伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

三重県の鉱山巡り回想記

2012年11月16日 | 三重県
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 確か昭和30年代の半ば頃に、京都の益富壽之助先生主宰の「日本礦物趣味の会」が、伊勢地方の児童や学生達にも知られるようになり、ちょっとした鉱物趣味のブームが起こり、石集めが広まった。伊勢にも一般社会人に会員の方がみえ、地元の伊勢地方をはじめ、三重県下の鉱物の産地を調査し、自ら採集して来た数々の鉱物や鉱石を持ってみえ、快く見せて下さった。

 当時、我輩は中学生になったばかりで、小学校の時から続けていた石集めが昂じて、鉱物コレクターへと傾倒して行った。その頃の参考書と言えば、母親に買ってもらった小学館の「岩石と鉱物の図鑑」や、木下亀城先生の著書「鉱石図鑑」(保育社)がバイブルであり、とりわけ鉱石図鑑には全国各県の鉱山リストが付記されていて、手紙によって鉱石を取り寄せたりもした。中学生の目には、鉱山から送られてきた鉱石は珍しさを通り越えて、まさしく正真正銘の宝ものであった。  (後年、木下亀城先生には、大学で卒業論文の御指導を頂いた)


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 その後、高校時代までずっと鉱物を探求し三重県下を歩き回ったが、当時、伊勢では日本礦物趣味の会の唯一の会員であったO氏や、小学校時代の恩師で植物学者でもあるM先生らに連れられて、青山(東青山)や名張の赤目地方に行ったこともあった。
 その頃は、まだ三重県下にも銅やマンガン、珪長石など、稼行中の小規模鉱山が幾つかあり、よくそれらの鉱山を訪ねたものだ。しかし、残念なことに伊勢市の界隈には、二見町の松下にマンガン鉱山の跡があっただけで、稼行中の鉱山は鳥羽まで行かなければ見られなかった。

 我輩が、鳥羽の赤崎鉱山(当時は赤崎銅山と呼んでいた)を初めて訪ねたのは、中学1年生になってからで、昭和30年代の後半であった。これが鉱山巡りの最初であり、坑道は土砂で埋没していたが、崖面には銅鉱脈の露頭があり、金ぴかNabari_mineの黄銅鉱とともに、酸化帯の土砂の中には、きれいな孔雀石や珪孔雀石がごろごろしていた。

 伊勢市内では、採石場や土取場、山裾などの造成地を回って、同級生たちと黄鉄鉱を探しに行ったものだ。地元の鉱産地と言えば、針水晶の採れる宇治の水晶谷(正式名は施餓鬼谷で、実は針水晶は方解石)や、朝熊山山上の立ち腐れの万金丹屋前の武石、白石山にあった果樹園切通しの褐鉄鉱(ここは、現在は宇治山田高校のグランドになっている)、そして、赤崎鉱山(鳥羽)のズリ石が運ばれて盛られていた、二軒茶屋の勢田川の土手ぐらいであった。


 伊勢市の界隈には、花崗岩の山がなくて、図鑑に見るような結晶鉱物には恵まれなかったが、それでも伊勢志摩スカイラインや五十鈴トンネルの工事では、排石の中から見事な霰石や方解石の結晶が採れた。花崗岩はと言うと、当時は明野の大仏山や、松阪市まで行かないとお目にかかれなかった。

(ずっと後年の事であるが、ペグマタイトの結晶鉱物をターゲットにして、花崗岩地帯の恵那地方〔岐阜県〕や真壁〔茨木県〕、石川地方〔福島県〕等にまで足を延ばすことになる )

 三重県下では、鈴鹿山脈の砂山(大安町のTakehara_mine02宇賀渓)や水沢(四日市市水沢町の宮妻峡)、堀坂山の雲母谷(松阪市の珪長石鉱山跡)、美杉・竹原(美杉村の珪長石鉱山)、白山鉱山(白山町の珪長石鉱山)、上友生の珪石山(上野市の珪石鉱山跡)、そして大山田村の三谷と広瀬(珪長石採石場跡)等の、ペグマタイト鉱山(跡)や鉱産地に何度も通っていた。
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 その間に、憬れの美結晶や巨晶の発見、採集もあって、一通りのペグマタイト鉱物を集めての後に、三重県下最大かつ全国屈指の紀州鉱山や、丹生鉱山、名張鉱山、治田鉱山跡等の金属鉱山に出向くのだが、時は既に昭和40年代の終わりであった。
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 その当時の写真が、何枚か残っているので、掲載してみたが、稼行中の鉱山巡りの最後は、2005年の冬に地学部会の野外巡見の際立ち寄った、国見山石灰鉱山(旧南島町神前)である。
 もう、三重県下には、石灰鉱山や粘土山しか稼行中の鉱山は無いのである。


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