神無月も下旬となった。少し前の中旬は雨天続きの後、3日程暖かい秋らしい好天に恵まれていたが、買い物以外はどこへも行かずじまいに過ごしてしまった。 ここ2~3日は、天気は良いのだが朝夕は冷え冷えとし、一気に冬が来たかのような北風の吹く肌寒い日々が続いていたが、24日は珍しく朝からやや冷たいものの無風の秋晴れとなった。 但し、日曜日なので遠出はせずに、昼前になって買い物のついでに、自転車で少し伊勢の市街を走ってみた。
幼少の頃から少年時代を過ごした、昭和の戦後の頃から見れば、伊勢の市街地の風景も時代と共に変遷し、寺社仏閣を除けば、どこもかしこも同じような都市風景となってしまった。 街路ばかりでなく裏通りの細道までが舗装整備され、並行する上・下水道や電柱などのライフラインもきれいに刷新され、特に勢田川の護岸は都市河川へと改修が成され、昔眺めたような趣きがすっかり失せてしまった。
そんな中で、普段は気にも留めない昔ながらのものがある事に気づき、ふと立ち止まると妙に懐かしさを覚える。 この日に目にしたもの幾つかを、写真で紹介しよう。
我が家の前は、外宮から内宮に至る御幸道路であるが、この沿道に昔ながらの地物や風景は殆ど残っていない。 昭和30年代までは、自宅の真ん前を市電が走り、すぐ裏手には改修前の土手道のある勢田川が流れ、当時としては唯一の近代的なコンクリート製の立派な架橋であった御幸道路の「錦水橋」には、立派な金属製の擬宝珠があって、ちょっとした伊勢の名所であった。 その路面を神都線の線路が走り、市電の行く風景は当時の絵葉書にもなっている。
改修後の勢田川は、自宅の2軒先の東側を流れているが、架け替えられた錦水橋など、誰も伊勢市の名所とは思っていない。
この錦水橋から400m程下流に行くと、JRの鉄橋があり、左岸の吹上から右岸の神久側へと勢田川を横切り、土手積みされた盛土上に、参宮線の線路が二見町へと真っすぐに延びている。
昔は春先になると、スギナの中に土筆 ( つくし ) が芽吹いていて、親子で摘む人々の姿を見かけたものである。 そのような付近一帯の風景も、今はずいぶん変わってしまったが、そんな中で河川の改修時にも刷新されずに、昔のままに残っている唯一のものと言えば、赤いレンガ積みの橋桁ぐらいではなかろうか … 。
鉄橋を越えてさらに下流に200m程行くと、清浄坊橋があり、この先がかつての河崎の問屋街筋裏の海運商品の荷上場であり、勢田川は南新橋、中橋、北新橋を経て、船江へと流下するが、その左岸に魚河岸 ( 魚市場 )があった。
かつては、さまざまな問屋の続く街並みと共に、この町街筋ならではの土蔵の続く独特の川沿いの風景が眺められたが、今は、一部が保存されてはいるものの、左岸の河崎通りに昔ながらの問屋街の面影を見出すのは、かなり難しい … 。
この河崎通りの道筋南側の入口は、一本木 ( 吹上2丁目 ) になるが、すぐ先の右側に整備された土蔵が残されている。 外壁は完全に張り替えられていて、昔の白壁造りの土蔵のままではないが、化粧積みされた「伊勢青石」を含む礎石だけは、昔時のままのようだ。
河崎通りを走り抜け、八間道路の方へ左折をし一回りをすると、船江の交差点にポツンと昔ながらの円筒形の赤いポストが残っていた。
この赤いポストについては、以前に伊勢市の町なかをぶらついた時に、市街地の中で幾つか目にしたものをブログで紹介をさせて頂いたが、 その後、他にも古市通り先の中之町のバス停付近と、宇治浦田町のバス停の前にも残っている事が判った。
他で目にした昔ながらの古い物といえば、彼岸の墓参りの時に色の塗り替えに気づいた、一誉坊 ( いちょぼう )の墓地の水汲み場にある「手漕ぎ式のポンプ」ぐらいであろう。
かつてのお伊勢詣りの参宮街道沿いの風景も、間の山から古市、そして中之町から桜木町へと続くが、道を挟んで軒を連らねていた旅館街 ( 江戸時代 ~ 戦前の歓楽街 ) などは、見る影も無く、完全に廃れてしまった。 変わらない風景と言えば、その先の宇治浦田町へと下る「牛谷坂」の坂道だけかも知れない。