伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

伊勢市の町と活断層

2010年05月29日 | 伊勢

徳川山付近の宮川(ここで北に屈折する)

 

伊勢市の地名と地形について

 地図を広げ、伊勢市の市街地の地名を見てみると、自然地理学(地形や陸水)、地学(地質や地史)に関係すると思われる名前が幾つかある。その例をあげると、川端、中須(河川の中州よりついた)、中島(河川の川中島よりついた)、王中島(大きな川中島の意よりついた)、竹ケ鼻、黒瀬、河崎、吹上(かつて、宮川が幾つもの分流に分かれていた頃、そのひとつに潮が吹き上げていた場所だった事よりついた)、岩渕、岡本(丘の裾野の意よりついた)、尾上(丘の上の意よりついた)などである。字名(あざめい)まで調べればもっと増えると思われる。

 

市の中心・岩渕の地名は断層地形に由来 ?

 さて、このうち、有史以前の地震によって生じた、自然地形に由来すると考えられるものを見てみると、筆者の居住地である「岩渕」が一番気にかかるのである。現在、伊勢の街の繁華街は方々に分散してしまったが、近鉄線の終点が宇治山田駅であった頃(かつて、今の伊勢市が宇治山田市だった時代)は、岩渕町と言えば、国鉄線の山田駅のあった吹上町とともに、宇治山田の駅の他、役場(今は市役所)や警察署、郵便局、銀行、商工会議所、公民館(今は観光文化会館)等の集中する、当市の中枢的な繁華街であった。

 

かつて、勢田川の川底に千枚岩の岩盤が露出 ・・・

 なぜ、「岩渕」がそのように呼ばれるようになったのか、その根源の「岩」はどこにあるのか・・・。市街地が都市計画で整備され、河川が改修され護岸工事が成された今は、その場所は定かではないが、おそらく明治の初期頃までは、川のどこかに大きな露岩があったものと考えられる。その河川の候補のひとつは外宮の勾玉池から流れ出る小川(正式な河川名は不詳、勢田川の支流の一つ。今は南部幹線排水ひ管となっている)であり、他の一つは錦水橋の架かる勢田川である。筆者はこの橋のそば(川の左岸付近)に、幼少の頃より住んでいるが、少年時分にはよく勢田川に入ってフナやドジョウ、ザリガニなどを獲って遊んだものである。その頃の記憶をたどると、錦水橋のひとつ上の簀橋(すのこばし)から小田橋あたりの川底に、千枚岩の岩盤が露出しており、小規模な浅瀬を成していたように思う。

 

伊勢市の地下には、中央構造線が ・・・

 伊勢市を含むこの地域の地質図を見ると、日本列島最大の活断層である中央構造線があり、西方の多気郡多気町の五桂池辺りから東方に延び、玉城町積良付近を通り、その先は推定ラインとなっているが、正に伊勢市の地下を通って二見町へと続いている。構造線というのは、長さ10数km以上の大規模な断層を言うが、大きくなれば成る程「構造帯」となり、主断層の他、破砕帯や派生し並行する複数の副断層等を伴い、時には共役断層(岩盤に圧力がかかり岩石が破壊される時、セットで生じる交差する断層の事)をも生じるものである。

 

市街地直下の中央構造線は、果たしてどこに ?

 伊勢市の市街地背後の地形と地質から推定される、従来の中央構造線の位置は、辻久留二丁目付近の宮川河床から、宇治山田高校のある白石山直下、外宮北口、伊勢市役所の直下(岩渕一丁目)、黒瀬町、二見ヶ浦を結ぶラインであるが、このあたりの表層は中~低位段丘堆積層や沖積層に覆われ、ボーリングのデータを見ても、10~30数m地下の基盤を成す岩盤にまでは達しておらず、その位置はおよその推定である。但し、筆者は中央構造線の主断層の位置は、宮川河口付近の弾性波探査(人工地震による探査)のデータなどから、もう少し北の方向にずれていると考えている。

 

南北方向に、もう一つの潜在活断層があるのかも ・・・ 

 その理由を裏付けるように、宮川の流れが辻久留三丁目付近で北に屈曲していて、これは天然の状態での流路の変換ゆえ、明らかに宮川の河道に沿う南北方向の潜在断層(地表に現れていない断層)によって、市街地背後の山塊を含む大地全体が、少し北にずれ上がっている風に見えなくもない。

 

巨大地震への備えの意味で

 巨大地震の到来が迫っている昨今、伊勢市はもう少し正確な中央構造線(潜在活断層)について、科学的な調査を成し、その位置を割り出す必要があるのではないかと思う次第である。

 

 下の写真はは改修前の勢田川である(簀橋から小田橋を撮影)

改修前の勢田川(簀橋か ら小田橋を撮影)

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伊勢志摩地方の活断層を考える

2010年05月26日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク

志摩半島以南は未調査?

 三重県の活断層の分布マップを見ると、志摩半島より南の地域(丁度、中央構造線より南の外帯に相当)については、殆どライン・マークが記されていない。これは、活断層が存在しないのではなく、調査が進んでいないからである。その理由としては、三重県の中・北勢や伊賀地方に比べて、

  • 人口密度の高い都市部が少なく、行政が津波対策や防災訓練以外には、さほど必要性を感じていなかったこと。
  • 殆どが急峻な山岳地帯や、険しいリアス式海岸線の続く地形である為、スムーズな学術調査を阻んできたこと。
  • 構造線や断層地形があっても、軟弱地盤が少なく、地質図以外にはデータ不足であったこと。
  • 地域住民の意識が低かったこと。

などが考えられる。

 

活断層とは

 さて、昨今、一般用語ともなった「活断層」(Active Fault)とは、どのような断層を言うのであろうか。断層について少しだけ記すと、

活断層
地質時代の第四紀(過去165万年前より後の時代)に入ってから、活動した形跡のある断層。(例:中央構造線、一志断層、朝熊ヶ岳断層、伊勢湾断層 など)
活断層でない断層
第四紀に生じた断層でも、規模がごく小さいもの(層内断層等)は活断層とは呼ばず、第四紀以前に生じた普通の断層は、「地質断層」と言って区別している。
地震断層
日本では、地震の際目に見える形で再活動したり、地表に露頭の生じたことが科学的に記録され、検証されている活断層を言う。地震の観測体制が整い、科学的な調査が始まった明治期以後、100年ぐらいしか経っていないから、過去約1世紀の間に発生した地震で、そのズレがさらに動いたり、地盤のズレが直接地表に出現した断層と言うことができる。
(例:1891年の濃尾地震で生じた根尾谷断層、1995年の阪神・淡路大震災で生じた野島断層など)
歴史断層
活断層の内、有史以降、活動の史実のあるものを「歴史断層」と言う。
潜在(活)断層
地形上、明瞭なリニアメント(線構造)としては地表に現れず、沖積層の下に隠れていたり、海底に潜むものを「潜在(活)断層」と言う。

 

活断層を調べる

 伊勢志摩地方の活断層については、これまで総括的な調査は行われていない。しかし、怪しい地形が幾つか無い訳ではない。現在では活断層の発見やその位置の特定は、物理探査(弾性波探査)やトレンチの掘鑿、ボーリング調査などによって成されているが、経費の点からもこのような調査は、県のレベルでないと行えない。それ故、新たな活断層は、土木工事や大規模な道路の建設に伴う地質調査の折などに、偶然発見されるにすぎない。

 

活断層の発見

 さて、庶民のレベルでも、次の幾つかの点に注意すれば、活断層が発見できないこともない。

  1. 道路ぎわの新たなカッティングなどで見られる断層が、最上層の表土をも切断しているかどうかを見る。
  2. 地形図や海図(等深図)からリニアメントを推定する。
  3. 地質図にある構造線や断層の位置の露頭を探して調査する。
  4. 山地の三角末端面、同時期の段丘面の変位差、並列する河川や小谷群の一定方向への屈曲、地滑りや地形変換点の定向性など、地形の現地調査から判読する。

 

googleアースでわかるかも…

  以上の他、遺跡の発掘の際、礎石等のポジションの思わぬズレによって判ったり、空中写真の判読によって判明することがある。

 

伊勢志摩地方の地形、地質から推定される活断層

(既述の中央構造線と朝熊ヶ岳断層以外のもの)

  1. 伊勢市徳川山付近~宮川河床にかけての第三紀層
  2. 伊勢市昼河山(ひるごうやま)を通る東西性のリニアメント
  3. 鳥羽湾の澪(みお)のライン(石鏡島付近~加布良古水道~桃取水道を結ぶライン)
  4. 安楽島-五ヶ所構造線の一部
  5. 仏像構造線の一部
  6. 志摩市横山の南東麓の地形変換点

  以上が、当地方の一番怪しい場所であるが、他にもまだある。

 

証明が先か、地震が先か?

 上記1~6の場所についての確証は、科学的な方法で学術調査をする以外には、それが原因となって地震が発生し、「地震断層」を生じないことには断言できない。ただし、この時は、確実に証明が出来ても手遅れである。

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伊勢志摩・名物岩、謂れ石あれこれ

2010年05月22日 | 伊勢志摩国立公園の自然と風物

五十鈴川の神足石

勢州と志州

 伊勢・志摩地方は、昔はそれぞれ勢州(せしゅう、又はせいしゅう)、志州(ししゅう)と呼ばれていました。

県のほとんどが勢州

 かつての伊勢の国は、今の伊勢市のみならず三重県の北勢地方にまで及び、その殆どが勢州であり、外宮、内宮のある山田や宇治の町は、明治初期には度会県に属し、鳥羽は志摩国(志州)の一部でした。

勢州八奇石

 さて、江戸時代の古文書(古い文献)に、「勢州八奇石」なるものが記録されており、そのうちの幾つかは、伊勢志摩地方に集中しています。著名なものからあげると、「夫婦岩」(めおといわ・二見ヶ浦)、鸚鵡石(おうむいわ・磯部町のものが特に有名、他に度会町南中村にもある)、鏡石(かがみいわ・五十鈴川上流)でしょう。

鏡 石

 鏡石は、仙人下橋付近の五十鈴川の右岸にありますが、伊勢神宮の宮域ゆえ、昔のように見物に立ち入ることは出来ません。「伊勢参宮名所図会」や「神都名勝誌」など、昔の観光ガイドブックや郷土誌・史には必ず出ています。この岩の鏡の面(石鏡・いしかがみ)は、断層に伴う鏡肌(スリッケン・サイド)であり、昔は人の顔が写るほどピカピカだったと言います。このような名物岩は全国各地にありますが、「石鏡」と書いて「いじか」と読む地名が鳥羽市にあります。この漁村の沖合いには、岩礁のひとつに「鏡石」があって、崇拝の対象にもなっているようです。

奇岩・怪石の伝承

 さて、伊勢志摩で他の「石・岩」にまつわる話を続けると、ちょっとした名物岩に「獅子岩」(横輪町、横輪口バス停付近)、兜岩(矢持町下村)、鮑石(あわびいわ・五十鈴川上流)、立石(阿児町立神)、天狗の力石(二見町三津)、興玉石(二見町・立石崎の沖の海中)、不動岩(鳥羽市神島)などがあり、それぞれに言い伝えや謂れがありますので、地元を訪ねて、これらのエピソードを聞いてみるのも面白いと思います。

神足石

 さらに謂れのある石(奇石)を、取り上げてみると、五十鈴川の宇治橋付近の川原で江戸時代に発見されたと言う「神足石」(しんそくせき、又はじんそくせき)があります。これは小石の一部にV字形の欠刻を持つ、人の足の形やハート形をした特殊な礫(転石)です。形のよいものはなかなか見つかりませんが、今でも拾えますので、宇治橋より下流の川原で見つけて下さい。

信仰のみならず

 又、朝熊山の金剛証寺の境内に行きますと、崇拝の対象となっている「仏足石」がありますし、伊勢市古市の麻吉旅館(中之町)の下には「つづら石」があります。又、度会町には「火打石」(ひうちいし)という地名があり、かつての発火道具である火玉石(燧石・ひうちいし・ここの岩石はチャートです)の産地として知られています。

石に宿る思い入れ ~石の民俗誌~

 このような神石(しんせき)は全国各地にあり、道祖神のようなものから、神社や仏閣の御神体、時には天然記念物となっている巨石や露岩まで、色々です。果てには、隕石や特殊な鉱物、化石までもが登場し、昔の人々にとって石や岩はごく身近なものでもあり、その現れ方や形状によっては不思議な自然物として崇められ、謂れ話が出来、後世に言い伝わったのではないでしょうか。日本の国歌にも「さざれ石」(礫石と書く。但し、国歌に歌われている礫石は石灰角礫岩である)の巌となりて・・・ と、堆積岩が詠みこまれていますが、このような地質現象の経過を国歌にしているのは、世界中でわが国だけでしょう。

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伊勢の山里・横輪町

2010年05月16日 | 伊勢

伊勢の山里・横輪町

平家の隠れ里

 最近、伊勢の新名所として脚光を浴び始めた場所に、里山の自然や風景、風物を生かして町興しを行なっている横輪町がある。当地は、昭和の半ば頃までは殆ど知られていなくて、むしろ、その奥の矢持町の方が、鷲嶺(しゅうれい)の水穴や覆盆子洞(ふぼんじどう)などの鍾乳洞もあって、平家の隠れ里(武将の末裔の村落・平家谷)としてよく知られていた。当時はまだ林業が隆盛を極めていた時期であり、矢持町の界隈は木材の主な生産地でもあった。

郷の恵・風輪(ふうりん)

 数少なくなった昔ながらの里山の風景、素朴な野面(のづら)積みの石垣に囲まれた民家や棚田など、風光明媚なリゾート観光地や温泉街などの行楽地と比べれば、何もないような山里の田舎そのものであるが、ちょっとした気分転換に、車で出かけてみるのには、伊勢の市街地の近郊でもあり、実にいい場所である。村内には、都市部と農山村の交流施設として伊勢市が建設をした、「道の駅」風の地場産物の直売所「郷の恵・風輪」があり、散策の拠点ともなっている。当所を訪ねると、店内には町興し歌が流れ、横輪町紹介のP.Rビデオが放映されていて、休息にもいい。その上、各種のイベント情報や散策マップなどが無料でもらえる。

とろろ伊勢うどん

 特に、地場産物の露地物の野菜は、市価の半額以下の値で販売されているし、風味豊かな特産物の横輪芋を使った「とろろ伊勢うどん」はここの名物であり、とても美味しい。

見どころいっぱい

 当地の散策箇所を掲げると、まず風輪真ん前の「宮山展望台」、由緒あるお寺「桂林寺」、横輪口バス停下の「おせん淵」、そして少し山道を歩く事になるが、「飛び滝」がある。さらに、鍛冶屋峠に至る旧道を歩いてみるのもいいし、鍛冶屋峠からさらに山巡りのトラッキング・コース(杣道)を辿ってみるのも一興である。

横輪桜のみならず…

 横輪町は、春は横輪桜(山桜の変種と言われ、大輪の花の中に旗弁を持つ)が咲き乱れ、初夏には清流横輪川に源氏蛍や平家蛍が乱舞する。秋ともなれば、在所を取り巻く周囲の山々は紅葉に包まれ、棚田には赤トンボが飛び交い黄金色の稲穂が実る。さらに厳冬の時期には、特有の局地風である「横輪風」が容赦なく吹きつける。そんな四季折々の風物詩を楽しめるのも、当地がこじんまりした特異な山峡の狭間だからであろう。 

南勢きっての銘石の産地

 なお、直売所には、地元ゆかりの新人歌手、中西里絵さんが歌う町興し歌等のC.Dとともに、当地がかつて石ブームでわいた昭和半ばには、南勢地区きっての数々の銘石の産地であった事から、自然石を使ったペーパー・ウェイトやミニ水石も販売されている。


横輪桜と桂林寺
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英虞湾風物詩 ~ その2: 西山(半島)の名所 ~

2010年05月12日 | 伊勢志摩旅情

夕景の絶景ポイント ~ 英虞湾のサンセット

夕景の絶景ポイント

 英虞湾の夕景は素晴らしい。写真にも絵画にもスケッチにも天下一品である。このViewを鑑賞するポイントとして、大王町の登茂山(半島)があり、登茂山展望台、登茂地展望台がよく知られている。当地へは、国道260号線の交差点から西に延びる直線道路が整備されており、約4km進めばその終点が登茂地展望台である。

日本の夕陽100選

 しかし、最近はもうひとつの絶景ポイントが人気を博している。それは、「日本の夕陽100選」にも選ばれている、阿児町立神の西山(半島)西端の慕情が丘(展望台)である。道は立神の在所で尋ねればすぐ分かるが、地図だけだと実際には少し解りにくい。立神へのアクセス道路は幾つかあるが、そこから先は、村内の小道が迷路のようになっていて慣れないと少し迷う。慕情ヶ丘へは、村落から約2.5kmの距離であるが、道路の両サイドにウバメガシやアカマツなどの潅木(かんぼく・・・背の低い木)がブッシュ(藪)となって繁り、どこまで行っても同じような状態で、景色が全く見えない上、枝道も幾つか分岐している。(但し、要所々に案内板がある)

ドライブ・デイトの秘密基地

 ここは、ドライブ・デイトの秘密基地でもあり、誰もいなければ恋のムードは最高である。目の前に英虞湾の入り江を挟んで賢島のホテルが聳え建ち、目前に多徳島が浮かぶ・・・。赤々と沈む夕陽と夕映えがふたりを包み染め、サンセットの内湾に多島海の島影や、遥か対岸に重なる岬や向かいの山々がシルエットとなって、黄昏のひと時を演出してくれます。ぜひ、行ってみて下さい。

 

阿児町立神・立石浦の「立石」

立石明神のご神体

 この他、西山半島の根元には立石浦という場所があり、入り組んだ英虞湾の海岸にミニサイズの立石がある。この「立石」は、立石明神のご神体で、西側の大石(高さ約2.3m)と、これより2mほど隔たった東側の小石(高さ約1m)とから成り立っています。岩質はともに硬砂岩の自然石のようであるが、大石の上部には注連縄がめぐらされている。満潮時には大石の先端だけが突き出し、下半分は小石とともに水没する。立石を遥拝する対岸との間には、海中に一基の鳥居があり、10mほど離れた対岸の遥拝所にも鳥居があり、祭壇が築かれ、賽銭箱も設置されている。

神聖視される巨石

 この巨石は、両方とも、元は船越の滝の浜に鎮座していたものだと言い伝えられているが、地元民からは大変神聖視されている。特に大石の下からは泉が湧き出しているそうで、この泉水を肌にぬると、皮膚病に効能があるとの謂れもある。

立石明神のお祭り

 ちなみに、旧暦の正月四日に行われる立石明神のお祭りには、昔は志摩の各地から人出があり、露店も立ち並んで大変にぎわったそうです。

 

西山(半島)の慕情ヶ丘からの眺め

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伊勢の朝熊山あれこれ

2010年05月08日 | 伊勢

朝熊山の展望台より伊勢方面を望む

山上からは東海18州を一望

 朝熊山(朝熊ヶ岳)は、伊勢志摩国立公園の最高峰(主峰経ヶ峰、海抜555m)として知られ、その山上からは、鳥羽湾はもとより、東海18州を一望におさめ、晴れ渡った日には、遠く富士山までも見渡せる程雄大な眺めを持っています。

その名の由来は「あさくま」の短縮形

 朝熊山という名前の起こりは、昔時、弘法大師(空海)がこの山で修業をした時、
朝に熊、夕に虚空蔵菩薩が現れた との謂れから来ており、「あさま」の発音は、各地の「浅間山(せんげんさん)」の信仰とはかかわりが無く、明らかに「あさくま」の短縮形である。

その昔、ツキノワグマが出没

 さて、その昔、朝方この山に熊が出ても不思議では無く、山地続きの紀伊半島の山々には,かつてはツキノワグマが多数生息をしていた。空海が山駈けをしていた頃は、狩猟で必要以上に狩られる事もなく、大台ケ原山方面から当地に熊が移動して来ていたと思われる。

大気中のチンダル現象かも

 しかし、「夕方、虚空蔵菩薩が現れた」というのは信じがたいが、山上にて西に太陽が沈む光景は今も目にする。雲がかかっておれば、コロイドを成す上空の雲粒の分散状況によっては、日射しの光跡がチンダル現象として観察され、正に後光が差すように感じられたのかも知れない。そしてその菩薩の正体は、「幻日」の一種だったかも知れないし、あるいはほうき星(彗星)だったかも知れない。

朝熊かけねば…

 元来、朝熊山は、朝熊登山鉄道があった頃の客寄せのキャッチ・フレーズに、

「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参宮(かたまいり)」

と、謡われていたのを見ても分かるように、古くからの名山であり、山上には弘法大師中興の名刹金剛証寺(今は臨済宗の禅寺となっている)がある。ここは、伊勢神宮の鬼門を護る特別な寺院でもあるが、全国に鉄道網が整備されて以降は、いち早く観光化されていた。特に戦前は、伊勢参宮を終えた後の観光気分も加わって、伊勢の「岳参り(たけまいり)」として全国にその名が浸透していた。
 これとは別に、当地伊勢では、死者が出ると、葬式の後に朝熊山上の奥の院に行って供養の卒塔婆をあげる風習があり、今に受け継がれている。

戦前は、東洋一のケーブルカーで

 第二次世界大戦までは、北斜面に東洋一の急勾配を持ったケーブル・カーがあったが、終戦間際の鉄材の供出で線路がはずされ、現在は軌道跡のみが残っている。
 その後、尾根伝いの石くれの登山道をボンネット・バスが走っていた時代もあったが、これに代わり昭和半ば以降は、伊勢志摩スカイライン(全長16.3kmの有料道路)が鳥羽へと通じており、各所に展望台が設置されていて、ドライブで眼下に伊勢湾周辺のビュアーを楽しむことができる。

学術上、価値のある貴重な山

 朝熊山は、信仰や観光の対象として庶民に親しまれているが、動植物や岩石、鉱物なども希産種が見られ、学術上の価値も見逃せない、大変貴重な山でもあります。


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英虞湾風物詩・その1

2010年05月04日 | 伊勢志摩旅情

波静かな英虞湾

 英虞湾の旅 ‐‐ 波静かな多島海 ‐‐

 昨年(2009年)の真夏の出来事…。賢島から巡航船に乗って、初めて英虞湾内の人の住む最大の離島、間崎(島)に上陸をした。天気もほぼ晴れ。暑い日差しの中、船のデッキに立つと、相対的な潮風とともに波しぶきがとても心地よい。アメーバ形をしたその島は、波静かな内湾、英虞湾の真っ只中にあり、西の大崎半島と東の登茂山半島の間に位置し、周囲の多徳島、横山島、土井ヶ原島、天童島、大高崎島、兎山(島)、などとともに、英虞湾内に多島海を形成している。

 間崎島、ウオッチング ・・・

 船着場は、ほぼ東西に延びる間崎島の最南端にあり、上陸すると西海岸から高台にかけて、島の西端部にひと塊の村落が層村を成している。人家は増改築が目立つが、木造の古い家々が多く、中には無人の小狭い立ち腐れの家屋も残存し、ひしめき合っている。島を取り巻く鋸歯状の海岸部には、かつて真珠養殖で繁栄した頃の作業小屋が残存し、その幾つかはまだ現役である。

 島の高台にて

 島の高台に登ると、東に縦貫する仮舗装の道路が続き、すぐ小学校の廃校があった。農道の周囲は雑木やブッシュに覆われ、道端に猫の額ほどの畑があり、トマトやきゅうり、茄子、かぼちゃ、サツマイモなどが一部で栽培されていたが、放置され荒れ放題の畑も少なくない。

 標高18.5mの三角点付近から、北海岸へ

 おおむね島内の風景も、地質も、土地利用も、先志摩地方と殆ど代わり映えが無く、高台の道路からは雑木やブッシュが邪魔をし、海景も展望できず殺風景であった。灼熱の夏陽で汗ばむ中、時折ニイニイゼミの鳴き声が響き、つい子供時分の懐かしい田舎道のように思えつつ、半時間ほど歩いて、標高18.5mの三角点付近から、北海岸にある民宿に向かう崩れそうな急坂を下った。島の海岸からは、遥か向こうに賢島が垣間見られ、真珠筏が海面を覆い尽くしていたが、湖面のようなその間隙を、クルーザーが白波のシュプールを残しながらやってきた。

 旅情と郷愁の狭間で

 所用を済ませて、帰路に着いたが、この島も過疎化で若い娘はおらず、いかんともし難い爺々婆々の島であった。それでも初体験の間崎島は、昭和の前半にタイムスリップしたような古風な風景や風物が、エキゾチシズム(旅情)とは別に、忘却していた郷愁を満たしてくれた。

 島通いの巡航船

 渡船前には、歌謡詞の素材を得てこようと考えていたが、離島ならではの旅情には程遠く、詩情の乏しいひっそりとした間崎島であった。 日帰りとは言え、好天に恵まれた島通いの巡航船での英虞湾は、実に快適であった。

多島海、英虞湾

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