伊勢市の地名と地形について
地図を広げ、伊勢市の市街地の地名を見てみると、自然地理学(地形や陸水)、地学(地質や地史)に関係すると思われる名前が幾つかある。その例をあげると、川端、中須(河川の中州よりついた)、中島(河川の川中島よりついた)、王中島(大きな川中島の意よりついた)、竹ケ鼻、黒瀬、河崎、吹上(かつて、宮川が幾つもの分流に分かれていた頃、そのひとつに潮が吹き上げていた場所だった事よりついた)、岩渕、岡本(丘の裾野の意よりついた)、尾上(丘の上の意よりついた)などである。字名(あざめい)まで調べればもっと増えると思われる。
市の中心・岩渕の地名は断層地形に由来 ?
さて、このうち、有史以前の地震によって生じた、自然地形に由来すると考えられるものを見てみると、筆者の居住地である「岩渕」が一番気にかかるのである。現在、伊勢の街の繁華街は方々に分散してしまったが、近鉄線の終点が宇治山田駅であった頃(かつて、今の伊勢市が宇治山田市だった時代)は、岩渕町と言えば、国鉄線の山田駅のあった吹上町とともに、宇治山田の駅の他、役場(今は市役所)や警察署、郵便局、銀行、商工会議所、公民館(今は観光文化会館)等の集中する、当市の中枢的な繁華街であった。
かつて、勢田川の川底に千枚岩の岩盤が露出 ・・・
なぜ、「岩渕」がそのように呼ばれるようになったのか、その根源の「岩」はどこにあるのか・・・。市街地が都市計画で整備され、河川が改修され護岸工事が成された今は、その場所は定かではないが、おそらく明治の初期頃までは、川のどこかに大きな露岩があったものと考えられる。その河川の候補のひとつは外宮の勾玉池から流れ出る小川(正式な河川名は不詳、勢田川の支流の一つ。今は南部幹線排水ひ管となっている)であり、他の一つは錦水橋の架かる勢田川である。筆者はこの橋のそば(川の左岸付近)に、幼少の頃より住んでいるが、少年時分にはよく勢田川に入ってフナやドジョウ、ザリガニなどを獲って遊んだものである。その頃の記憶をたどると、錦水橋のひとつ上の簀橋(すのこばし)から小田橋あたりの川底に、千枚岩の岩盤が露出しており、小規模な浅瀬を成していたように思う。
伊勢市の地下には、中央構造線が ・・・
伊勢市を含むこの地域の地質図を見ると、日本列島最大の活断層である中央構造線があり、西方の多気郡多気町の五桂池辺りから東方に延び、玉城町積良付近を通り、その先は推定ラインとなっているが、正に伊勢市の地下を通って二見町へと続いている。構造線というのは、長さ10数km以上の大規模な断層を言うが、大きくなれば成る程「構造帯」となり、主断層の他、破砕帯や派生し並行する複数の副断層等を伴い、時には共役断層(岩盤に圧力がかかり岩石が破壊される時、セットで生じる交差する断層の事)をも生じるものである。
市街地直下の中央構造線は、果たしてどこに ?
伊勢市の市街地背後の地形と地質から推定される、従来の中央構造線の位置は、辻久留二丁目付近の宮川河床から、宇治山田高校のある白石山直下、外宮北口、伊勢市役所の直下(岩渕一丁目)、黒瀬町、二見ヶ浦を結ぶラインであるが、このあたりの表層は中~低位段丘堆積層や沖積層に覆われ、ボーリングのデータを見ても、10~30数m地下の基盤を成す岩盤にまでは達しておらず、その位置はおよその推定である。但し、筆者は中央構造線の主断層の位置は、宮川河口付近の弾性波探査(人工地震による探査)のデータなどから、もう少し北の方向にずれていると考えている。
南北方向に、もう一つの潜在活断層があるのかも ・・・
その理由を裏付けるように、宮川の流れが辻久留三丁目付近で北に屈曲していて、これは天然の状態での流路の変換ゆえ、明らかに宮川の河道に沿う南北方向の潜在断層(地表に現れていない断層)によって、市街地背後の山塊を含む大地全体が、少し北にずれ上がっている風に見えなくもない。
巨大地震への備えの意味で
巨大地震の到来が迫っている昨今、伊勢市はもう少し正確な中央構造線(潜在活断層)について、科学的な調査を成し、その位置を割り出す必要があるのではないかと思う次第である。
下の写真はは改修前の勢田川である(簀橋から小田橋を撮影)