伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

「 伊勢神宮 」 の謎(なぞ)を考える ・ 後編

2019年02月22日 | 伊勢

朝熊山の中腹から眺めた、五十鈴川下流域の地形 ~ 左端中央の「鹿海」(かのみ)の村落名が示すように、古代には一帯が海湾であった

 前編に続き、伊勢神宮の謎(なぞ)について、文章を続けてみよう。

 さて、地名の類似地を述べた処で、一考してみるに、当時倭姫の一行が皇大神宮の鎮座場所を探し求めた際に、多くの書物には結果的に、今の伊勢の宮川下流域の「五十鈴川の河畔(ほとり)」となっているが、その拠り所は「日本書紀」の垂仁天皇の条にある、「大神の教えのままに、その祠(やしろ)を伊勢国に立てたもう。 よりて斎宮(イツキノミヤ)を五十鈴川の上(ほとり)に興(た)つ。 これを磯宮(いそのみや)という。」であろう。

 しかし、この時代には、氷河期以後の完新世時代に入ってからの海進で、縄文時代には伊勢湾の海面が数m は上昇しており、明応の大地震(明応7年 ~ 1498年9月20日に発生)で、大津波と土地の隆起によって元は入江だった五十鈴川の流域が陸化し、その流路が今のようになるまでは、二見町の音無山などは離島であり、今の楠部町から中村町あたりまで、広範囲にわたって、鳥羽湾に似た小島の点在する多島海的な湾入を形成していたはずである。


内宮の宇治橋から眺めた、下流方向の五十鈴川


 当時の五十鈴川は、現在の五十鈴公園あたりがその河口であり、倭姫には目に映る地形とその地方の信仰(神聖さ)だけが場所選定の拠り処となっていたはずである。
 この事は、今の内宮の宇治橋の架かる方向が、冬至の日の「日の出・日の入り」の方向に一致している事からも伺える。
 当時の見識を考えれば、場所の選定にあたっては、その土地の地質や地質構造は無視をしてもよい要素だと思う。


 こうなると、「磯宮」の呼称はうなづけるが、どの歴史書にも、当時の地形的な要素の間違いが記されていない。 太陽神であるアマテラスの鎮座場所を、大和朝廷が最終的に「日の出(いず)る東方」に求めたのは妥当であるが、その成立の時期となると、伝説や伝承が入り混じり、出来るだけ古昔に遡らせたのではないかと思われてならない。


近畿地方の地勢図 ~ 大江山-京都-伊勢の内宮が一直線に並ぶ


 ちなみに、既述の福知山市(京都府)の大江山と伊勢の内宮を直線で結ぶと、そのほぼ中間に京都市(平安京 ~ 794年に遷都)があり、又、天皇の名代として皇大神宮をあずかる斎王の制度が、継体朝(512年 ~ 537年)のササゲ皇女に始まり、以後永年にわたり御醍醐帝(1320年~1336年)にまで続いた事を考慮すれば、その当時は、伊勢湾の南岸が海進によって、今よりも南方の明和町一帯の櫛田川流域の低地にまで進入し、その付近は遠浅の海域や干潟となり、さらに櫛田川の分流による中州や湿地帯等になっていたはずである。
 しかるに、今の祓川の辺りが櫛田川の本流だったと思われてならない。


「斎宮」(斎王宮跡)付近の現在の地図 ~ すぐそば(西側)に祓川が流れている


 そう考えると、元伊勢神宮(皇大神宮の前身)とされる「磯宮」は、当時の櫛田川の河口付近にあたる今の斎宮(さいくう)の地にあったのではないかと思う次第だ。
 詳しくは調べていないが、「斎王宮」の跡地も、内宮-京都(平安京)-大江山(福知山市)を結ぶライン上にあたるのではなかろうか … 。


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「 伊勢神宮 」 の謎(なぞ)を考える ・ 前編

2019年02月22日 | 伊勢

参拝客で賑わう、内宮の宇治橋

 伊勢に生まれ住んで数十年が経った。 しかし、伊勢神宮(内宮・外宮)の事となると、この町に伊勢神宮があって当たり前だという感覚で、物心のついた時分から育って来ているので、その起源(成立時期)や立地選定の謎などについて、これまで深く考えてみた事はなかった。


五十鈴川に架かる、内宮入り口の宇治橋


火除橋のある外宮の入り口


 しかし、よく考えてみると、いつ頃からなぜこの地に二つの大神宮がセットであり、「天照皇大神」(アマテラスオオミカミ)を祀る皇大神宮の内宮(ないくう)と、「豊受大神」(トヨウケノオオカミ)を祀る外宮(げくう)が程近い場所(直線距離で北西に約4km)に鎮座し、伊勢市内には倭姫宮(皇大神宮別宮)を初め、月讀宮(皇大神宮別宮)や月夜見宮(豊受大神宮別宮)のほか、猿田彦神社、二見興玉神社等の立派な神社があるのだろう … 。
 さらに近隣地域も見回すと、伊勢神宮に密接した摂社・末社や、伊雑宮(志摩市磯部町)や滝原宮(度会郡大紀町)など、格式の高い大きな別宮(大神の遥拝所)がある事も、不思議でならない。


上空から眺めた内宮の本殿


 既得の知識と言えば、両神宮共に20年に一度の御遷宮があり、事前に内宮の宇治橋の架け替えや、御用材等を運ぶ「御木曳き」と「白石持ち」(地元伊勢では、「白石曳き」とも言う)が、かつては神領民であった伊勢市民らが総出でとり行われて来た事と、唯一神明造りの本殿の千木や鰹木の形と数が内宮と外宮では違う事、そして金釘を全く使わずに造築が成されている事ぐらいである。


上空から眺めた五十鈴川と宇治橋


 さらに、内宮は皇室(天皇家)に縁のある皇祖神でもあり、外宮はそのミツケガミ(食物の神 ・稲の女神)とされ、後年に丹波の国から、山頂に三重県下で最大の古墳がある高倉山(海抜116m)の北麓に移された事。 そして、古(いにしえ)には、天皇の名代であった斎王の館「斎王宮」が、内宮から西北西約20km程の所にあって、大神宮への古道の途中に離宮院(伊勢市小俣町にある斎王群行の休息地 ~ 現在は跡地が「離宮院公園」となっている)のあった事、… ぐらいであろうか。


内宮の東方に聳える朝熊ヶ岳(朝熊山・海抜555m)


 又、後からのこじつけであろうが、内宮の東方に聳える朝熊ヶ岳(朝熊山・海抜555m)の山上(内宮からの直線距離約5km)には、空海によって開かれた「金剛證寺」があり、皇大神宮の鬼門を守る寺院とされている。


 さて、この二つの大神宮(内宮・外宮)の起源については、いろんな文献や書物に詳しく記述が成されているが、「日本書紀」によると、元々大和の宮中に祀られていた皇祖アマテラスのご神体を、十代の崇神(すじん)帝の時、神威を畏れ、宮廷外の笠縫邑(かさぬいのむら)に遷され、さらに次代の垂仁天皇の折に、アマテラスの鎮座地をその皇女「倭姫」(やまとひめ)に探らせ、鎮座の地を求め大和の宇陀、近江、美濃をはじめ各地を巡り歩いた結果、伊勢に至り、五十鈴川のほとりに斎宮(いつきのみや)を建て、磯宮(いそみや)と名づけたとあり、これが伊勢神宮の起源だという。

 神宮文庫の「神宮年表」には、それは垂仁天皇27年(BC 3年)で、「皇大神宮(内宮) 伊勢の地に鎮座」とあり、日本の歴史書によれば、弥生時代後の倭国が小国家に分立していた時代である。
 そして、大和時代の雄略天皇23年(479年)に、「豊受大神宮(外宮)鎮座」とある。


 そう言えば、倭姫の巡行地と称する場所が、畿内から東海にかけての各地にかなりたくさんあり、伊勢市に隣接する度会町川上の「乙女岩」(露岩)もその一つで、伝説では倭姫の腰掛けた巌(いわ)とされているし、当地の谷間には倭姫縁(ゆかり)の湧水(川上の名水)や休息地(和井野の神社)があって、伝説や伝承は後を絶たない。


伊勢市を流れる宮川と度会橋の眺望


 さらに、伊勢神宮の周辺や近隣には、五十鈴川、宮川のほかに、祓川(はらいがわ・多気郡明和町)や西五十鈴川(伊勢市矢持町菖蒲)、日向(ひなた・度会町)、火打石(ひうちいし・度会町)、天の岩戸(「外宮」背後の高倉山山頂の古墳、及び志摩市磯部町の鍾乳洞「滝祭窟」)、天の岩屋(二見町立石崎・二見興玉神社の境内)、清渚(きよきなぎさ・二見町)などと言った特殊な地名があり、又、伊勢市内には御園(みその)や神園(かみその)、豊川(とよかわ)、二俣(ふたまた)、宮前(みやまえ・小俣町)、宮町(みやまち)、宮後(みやじり)、神社(かみやしろ)、お祓町(おはらいまち)など、大神宮に縁のある地名が幾つかある。


宮崎県日向市の地図 ~ 中央の上端・下端に、それぞれ五十鈴川と伊勢ヶ浜の地名が見られる


 類似した地名群は九州の宮崎県にもあり、又、「元伊勢神宮」と称する場所等も全国各地にあるようだが、この内、特に京都府福知山市の大江山付近の場所は、内宮の立地選定の謎に迫る程、注目に値する。




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