伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
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  感性の趣くままに-。

伊勢・志摩・度会の石紀行 その15( 最終回 ) 伊勢市朝熊山 「 金剛證寺境内の仏足石 」

2024年03月28日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


朝熊山 ・ 金剛證寺境内の 「仏足石」

 伊勢市朝熊山( あさまやま )山上の金剛證寺の境内に、「仏足石」( 佛足石 )と称する大石がある。 鎮座する場所は、山門( 仁王門 )を潜った先の「連間の池」奥のほとりで、本堂前の石段の下あたりである。池の対岸にある「雨宝堂」の左横に位置する。
 石冊の囲いと瓦屋根だけのこじんまりとした「仏足石堂」の中にあり、畳一畳ほどの大石の研磨された上面に、一対の仏陀の大足跡が見事な刻線で描かれている。 その表面には、賽銭の硬貨が何枚か投げ入れられている。


朝熊山 ・ 金剛證寺境内の 「連れ間の池」


 この大石は、ぐるりが「朝熊石」特有の鉄錆色の風化被殻に覆われ、明らかに朝熊山上産の塩基性深成火成岩の巨石であることは、明白である。 この岩石は、見かけ上は蛇紋岩化しているが、研磨面を観察する限り、ほぼ等粒状完晶質の組織を残す緻密な黒緑色であり、原岩は現地性の橄欖岩か橄欖斑糲岩か、角閃橄欖岩のようである。
 類似の岩石は、旧登山道にも転がっており、山上広苑の露頭などで、母岩の岩体や風化した母材礫を幾らでも目にする事ができる。


「連れ間の池」 奥のほとりの 「仏足石堂」


「仏足石堂」 の前に立っている 「説明札」


研磨された巨石の表面に刻まれた 「仏足跡」


 さて、この見事な研磨面上に彫刻された繊細な仏陀の大足跡のモデルが、いつの時代に製作されたものであろうか。 そもそも「仏足石」は、説法の座下に「仏足跡」を描いて、御仏( みほとけ )の存在を示すものとされ、発生はインドの仏教信仰の中で生まれ、その後中国に伝わり、日本には奈良時代の初めに、遣唐使に随従した仏僧が長安の普光寺において、「仏足跡」を転写して持ち帰ったことに始まるとされている。
 その当時は、仏教美術としての「仏足跡図」が崇拝されていたが、やがて「石に刻み込んだもの」が「仏足跡」として崇められ、「仏足跡」の石としては、奈良県の薬師寺の「仏足石」が最古とされている。
 全国的には、幾つかの寺院に「仏足跡」の転写図や、数例の「仏足跡石」( 仏足石 )があるが、奈良県の薬師寺の国宝の「仏足石」の他は、一般には比叡山西塔の仏足石が知られているに過ぎない。


「仏足石」 背後の 「歌碑」


 朝熊山 「金剛證寺の仏足石」 は、文献によれば、鎮座する大石全体の高さは約65cm、研磨された上面の横幅は約1m84cm、奥行きは約1m22cmである。 刻み込まれた足跡は、薬師寺様式の仏足跡で、研磨された石面に線彫りでその全形を表している。 仏足跡の縦幅は約51cm、横幅は約21cmである。1対の彫刻された足面には、左右対称の精密な線図柄の紋様がぎっしりと刻まれ、両足の周囲には四方から輝く光明を表すかの如く、数条の刻線筋が走り、その中には瑞花や瑞雲のちりばめも見られる。


上載写真の 「歌碑」 の背面
 

 この「仏足石」の背後には、「釈迦牟尼佛足石」の題字のある、万葉仮名で刻字された歌碑( 高さ約1m35cm、幅約66cm )が立っている。
 この歌碑の背面には、天保四季癸巳年の刻銘がある事から、金剛證寺境内のこの「仏足石」が造られたのは、お堂前の「立て札」にも記されているように、江戸時代末期の 1833年である事が判る。
 おそらく、国内では一番鮮明できれいな「仏足石」(佛足石) ではないかと思われる。

  注 ; 上載写真は、いずれも 2024年3月28日の午前中に撮影を致しました。



 

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伊勢・志摩・度会の石紀行 その14 伊勢市五十鈴川に見られる「 ハート型の転石と三角礫 」

2023年12月01日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


今秋に採集の五十鈴川産の 「ハート型の転石」( 左 )と 「三角礫」( 右 )です

 伊勢市の清流であり、伊勢神宮・内宮境内の「御手洗場」ともなっている五十鈴川は、その源流を高麗広( こうらいびろ )山奥の剣峠付近の峻険な山地に発し、途中に大・小の支流を幾つか合流し、二見浦( ふたみがうら )西端の伊勢湾南岸のへと流下し、東西へと続く西南日本外帯の帯状の地質区を横切るように侵食し、壮年期地形に顕著なV字谷の河谷を形成している。 その結果、中流が殆ど無く、宇治橋の川上から川下にかけての2km程の川原には、主に古生層由来の各種の堆積岩や、現地性の塩基性深成 ~ 半深成火成岩類、さらに外帯の北限となる中央構造線直南の三波川変成帯の広域変成岩類も数多く見られ、岩石種の豊富な転石礫の堆積する平坦な川床となっている。
 特に、内宮境内の南側を東西に流れる最大の支流である「島路川」は、塩基性深性火成岩 ( 橄欖岩・斑糲岩・蛇紋岩 )類が豊富であり、五十鈴川本流へのこの種の転石礫の供給源となっている。


内宮境内の五十鈴川の 「御手洗場」 ~ 2023年12月1日 の早朝に撮影

上載の 「御手洗場」 のアップです ~ 2023年12月1日 の早朝に撮影


 日本全国が観賞用の「水石」ブームとなった昭和年代の半ば頃には、伊勢神宮の宮域である五十鈴川の上流からも、高麗広の地元民らによって「神代石」( 後の「伊勢古谷石」類似の石質 )や「伊勢赤石」「鎧石」等の銘石が数多く持ち出され、世に紹介されてから当地は一躍「名石」の多産地となった。
 高麗広を含む神路山から島路山、朝熊山にかけては、殆どの山河が伊勢神宮の宮域であるので、岩石の探石・揚石はもちろんの事、動物の捕獲や植物の採集等全てが厳禁であり、五十鈴川を遡る左岸の県道の通行利用以外は、一般人の立ち入りは禁止されている。
 従って水石の探石は、宇治橋川下の川原でしか出来ない。
今秋に採集の五十鈴川産の 「神足石」 ~ 左側の 「神足石」 の縱幅は約8cm です

 五十鈴川の紹介で、前書きが長くなってしまったが、この五十鈴川からは、かつて「神足石」と称する奇石が多産し、既にブログで何度か紹介をさせて頂いてきた。「神足石」は、昨今は希産となってしまっていましたが、今夏の豪雨によって五十鈴川が氾濫し、その後の渇水で刷新され堆くなった宇治橋川下の川原を、先月まで何度かに分けて踏査した結果、この特殊な形状の転石( 奇形礫 )である「神足石」と共に、その半長径程の形状の大小のきれいな「ハート型」の類似礫も、転石としてかなり含まれていることが判った。
 さらに、これとは別に「三稜石」類似の三角礫や多面礫も数多く入り混じっていたので、連載をし続けてきた「伊勢・志摩・度会の石紀行」に、本年の締め括りとして加えることに致しました。
今秋に採集の五十鈴川産の 「ハート型の転石」 ~ 左側の最長礫の縱幅約5cm です

 砂漠や海岸砂丘などの風食礫である「三稜石」は、水流には関係しない特殊な成因の定形角礫ですが、五十鈴川の川原に見られる「三稜石」は、風食と共に水食も加わり、頂角や辺稜が少し丸味を帯び、純然たる「三稜石」とは言い難いものが多産するので、今回は「三角礫」として、上述の「ハート型の転石」と共に写真を掲載し、紹介をさせて頂く事に致しました。
今秋に採集の五十鈴川産の 「三角礫」 ~ 辺稜幅は3cm から5cm です

 「ハート型の転石」も「三角礫」も、あらゆる岩石種に形成されていますが、かつてブログに記しましたように、「神足石」は緑色岩の場合は、交差する母材角礫の節理に関係して形成されているようで、地質作用のプロセスが成因であるとみなせますが、緑色岩以外の転石礫にもかなりきれいなものが生じている成因は、何故なのかよくわかりません。 五十鈴川が古来、神聖地の「神がかり」的な河川だからなのでしょうか。
 ちなみに、「三角礫」は、砂質岩( 砂岩や硬砂岩 )と緑色岩( 主に角閃岩や緑色片岩 )に比較的多く見られますが、他の岩石礫にも生じています。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その13 度会郡度会町火打石の 「 三重県指定の天然記念物の『 燧石 』」

2022年11月30日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


度会町火打石の地形図と 「燧石」 の位置( × 印 )

 度会町には、幾つかの珍変な地名が点在しているが、宮川の支流の一つである一之瀬川を、左岸の県道沿いに遡って行くと、町境の能見坂峠までのほぼ中間に、「火打石」 という名前の付いた村落がある。 この地名の由来は、当地の東の彦山川の奥に、さらに支流の谷川が分岐し、この谷間から、古来、発火道具として使用されて来た岩塊 ( 露岩 ・ 転石 ) が産し、それらが 「燧石」( ひうちいし ) として使用されて来た事によると言われている。


天然記念物の 「燧石」 ~ 昭和53年頃の撮影写真


 幾つかある露岩の中の一つが、明治期より 「天然記念物」 として世に広められた次第であるが、度会郡内に点在する縄文遺跡などからも、同質の岩石が石鏃やナイフ型石器類として、数多く出土している事から見て、はるかな古代より石材に使用されていた事が伺える。
 さらに、明治期初期までは、いつの頃からかこの岩塊を破り採り、桝に入れて伊勢神宮に献納していたいきさつがある。
天然記念物の 「燧石の実物標本」 ~ 左右幅約12cm

 「燧石」 となっている当地の石質 ( 岩石 ) は、中央構造線の南方に分布する秩父層群の珪質岩 ( フリント質 ~ 玉髄質 ~ ガラス質のチャート ) である。
 現在、三重県指定の天然記念物となっている 「燧石」 の岩塊は、火打石の村落の東方約2kmの山奥で、彦山川の支流谷を登りつめた源流付近にある。 サイズは概ね 2m × 2m × 2m 程度のおむすび形であり、色は白黒チャートに属し、灰白色半透明 ~ 灰黒色不透明、並びに淡緑色で、内部に白色結晶質の分泌石英脈や、緑泥石と思われる黒色鉱物の筋模様を雑えている。


火打石林道の起点付近にある 「最初の道標」


 筆者が現地へ行ったのは、昭和53年前後に2回しか無く、その後は現在に至るまで再探訪の機会を逸している。 その当時は、道標などは全く無く、山働きの地元民に尋ねながら、未舗装の林道奥からの分岐路より先は杣道となり、途中で草分け道が立消えていたり、行く手をブッシュに囲まれ、手探りでかなり迷いながら優に1時間は歩いた記憶がある。


林道奥の分岐点にある 「燧石 」( 火打石 ) への道標」


 現在は、火打石林道も仮舗装が成され、「燧石」 への道標や分岐路 ( 山道 ) も、かなり整備が成されているようであるが、現地の様子や 「燧石」 の近況はつい判らず仕舞いである。 以上をお断りしての記述である。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その12 志摩市大王町名田 「 大野浜の黄色玉石 」

2021年04月20日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


「黄色玉石」 の打ち上がる名田漁港の海浜

 日本国内の各地から産出し、観賞用の 「色彩石」 にもなる玉石類には、著名な 「赤玉石」 や 「青玉石」 の他に、黄玉石 ( きだまいし ) や翡翠石、いろんな色のメノー石、玉髄、水晶、蛋白石、琥珀、桜マンガン石などが広く知られており、ほかにも燧石 ( ひうちいし ) や珪化木、黒玉 ( こくぎょく ・ くろだま ・ ジェット ) 、黒曜石などが数えあげられる。
北海道花石産の 「イエロー瑪瑙の転石」 ~ 長径約6cm


 以上の他、いろんな色の珪酸鉱物や岩石類の入り混じった、縞帯模様などのきれいな鑑賞石があり、特に北海道花石 ( 瀬棚郡今金町 ) の 「縞メノー石」 や 青森県の 「錦石」 、佐渡の 「錦紅石」 に 「佐渡黄玉」 (さどきだま) 、 群馬県の 「更紗石」 等は、水石界では古くより銘石としての地位を獲得している。
 我が三重県の 「那智黒石」 も、堆積岩ながら鈍い黒光りのする石材石として、実用品や調度品類のほか、鑑賞石にも加工され、確たる全国区の地位を得ている。
伊勢市高麗広産の研磨した 「赤玉石」  ~ 左右幅約7cm

 これらの石の中でも、特に 「赤玉石」 は殆どが鉄石英を主成分とする真っ赤な珪酸質の鉱物であり、堆積岩の 「赤石」( 赤チャート ) とは、成因を異にする。
 「青玉石」 は、俗に青瑪瑙とも称し、主に碧玉 ( へきぎょく ・ ジャスパー ) であるが、国内では島根県の玉造温泉付近の花仙山が原産地として、往古の古墳時代から有名であり、新潟県糸魚川市小滝の翡翠 ( ヒスイ ・ 硬玉 ) や山梨県の水晶などと共に、勾玉をはじめとする各種の装飾品として使用された歴史がある。
 なお、 「青玉石」 類似の鑑賞石の 「青石」 の多くは、 「赤石」 同様に堆積岩の青チャートが殆どである。

大野浜と名田漁港で拾い集めた、梅干大の 「黄色玉石」

大野浜で拾い集めた中の、大きい目の 「黄色玉石」


 さて、今回の石紀行で紹介をする、志摩市大王町名田の 「黄色玉石」 ( きいろだまいし ) は、大野浜と隣接の名田漁港の海浜が原産の漂礫の小石ですが、表面のみイエロー瑪瑙 ~ ジャスパー化した特殊な黄色の色石礫です。
 新潟県の佐渡をはじめとする 「黄玉石」 との根本的な違いは、内部の石質であり、黄玉石の場合は内部まで表面と同じ石質 ( 同一鉱物 ) で、明らかにイエロー瑪瑙 ~ イエロー・ジャスパーになります。


名田漁港の海浜産の 「黄色玉石」 の破断面

内部の露われた大野浜産の 「黄色玉石」 の漂礫


 本稿で述べる 「黄色玉石」 は、大野浜や名田漁港の海浜の浜砂利の中に、極くわずかに入り混じっていて、時たま見つかる程度の希少漂礫です。 但し、内部は全く別の石質が多く、この石は筆者の発見なので、勝手に 「きいろだまいし」 と名付けて、黄玉石 ( きだまいし ) や宝石鉱物の 「黄玉」 ( おうぎょく ・ トパーズ ) との読み間違いを避けた次第です。
 この小礫のサイズは、殆どが梅干し大かそれ以下ですが、大きいものでもせいぜいゴルフボール程度で、こぶし大以上のものは滅多に見つかりません。
 多産すれば、良質の火打石 ( 燧石 ) として利用されて来たと思いますが … 。

大野浜産の最大サイズの 「黄色玉石」 ~ 長径約7cm


 内部の石質は、大半が堆積岩層由来の灰白色 ~ 灰黒色のフリント質チャートです。中には石英や他の珪質堆積岩類の事もあり、いわゆる 「きつね石」 となったニセ物ですが、不思議な事に中身まで全部瑪瑙 ~ 玉髄や蛋白石質、あるいはジャスパー質化し、完全に変質 ・ 置換し鉱物化しているものもあって、その成因を考えると、海水の仕業である事は言を待ちませんが、とにかく不思議でなりません。
内部まで瑪瑙質化した大野浜産の 「黄色玉石」 の漂礫

 この小石の由来は、中生代白亜紀の急斜した的矢層群の地層を不整合に覆い、志摩地方に広く分布する海成段丘堆積層 ( 更新統 ) の亜円礫に由来するものと思いますが、原産地の付近にそれらしい地層は見られませんので、更新世時代から完新世にかけての海進や、その間の激しい海食によって、海底に水没した段丘堆積層を考えない事には、そのルーツの説明が付きません。
 但し、この漂礫が集中して打ち上がっているのは、既述の大野浜と名田漁港の海浜だけです。 北隣りの畔名の海浜や、南隣りの大井浜などでは、なぜか殆ど拾えませんし、他の外洋側の海浜でも全くと言ってよい程見つかりません。


「黄色玉石」 の打ち上がる大野浜の渚

大野浜の浜砂利のアップ ~ 右下に黄色玉石が見られる


「黄色玉石」の打ち上がる名田漁港の渚

浜砂利中の 「黄色玉石」 ~ 名田漁港の渚にて撮影


 ちなみに、志摩地方各地の段丘内の砂礫層や、伊勢市内の更新世の中位 ~ 高位段丘堆積層 ( 河成層 ) の黄土色化した砂礫層を、方々調べ回ったのですが、類似礫はあっても表面はまるで違っており、単に水酸化鉄 ( 褐鉄鉱 ) に汚染された被膜 ~ 薄い被殻が見られるだけで、中にはいわゆる 「腐れ礫」 化し、ボロボロになった珪質岩礫もありました。

伊勢市妙見山 ( 岩淵3丁目 ) の、河成段丘堆積層産の 「類似礫」 ~ 長径約5cm

 なぜ 「黄色玉石」 の産地が限定的なのかと言う事と共に、浜砂利中でも珪質岩の漂礫だけが、どのような鉱物化学的プロセスやメカニズムで、表面から内部にかけてイエロー瑪瑙や、イエロー・ジャスパー化してゆくのか、その解明が課題ではありますが … 。
 参考までに、フリント質チャートも玉髄 ・ 瑪瑙、ジャスパー ( 碧玉 ) のいずれも、主成分の化学組成は珪酸 ( 二酸化珪素 )であり、鉱物学的には隠微晶質の石英で、ほぼ同質とされています。

   ( ※ 本稿の掲載写真は、2021年4月18日に撮影を致しました )

 

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伊勢・志摩・度会の石紀行 その11 伊勢市五十鈴川上流の 「 鏡 石 」 ( かがみいし )

2020年09月27日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


五十鈴川上流右岸の 「鏡石」

 五十鈴川上流の 「鏡石」 は、古来、景勝を成す五十鈴川渓流の名所のひとつとして、広く知られて来た巨大な露岩の鏡肌 ( かがみはだ ~ 断層によって生じたスリッケンサイド ) です。


道路下の五十鈴川の対岸にある 「鏡石」 の露岩


 当地は、内宮前から五十鈴川の左岸を遡る県道12号線 ( かつての五ヶ所街道 ) を約 3.2 km 進んだ所にある、 「仙人下橋」 ( せんにんしたばし ) の少し先の五十鈴川右岸で、伊勢市今在家町高麗広の入口付近になります。
 鏡面は、川岸にそそり立つ巨大な露岩、巌 ( いわお ) の西向きの背面になるので、川を隔てた対岸からは直接見る事は出来ません。


 「仙人下橋」 手前の県道際の道標


 現地の五十鈴川に合流する、倉口谷川に架かる 「仙人下橋」 の手前には、竜ヶ峠を経て矢持町 ( 平家谷 ) に至る分岐路があり、道路際に道標があるのでこれが目印になりますが、辺りには民家もあるのですぐにわかります。
 左岸の県道からは、 「鏡石」 の露岩は見下ろせますが、五十鈴川の渓流に降りるには、急斜面の草分け径を辿るしかありません。
 但し、五十鈴川の対岸は神宮宮域林なので、 「鏡石」 の案内表示はどこにもありません。


「鏡石」 の真横を流れる五十鈴川の渓流( 上流方向を撮影 )


 かつては、江戸時代から多くの参詣客や文人墨客らが探訪しており、筆者の中学時代には遠足の景勝地でもあって、川を渡ってスベスベだった岩肌を見物する事も出来ましたが、現在は神宮宮域林の管理が厳しくなり、対岸には全く入れなくなっています。
 もっとも、昨今は訪れる人など滅多になく、地元民を除けば、 「鏡石」 の所在を知る人は数少なくなってしまいました。


神都名勝誌に掲載の 「鏡石之図」


 参考までに、 「鏡石」 関係の古文書等を記すと、 明治期の 「度会河内明細図」 をはじめ、江戸時代に描かれた 「伊勢参宮名所圖會」 や 「神都名勝誌」 ( 明治28年10月30日発行、版権所有 神宮司廳 ) などがあげられます。


伊勢参宮名所図絵( 復刻版 )に見る 「鏡石」


上載写真左頁の 「鏡石」( 版画 )の部分アップ


上載写真右頁の 「鏡石」( 説明文 )の部分アップ


 特に、伊勢参宮名所図会 ( 巻之四 ) には、木版画の詳細な風景図版の掲載と共に、 「鏡石」 について、次のような説明文が記されています。

 〔 割注 〕 御裳濯 ( みもすそ ) 川の水上にあり。」 高さ貳丈、横五丈許の大石にて、谷 ( たに ) 川の方より西面 ( さいめん ) を見れば清浄明白 ( せいじゃうめいはく ) 誠 ( まこと ) に磨ける鏡 ( か ゞ み ) のごとし、故に山鏡 ( やまか ゞ み ) といふ。 … 後略 …


石段の上から見下ろした、一面に苔むした 「鏡石」


 この夏に、久しぶりに川遊びがてら、忍びで見物して来た限りでは、横縞模様によって 「鏡石」 が巨大なスリッケンサイドである事は、目視で解りますが、かつてのような鏡面ではなく、一面苔むして薄汚くなっています。
 江戸時代から明治期にかけては、人の顔が写る程だったそうですが、今は見る影もありません。


鏡石の露岩上面に祭られた 「鏡石神社」 の祠


 露岩を成す巌 ( いわお ) の上面には、 「鏡石神社」 等を祀る祠が一基鎮座しており、自然石の石段で出来た登り路 ( みち ) が付いています。


「鏡石」 上面の祠に登る自然石の石段路


 ちなみに、ずいぶん昔になりますが、かつて筆者は 「鏡石 」 を地学的に調査した事があり、その時のデータを記すと、岩石は秩父層群を構成する珪質岩 ( 白色のチャート ) であり、鏡面はごく僅かに湾曲をして西方に膨らんでいますが、平滑面には断層擦痕のような横縞の筋模様が認められ、走向は N 70°E、傾斜はほぼ垂直でした。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その10 志摩市阿児町立神 「 立石浦の立石 ( 夫婦岩 ) 」

2020年07月25日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


立神・立石浦の 「立石明神の立石」

 志摩市阿児町立神は、リアス式海岸の複雑な湾入を成す英虞湾が東に入り組んだ湾奥にあり、英虞湾を望む自然公園となっている登茂山半島北の対岸、西山 ( 半島 ) の付け根に位置するひと群れの村落である。
 志摩市の中では、特に真珠養殖が盛んであり、英虞湾に突き出した羊歯の葉状の西山を取り巻く沿岸には、幾つかの作業小屋やタンポ ( 真珠筏 ) がひしめいている。


立石浦の干潮時の 「立石」

立石浦の満潮時の 「立石」


 この立神には、立石浦と称する海岸があり、二見ヶ浦の立石 ( 夫婦岩 ) を小さくしたような、小形の 「立石」 ( 夫婦岩 ) が海中から突き出している。
 この 「立石」 は、直前の立石明神 ( 立石神社 ) の 「御神体」 でもあり、こじんまりした境内には祭壇が設けられ、祠前方の海中に立てられた鳥居ごしに遥拝が出来る。
 入口には、 「立石浦の立石」 についての謂れなどを詳述した解説板がある。


立石浦の 「立石明神」 の入口

立石明神の 「解説板」


 この立石のサイズは、西側の大石が高さ約 2.3 m で、頂頭に輪注連縄がかけられている。 これより 2 m 程隔たった東側の小石は高さ約 1 m で、満潮時には大石の頂頭だけが水面上に残され、小石は完全に水没する。
 岩質は、見かけはいずれも硬砂岩のようである。


湾岸から眺めた立石浦の 「立石」

湾岸から眺めた立石浦の 「立石」 のアップ


 昔は、旧暦の正月四日に執り行われる立石明神の祭りには、志摩の各地から人々が参集し、露店なども立ち並んで、大変賑わったそうである。


立神・宇気比神社裏手の西山の道角にある 「道標」

「道標」 のアップ


 立神の村落は、メイン道路が貫通しているものの、村道がかなり入り組んでいて、立石浦へ降りる道は複数あるので、初めての探訪者には解りにくいと思われる。
  一番簡単なのは、村落西方のこんもりとした 「宇気比神社」 の正面を目指し、ここから右手回りに背後に回ると、西山の 「慕情ヶ丘」 に行く道と、 「立石浦」 へ下る道との分岐路に至り、この道角の道標に従って左に下れば、まもなく英虞湾の湾奥が見え、1 km 程で立石明神 ( 立石神社 ) に至る。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その9 伊勢市粟野町の 「 八柱神社の御手洗石 」

2019年09月22日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


粟野町の八柱神社境内の「真ん丸い奇妙な自然石の御手洗石」

 伊勢市の市街地南西の宮川左岸の田園地帯には、散村型の村落がぽつりぽつりとあるが、市街地の西南西約4kmの所にあるひと塊の村落が粟野町である。 その村落の南西のはずれに、こんもりとした常緑樹林があるが、ここが八柱神社である。


粟野町の村落と、その南西のはずれにある「八柱神社」


 一見どこの村落にもあるような規模の、氏神様を祀るお宮風の神社であるが、この参道を少し入った境内の入り口に、黒っぽいまん丸い直径1m20cm程の、一風変わった外観の奇妙な自然石の御手洗石 (みたらしいし) がある。
 この巨石の上部30cm四方が穿たれて、浄水溜めとなっているが、かなり苔むした巨石のぐるり一面は、全く特異な亀甲状の節理を呈し、乾裂に似た皮殻に覆われているようにも見える。


八柱神社境内の「御手洗石」の裏側(背面)


 極めて奇異な形状のこの岩塊は、外観の見かけは全く火山岩の「玄武岩」のようである。 隕石でもない限り、元から地元にあった現地性の転石などではなく、明らかに他所から持ち運んで据え付けたものと思われる。
 近くで御手洗石を観察すると、正面には「奉納」、側面には「天保十三年壬寅春」と刻字が彫られている。


「御手洗石」の正面に彫られた「奉納」の刻字


 そこで、この「御手洗石」の由来について、古老や郷土史家らに尋ね、いろいろと古文書などを調べてみると、この特異な巨石は、天保の江戸時代までは粟野の南方、宮川の対岸奥に位置する沼木村の上野 (現 伊勢市上野町) の山間の谷間に居座っていたものであり、その形が釣鐘に似ていた事から、上野の村落ではその昔から「釣鐘巌」 (つりがねいわ) と言われてきた怪石であると言う事だ。

 それを当時、生活物資の行き来等で交流のあった両地区の村人らが話し合いの末、所望をした粟野村に譲られる事になり、天保十三年 (1842年) 正月に、村中総出で谷より引き出して、宮川を渡し越え、粟野村まで運んだとの経緯である。


伊勢市の広域写真地図 ~ 中央の上に「粟野町」、下に「上野町」がある


 それにしても、上野村の山間の谷間にこの巨石がひとつだけ、なぜ鎮座をしていたのかを考えると、地質学的には摩訶不思議であり、外観は全く火山岩の特徴を具えているだけに、謎はさらに深まる。


 伊勢志摩から奥伊勢の度会郡にかけては、新生代の火山が無いのはもとより、火山岩由来の変成岩 (角閃岩、他) の分布もごく限られ、上野町一帯の山地は、西南日本地質区・中央構造線直南の外帯「三波川変成帯」と、さらにその南の「秩父塁帯」の堆積岩の分布地帯に属する。

 当地の三波川変成帯の一部には、蛇紋岩の貫入岩体があって、上野町の一部はその残丘地形の上に位置している。
 いわゆる「御荷鉾 (みかぶ) グリーン・ロック」のゾーンであるが、広域変成帯の一部であるこのベルト・ゾーンは、東方の伊勢神宮宮域の神路山 ~ 島路山を経て、朝熊山の南麓から鳥羽市安楽島半島へと続いている。

 島路山の神宮宮域内の林道の崖には、枕状溶岩構造を残したまま変成した緑色岩(主に角閃岩)の露頭があり、同様の岩層は、鳥羽市安楽島町の小湧園下の海食崖の一部にも見られる。
 しかし、「八柱神社の御手洗石」のような岩塊は、当地方ではこれまでに全く発見されていなく、学術情報は皆無である。
 ( 但し、表面が亀甲状を呈する放射状節理の玄武岩塊は、日本各地の火山帯に見られ、例えば北海道根室の「車石」や、島根県隠岐・海苔田ノ鼻の「鎧岩」などがあり、いずれも天然記念物になっている。)


「御手洗石」表面のクローズ・アップ


 果たして、氷河期の「迷子岩」の成れの果てか、縄文海進があった頃に、何らかの理由で縄文人が筏ででも運んだものなのか、それとも有史以降の大津波の置き去り岩なのか、まずは誰かが「御手洗石」の岩片を薄片にして検鏡をし、岩石名を同定する事から始め、その上で、上野町一帯の山地の地質を精査しない限り、この「奇岩・怪石」の謎を解く鍵は見つからないであろう。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その8  伊勢市二見町の 「夫婦岩」

2019年03月17日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


絵葉書に見る「夫婦岩からの日の出」の海景

 伊勢市二見町の立石崎には、海神「猿田彦大神」を祀る二見興玉神社があり、その海岸には全国的に著名な「夫婦岩」(立石)がある。 当地は古来、日の出遥拝の名所でもあり、夏至の頃には大注連縄のかかるこの夫婦岩の間から太陽が昇る。
 この夫婦岩は、夫婦の絆を象徴しているが、現在はその北東の沖合い 600m~700m の海中に暗礁となって海没している、御神体の「興玉石」(興玉神石)崇拝の門石であり、古昔より共に神聖視されている。


二見興玉神社のある「立石崎」の近景


 地形的には、中央構造線外帯直近の三波川変成帯の広域変成岩から成る、背後の音無山(119.8m)山地の北端が岬を成し、夫婦岩は海食作用によって生じた、海岸突端の「離れ岩」(Stack)である。
 大岩(雄岩)は高さ約9m、周囲が約40mで、緑色片岩で出来ている。 周囲を台座石に固定された小岩(雌岩)の方は高さが約4mで、概ね石英片岩である。
 但し、現在の小岩は、大岩との片理の方向性の不一致を見ても解る通り、昔のままの天然状態の離れ岩ではない。


二見浦の現在の「夫婦岩」(立石)

大正2年頃に撮影された、干潮時の「夫婦岩」(立石)の写真


 この小岩は、今の方がずっと端正で安定感があるが、大正7年9月24日に来襲した大暴風雨により折れて流転するまでは、海底の岩盤から突出した付け根の部分がノッチ状にくびれ、外観が「海食茸岩」(かいしょくきのこいわ)のような形状の、ごく小規模な離れ岩の一つであった。


二見浦真景之圖(明治25年発行の版画)に見る明治期の「夫婦岩」(立石)


 それを、3年後の大正10年10月20日に大修復工事を行ない、周囲を鳥羽市の坂手島から運んだ岩塊等で囲い固めて、現状の姿となった次第である。
 大正初期の頃に発行された古い絵葉書や、それ以前の写真・版画などには、端正では無いが、大岩の片理にぴったりと一致した傾きの縞筋模様(片理)が、元の小岩には認められる。
 ちなみに、大岩には海食の保護対策として、エポキシ樹脂の注入による強化措置が施されている。


二見町・神前岬の海食洞門 ~ 荒崎日女(アラサキヒメ)を祀る「潜島」


 余談ではあるが、二見町のこの立石は、古文書によると男性器のシンボル(陽石・男神)でもあり、立石崎の東方2km程の神前岬(こうざき)には、「潜島」(くぐりしま)と呼称する、女性器のシンボル(陰窟・女神)にあたる海食洞門がある。
 現地には、「荒崎日女」(アラサキヒメ)を祀る祠(ほこら)が据えられ、洞口には注連縄がかかり、夫婦岩同様に神聖視されている。

 まさに、海神(わだつみ=海食作用)の成せる二つの海岸微地形が、古代における「性神崇拝」の伝説にふさわしい取り合わせ(セット)を呈し、興玉神社境内の天の岩屋(海食洞)と共に、伊勢神宮に程近い聖地ならではの神話を物語っている。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その7 伊勢市横輪町の「獅子岩」・その他

2018年12月20日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行

伊勢市横輪町の「獅子岩」~ 横輪口のバス停付近にある

 2018年(平成30年)の戌年(いぬどし)もあと10日程となった。 来年は干支の最後位の「亥」(い)で、亥年(ししどし)であると同時に、天皇陛下が代替わりをして「上皇」となられ、元号も平成から新元号へと移行する。
 とにかく、慌しい新年になりそうだ。
右を向いた「獅子顔の[紋様石]」~ 伊勢市横輪川 産

 さて、亥年の「亥」は、昔の方位を示す用語でもあり、方角は概ね北北西(北から30度西方)である。 又、一日の刻限(こくげん・時刻)をも表し、「亥の刻」はだいたい今の22時(午後10時)頃に当たる。 その亥の刻と言うと、どうしても子供の頃に聞かされた、昔話しの「亥の刻詣り」を連想してしまう。
 無論迷信ではあるが、白装束をまとい蝋燭を灯した白鉢巻を捲いて、その刻限に恨みを込めた相手の名前を書いた藁人形を、他人に見られぬように暗闇の中で、樹木の幹に秘かに五寸釘で打ち込み、呪い殺すのだと言う … 。

瓜坊のような格好の「猪の[姿石]」~ 志摩市阿児町国府北端の海岸 産


 以上の話はさておき、この「亥」は、動物では猪(いのしし・獅子)であり、「猪突猛進」(ちょとつもうしん ~ 猪の如く一直線に突進する事)と言う言葉を聞く事がある。 他には「猪武者」とか「猪牙舟」(ちょきぶね)、「猪の子雲」(いのこぐも)と共に、唐獅子や獅子舞、獅子頭、猪首(いくび)しか知らないが、いつだったか「亥の子餅」(いのこもち)というのを聞いたような気もする。
 ちなみに「猪の子」は、別名「瓜坊」(うりぼう)とも言う。


 伊勢市内やその近隣で、「猪」や「獅子」にまつわる地名などを調べると、度会町の「獅子ヶ岳」と「猪子瀬橋」(いのこぜばし・柳 ~ 和井野間の一之瀬川に架かる橋)がある。


獅子岩のある、サニー道路「横輪口バス停」付近の山林

上掲写真のサニー道路から、樹林越しに眺めた「獅子岩」


 そして、伊勢市横輪町には、「横輪口」のバス停付近の山林の斜面に「獅子岩」(ししいわ)と言う巨岩(露岩)がある。 場所は、サニー道路から横輪に分岐する交差点の、数10m手前の道路に面した山林の斜面で、徒歩で行けば道路沿いにあり、車に注意しながら樹林の間隙を眺めればすぐわかる。

 巨大な白チャートの岩塊で、横輪の方向から眺めれば、冒頭に掲載した写真のように、ブロック状の節理が獅子の口や鼻、耳をも形づくり、まさにに獅子頭さながらで、下の岩盤上に載っかった状態で南西方向に顔を向けて、道路を見下ろすように鎮座している。
 この露岩のサイズは、概ね幅が2~4m、高さが約4m、奥行きが5m程もある。

 横輪の人の話では、この獅子岩の由来は、その昔、一宇郷(いちごう)の武者達が戦(いくさ)に出陣する際に、ここに終結をし、気勢をあげた場所だとの事である。 おそらく戦国時代からの伝承であろう。


堤官舎神社の社務所の前に置かれた「獅子岩」

上掲写真の立札のアップ


 「獅子岩」と言えば、もっとごく小さな岩が、官舎神社(伊勢市小俣町)の境内にもある。 神社の西口から鳥居を潜り抜けた社務所の前に、その由来を記した立札と共に鎮座している。
 ここの岩は、横幅2m程の獅子の姿石(すがたいし)であり、岩石は石灰岩とチャートの互層岩の一部(鎧石)のようである。


 今年もいよいよ終りになって、書き綴っている「伊勢・志摩・度会の石紀行」に何か無いかと考え、思いついたのが「亥」すなわち「猪」(獅子)にまつわる「獅子岩」であり、これにについて雑感を混じえながら記してみた次第だ。


鳥羽市安楽島海岸産の「[い]字石」


 文末の飾りに、以前に鳥羽の安楽島海岸で見つけた、ちょっと珍しい「い」の字の浮き出た紋様石(文字石 ~ 石質は砂岩で、白字は残存方解石脈である)の写真を掲げておく。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その6 伊勢市宮川河床露頭の 「くいちがい石」

2018年07月14日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行

宮川河床の礫岩層内の「くいちがい石」の巨礫 ~ タガネの長さは約19cm

 伊勢市民にも県内外の地学関係者にも、殆ど知られていないが、伊勢市辻久留2丁目の宮川右岸の護岸堤防の下には、一志層群に対比される第三紀層の露頭があり、そのすぐ東の残丘を成す秋葉山(徳川山)へと続く、コンクリート状の礫岩層が河床に広く露われている。


宮川の右岸下に露頭を成す「高倉層群の礫岩層」~ 辻久留2丁目

現地の堤防上にある、解説板の中の航空写真に見る「中央構造線の説明」


 当地は、丁度中央構造線の真上にあたり、岩盤には東西方向と、これに共役する大小の断層が走り、礫岩層内のあらゆるサイズの円礫~亜円礫を圧迫し、特に断層沿いの礫を圧砕・破断しているが、これらの中には「くいちがい石」が多数含まれている。
採集した花崗岩礫の「くいちがい石の標本」~ 長径約4cm

 地元ではここを「平岩」(ひらいわ)と呼んでいるが、護岸の改修工事が成されてから数年しか経っていない現地の真新しい堤防には、当地の「中央構造線」についての詳細な解説板が設置されている。 この中に「くいちがい石」についての説明もある。


堤防上にある「中央構造線の解説板」


解説板の中の「くいちがい石」の説明


 我輩が、この「くいちがい石」を知ったのは、京都の益富壽之助先生(元 日本礦物趣味の会代表・薬学博士)の御高著「石-昭和雲根志(第1編)」(昭和42年4月1日初版・益富寿之助博士紫綬褒章受賞記念会発行)である。 本書の中に、中華人民共和国産の「くいちがい石」の写真が掲載され、その詳しい記述に接した事による。

 それには、
『 地層のくいちがいに対しては "断層" という地学用語があるが、これは一種の地殻変動の記録で、野外では河ぶちの崖や道路の切割などでよくみるものであり、又たまたまこのような断層の部分が自然に崩壊して川におちこみ、亜角礫や円礫にそのくいちがいの跡をみることも決して珍しいことではない。
 しかしここに掲げる "くいちがい石" は上記のようなあり来たりの、月並な断層石ではないのである。 恐らく世界広しと雖も、断層の記録の仕方としてかゝる特殊な表現が果たして他にあろうかと思うくらい珍奇なものである。
 では、どういうものかというと、それは図(本文では71図になる)に示したように、もとたくさんな円礫をふくむ礫岩層に側方から強大な圧力がはたらき、そのために礫岩中の礫の個々に割理(かつり・われ目)を生じ、その割理面に沿って礫の一半が他半に対して滑動し、その結果図にみるような食いちがいを生じたと考えられる奇石である。 このようなくいちがいをもつ石が一、二個といった偶然の発見ではなく、得利寺(中華人民共和国の地名)付近付近の古い時代の礫岩層から無数にみつかるのであるからショックである。
 ( …中略… )
 この石は昭和八年ごろ満鉄資源館々長ドクトル新帯(にいのみ)国太郎先生の命名にかゝるものである。』


堤防上から見下ろした「高倉層群の礫岩層の露頭」

岩盤に下りて眺めた「高倉層群の礫岩層の露頭」


 その後、この「くいちがい石」は、愛知県鳳来町阿寺の阿寺七滝付近の岩盤をはじめ、全国各地の断層帯の第三紀の礫岩層などから次々と発見され、「地学研究」誌等に報告が成された。


 我輩も読後に、「くいちがい石」を探しに、一志層群の各地をはじめとする県内の礫岩層の露頭を見回ったが、全く発見出来なかった。
 それが、秋葉山(徳川山)から宮川右岸下へと続く、高倉層(一志層群に対比される当地の地層名)の砂岩層から産する、植物化石や珪化木、琥珀を探しに当地「平岩の岩盤露頭」に下りてみた処、礫岩層内の細礫から巨礫に至るまで、無数に「くいちがい石」が生じており、いくらでもある事が判った。 正に「灯台もと暗し」であった。
 昭和40年代の半ばの事である。

 但し、当地の「くいちがい石」は、膠結度が弱く、母岩層からタガネで外すと簡単に壊れてしまうものが殆どであった。
  しかし、中には採集してもしっかりと膠結しており、見事な食いちがいを呈するこぶし大程の「奇石」レベルの標本も幾つか得られた。
 今では、きれいな食い違いを示す手ごろな礫は少なくなったが、ひとかかえもある巨礫の中には、はっきりと解る「くいちがい石」や、食い違いの無い「ひび石」がかなり見られる。

 我輩発見の、当地の「くいちがい石が」が地学関係者に紹介されたのは、昭和50年代の初め頃であったと思うが、京都の日本地学研究会の研究発表会で、実物を幾つか持参し講演を行い、その時に人頭大の標本を益富先生の研究会館に寄贈したのが最初である。 その大きさには、皆なが大変驚いてみえたのを記憶している。


 その後年に、ご高齢の益富先生ご夫妻と研究会館のスタッフら数名の御一行を、松阪市の高速道路の工事現場の化石の露頭(一志層群)から堀坂山のキラ谷(ペグマタイト脈)、丹生鉱山跡とその近くの中央構造線の露頭へのご案内を経て、最後に当地宮川の「平岩露頭」へと立ち寄って頂いた事があった。 まだ日の長かった初秋の事であったと思う…。


川船で「くいちがい石」の平岩露頭に降りられた、ありし日の益富先生(右)~ 左は船主の石山さん


 確かこの時、現地に下りるのに、当時宮川の岸沿いにあった石山材木店のご主人にお世話になり、平岩露頭に行く益富先生の為に、ご主人自ら川船を出して下さったのを覚えている。
 学術研究の為とは言え、全くの他人であったにもかかわらず、大変御親切な方であった。


この7月に、改めて現地で採集をしてきた「含ストロンチウム霰石」~ 最大破片は約4.5cm・脈幅は2~8mm


 後になったが、この礫岩層からは副産物として、繊維状を成す含ストロンチウム霰石が産し、礫岩礫をコーティングしていたり、礫を膠結(こうけつ)する砂礫と共にミックスしていたりしている。
 これも我輩の発見であるが、幅数mm 以下の繊維状であった為、最初は石膏かなと思ったが、石膏よりは硬くて希塩酸で発砲するので、多様な産状を示す方解石だと思った。
 しかし、マイゲン反応(化学試験)を試みた処、着色が見られたので霰石だと判った。 さらに紫外線を照射してみた処、一部は淡橙黄色に発光するのでおやっと思い(普通の霰石は、クリーム色~卵黄色の蛍光・燐光を放つ)、当時ご指導を仰いでいた櫻井欽一先生(東京の民間鉱物学者・理学博士)に、産状を書いてサンプルの小片をお送りした。


礫岩層内の巨礫をコーティングする「含ストロンチウム霰石」~ タガネの長さは約19cm

上掲写真の「含ストロンチウム霰石脈」のアップ


 数週間後に頂いたご返事のお手紙には、微量のストロンチウムが検出されたとの事であり、ご参考品として、石川県能登産のきれいなライトブルーの繊維状の霰石を下さった。 ご多忙の中、分析をして下さった櫻井先生には、今も感謝を禁じ得ないでいる。


 益富先生と櫻井先生には、ご生前にははかり知れない程、御懇切な御指導を賜りました。先生方との数々の思い出を回想しながら、本記を稿了するにあたり、ひたすら両博士の御冥福をお祈りし、改めて合掌をする次第である。


中央構造線の影響なのか、北東に流下して来た宮川の流路が、「平岩露頭」の手前で北方に屈曲している

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