伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

伊勢の国・「丹生」の地名を考える

2010年09月27日 | 三重県の地誌・歴史など

丹生の大師堂

 

伊勢の国の「丹生」は、「丹砂」の大産地

 伊勢志摩に程近い松阪市の南方、多気郡多気町(旧勢和村)に、「丹生」(にう、にゅう)という、街道風の古道が通るかなりの戸数の古風な農村がある。ここは蛇行する櫛田川中流の右岸に興った、奈良朝時代から続く昔ながらの歴史的由緒ある村落である。在所の要には、一対の仁王堂のある立派な山門と本堂に登る回廊を備えた「丹生神宮寺」(丹生の大師堂)、並びに「ニウズヒメ」を祭る「丹生神社」が隣り合わせにあって、正面に伸びる古街道はさながら門前町のようでもあり、宿駅のようでもある。当地は、その名の通り、日本において古来「丹」が「生産」され、昭和の終わり頃まで永きにわたって鉱石の採掘が断続的に続けられて来た、古い鉱山町の名残の地なのである。「丹」とは、ここでは「丹砂」、すなわち硫化水銀(鉱物名は「辰砂」。「朱砂」とも言った)の事であり、村内各所の地山(じやま)はもとより、田畑の際や川岸など、数百はあると言う「狸掘り」(たぬきぼり)の旧坑跡が至る所に点在する。この内、主なものは、県の史跡に指定され(史跡・水銀山。保賀口坑や池ノ谷坑等)、又、戦前、旧坑の一部を再開発した日の谷坑跡は、自家精錬施設の「レトルト炉」の残骸とともに、町の行政により鉱山遺跡として整備され、保存が成されている。

 

いにしえ最大級の鉱山村落、並びに「丹生鉱山」の事など

昭和50年前後、稼行していた当時の丹生鉱山  かつて当地は、「丹生千軒」という言い伝えが残っているように、奈良朝時代からわが国最大級の鉱山村落として栄え、 東大寺の大仏鋳造の際の金メッキには、当地の「伊勢水銀」が溶剤としてふんだんに使用された。他では「大和の水銀」も使用されたであろうが、量的には問題にならなかったようだ。

丹生の村内の採石場に出現した「狸掘り」の旧坑跡  昔の素掘りの丹生鉱山は、膨縮し断続的に地下に続く鉱脈の露頭の富鉱部を、犬下がりに掘って追跡していったようで、今も地下深くには脈幅1mを超える最大規模の超富鉱脈が眠っている。昭和52年頃、数年間続いた野村鉱業再開発の「丹生鉱山」(旧・保賀口坑の地下を探鉱し採掘)が閉山となる間際に、地下150 m程降りた一番下の切羽まで見学に入れて頂いた事がある。所長さんが直々に案内して下さったが、出鉱品位を一定に保つ必要上、富鉱部と貧鉱部を同時に採掘し、最大規模の超富鉱脈は最後まで温存していたのだという話だった。坑道先端の壁も天井もレンガ色の辰砂の富鉱脈であり、良質の粒塊が、塗りつぶされたように一面にキャップ・ライトにキラキラ輝いていたのを記憶している。正に、そこはお宝の殿堂であった。

 

「丹生」と言う地名について

丹生鉱山・旧坑「日の谷坑」の前に残存する「レトルト」の残骸  ところで、この「丹生」の地名を三重県下で探してみと、多気町(旧、勢和村丹生)の当地以外に、近隣には丹生寺(にうでら。松阪市)や丹生俣(にうのまた。津市美杉町)があり、他に北勢に丹生川(にうがわ。いなべ市大安町)がある。南の尾鷲市須賀利町にも「丹生」と書く字名(あざめい)が見られる。伊勢志摩ではと言うと、合歓の郷(志摩市浜島町)の郷内に「丹生池」なる小さな池がある。各地の字名や津々浦々の通俗名まで詳細に調べれば、まだまだたくさんあるであろうし、「にう」や「にゅう」とは読まず、「にぶ」とか「にじょう」、「にしょう」、「にき」等と呼ぶ場所があるかも知れない。これは、「神戸」と書いて大都市の「こうべ」以外に、「かんべ」と読んだり、「かんど」と言ったりするケースと同じ事が言える。

 これらの中には、歴史上、「丹砂」(朱砂)に繋がる地名もかなりあるであろうが、全てが水銀鉱物の産地に由来するものであるとは考えられず、「青丹」(あおに)の鉛丹や、「紅殻」(べにがら、べんがら)の赤色(赤鉄鉱の粉末)などと混同し、それらの生産等と関わって生じたものもあるのかも知れない。

丹生鉱山跡への案内板

 

「丹生神社」及び「丹生」の地名と、水銀鉱床の分布

 さらに、「丹生」を冠した名称は、神社名や人の苗字にも認められる。特に三重県から奈良県にかけての神社に数多く見られ、「ニウズヒメ」をご本尊とする「丹生神社」や、「ミズバメ」を祭神とする「丹生川上神社」(にうかわかみじんじゃ)などは、あまねく知られている。このような神社は全国各地に散らばり、鉱山の守護神を祀る「大山祇神社」(おおやましじんじゃ)とともに、空海ゆかりの高野山の周辺をはじめ、中央構造線沿いの修験者の山駆けルートや弘法伝説の地に関わっても存在する。特に西南日本の中央構造線沿いは、水銀鉱床の密集地(鉱床帯)であり、九州から四国を経て紀伊半島を横切り、愛知県にまで、かつての水銀鉱山の跡が広範囲に点在していて、県外では「丹生」の地名の分布とは著しい合致を見る。奈良の大仏建立の前、秩父の国に初めて「和銅」(自然銅)が発見されてから後、空海をはじめとする高僧や雲水、帰化人を交えた修験者たちは、当時の鉱山師(やまし)であったに違いない。昔は、伊勢の丹生からも「自然水銀」が多少は産したようだ。

 

「丹生」の研究、その他

丹生鉱山産 辰砂  後になってしまったが、本稿で取り上げた伊勢の国の「丹生」については、地質学や鉱床学ばかりでなく、古代史中心の史学や考古学、人文地理学、郷土科学等、幅広い分野にわたって、数多くの詳しい研究がなされ、膨大な資料や文献が山積し、郷土史・誌をはじめとする色んな書物にまとめられ、紹介されている。

 また、当地「丹生」の水銀鉱山に関係する数々の古文書や、往時の道具、遺物、鉱石などは、同町古江にある「ふるさと資料館」に展示され、一般に公開されている。ついでに記すと、室町時代の歌僧、東福寺の正徹(1380~1458年)の歌集「草根集」には、伊勢水銀の採取のために山林の荒廃していく様子が、次のように詠まれている。

根を絶えて 切らぬ立木もあれぬべし 水の金掘る丹生の杣山

 以下に、「丹生」に関連する名著や主な文献を記しておく。

 

【名 著】

丹  生-近鉄沿線風物誌 歴史3-
昭和34年、近畿日本鉄道宣伝課 発行
丹生の研究-歴史地理学から見た日本の水銀- 松田壽男 著
昭和45年 早稲田大学出版部 発行
古代の朱 松田壽男 著
昭和50年、株式会社 學生社 発行
わたしたちのふるさと   勢 和
平成7年、三重県多気郡勢和村 発行

 

【文 献】

大西源一 大正七年・1918年
「日本産水銀(特に伊勢水銀)の史的研究」(1)~(3)
  考古学雑誌・第8巻10~12号
堀 純郎 昭和28年・1953年
「本邦の水銀鉱床」   地質調査所報告・第154号
岸本文男 昭和50年・1975年
「伊勢の国 丹生の水銀(みずがね)」 地質ニュース・第251号
高田雅介 2003年
「三重県丹生の" 辰砂 "紀行」   ペグマタイト・第62号

画像上から

  1. 丹生の大師堂
  2. 昭和50年前後、稼行していた当時の丹生鉱山
  3. 丹生の村内の採石場に出現した「狸掘り」の旧坑跡
  4. 丹生鉱山・旧坑「日の谷坑」の前に残存する「レトルト炉」の残骸
  5. 丹生鉱山「日の谷坑」跡への案内板
  6. 丹生鉱山産 辰砂(標本のサイズ:左右約6㎝。丹生鉱山の坑内にて採集)
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お伊勢さんの名物食品

2010年09月23日 | 伊勢

朝熊山・金剛証寺 門前「野間萬金丹本舗」

 

伊勢参宮のお土産

 伊勢の街も、最近は昔からの繁華街が斜陽化し、名物店も数少なくなった。しかし、食物屋(たべものや)だけはいつの時代にも無くならない。昔ながらの伝統的な「味」を受け継ぐかどうかは別として、老舗が店をたためば、新店舗がオープンする。

近鉄宇治山田駅構内のショー・ケース  伊勢参宮のお土産のナンバー・ワンはと言うと、昔も今もお餅であり、江戸時代から続く赤福餅(宇治)の知名度はダントツである。他にも御福餅(二見)や大福餅、神代餅、太閤出世餅、二軒茶屋餅、へんば餅(明野)、くうや餅(二見)など幾らでもあげられる。この内、「赤福」と「御福」は見てくれも味もよく似ている。両者の知名度以外の違いは、それぞれの創業地(本店の場所)と暖簾(銘柄)だけであろう。あとは、近年における資本力とか、生産・販売システムや流通販路の差であろうか・・・。

 お餅に続くのは、昔なら「生姜糖」に春慶塗の各製品(伊勢春慶)、今はと言うと、高味なものなら「参宮あわび」(関谷食品)であり、庶民的なものなら「伊勢うどん」の真空パックかも・・・。他にも、「真珠漬」や「沢庵漬」、「利休饅頭」や「糸印煎餅」、「伊勢音頭煎餅」、「真珠煎餅」、「神宮スギ」、「神宮白石クッキー」、「はちみつぱんじゅう」(宇治山田駅前・明倫商店街入口の「松やぱんじゅう」、他)などがあげられるが、新興食品も含めていろんな土産ものがあり、参詣者や観光客の目を楽しませている。「ぱんじゅう」と言えば、今は無くなった伊勢市駅前の「七越ぱんじゅう」のほっかほかの芳味が懐かしい。

 

伊勢の特産品について

 さて、食べ物で、伊勢の特産品となると何だろう。あるのか無いのかちょっと考えてみた。昔、朝熊山の金剛証寺の門前に、万病の妙薬である丸薬「萬金丹」を売る「萬金丹屋」(野間萬金丹本舗)があり、朝熊の名物であった。今はこの店はなくなったが、伊勢市内に別の老舗、「小西萬金丹」(八日市場町)が残っていて営業を続けている。少年の頃、「ラッパのマークのセイロ丸」(腹痛薬)が盛んに売り出され、それに便乗して、この萬金丹の事を、学童らが面白おかしく呪文を唱えるように言い放っていたのを思い出す。「朝熊の丸薬マンキンタン、鼻くそ丸めて萬金丹・・・。」「目クソ耳クソ出ベェソ、鼻くそ丸めてマンキンタン・・・。」

 今振り返ると、誠に失礼な話であるが、「 ・・・・・・・、鼻くそ丸めて萬金丹」と、当時流行ったキャッチ・フレーズや適当なかまい文句を頭に付けて、子供らは要するに、「鼻くそ丸めて萬金丹」を叫びたかった訳である。外で遊ぶ事が常であった時代には、子供ららしい何でもかんでも遊びの材料にしてしまう楽しさがあった。

 話が飛んでしまったが、当地では、「伊勢たくあん」が広く知れ渡っている。伊勢の漬物や干ものは何処に行っても定評だし、昆布をはじめ各種の佃煮なども豊富にあり、みやげ物屋や名店街を見回れば、まだ色々とたくさんあると思う。

 ちなみに、近鉄宇治山田駅構内のショー・ケースに、伊勢の特産品が展示されている。

 

伊勢の名物は、何と言っても「伊勢うどん」

「伊勢の名物、数々あれど、うどんに勝るものはなし」

 こんなキャッチ・フレーズがあったかどうかは知らないが、伊勢の庶民味と言えば、「伊勢うどん」を知らない人はいない。濃厚な醤油をベースに味付けをした独特の濃い口汁(つゆ)のうどんは、うどんそのものも、一段と図太くて歯ごたえがある。特に、真っ黒なトロ味のあるうどん汁は、見た目は良くないが、食べ慣れると、他では味わえない風味が脳裏に記憶される。この各店秘伝の「うどんつゆ」につられて、又、食べたくなる。

 さて、「伊勢うどん」のおいしい店を伊勢市内で探すのは、いとも容易い。今は、グルメ専門のガイド・ブックもあれば、数多く出版されている伊勢志摩の観光ガイド書には必ず載っている。又、当地の職業別電話帳を見れば、「うどん・そば店」の欄にずらりと並んでいる。

 

「伊勢すずめ」の食べた、伊勢うどんのお店

 食べ物の「おいしさ」は、その人の主観であり、舌の持つ微妙な味覚芽(味細胞)のデリケートさによって異なるのは当然のこと。又、風土によっても、天気によっても、気分によっても若干違ってくる。我輩、「いせすずめ」の舌はどうであろうか。残念ながら味に対しては、特別うるさく出来ていない。但し、いい感じの店は幾つか知っている。これも全くの主観であるが、人に薦められる「いいお店」となると、美味しいという「味」以外に、店主や従業員らの人柄や接客態度も含め、その店の雰囲気が大きな要素となってくる。食べに入ったその店の間取りやフロアのスペース、テーブルの高さや椅子の座り心地、窓や照明の適度の明るさ、壁の色や店内のインテリア、それに客質や値段、そしてオーダーからの待ち時間など、チェック項目はかなりになる。

 しかし、「味」だけに絞ると、昔よく行った店は、度会橋近くの「大野木屋」と八日市場の「朝日屋」、新道商店街の「槁本屋」である。今は無くなったり移転した店もあるが、とにかく安くておいしかった。 グルメ諸兄の言われる伊勢の名物店とは、ちょっと違うかも知れないが、かく言う我輩の祖父(昭和52年に91歳で病没)は、戦前に岩渕の箕曲社(みのやしろ)の西隣りで「吾妻屋」(あづまや)という屋号の「うどん屋」をやっており、幼少の頃、何度も自慢のおいしいうどんを食べさせてくれたものだ。この祖父の店の味を知る人は、もう八十歳を超えたごく一部の高齢者の方しかいない。

 

今、「伊勢すずめ」がお薦めできるお店

肝っ玉かあさんの家庭料理「いちし」  上記の「いいお店」とは別に、伊勢に来た人に特別にお薦めできるお店は、まず、横輪町の「郷の恵・風輪」である。ここの横輪芋を下ろしてかけた「とろろ伊勢うどん」は格別で、食べ心地があり、風味も最高である。ぜひ食体験をして頂きたいものだ。次に、肝っ玉かあさんの家庭料理というか、手作りのいい味付けをしたお店に「麺菜レスト いちし」がある。ここの伊勢うどんがおいしいのかどうか、とにかく、伊勢のオリジナル・メニューの御饌丼(みけどん)にも参加しながら、庶民向けの家庭味には気合を入れてこだわってみえる。場所は伊勢の街のど真ん中で、外宮前から続くメイン道路に面し、道路を隔てた厚生小学校の向い側(伊勢市一志町)にあるゆえ、一度入ってみて下さい。

 庶民派のいいお店をもう一つ紹介しよう。近鉄宇治山田駅に隣接する高架下の宇治山田ショッピングセンターの中にある「まんぷく」である。先代が考案したと言うオリジナルメニューの「唐揚げ丼」は、この店が元祖であり、大変好評である。和・洋食を色々と賄う小じんまりしたお店であるが、サラリーマンや学生達には人気度ナンバー・ワンの大衆食堂である。

 最後に、「うどん」ではないが、もう一つだけお薦めできるとっておきのお店に、最近オープンしたばかりの鰻屋がある。

最近オープンしたばかりの「うな嘉」  伊勢市岡本三丁目の「うな嘉」(うなよし)である。伊勢の街には幾つか有名な老舗の鰻屋があり、それぞれ自慢の味を披露しているが、我輩も鰻は好物で結構食い歩いた。新参の「うな嘉」はやや濃口(こくち)の甘ダレであるが、修行と研究を積んだ若主人の腕は確かで、実に芳ばしい。場所が住宅街の中なので少し解りにくいが、御木本道路沿いにある衣料スーパー「ナカミチ」のすぐ裏である。正に「うな嘉、味も良し」である。

 

写真は上から

  • 昔、朝熊山・金剛証寺の門前にあった「野間萬金丹  本舗」の古い絵葉書
  • 近鉄宇治山田駅構内のショー・ケース
  • 芳味豊かな「麺菜レスト いちし」(伊勢市一志町  9-3) Tel 0596-24-0809
  • 開店真新しい「うな嘉」(伊勢市岡本3丁目17-5)
    Tel 0596-28-3358
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知っておきたい三重の歌謡曲

2010年09月19日 | 三重の歌謡曲

戦後歌謡史の概要

 戦後はやった流行歌をみると、海外ポップスの日本語のカヴァー曲に始まり、やがて時代はオリジナル・和製ポップス歌謡の量産へと移る訳だが、戦後のヒット曲を回想すると、「リンゴの歌」(並木路子)や「みかんの花咲く丘」(川田正子)がまず頭に浮かぶ。続いて、「銀座カンカン娘」(高峰秀子)、「青い山脈」(藤山一郎・奈良光枝)、「リンゴ追分」(美空ひばり)、「お富さん」(春日八郎)、「この世の花」(島倉千代子)、「ここに幸あり」(大津美子)、「東京アンナ」(大津美子)、「有楽町で逢いましょう」(フランク永井)等と続く。但し、主流はまだ蓄音機で聴くSP盤と、ラジオから流れる歌番組の放送であった。

やがて和製ポップスの時代へ

「若さで歌おう 第2集」 東芝フォノブック  和製ポップスのヒット曲を見ると、坂本九の「上を向いて歩こう」や、大ヒットとなった橋幸夫・吉永小百合の夢の黄金コンビのデュオ曲「いつでも夢を」がまず思い出される。このような、ある意味では当時の世相を反映した歌をはじめ、そのほか喜怒哀楽を歌った男女の恋物語のヒット曲も幾つかあった。浜村真知子のデビュー曲「バナナボート」のようなアチラもののカヴァー曲も意外とヒットしたし、森山加代子がビートをきかせて歌いまくった「じんじろげ」のような意味不明のヒット曲もあった。厳密に言えば、この頃はまだ、ポップスやニュー・ミュージックと演歌とが、今ほどはっきりと分かれていなかったように思う。

 

昭和30年代から40年代の流行歌事情

「お伊勢詣り」歌:コロムビア・ローズ 昭和30年代には、コロムビア・ローズや美空ひばりなど、第一線の実力派スター歌手が歌えばまずヒットしたし、アイドル歌手らが台頭する昭和40年代後半以降の歌謡曲とは、歌そのものの中身も違えば、歌を介して大衆を魅了する、流行歌ならではの大衆向けの娯楽文化がそこにはあった。30年代の後半頃からレコード盤は、いわゆるドーナッツ盤(EP盤)や33回転のLP盤となり、リーズナブルなEP盤は一気に主流を占め、喫茶店等にはジューク・ボックスさえ置かれていた。そして、少し遅れて、さらに安価な写真雑誌を兼ね備えたソノシートが出回る時代、昭和40年代へと移行して行った。

 

スカウトやオーデションの最盛期

「コーヒーショップで」歌:あべ静江  当時は、歌手と言えば、庶民には映画俳優やスチュワーデスのように、正に雲の上のあこがれの人々であったし、高名な唯一のスター育成の専門学校「宝塚」を出れば、即スターの座は約束されていた。又、オーデションも盛んに行われ、ヤング向けの二大芸能月刊誌であった「明星」、「平凡」が新人スターの発掘をやっていたし、プロダクション間のスカウト合戦も盛んであった。それに加え、新人作詞家や作曲家らの歌謡曲の「売り込み」も効いた時代であった。ちなみに、「明星」、「平凡」に付いてくる付録の「歌本」や「ブロマイド」は、実に魅力的であり、女学生らにもてはやされた。

女優歌手・男優歌手の登場

 引き続いて、一流女優や男優も歌えば当たるという神話が生まれ、吉永小百合の他、山本富士子、浅丘ルリ子、松原智恵子、岩下志麻、星由里子ら、そうそうたる女優らのドーナッツ盤が次々と売り出され、石原裕次郎をはじめ、勝新太郎、小林旭、鶴田浩二、渡哲也、松方弘樹らの有名俳優も、こぞってステージに立ち、映画の主題曲等を歌った。女優の場合は、特定のスター歌手以外は、一過性に終わったが、男優の場合は、たとえ歌が失敗に終わってもそれ程ダメージは無く、後々もよくネーム・バリューがきいていた。ヒット曲の中には、「月よりの使者」(三浦洸一&香山美子)のように、一流歌手とのデュオ曲も幾つか見られる。

 

「東京」、「銀座」、そして「京都」に「長崎」などの歌がヒット

 さて、地名を冠した当時のヒット曲であるが、今で言う「ご当地ソング」とは訳が違う。特に多かったのが「東京」と「銀座」であり、「京都」と「長崎」がこれに続いていた。戦後の昭和半ば頃は、「東京」と言えば国の広大な首都であり、地方人には大都会ゆえの憧れの場所であった。そして、「銀座」はその中心地で、流行やファッションの最先端をゆく、華やかでゴージャスな究極の繁華街であった。「京都」はと言うと、純日本的な雰囲気の古都の筆頭であり、又、「長崎」はと言えば、郷愁、旅愁を帯びた遠い最果ての町と言うイメージがあった訳である。これらの町を歌った新曲の発表番組やリリースに、大衆はこぞって耳を傾けていた。

 

三重県出身の歌手と三重県のご当地ソング

 本稿では、そんな戦後の時代を経て世に出た、三重県出身のメジャー歌手のデビュー・ヒット曲や、三重県を歌った、いわゆるご当地ソング等を、戦後のドーナッツ盤から幾つか拾い出してみた。過去に大ヒットを飛ばした三重県出身の芸人歌手は植木等(故人)ぐらいであったが、現在は、当代第一人者とも言える演歌歌手に鳥羽一郎さんがいる。正に今をときめく第一線のビッグ歌手であり、大ヒットした「兄弟船」は息長く歌われており、知らない人はいない。

◆ 三重県出身の主な歌手と、そのヒット曲(メジャー盤デビュー)

・ 植木 等
  : スーダラ節
・ 鳥羽 一郎
 : 兄弟船
・ 山川 豊
  : 函館本線
・ あべ 静江
 : コーヒー・ショップで

◆ 三重県の主なご当地ソング(音頭、小唄、民謡、盆踊り歌、祭囃、

  市民歌、及び紹介済みの曲を除く)

・ 砂丘姉妹
: 桑名の女(桑名の殿様)(C/W:尾鷲の姉妹(尾鷲節)。日本コロムビア)
・ 川崎千恵子
: 桑名名物(C/W:あゝ五十鈴川。ビクター音楽産業)
・ 三滝 洋
: 四日市の夜(C/W:拝啓僕です。メイリュウレコード)
・ 藤堂輝佳
: 四日市哀歌(A面:四日市小唄。エムプレスレコード)
・ 神戸一郎・八代政子
: 恋の湯の山(A面:湯の山音頭。日本コロムビア)
・ 八汐亜矢子
: 湯の山しぐれ(B面:冬航路。東芝EMI)
・ 春本 薫
: 鈴鹿セレナーデ / 阿漕のちどり(ビクター音楽産業)
・ 田代京子・坂 康夫
: 鈴鹿の空は微笑む(A面:鈴鹿おどり。テイチクレコード)
・ 楊敏・楊?(王偏に攵)
: 湯の町つばき(○注 榊原温泉を歌っている。C/W:海螢。ビクター音楽産業)
・ 三宅 敏
: 松阪の夜(B面:松阪ひとり。東芝EMI)
・ コロムビア・ローズ
: お伊勢詣り(C/W:新調深川ぶし ○注 ジャズ端唄。コロムビアレコード)
・ 三波 春夫
: 伊勢はよいとこ(他の収録曲:赤垣源蔵、信玄おどり。テイチクレコード)
・ 北島 三郎
: 伊勢の女(B面:さすらい花。クラウンレコード)
・ 岩井きよ子
: お伊勢まいり~伊勢音頭入り~(C/W:仲乗りさんだよ-歌:大塚文雄-。キングレコード)
・ 国崎 ゆり
: 伊勢志摩ブルース(C/W:恋の涙は真珠いろ。マーキュリーレコード)      

・ 大門まきほ                                                                                                               : 恋真珠(A面:恋は艶歌かブルースか。キングレコード)

・ 下谷二三子
: 尾鷲恋しや(C/W:尾鷲節。キングレコード)
・ 青木 玲二
: 尾鷲雨情(SIDE 1 ベラ・チッタ名古屋。東芝EMI)
・ 山本たかし
: 尾鷲ブルース(C/W:傷心。テイチクレコード)
・ 鳥羽 一郎
: 熊野灘(SIDE B:海の航空便。クラウンレコード)

「伊勢志摩ブルース」歌:国崎ゆり  以上は、現在掌握している、筆者のE.Pレコード・コレクション等によるリストであるが、まだまだたくさん埋没している「三重県の歌謡曲」があるはずである。発掘出来次第、紹介をしてゆきたいと思っている。

 なお、参考文献としては、1964年に出版された文庫本サイズ(横開き)の「三重県民謡集」(奥付がないので、出版元の詳細は不明。但し、裏表紙に三重県の文字とそのマークが印刷されている)が、一冊、筆者の手元にあるのみである。

 

写真上から

「若さで歌おう  第2集」東芝フォノブック
(ソノシート盤。1962年12月発行、\250)

「お伊勢詣り」歌:コロムビア・ローズ                                                           (EP盤。1959年11月、コロムビアレコード)

「コーヒーショップで」歌:あべ静江
(EP盤。1973年5月、キャニオン・レコード)

「伊勢志摩ブルース」歌:国崎ゆり                                       (EP盤。制作年の記載なし、マーキュリーレコード、           \370)

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「伊勢すずめ」の名水紀行

2010年09月12日 | 伊勢志摩旅情

五十鈴川・法度口

 

伊勢志摩~奥伊勢に「涼」を求めて

 今年は、9月に入っても、残暑が衰えないどころか、夏の北太平洋高気圧の勢力が強烈で、日本列島をすっぽりと覆ったまま真夏の猛暑を長引かせ、いまだに熱中症を発症させている。とにかく、「涼」を求めて自然の真っ只中に出たい。さて、何処へ行こうか ・・・ となると、あまり人のいない静かな水辺となる。海・山のシーズンが過ぎたのに、週末や連休には、伊勢志摩のビーチには避暑やレジャーに訪れる人々が後を絶たない。山間の渓流や滝、観光鍾乳洞などもみな同じであろう。

 昨今は、「○○百選」とか、「△△紀行」とかのフレーズがよく目につき、里山や里野(さとの)や里海(さとうみ)、人里離れた千枚田(棚田)、古街道の並木道や峠路、山野辺の径(こみち)など、古風で鄙びた自然環境への憧憬と旅情が、乾ききった庶民の心中を魅了し、行楽へと誘っている。とにかく「涼」と「水」を求めて、伊勢志摩から奥伊勢にかけての各地を巡ってみた。

 

まず、「伊勢志摩・奥伊勢の三名水」を紹介しよう。

  1. 天の岩戸・水穴の流水(鍾乳洞の地下水流)・・・ 当地は、志摩市磯部町恵利原にある神話にまつわる散策の名所。神聖視されている鍾乳洞(瀧祭窟)の洞内滝より豊富な地下水が流出し、日本名水百選に選定されている。但し、弱度の硬水である。当地を訪れ、飲用に採水してゆく人も少なくない。
  2. 伊勢市宇治今在家町高麗広手前の湧水 ・・・ 高麗広に至る五十鈴川左岸の道路際に湧き出ており、癖の無い良質の湧き水である。口コミでその場所が知れ渡っており、車横付けの採水者が絶えない。眼下の渓流には、「鮑石」(鰒石。あわびいし、又はあわびいわ。さらに川上の「鏡石」とともに、五十鈴川上流の古来の名所)がある。内宮前から剣峠に至る県道を2.4km程入ると、すぐ右手に見える。
  3. 度会郡大紀町木屋の手前の湧水 ・・・ 水道水を飲み慣れている者には、とにかく冷たくて美味しい湧き水である。道路際の断層破砕帯の崖から湧き出ており、地元の木屋では昔から貴重な飲み水として利用している石清水(いわしみず)である。土砂崩れが頻繁な県道の道路際ゆえ、最近、この破砕帯を含む岩盤や崖錐から成る崖面全体がコンクリートでコーティングされ、頑丈な防護壁が出来たが、昔ながらの湧水はそのまま保存され、以前からあった地蔵尊を祀る為の小さな祠も、崖にくりぬかれている。正に「知る人ぞ知る」、霊験あらたかな「超名水」と言える。車を乗りつけ、ポリタンクをいっぱい持った遠方からの採水者が絶えない。場所は現地に行けばすぐ分るが、木屋の久保橋の手前約500mの地点である。

木屋の湧水

度会郡大紀町木屋の手前の湧水

 

次に、伊勢志摩近郊の五大瀑布を紹介しよう。

養命の滝

  1. 大 滝(伊勢市宇治今在家町高麗広、神路山)・・・ 神宮宮域林の山中にあり、地元の参詣者にしか知られていないが、伊勢志摩地方最大の古来の名瀑。赤色チャートの造瀑岩(ぞうばくがん)に懸かり、落差は目測で約20m。白布を垂らしたような見事な滝である。内宮前から高麗広の大滝口(当地には、高麗広公民館がある)までは、約8.4kmである。
  2. 養命の滝(伊勢市前山町)・・・ 前山町の「式部塚」から約1km村道を上った、亀谷郡川の源流付近の細暗い小谷にある小滝(大・小二つある)。滝壺のある左側の大きな滝が本来の「養命の滝」で、目測での落差は約4m。以前は縄注連縄が張られていたが、今はない。鼓ヶ岳の西麓にあたり、石墨千枚岩の岩盤に懸かり、古来、神聖視されている。当地へは、要所に道しるべがあるが、山に入る林道風の一本道をジャスト1km行くと、伊勢自動車道(高速道路)を跨ぐ陸橋に出る。陸橋を渡った所までは普通車が入るが、あとは山道を徒歩。約100m歩けば、右下に見える小谷奥の小さな二つの滝に行き着く。
  3. 飛 滝(伊勢市横輪町)・・・ 横輪町の山里散策名所のひとつ。以前はそばに「真如院」と記されたお堂があったが、今は崩壊している。目測での落差は約10mの小さな滝であるが、名前の通り造瀑岩の中ほどに突き出した岩棚に懸かり、飛び跳ねて落下している。横輪の在所奥のはずれから、北方の小谷に入る林道を約1.3 km進み、さらに車止めスペースから少し険しい山道を300m程辿る。(詳しくは、ブログのバックナンバーを参照して下さい)
  4. 切原の白滝(度会郡南伊勢町切原)・・・ 切原の山中にある、目測での落差は約15mの小滝。五ケ所川の上流にあり、あたり一帯は林間の閑寂な散策地として整備され、「白滝-大広山自然公園」となっている。白滝への道は、切原の在所から剣峠への県道を辿ると、分岐点等、要所に道しるべがあるので分かりやすい。白滝は不動尊を祀ることから、別名「不動滝」とも呼ばれているが、褶曲構造を伴うチャート層に懸かる構造性(断層)の滝で、造瀑岩に穿たれた滝幅は約2m。瀑頂部は節理や裂罅(れっか)に支配され、数段の階段状になっている。滝壺は長径約7m、短径約5mの勾玉形で、深さは通常1m程度であるが、底が小礫で埋まっている。(詳しくは、ブログのバックナンバーを参照して下さい)
  5. 白 滝(度会郡度会町野原新田)・・・ 宮川の支流、七洞岳(海抜778.3m)から流れ出る尾合川(おごうがわ)の上流にあり、林道際の岩壁に懸かる姿の美しい滝。落差は10数m程であるが、周囲の木々とよくマッチし、滝しぶきとともに、目栄えのする名瀑である。野原新田の在所から尾合川沿いの林道を5.5km程遡るが、桜のシーズンか紅葉の頃が良く映え、一度は眺めておきたい。

 

続いて、河川水のきれいな趣のある納涼地・三選を記すと、

  1. 愛洲の郷(度会郡南伊勢町五ヶ所)・・・五ヶ所川の河畔にある山城の跡地で、剣祖「愛洲移香斎」にちなんだ自然公園。用水路(水濠)として掘られた素掘りの隧道とともに、古井戸の跡などが見られる。(詳しくは、ブログのバックナンバーを参照して下さい)
  2. 彦山川の滝の堰堤(度会郡度会町火打石)・・・ 彦山川の谷川にある最大落差の石積みの堰堤(元は滝であった)。当地を訪ねると、すぐそばに用水路への導水路があり、ごく浅い素掘りの隧道が見られる。当地へは火打石の在所から、彦山川右岸の林道火打石線を400m程遡り、トタン小屋(倉庫)の所から藪道を少し下る。水音が聴こえるので、瀬音のする右下への藪道を行く。眼下に巨大な滝壺があり、スリル満点であるが、滑りやすいゆえ足場に要注意。
  3. 五十鈴川上流の法度口(はとぐち)・・・ 宇治橋の上流約800mの地点にある、五十鈴川の古名所。以前は清流の早瀬に、自然石の簡素な飛び石状の堰が築かれていただけであったが、現在は大幅に改修され、飛び石だった堰も隙間無く整然と並べられ、河床にも大きな自然石が敷き詰められ、落差のあった早瀬は、自然石を積み、両サイドに魚道を備えた独特の堰堤となっている。特に夏の朝夕は、河筋を渡る涼風とせせらぎが心地よい。ここは、かつて、これより上流は神域につき「不浄厳禁の法度」が立っていた所で、汚れを濯ぎ身を清める為の、内宮神域近くの古からの御手洗場(みたらいば)でもある。

 

最後に、よく整備された河川の親水公園を二つ紹介しよう。

  1. 藤川河畔の西の瀬公園(度会郡大紀町藤)・・・ 藤の在所にある西の瀬橋付近の河川敷を利用した親水小公園。地元では桜の名所として知られているが、最近護岸工事等の整備が成され、程良い水遊びの場となった。
  2. 松阪市森林公園内の堀坂川河畔(松阪市伊勢寺町)・・・ 森林公園内の水遊びの場として、堀坂川の川床を含めた河川の改修と整備がきれいに成されている。

 

 以上の他、あまり人の行かない隠れた池沼や溜め池なども含めて、さらに探ってみると、もっとよい場所が見つかるかも知れない。

彦山川・堰堤横の素掘りの導水路左・彦山川・堰堤横の素掘りの導水路
下・藤川河畔の親水小公園

藤川河畔の親水小公園

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伊勢の国に、古代「勾玉」の原石を探す

2010年09月08日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク

県指定、天然記念物の「燧石」(昭和53年秋 撮影)

 

皇室の宝物「三種の神器」

 我が国の有史において、歴代天皇が皇位の標識として受け継いだ宝物に「三種の神器」がある。三種の神器とは、広辞苑によれば、

  1. 八咫の鏡(やたのかがみ)
  2. 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)
  3. 八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)

である。

 

勾玉の原石と「玉造」

 この中で、最も興味を惹くのが古代の宝石、「曲玉」(勾玉とも書く。以下これに統一して記述)である。緑色をした勾玉の原石となった主要鉱物は、碧玉(玉造石、ジャスパー)と翡翠(硬玉、ジェイド)と緑玉髄(クリソプレース)である。最初は、朝鮮半島を経由して中国からもたらされたものであろうが、その後は国内の各地でも模倣して勾玉が制作され、「玉造」という地名が日本の各地にあることからみて、製作工房としての「玉造部」が発生し、権力の象徴的装飾品としての「勾玉」を生産し、古代社会に流通させたものと思われる。最も著名な場所は、日本の代表的な碧玉の産地でもある島根県の玉造温泉の花仙山である。そして、玉造の近くには出雲大社がある。

 

碧玉以外の原石

 碧玉以外の原石で、最も色鮮やかなものとなると、「翡翠」である。日本各地の古墳等から出土する勾玉の中には、かなりたくさん翡翠製品が見られる。これらの殆どは新潟県糸魚川市を流れる姫川の上流、小滝のものであり、市内の姫川流域には、翡翠を加工していた集落跡を示す遺跡が発掘されている。緑玉髄は、日本では良質のものが多量に採れる場所がなかったのか、国産品は殆ど見られない。しかし、我が国は比較的水晶にめぐまれ、水晶製の勾玉の出土例は少なくなく、その工房跡も幾つか発見されている。三重県下では、津市一志町にその例があるが、かつて当地で多量に出土した半製品や水晶の原石を見ると、県外より持ち込まれた県外産水晶の可能性が高い。

 

勾玉の石材、あれこれ

 その他、伊勢市内外の遺跡から出土する遺物や古墳の副葬品を見ると、既述の鉱物以外にも色々な石材が使用されており、出土品の中には、滑石や蛇紋石を使った勾玉もある。一通り石材となった鉱物、岩石を掲げると、乳石英、瑪瑙、玉髄、軟玉(ネフライト)、黒曜石、サヌカイト(古銅輝石安山岩)、燧石(フリント)、チャート、松脂岩などである。但し、緑色系のものは蛇紋石と軟玉だけである。いずれもダーク・グリーンであり、碧玉の濃緑色や翡翠の鮮緑色には到底及ばず、石質も又、独特のトロ味のある半透明の美しさ琅�釦(ろうかん)翡翠には程遠い。

 

勾玉と神話のセット

 筆者には、玉造温泉の碧玉と出雲大社の組み合わせが、気になって仕方が無い。勾玉と神話とのワンセットを考えれば、伊勢神宮はどうであろうか。やはり伊勢も神話の国である。天の岩戸とのセットを見れば、同様な組み合わせは宮崎県の高千穂地方と酷似し、宮崎県下には、伊勢神宮周辺の地名と同じ名前のダブリも数多くみられる。ただし、大社級の神宮は宮崎県には無い。

 

伊勢市近隣の「度会郡火打石」の燧石

火打石林道の奥の案内板

 そこで、「玉造」に代わる地名が何か無いものかと地図を調べると、伊勢市に隣接する度会郡度会町に「火打石」と言う地名があり、在所の東方の谷奥に三重県指定の天然記念物となっている「燧石」がある。ここの燧石は古生層由来の灰黒色のチャートの岩塊で、谷間の転石なのか、根のある露岩なのかは判かりにくいが、質的にはたいした物ではない。同様の岩石は付近一帯に広く分布しており、古代、石器には使用されたかも知れないが、きれいな勾玉を作れるような代物ではない。それでも、明治期までは発火道具として、この岩塊をかち割って、枡に入れて定期的に伊勢神宮に献納していたいきさつがある。多くの郷土史家らは当地の地名(火打石)の起こりを、この「燧石」の産地に結び付けているようであるが、地学的に見ると、これだけの地名が起こるには「石質」があまりにも貧弱すぎる。もっと立派な本物の「燧石」が出るか、相応の鉱化作用を受けた岩盤や鉱脈があっても不思議ではない。付近一帯は古生層に胚胎するマンガン鉄鉱の鉱床帯である故、鉄石英や熱水による珪化作用を受けた碧玉質の脈石が、近隣の栗原鉱山(跡)をはじめ、当地の河川等で産出しているからである。

 

彦山川にはジャスパーの転石が・・・

火打石の在所に流下する彦山川  筆者は、石の色や鉱山に由来する各地の地名が、相応の鉱産物の産地である点から見て、度会町の一之瀬川一帯(特に火打石の在所に流下する彦山川)には、古来、もっと「火打石」にふさわしい見栄えのする碧玉の産地があるのではないかと考えるようになり、2年ほど一之瀬川とその支流を歩き回った。その結果、緑色のきれいな幾つかのジャスパーの転石を得るに至ったが、鉱脈の露頭には行き着いていない。彦山川上流の山中から流出したものである点から見て、天然記念物以外の、当地「火打石」の地名にふさわしい、珪化作用を受けた「碧玉」の鉱脈、もしくは鉱化帯が、人知れずいずこかにあるはずである。

 

彦山川産の碧玉

 

画像上から

  1. 県指定、天然記念物の「燧石」(昭和53年秋 撮影)
  2. 火打石林道の奥の案内板
  3. 火打石の在所に流下する彦山川
  4. 彦山川産の碧玉(大:左右7㎝、小:左右5㎝)

 

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五ヶ所湾周辺・地学の見どころ

2010年09月01日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク

波の静かな五ケ所湾(迫間浦付近)

概 説

 度会郡南伊勢町の五ヶ所地方は、急峻な壮年期の山地が海に迫り、楓の葉のように深く入り組んだリアス式の湾入を呈する海岸地形が展開し、奥志摩特有の風光明媚な景観を見せている。地質構造も、仏像構造線が湾を東北東から西南西にかけて横切る関係上、 極めて複雑であり、古生界と中生界とが断層で接し合い、蛇紋岩等の貫入を伴う大規模な構造線(安楽島-五ヶ所構造線)の露頭も各地に出現する。この蛇紋岩体に近接する飯満の滑石脈をはじめ、岩体中には炭酸塩や珪酸塩鉱物の単純鉱脈や優白質複合脈が見られ、多数種の鉱物が産する。

 また、動・植物の化石も産し、泉川上流をはじめ、五ヶ所小学校付近や野添、ワンバ等において採集することが出来る。

 当地へは、志摩市から続く国道260号線と、広域農道であるサニー道路が伊勢市の南方から通じているが、古来山越え道であった剣峠や切り原越えの険しいルートもある。これらの各道路を山地へと辿ると、Ⅴ字谷に懸かる小滝や渓流、洞窟(鍾乳洞・他)などの侵食地形を見学することができる。又、海岸にも各所にスケールの大きな海食地形や堆積地形が連なり、変化に富んだ地学のフィールド・ワークを色々と楽しむことができる。

見学地の解説

  1. 切原の白滝

    切原の白滝 五ヶ所浦から五ヶ所川の右岸に沿って遡り、切原の村落を経て剣峠に至る県道を辿ると、約4㎞の地点に分岐路がある。ここに道標があり「剣峠へ5㎞、白滝へ1.5㎞」と表示されている。右折し、約400m進むと、又分岐路があり、「白滝-大広山自然歩道」の案内板がある。道はここから舗装道路となり、すぐ右に「しらたきはし」があり、橋を渡って300mほど進むと、「白滝」と刻まれた花崗岩の標石のある場所に出る。この道路の右下の小谷に白滝があり、道路際から続く小径を約50m下れば滝に至る。

     滝は不動尊を祀ることから、別名「不動滝」とも呼ばれているが、褶曲構造を伴うチャート層に懸かる構造性(断層)の滝で、高さ(落差)は約15m、造瀑岩の滝幅は約2mで、瀑頂部は節理や裂罅(れっか)に支配され、数段の階段状になっている。滝壺は長径約7m、短径約5mの勾玉形で、深さは通常で1m程度であるが、底が小礫で埋まっている。造瀑岩の一部には、断層に伴うスリッケンサイド(鏡肌)が観察される。

     なお、当地はせせらぎの響く閑寂な谷間で、滝めぐりの遊歩道やベンチが設置され、小じんまりした自然公園となっている。

  2. 愛洲(あいす)の郷

     愛洲の郷は、五ヶ所浦の町の背後にある、中世の山城の城址を中心に整備された遺跡公園である。五ヶ所川の渓流河畔の小山に、戦国の豪族武将愛洲移香斎(1452年生まれ、陰流の剣祖)を祀る顕彰碑が建立してあり、散策のための遊歩道が設備されている。

    愛洲の郷の素掘りの水濠 当地は自然環境に富んだ里山で、湧泉やトンネル状に穿たれた水濠も往時のままに保存されていて、昔ながらの土木技術の高さを見ることができる場所でもある。麓の一角には水車小屋や休息の為の東屋等が建造され、 町外れの閑寂な探勝地となっている。

  3. 泉川上流の地層と化石

     南勢町泉の村落から、北東に分け入る泉川の流れを遡った上流部には、志摩半島の中・南部を特徴づける複雑な地質構造を示す秩父塁帯(中帯に相当)の中・古生界が分布する。当地には、一般走向にほぼ沿って流下する小渓流の河道とともに、右岸沿いに農道があり、これを進むと川床や道路際の崖等に露頭が見られ、複雑にアバットする各地層や蛇紋岩体の貫入を観察し、追跡することができる。

     このルートは、地層の見学や地質構造の研究に大変よいコースであり、化石も採集できる。特に、鳥羽市の青峰山から安楽島海岸にかけての地域で顕著な、中生代の地層が古生界に介在するサンドウィッチ構造(メランジュ)や、縦走断層群等が判読でき、既に早稲田大学の坂幸恭教授らの詳細な研究が成されている。当地で観察される地層や岩体は、南部より四万十塁帯的矢層群のフィリッシュ型互層に始まり、秩父層群の各古生層、南勢層群(下部白亜系)、今浦層群(上部ジュラ系)、准片岩類、蛇紋岩体等である。又、注意深く見て行けば捕獲岩や捕獲礫、級化層理、漣痕、生痕等、特殊な地質現象や堆積構造も観察できる。 

     なお、中生界(南勢層群・今浦層群)の一部からは、六射サンゴ、層孔虫、二枚貝、巻貝、三角貝、シダ植物等、動植物の化石が産し、幾つかの露頭で採集することができる。

  4. 船越の石灰山

     南勢町船越背後の山中には、かつて石灰岩を採掘した石灰山がある。ここは村落の北西約1㎞の地山(じやま)で、荒れるままに放置されているが、秩父層群(古生界)の石灰岩塊の割れ目等に、幅数㎝の方解石の分泌脈が見られる。偽晶洞を成す空隙部分には、黄土色の粘土が詰まり、菱面体をはじめとする様々な結晶形態(晶癖)を示すき無色透明のきれいな結晶を産する。

     また、一部に奥行き10mほど入れる鍾乳洞があり、ごく小規模なつらら石や石筍等を目にすることができる。

  5. 押渕白滝と鬼ヶ城

     押渕村落南西の山地には、切原に似た白滝があり、散策する小道がついている。付近一帯は暖地性シダ植物の群生地でもあり、三重県では唯一の構造洞窟である「鬼ヶ城」とともに、ちょっとしたこの地方の名所となっている。

     白滝へは、道方(旧南島町)に至る国道260号線から分岐し、村落に入る旧道をとる。道は三浦峠の上り口の所で再度分岐するが、右下の在所道を辿り、途中、小橋を渡って左折し、小川の左岸沿いに進むと、旧道の分岐点より約700mの地点に白い鳥居があり、白滝権現の参道に至る。参道と言っても細い山径で、小川を渡り竹薮を越えて、およそ300m進むと、滝壺のある高さ数m程の白滝にたどり着く。

     鬼ヶ城は、この東隣りの小谷にあり、白滝からは岩場を越えて回る山径がついているが、参道入り口から辿る別ルートもあり、鳥居からは約200mの至近距離に位置する。この小谷は古生界のチャート層の裂罅を侵食した亀裂の目くら谷で、洞窟は細長く薄暗い谷の奥にある。洞口の幅は約6m、天井の高さは約3mで、蒲鉾型に開口した入り口部分のスペースは約6坪(20平方m)ほどで、奥行きは細まった部分も含めても約10m程度。周囲には複雑な節理と横臥褶曲を伴う層状チャートが岩盤や露岩を成して露出し、この洞窟が裂罅性の構造洞窟であることを示す。谷には落差数mの小滝も懸かっている。

     なお、山肌に露岩を並べ、屈曲の激しい尾根を持つ当地の峻険な山地は、秩父層群のぶ厚い層状チャートが褶曲した山塊を成すものであり、西方の旧南島町能見坂へと続いている。

  6. 相賀浦(おうかうら)の陸繋砂州

     五ヶ所湾の先端、相賀浦のニワ浜は、海浜距離わずか1㎞程であるが、三重県下では一番見事な陸繋砂州からできている。礫浜海岸を成す汀線付近には、微地形であるビーチカスプが発達する。天橋立を彷彿するこの海浜の堆積地形は、ここから礫浦(さざらうら)に通じる道路を辿り、少し先の小高い見晴らし台に行くと、砂州によって閉塞された湾入(大池)とともに、この地形の全貌が眺望できる。(但し、ここは、現在はブッシュに覆われて見通しがきかなくなっている)

( 本稿は、昭和50年頃の原稿を元に加筆、再編集したものです )

相賀浦のニワ浜のビーチカスプ

 


相賀浦の陸繋砂州

相賀浦の陸繋砂州(りくけいさす)…今はブッシュで、この位置からは、眺められない…

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