをあまり意識せず、昨今は、むしろ英語(英会話)や韓国語、中国語に関心を寄せるようになった。


 さて、「言葉の遊び」と言うと、まず昔からあった「回文」があげられる。上から読んでも下から読んでも、同じに読めると言う言葉や文章である。例えば、「しんぶんし」(新聞紙)や「こねこ」(仔猫)、「きつつき」(啄木鳥)、「志摩市」(しまし)、「竹藪焼けた」、「私貸したわ」とか「男子が死んだ」など・・・。ちょっと考えれば、他にも幾つかあるだろう。少し長い文章として、昔からよく知られている和歌に、
 「草くさの名は知らぬらし 花守りも 名は知らぬらし 花の咲くさく」
と言うのがある。

 漢字の熟語では、テレビのコマーシャルにも出てた「山本山」をはじめ、「水道水」や「日和日」、「日曜日」。さらに「馬車馬」、「石垣石」、「人」、「市川市」、「東北東」など、次々と出てくる。
 これは、英語の綴りでも考えられる。以下の単語がそうである。
  level   eye  redder  reviver  noon   pop  poop
  
 さらに、日本語を英語のスペル(ローマ字)に書き直しても、色々ある。 
  akasaka(赤坂)、isesi(伊勢市)、uraru(ウラル)、ekieike(駅へ行け)、
  ono(小野、斧)、nirin(二輪、二厘)、ama(海女、尼、亜麻)など。

 英語の話になったついでに、ジョーク話の中に、「一番長い綴りの単語は?」との問いに、“smiles”との答えのある事は良く知られている。(意味は考えてみて下さい。)

 和訳として、特に面白いものをあげると、“Cat mint”=「犬薄荷」で、猫が犬に化けてしまう。又、“Pineapple”(パイナップル)をちょん切ると、「松」と「りんご」になってしまう。
 さらに、“a naive girl”を「箱入娘」と訳し、“think or swim”を「乗るかそるか」と訳している。正に和訳の妙であるが、「外来語辞典」や「カタカナ新語辞典」などから根気良く探せば、他にも色々と見つけられるだろう。

 和訳と言えば、かつて“Base ball”を「野球」と訳したのをはじめ、スポーツ用語には、当を得た実に巧みな訳語の言葉が沢山ある。戦時中の外来語(英語)の苦肉の策極まりない和訳も含めて、探してみてはいかがでしょう。 逆に日本語の言葉を巧みに英訳しているケースもあるが、「新幹線」とか、「津波」、「寿司」、「刺身」、「餅肌」などは、英訳がきかず、日本からの外来語としてそのまま使われているようだ。


 次に、面白いのは、やはり暗号や隠語ではなかろうか? 江戸時代から伝わる、一から十までの隠し言葉(暗号)として、

 大無人(だいむじん、一)、天無人(てんむじん、二)、車無中(しゃむちゅう、三)、署無者(しょむしゃ、四)、吾無口(ごむこう、五)、交無人(こうむじん、六)、切無刀(せつむとう、七)、只無口(ただむこう、八)、旭無日(きょくむじつ、九)、田無口または早無日(たむこう・そうむじつ、十)

と言うのがある。
 隠語では、痴語は別として、古くから使われていた言葉に、アイスクリームが「高利貸し」、一六銀行(いちろくぎんこう)が「質屋」。他にも、カップラーメンが「一言居士」(言うだけの人)、ウラガールが「裏のある女の子」、アンナカレリーナが「あんな彼いいな」などもあったが、今は余り聞かず「死語」になっているのかも知れない。

 又、警察用語をみると、ホトケが「死体」、ガイシャが「被害者」、ホシが「犯人」、アラウが「調べる」、ブツが「現物」、ハジキが「拳銃」、ヤサが「隠れ家」、ガサ入れが「家宅捜査」、ワッパが「手錠」など、いくらでもあるし、芸能界や花柳界、法曹界や経済界、スポーツ界(相撲界)、マスコミ用語などについても、細かく調べれば、次々と出てくるはずである。
 さらに、昔の武家用語などもみてみると、お金を持ち合わさない事を「手元不如意」(てもとふじょい)とか、便所を「雪隠」(せっちん)や「厠」(かわや)とか、女性が自分を「わらは」と言っていたように、日本語の言い回しの複雑さと、意味の不可解さにとまどってしまう。

 戦後の訳語や造語にも、色々と変わったものがあり、最近では「略語」のほか、「流行語」や「新語」のコンテストなどもあって、少し言葉の使い方が乱れている感もあるが、それはそれで時代や世相を繁栄していて、結構面白い。特に、「新幹線」は見事な新語で、日本語としてはもちろん世界各国にも定着しつつある。
 少し古いが記憶に残っている言葉に、「オバタリアン」や「ミミドシマ」(耳年増)、「ギャル」、「歴女」、「草食系」などがある。最近、よく耳にするのは、学術造語も含めて、「活断層」、「端末」、「文言」、「マニフェスト」など、など・・・。
 このエッセイの最後は、「言葉の遊び」らしく、謎かけ5題を記して締めくくります。
 1.日本の「U.S.A」って何県にありますか?
 2.“Fourth or fifth city in U.S.A”って、アメリカのどこですか?
 3.交叉点の「信号機」のような人って、どんな人?
 4.「常夏のような人」って、どんな人? 答えは複数で、その一つは
   「なでしこ」(秋の七草・「撫子」の別名)。   
   あと一つは・・・。
 5.「しかくてまるいもの」って、はてさて何でしょう? Photo
   「雪がとけると何になる?」の質問
   の答え方として、「春になる」の
   ように、水平思考も大切ですね。





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九月の雑感…。

2012年09月02日 | 随筆・雑感・回想など
Akizora


 もう九月、今年もあと四ヶ月となった。残暑の中にも秋風が入り混じり始め、青空にも秋の雲が出始めた。一日の違いで8月から9月へと移行したので、部屋に掛けてある8月の暦を引きちぎったが、昨日今日、そして明日へと続いても、自然(環境)は、日常社会同様に、一見何の変わりもなく感じられる。しかし、確実にこの二日間で変わったなと実感したのは、昨日の黄昏時に、すだく虫の音に混じってエンマコオロギの声を、今年始めて庭先で耳にした事である。
 ちょうど東の空には満月、そして勢田川の川沿いにそよぐ涼しい小夜風にさらされながら、ふと、伊勢の町なかに生まれ育った子供の頃を回想してみた。やはり、秋のはじまりである。


Setagawa1b

 伊勢すずめの子供の時分には、まずお宿の前の御幸通りに三重交通の市電(トロリー・ポールの単コロ電車)が走っていた。この電車道が向かいの家並みの真裏にもあって、内宮前までの路線は複線だったが、電車は何故か右側(御幸道路の路面)が行きの「右側通行」(進行方向に向かって)であった。
 この頃の夏の勢田川は、引き潮時には子供らの遊び場のひとつであり、ジャブジャブと川に入って、フナやモロコ、ドジョウにザリガニ、そして時にはミゾ鯉やウナギを網ですくい取ったものだ。今の町なかの子らは、もうこのような遊びはしないし、勢田川自体も大きく改修されて入れなくなった。
 伊勢市では、このような川遊びの光景は、山里の横輪町まで行かないと見られないが、開放感はあっても、家族ぐるみや保護者付き切りの川遊びである。

 そして、当時の岩渕の町を色々と思い出すと、勢田川には錦水橋に並び市電の鉄橋があったし、川沿いに広がる田んぼの向こうには電車の車庫、少し外宮よりに離れて警察署や市民道場、勧業銀行、地方事務所、町の真ん中の箕曲社(みのやしろ)、その横の明倫商店街、伊勢会館(今の観光文化会館の前身)、そして二階にホームを持つ、洋風造りの大きくて立派な宇治山田駅、その駅舎の一角の消防署など、など・・・。


Iwabuchi1b

 今も変わりがないのは、箕曲社と宇治山田駅ぐらいであるが、近鉄電車の終点だったこの駅は、線路が鳥羽・志摩へと延長されて、お伊勢参りの特急電車の発着駅では無くなってしまった。駅前のロータリーには、ボンネット・バスやトレーラー・バスがいたし、今はしもた屋ばかりとなってしまったが、駅前の明倫商店街には、いろんなお店があって人々であふれていた。入口には、石筆やシャボン玉セットなどを買いに行ったおもちゃ屋さんがあったし、駄菓子屋さんも複数あった。そして、肉屋さんの売るボローニャ風のソーセージや丸ハム、5円で買えた揚げ立てのコロッケなどの味が、妙に懐かしくもある。


 季節の変わり目になって、昔の回想話しの羅列になってしまったが、その頃は、今よりも季節感の受感がかなり違ったのではないかと思えてならない。それは、御幸道路の赤いレンガ道の舗道には、桜や楓、イチョウにクスノキなど、いろんな街路樹があって、外宮前から内宮までずっと続いていたし、近所の民家の庭先にも畑や立ち木、小藪などの繁みがかなりあったし、勢田川の岸辺には葦などの川草も繁っていた。

Myoukensan2_3 宇治山田駅の駅裏には、裏通りを隔てて大きな欅や松などの繁る、うっそうとした雑木林があり、たくさんの野鳥や昆虫がいたし、ミミズクなども巣くっていた。要するに、道端の雑草も含めて、動・植物の季節変化が町なかの生活環境を彩り、より季節感をかもし出していたからだろう。


 一年中で、季節の移り変わりを一番しんみりと感じ取れるのは、やはり秋ではなかろうか。昼下がりの日差し、昼夜の長さ、朝夕の気流の流れ(心地よいそよ風)、天空の青空・・・、上空の雲の形、そして森林や池や川の生態系など、全てが変ってゆくのだが、昔のように、町なかのここかしこに自然環境の豊かさがあって、あればある程、あらゆる事象の変化が一体化し、呼応して、そこに住む人々の日常生活において、季節の移行をよりはっきりと感じ取らせてくれたのではないかと思う。


 運勢暦の本(高島易)では、七赤金星生まれの我輩の九月の運勢は、「籠城対峙する運か」などとあって、凶日の多い忌み月のようだ。それでも、秋が来れば秋の自然に浸りながら、感性の趣くままに能動的に過ごしたいのだ。




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