![朝熊山の中腹から眺めた、五十鈴川下流域の地形 ~ 左端中央の「鹿海」(かのみ)の村落名が示すように、古代には一帯が海湾であった 朝熊山の中腹から眺めた、五十鈴川下流域の地形 ~ 左端中央の「鹿海」(かのみ)の村落名が示すように、古代には一帯が海湾であった](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/ea/21d0b510c03327d127b38990ecdd6cb9.jpg)
前編に続き、伊勢神宮の謎(なぞ)について、文章を続けてみよう。
さて、地名の類似地を述べた処で、一考してみるに、当時倭姫の一行が皇大神宮の鎮座場所を探し求めた際に、多くの書物には結果的に、今の伊勢の宮川下流域の「五十鈴川の河畔(ほとり)」となっているが、その拠り所は「日本書紀」の垂仁天皇の条にある、「大神の教えのままに、その祠(やしろ)を伊勢国に立てたもう。 よりて斎宮(イツキノミヤ)を五十鈴川の上(ほとり)に興(た)つ。 これを磯宮(いそのみや)という。」であろう。
しかし、この時代には、氷河期以後の完新世時代に入ってからの海進で、縄文時代には伊勢湾の海面が数m は上昇しており、明応の大地震(明応7年 ~ 1498年9月20日に発生)で、大津波と土地の隆起によって元は入江だった五十鈴川の流域が陸化し、その流路が今のようになるまでは、二見町の音無山などは離島であり、今の楠部町から中村町あたりまで、広範囲にわたって、鳥羽湾に似た小島の点在する多島海的な湾入を形成していたはずである。
当時の五十鈴川は、現在の五十鈴公園あたりがその河口であり、倭姫には目に映る地形とその地方の信仰(神聖さ)だけが場所選定の拠り処となっていたはずである。
この事は、今の内宮の宇治橋の架かる方向が、冬至の日の「日の出・日の入り」の方向に一致している事からも伺える。
当時の見識を考えれば、場所の選定にあたっては、その土地の地質や地質構造は無視をしてもよい要素だと思う。
こうなると、「磯宮」の呼称はうなづけるが、どの歴史書にも、当時の地形的な要素の間違いが記されていない。 太陽神であるアマテラスの鎮座場所を、大和朝廷が最終的に「日の出(いず)る東方」に求めたのは妥当であるが、その成立の時期となると、伝説や伝承が入り混じり、出来るだけ古昔に遡らせたのではないかと思われてならない。
ちなみに、既述の福知山市(京都府)の大江山と伊勢の内宮を直線で結ぶと、そのほぼ中間に京都市(平安京 ~ 794年に遷都)があり、又、天皇の名代として皇大神宮をあずかる斎王の制度が、継体朝(512年 ~ 537年)のササゲ皇女に始まり、以後永年にわたり御醍醐帝(1320年~1336年)にまで続いた事を考慮すれば、その当時は、伊勢湾の南岸が海進によって、今よりも南方の明和町一帯の櫛田川流域の低地にまで進入し、その付近は遠浅の海域や干潟となり、さらに櫛田川の分流による中州や湿地帯等になっていたはずである。
しかるに、今の祓川の辺りが櫛田川の本流だったと思われてならない。
そう考えると、元伊勢神宮(皇大神宮の前身)とされる「磯宮」は、当時の櫛田川の河口付近にあたる今の斎宮(さいくう)の地にあったのではないかと思う次第だ。
詳しくは調べていないが、「斎王宮」の跡地も、内宮-京都(平安京)-大江山(福知山市)を結ぶライン上にあたるのではなかろうか … 。