伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

志摩地方の隆起海食台の土地利用

2010年06月30日 | 志摩

丘陵地上面の貫通道路と畑(越賀)

 

マリン・ブルーとグリーン・ヒル

 英虞湾を中心とする志摩地方は、リアス式海岸を成す複雑な汀線が陸地を囲み、隆起海食台より成る丘陵地が海抜30~60mの高度でなだらかに広がっています。その為、鋸歯状に入り組んだマリン・ブルーとグリーン・ヒルとが織り成す当地一円の風景は、四季を通じてこの上ない魅力的な観光資源となっています。

 

「かちごえじま」が賢島に、そして志摩の観光拠点へと

 今は近鉄電車の終点となり、離れ島の気が全くしなくなったが、 志摩・奥志摩への観光の中心地でもある賢島は、かつては周囲7.5km程の英虞湾最大の離島であった。昭和4年に志摩電鉄が開通するまでは、「徒越島」(かちごえじま)呼ばれる雑木の茂る赤茶けた単なる離島にすぎず、島と言っても対岸とは20m程しか離れていなく、それ以前は、神明から狭い水道に粗末な橋が一つ架かっているだけであった。当地の地図を開いてみると、賢島は、阿児町国府から大王町を経て、先志摩半島先端の御座まで辿ると、半径約6kmの円弧の中心に位置する事が解る。そして、ほぼ1.5km~3kmの間隔で、この円弧に沿って主な村落が点在しているのが読み取れる。

 

丘陵地の上面を貫くように建設された幹線道路

 これらの村落に通じる幹線道路や、村落間を繋ぐ村道などを見ると、丘陵地や岬のほぼ中央を貫通するように建設されていて、志摩地方独特の地形をうまく活用し、農・漁業中心の田舎暮らしの生活と密着した、無駄のない効率の良い土地利用が成されて来ているのに気づく。現在は、都市文化の浸透や観光開発などが進み、大きく変貌しつつあるが、それでも随所に原形をとどめている風景を眺める事が出来る。

 

丘陵地の高台は段々畑として利用

 先ず、丘陵地には河川が殆ど無い事に気づくが、高台となっている広々とした丘陵地の上面は、水の便が悪いので水稲耕作が出来ず、畑地(段々畑)となっている。畑地としての利用は、上面ゆえに開墾が容易くて、平坦地が広くとれたことも掲げられる。

 

軟弱地盤を補強する丘陵地斜面の山林

 次に畑地を取り囲む谷地や海食崖上方の急斜面は、地盤が軟弱で、侵食によって崩れやすい場所柄ゆえ、侵食防護や地盤強化の必要性もあって、主に山林(ウバメガシやヤブツバキ、アカマツなどが多い)となっている。

 

小谷の低地に見られる水田の分布

 そして、小谷の低地や湾奥の低地は、水の集まりやすい位置であり、湧水もあって引水しやすい場所としての条件をクリアしている事から、主に水田(棚田)として利用されている。これら事は、志摩地方の田畑、並びに山林の分布図を描いてみると一目瞭然である。

 

考え抜かれた志摩地方独特の土地利用~特に幹線道路の設置条件について~

 さて、最初に紹介した賢島の観光拠点としての土地利用の絶妙さを再認識しながら、続いて記した主要道路の設置場所の諸条件についてまとめてみると、次の事があげられる。

  1. 海水の被害を受けにくい上、地盤の一番安定した建設のしやすい場所である。
  2. 見晴らしがよく、観光道路としての条件も備えている。
  3. 内湾、外洋、いずれの海岸へ物資を運ぶのにも便利な位置である。
  4. 広々とした畑地への交通が極めて便利であり、所要時間が短縮されるうえ、枝道がつけやすい利点がある。
  5. 直線ゆえ、辿る距離が短くて済み、建設費の点からも経済的である。

 

地方色に富んだ志摩地方探訪の旅を…

 ところで、みなさんは、以上の事にお気づきでしたでしょうか。英虞湾周辺の志摩地方の風景、風物に接しながらこの地方を観光する時、自然の姿のみならず、地理や歴史、民族などにも触れられると、一層楽しさも増し、旅情豊かな志摩の旅が出来るとのではないかと思う次第です。

 

谷地を利用した水田(甲賀口付近)

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二見町の話 ~ 名所・風物回想記 ~

2010年06月23日 | 伊勢の自然と風物

二見ヶ浦・神前岬・海食洞門

 

お伊勢参りの名所・名勝地

 二見ヶ浦と言えば、古来、お伊勢参りの名所・名勝地であり、夏至の頃大小二つの海中岩(立石。一般には夫婦岩と呼んでいる)の間から昇る日の出の遥拝と、海水浴発祥地の一つとして名高い。
 早くから、鳥羽に至る参宮線、並びに神都線(伊勢の市電。後の三重交通電車)が通じており、五十鈴川や勢田川の水路を利用した船参宮や物資輸送とともに、交通至便な臨海地として発展を遂げてきた。
 町並みは、興玉神社の門前町の形態を保ちながら、かつての伊勢の町(宇治山田市)とともに観光街として発達し、今のJ.Rの二見駅前から海岸近くまでは、真っすぐな繁華街が続き、右に折れて道路の海側には旅館が連なり、立石崎に続くその道路の真向かい側には土産物屋がひしめき合っていた。今で言う、正に伊勢湾南岸の一大観光リゾート地であった。

二見へのちんちん電車

 戦後から昭和30年代にかけては、伊勢市内の小学生達は、夏が来ると学校行事として「ちんちん電車」に詰め込まれ、田んぼのど真ん中を二見へと単コロ電車が走って、海水浴や林間学校を楽しんだものである。
 広々としたきめ細かな砂地の海浜と防風林の松林・・・。そして、一日が瞬く間に過ぎ、夕陽を西に、五十鈴川に架かる汐合(しわい)の鉄橋を市電が渡ると、伊勢の町に近づき、ちょっとした旅行気分を満喫したものである。
 戦前には、一時期、音無山に昇るのにあったと言う、ロープ・ウェイの話も懐かしい・・・。
 幼少の頃の二見ヶ浦の記憶を辿る時、伊勢からのアクセス道路(国道、他)も一段と整備が進み、ずいぶん速くて楽にはなったが、かえって殺風景になってしまった。町が近代都市へと変貌を遂げてゆく中で、二見町界隈を見ると、かき消されていった風景や風物ははかり知れない。

二見町の見どころ

 しかし、一般にはあまり知られていないが、この二見町には、昔ながらの聖地や名所、名物が幾つかある。まず、立石崎の上方、音無山への山道が最近遊歩道に整備され、かつて荒れ果てていた山上広場が展望台公園となり、伊勢湾が一望できる名所として復活した。この山の東麓には、藤の花で著名な由緒ある札所の太江寺があり、今はペット供養を兼ねたお寺となっているが、散策者が絶えることはない。
 次に名所となる場所は、江海岸のさらに東の突端、神前岬(こうざき)にある「潜り島」である。江の橋の東方約600mから先の海岸は、古名を千尋の浜(ちひろのはま)と言い、神前岬まで約800mにわたり千枚岩や結晶片岩が露出し、荒磯(岩石海岸)となって真っ直ぐに続いている。ここには、当地では比較的大きな海食洞門(潜り島)があって、注連縄が張られ、アレサキ姫が祭られ神聖視されている。さほど遠くない東西二つの岬に、それぞれシンボル的な微地形があるからには、昔は「潜り島」の洞門は、おそらく立石とともに「男性神・女性神のセット」として崇拝されていたに違いない。ただし、潜り島へは、大潮の引き潮時でないと辿り着けないので、要注意である。

立石(夫婦岩)以外にも、数々の謂れ石が ・・・

 当地は、立石(夫婦岩)で全国的に著名な二見町らしく、幾つか石にまつわる名所がある。昔の名所図会などにも出ている謂れ石に、硯岩(すずりいし・硯石とも書く。三津の裏山)、退石(すさりいし、但し今は不詳。三津の裏山)、天狗石(天狗の力石。三津の裏の田んぼの中)、並びに猿田彦石と猿田姫石(江の町内の旧道沿い)がある。この他、溝口の南はずれの五十鈴川右岸に、破石(われいし)という岩があり、中央が上下に裂け、ぽつんと川岸に取り残されたように突き出している。

昔の二見を知る人は、今 ・・・

 かつて、度会郡であった二見町が伊勢市に吸収された今、昔を懐古し、往時を物語る人も数少なくなってしまった。

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志摩で見つけた「高師小僧」

2010年06月19日 | 志摩

鵜方層の露頭(志摩自動車学校付近)

 

地学的見地から志摩を見る

 伊勢志摩国立公園は、複雑で美しい海岸風景が観光資源である。そして、真珠のふるさとであり、海女の獲る海の幸の数々は、四季を通して食感をそそり、旅情に彩りを添えてくれる。

珍しい石や岩が各地に点在

 この変化に富んだリアス式海岸線を持つ隆起海食台の丘陵地形や離島、緑の山並みが織り成す情景豊かな伊勢志摩国立公園を歩き回ると、観光名所や名産物の影に、他所では見られない程、色々な珍しい石(岩石・鉱物・化石、遺物など)に出会います。

「石」なるものとは ・・・

 ひと口に「石」と言っても原始人の使っていた石器の類から、石材や地下資源として掘り出される各種の鉱石、そしてクリスタル(結晶)や宝石類、又、地球や大地の歴史を知るのに役立つ動・植物の化石、鑑賞石としての色々な水石、そのほか、信仰の対象となっている各地の謂れ石や名物岩など、実にさまざまである。

高師小僧(たかしこぞう)

 筆者は、今は鵜方(阿児町)の住宅街となっている裏城団地の造成が始まった頃、当地の粘土層の中から無数の「高師小僧」(たかしこぞう)を見つけ、夢中でいろんな面白い形のそれをたくさん採集した事がある。現在も、志摩自動車学校付近の粘土層をはじめ、志摩地方各地の同様の地層の中からいくらでも採れる。

れっきとした鉱物の名前

 さて、「高師小僧」と言うと、何だかお寺の小僧さんのあだ名みたいであるが、れっきとした鉱物である。地方によっては、「鬼わらび」だとか「狐の小枕」など、さまざまな呼び名がついているが、時代の若い未固結の地層の中から出てくる、ミニサイズの土人形を思わせる黄土色のその形を見れば、小僧と言う名前が妙を得ていて、頷けなくもない。しかし、石化した化石ではなく、地層中において化学的に生成するコンクリーション(単層の中の不定形の固結塊で、結核とも言う。球形のものはノジュールと呼び、区別される)の一種である。

由来は豊橋市の高師ヶ原から

 「高師」と言うのは、仏教用語ではなく、明治期にその原産地であった愛知県豊橋市郊外の「高師ヶ原」(現在の曙町、西幸町一帯)の地名に由来するものである。

鵜方層から産出

高師小僧の露出する粘土層の上面  これが、英虞湾を取り巻く志摩地方の海成段丘堆積層の粘土層の中から、無尽蔵と言ってよいぐらいたくさん産出する。現在も、志摩自動車学校付近の道路沿いの地層のカッティングやその上面で、誰でも簡単に採集できる。高師小僧を含む当地の地層は、更新世時代のもので、鵜方層と言う。

正体は植物の根や茎を取り巻いた鉄分

無数に散らばる高師小僧  高師小僧の多くは、大昔の池沼や低湿地などに生えていた植物の根や茎の周囲に、地下水に含まれていた鉄分が水酸化鉄(褐鉄鉱や針鉄鉱)となって、粘土とともに沈着したものである。典型的なものの断面を見ると、中心にストロー状の孔があり、その周りを年輪状に幾層もの外皮が取り巻いている。いわゆる成長皮殻である。

現在も進行形で生成

 志摩自動車学校から裏城団地バス停にかけての地層では、その上に現生するウバメガシなどの植物根に付着しているものがあって、比較的地表に近い上層部に集中しており、現在も生成が進行中の「即成」高師小僧と考えられる。

志摩では採集し放題

 豊橋市では、天然記念物になっているが、当地では高師小僧は採集しほうだいである。オーソドックスな管状や樹枝状のものを手始めに、小球状のもの、鍔付きのもの、茸やわらび、瓢箪、魚、ヒトデ、鳥、獣などの形の他、さらにマドロスパイプやバーベル、亜鈴、リングになったものなど、いろんな姿格好のものを集めてみると楽しい。但し、人形の姿をした「小僧タイプ」ものはなかなか見つからない。

昔は、漢方の石薬であった

 この高師小僧は、古名を「土殷けつ」(どいんけつ)と言い、全国各地に産し、江戸時代既に一部の漢方学者らには「石薬」として知られ、処方に用いられていた。当時の石類学者の木内石亭の著書「雲根誌」にも「志摩国神明浦(しめのうら)に産する」とあり、当地一帯が昔からの著名な産地であった事が伺える。

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鳥羽のお話

2010年06月12日 | 伊勢志摩の歴史・民俗など

国際観光都市鳥羽の海景

観光と交通の拠点、鳥羽

 志摩半島北海岸の国際観光都市「鳥羽」は、島嶼(とうしょ:島々の事)に囲まれた、波静かな天然の良港を持つ港町として起こったが、現在は言うまでもなく、伊勢志摩国立公園の中枢的観光都市となっている。かつての国鉄参宮線(現在はJR東海のローカル線)の鳥羽駅には、近鉄電車が発着し、志摩線と直結しており、京・阪神地方や名古屋方面からの直行特急が、鳥羽を経て賢島まで行き来するほど交通至便な場所となった。

 

天下随一の景色

 市内には、巨大化し近代化した立派な鳥羽水族館があり、養殖真珠開発の拠点でもあった御木本パール・アイランド(相島)へは、専用の跨水橋が架かっているが、二条の島列(答志島列と菅島列)の織り成す海景は、昔も今も天下随一である。

 

古城の面影

 鳥羽は又、九鬼氏の居城跡としても有名で、志摩水軍の大将である九鬼嘉隆が、付近の豪族を平定し、鳥羽城を築いたのは、今から約400年も昔のことである。城跡は石垣だけが残存し、かすかに昔時の面影をとどめてはいるが、城址公園としての整備はようやく始まったばかりである。

 

鳥羽は泊場(とまりば)から

 鳥羽という地名の起こりは、古名にある「泊浦」(とまりうら)が語源と考えられている。古来、付近を通る帆船は、伊勢湾口にあるこの東海随一の良港、海路の至便な停泊地に入って風待ちをする慣わしがあった。古謡にも、 

  「 伊豆の下田を朝山巻けば、晩には志州領鳥羽の浦 」

と、謡われているように、帆船の泊場(とまりば)としてあまりにも有名な港であった。つまり鳥羽という地名は、「とまりば」が「とまば」や「とりば」と短縮され、最終的に「とば」とまで簡素化された結果と言えなくもない。漢字で「鳥羽」と書くのは、皇族など格式の高い著名人にあやかったものなのか、「とりば」の発音に合わせた単なる当て字なのかは、定かではない。

 

はしりがね

 昔時、志州きっての港町としてさかえた鳥羽は、的矢湾に浮かぶ渡鹿野島とともに、船乗り相手の遊女の町としても、その名が知れわたっていた。かつて、この地方の遊女のことを俗に「はしりがね」と称したが、この奇妙な名前の由来を探ってみるのも一興である。 

  「 名物は鳥羽の港に日和山、宿かりもする走りがねあり 」

だとか、 

  「 鳥羽はよいとこ朝日をうけて、七つ下がればお女郎が出る 」

という古謡は、あまりにも有名である。

 

  江戸時代の版画に見る鳥羽港(安藤広重 筆画)

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志摩の海岸で見つけた珍しい石を二つ紹介します

2010年06月04日 | 志摩

田曽白浜から南張海岸を臨む

 

その1.南伊勢町田曽白浜~志摩市浜島町・南張海岸の漂着軽石

 

弧状に伸びる綺麗な汀のライン

 南志摩、浜島町の西方には、田曽浦(南伊勢町)へと続くリアス式海岸の岬角(こうかく)間に、断続的に小磯や砂浜が連なっている。特に、田曽浦の東方には弧状に伸びる汀線の綺麗な大きな砂浜が、小さな岬を挟んで2つ続いているが、西方のビーチが「田曽白浜」、その東が当地最大規模(全長約600m)の南張海岸である。両海岸とも夏季にはキャンパーやサーファー、海水浴客らで賑わう。

 

浜に漂着、火山の小石

 この内、田曽白浜の一部には、礫浜海岸特有の微地形であるビーチカスプが形成されている。又、当地も含め付近一帯の砂浜海岸には、ここ数年来、大小の軽石が漂着し話題となっている。現在では多くが砂に埋没してしまったが、流木や漁具、生活廃品等、様々な漂着物の密集した場所(ゴミ溜まり)を探せば、こぶし大以下の小塊を採集することができる。

 

黒潮に乗って

 この軽石の由来は定かではないが、最近噴火した火山と言えば、富士火山帯の三宅島が最有力と考えられる。黒潮に乗って、はるか彼方から流れ着いた可能性が高い。

 

夕焼けの熊野灘

 なお、晴れていれば、広々とした熊野灘の素晴らしい夕焼けの海が眺められる。

 

その2.志摩市大王町・名田の大野浜海岸の断層の入った小礫

的矢層群という中生代の地層に由来

 大王岬の北方にある小さな小礫の浜の一つに、名田の大野浜がある。ここは在所の北はずれにあり、舗装道路のすぐ前で、最近護岸の強化工事等が成され、行きやすくなった。波切の周辺には、似たような小規模の小礫の浜が幾つかあり、浜を見下ろす小高い岬には的矢層群という中生代の地層が露出し、志摩地方のリアス式海岸の海食崖や海食台、離れ岩(岩礁・暗礁)等を形成している。この地層を構成する泥岩(頁岩)や砂岩、チャート等が海食の結果漂礫(ひょうれき)となり、寄せては返す磯波によって程よく淘汰され、きれいに磨かれて大小の浜砂利となって、ビーチカスプを形成して堆積している。

 

断層入りの小石は、名田の大野浜に集中

 特に大野浜では、この浜砂利の中の小礫に縞目のきれいな小石があり、それらの中には層内断層(そうないだんそう)を伴うものがかなりの頻度で混在している。目が慣れてくるに従い、探せばいくらでも見つかるので採集するとよい。なぜ、このような珍しい小礫が大野浜に集中しているのかは、定かではない。

 案外、『地震の御守り』になるかも ・・・・・ 。

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