伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

「 志摩 」 に関係する稀覯本

2020年06月28日 | 志摩


昭和28年 ~ 昭和30年に発行された 「伊勢志摩」の観光案内書

 風光明媚な海景の、伊勢志摩国立公園のメインである 「志摩地方」 は、今でこそ数多くの観光ガイド書があり、いずれもきれいなカラー写真で解説をしているが、この有湾台地のグリーンとリアス式海岸のブルーが織り成す、当地方の類希な自然美が 「国立公園」 に指定されたのは、戦後間もない昭和21年である。


昭和4年 志摩國史研究會発行の稀覯本「志摩巡り」


 それまでは、志摩電鉄が鳥羽から内陸を通り、古くは 「徒越島」 ( かちごえじま ) と呼んでいた 「賢島」 へと通じてはいたものの、戦前から終戦後間もない頃にかけて、安乗岬から大王崎方面や、先島 ( さきしま )と呼んでいた今の志摩町に点在する漁村等へ、陸路で行くには、僅かな本数のボンネット・バスが未舗装の道路を長時間走り、まさに交通不便な 「陸の孤島」 であった。
 幼少の頃に、家族や親戚の人達に連れられ、磯部町の穴川から巡航船に乗せられて、波切まで行ったような記憶がある。
 その後は、高校時代に志摩町の和具まで行くのに、賢島からやはり巡航船を利用して、英虞湾を横断した事を覚えている。


明治期の「志摩國」の古地図

明治初期頃の簡素な古地図「志摩國」


 志摩地方は、かつては交通不便な素朴な程の僻地であったが、今では舗装道路が四方八方に整備され、沿岸の防波堤や漁港の突堤も立派になっている。
 この志摩地方の海景以外の魅力は、何と言っても 「真珠の養殖」 と 「海女漁」 である。 それに加え、それぞれの村落 (漁村) 特有の風習や生活様式など、稀有な民俗文化が残されている事である。


左より昭和11年・昭和47年・昭和26年発行の「志摩の稀覯本」3冊


 志摩地方の海女の生活や村落独特の民俗等については、明治期よりかなり詳細な調査が成され、数々の資料書があるはずであるが、一般には殆ど知られていない。 観光ガイド書にも少しは紹介されているが、志摩市の図書館などにある郷土誌・史等も、昔の古いものは少なく、明治期以降の資料書としての 「稀覯本」 となると、ごく僅かである。

明治16年・精心社発行の和本「志摩國舊地考」(上・下)


 人文・社会・民俗学関係の資料書以外は、殆どが郷土誌・史に簡単に書かれているぐらいであり、自然科学分野の学術書となると、皆無と言ってよい程である。
 特に、小学校時代の我が恩師、孫福 正 先生の著述書 「志摩の植物」 は、志摩地方の自然科学分野の学術資料書の第一号であろう … 。


昭和8年発行・孫福 正 著(私家版書籍) 「志摩の植物」

1965年(昭和40年) ・ 三重県発行の学術資料書「志摩の自然」


 そこで今回は、志摩地方についての 「稀覯本」 を幾つか紹介させて頂いた次第ですが、当地方全域の郷土誌としての推薦書は、 「鳥羽志摩新誌」 ( 中岡志州編著、昭和45年・中岡書店発行 ) です。 この一冊で、昔の志州 ( 鳥羽 ・ 志摩地方 ) の事から昭和年代までの、志摩地方のいろんな事がよく判ると思います。


昭和45年・中岡書店発行の「鳥羽志摩新誌」

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台風一過の志摩の外海岸を歩く ~ その2~

2015年09月15日 | 志摩

安乗岬へと続く、安乗の外海岸の海景


 9月11日の金曜日は、昨日よりさらに秋晴れの上天気となった。少し薄ら寒いものの、朝の秋風が心地よい。空は快晴の青空である。この日は、少し早く午前9時半に伊勢市の自宅を出て志摩に向かった。
 五十鈴トンネルから、伊勢神宮の宮域林(きゅういきりん・神路山~島路山)を縫うように走り、左サイドに水量の増した島路川の渓流を見ながら、処々に湧き水等の流れる伊勢道路を行く。まだ青々としている樹林のアーチを幾つかくぐって、やがて逢坂峠の下の志摩路トンネルへと入る。トンネルを抜けたこれから先が、かつての「志摩の国」(現在の志摩市)である。

 カーブの連続する下り坂を降りると、右手に石の鳥居とバス停がある。天の岩戸(瀧祭窟・たきまつりのいわや、水穴鍾乳洞)への分岐路で、伊勢道路のすぐ横(右サイド)に貯水池の神路湖がある。先日の大雨で青々と満水を湛えている。この貯水池は、神路川を堰止めたロック・フィルダムで出来ている。
 さらに構造谷のある日向郷を越えて進むと、磯部町の恵利原には和合山(わごうさん)があり、この山上に著名な鸚鵡石(おうむいわ)がある。遊歩道と供に「語り場」と「聞き場」が整備されていて、佐久間象山の詠歌を記した立札が立っていたのを覚えているが、ここへは久しく行っていない。

 「天の岩戸」と「鸚鵡石」は、昔ながらの志摩の二大名所であるが、現在ではこれに「神路ダム」(神路湖)が加わった感じである。磯部町にはさらに、伊勢神宮の別宮である「伊雑宮」(いざわのみや・いぞうぐう)がある。


国府漁港付近の荒磯から眺めた国府白浜


 国道260号線に通じるバイパス道路を通り、磯部町迫間から阿児町鵜方を経て、国府へと向かう。国府白浜に出ると、昨日とは打って変わり磯波も海風もおさまっている。秋晴れの心地よい絶好の海日和だ。
 昨日の場所に車を止めて海浜を眺めると、平日の午前10時半過ぎだと言うのに、数名のサーファーがボードを抱えて渚を歩いている。ここも、夏場の海水浴ばかりではなく、年間を通じてのサーフィンの名所なのだ。


道端立っている国府漁港の表示板

漁港の掘っ立て小屋と、防波堤の上の日干しワカメ

国府漁港

湾内の渚から眺めた国府漁港


 昨日、滝石を拾ったここの岩場へは帰りに寄る事にし、目的地の国府漁港への右手の小道に入る。普通車が一台通れる程の丘道を上り、カーブした下りに差しかかると、右端に赤い鳥居の小さな祠があり、その脇に「国府漁港」と記した表示板があった。すぐ目の前に入浜が開けている。
 安乗への国道からは2~3分である。防波堤に囲まれた初めて見る外海の小漁港であるが、掘っ立て小屋が一つある切りだ。すぐそばの防波堤の上にワカメが干してあったが、国府漁港は空っぽであった。漁船は既に出漁しているのか、台風をさけて、波の静かな的矢湾岸の船囲い場に迂回避難をしているのか、船は一隻も停泊していなかった。


国府漁港の湾入


 防波堤を越えて、外洋の海浜に降りる。引き潮時のようではあるが、大潮で無いと北側の岩場を回って荒磯を辿るのは無理である。南側へは磯浜が続いている。ちょうとした出鼻を越えれば100m程は辿れそうでなので、とにかく歩いてみた。少し先の岩場からは、国府の白浜が見通せる。
 目的の岩盤や崩落礫を探しながら、行ける所まで歩いたが、白脈の入った黒っぽい岩は殆ど無く、海食崖等は風化し黄土化した的矢層群の急斜した互層ばかりである。ここでは、写真を数枚撮っただけで、何も採集出来なかった。


安乗付近の外海岸の湾入 ~ ビーチ・カスプが見られる

安乗付近の外海岸の海景


 再び国道に戻って、少し走り安乗の外海岸への道を下る。道路沿いの防波堤の右先は、遠州灘から続く太平洋の荒海だ。道路の左サイドには、旅館や民宿、人家が続く。降りた防波堤の所から右下に続く、先ほどのような小道に入る。1分も立たずに隠れた防波堤に出るが、その手前の広場は私有地で、ここは流木を燃やす為の焼却施設となっている。
 防波堤の右サイドに、海岸に下りる細い磯道が付いているが、ここも初めて来る場所で、車を止めてこれを下ると、突端に囲まれた感じのちょっとした入浜となっている。対置海岸(海岸地形の一種)ゆえか、ここも湾入はごく僅かである。

 やはり、ここでも北側の岩場回りは無理なので、海浜を南下する事にした。先ほどよりは長く辿れそうである。海食崖のすぐ真上に、立派な館風の大きな屋敷が立っている。資産家の別荘か何処かの保養寮のようであるが、車を止めた所でチラッと見た屋敷の入口の門構えも威風であった。

 早速、目的の岩盤や崩落礫を探しながら、複数の岩場を越えて行ける所まで歩いたが、ここでも白脈の入った黒っぽい岩は殆ど無く、海食崖等は同様に風化し黄土化した的矢層群の急斜した互層ばかりである。


海食崖の上の大きな屋敷

磯波の打ち寄せる外海岸(荒磯)の岩場

外海岸(荒磯)に続く海食崖


 しかしながら、その上部には、不整合に重なる厚さ数mの水平な砂礫層(鵜方層・うがたそう、更新世時代の海成段丘堆積層)が、連続して積載している。地質構造の露頭の名所となるような、実に見事な「傾斜不整合」である。


海食崖に見られる傾斜不整合

傾斜不整合の露頭のアップ


 ゆっくりと見渡し、何か無いかと時間をかけて丹念に調べたが、ここには所々に崩落した角礫が散乱するだけで、さほど漂着物も無く、磯浜は比較的きれいであった。
 結局、「滝石」となるような岩盤等は皆無で、昨日の国府白浜北端の岩場にしか無い事が判った。少しがっかりしたが、それでも標識となるような見事な傾斜不整合に出会い、何枚かの海岸の風景と供に写真を撮った。


岩塊を勝割って持ち帰った「滝石」~ 台座を含む高さ約16cm

上の写真の滝石の背面 ~ 1cm程方解石脈が溶食されいてる

3条の滝筋の懸かる「滝石」~ 横幅約16cm


 帰りには、昨日の場所で岩盤や崩落した岩塊を勝割り、2~3個ほど白脈の入った手ごろな「滝石風」の角礫を得た。
 その後、少し時間があったので、名田の大野浜に寄って、怒涛のおさまった渚を歩いた。打ち寄せられて堆くなった浜砂利の中から、一つだけ形の良い「茸形の漂礫」を見つけて持ち帰った。
 台座をつければ、海石(うみいし)の奇石(茸石)として鑑賞出来そうである。


大野浜で見つけた「茸石」~ 高さ約10cm

大野浜から安乗岬を眺めた海景 ~ 水平線に神島が見える

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台風一過の志摩の外海岸を歩く ~ その1 ~

2015年09月13日 | 志摩

台風一過の大野浜

 今夏は、台風と大雨で終わってしまった。9月ももう半ばとなり、秋の彼岸(秋分の日)が近づいた。今年は彼岸を含めて5連休となるのだが、日本列島はどこもかも、この9月初旬の雨台風(台風18号)で水浸しとなった。
 河川の氾濫や土砂災害にみまわれた被災地では、とても連休どころではなく、特に関東や東北地方の大水害は、想像を絶するばかりである。事後片付けや自活の再起へのご苦労を考えると、とても心が痛む…。

 当地伊勢志摩地方も、この台風では記録的な大雨にみまわれ、伊勢市内の五十鈴川が危険水位を超えて、流域の各町々に避難勧告が出されたが、浸水被害は楠部町の数件だけであった。我家のすぐ裏の勢田川も、両岸の「犬走り」までは水がついたが、改修された護岸からあふれ出すことは無かった。
 宮川も川原は全て水没し、ピーク時には河川敷まで水位が上がっていたが、ここ数日で徐々に水が引き、普段に比べて増水してはいるものの、延期となっていた宮川の「伊勢神宮奉納花火大会」(9月12日)も、好天のもと無事に終了した。

 8月下旬から9月の初旬にかけては、天気予報もあまり当てにはならず、伊勢市でも天気の変化が著しく、天候がさっぱりしない日が続いた。
 大雨をもたらした台風が、日本海沖で温帯低気圧に変わったものの、その速度が遅くて停滞性の秋雨前線を吸収し、東海地方から関東・東北地方まで伸びていて、さらに大雨が続いた。この気象現象は、気象庁によると、各地に南北方向の「線状降水帯」が形成されたからだとの説明であった。
 この聞きなれない用語の解説を調べてみると、「線状に延びる降水帯で、積乱雲が次々と発生 し、強雨をもたらす。規模は、幅20~50キロメートル、長さ50~300キロメートルに及ぶ」とある。


 中旬に入って、10日(木)~ 13日(土)と久しぶりに秋晴れが続いたが、大雨にうんざりしていたので、10日・11日と台風一過の志摩の海(外海岸・そとかいがん)を見に行った。午前中は少し強めの秋風が心地よく、どこを通ってもまぶしい程の陽射しの降り注ぐ中、雑木林では「ミンミンゼミ」と「ツクツクボウシ」が盛んに鳴き競っていた。

 志摩の海岸で、我輩が漫(すずろ)歩きをする場所と言えば、まず国府白浜から海水浴場のある阿児の松原を経て、甲賀の砂浜海岸~城ノ崎、志島の市後浜、そして名田の大野浜~名田漁港にかけてである。
 10日の木曜日は、いつもの逆のコースを辿ってみた。


台風一過の大野浜の渚

大野浜東端の離れ岩にぶつかる怒涛

大野浜西端の海食崖に逆巻く波しぶき


 最初に行ったごく小さな名田漁港も、そして隣の大野浜も磯波が荒れ狂い、怒涛となって渚に打ち寄せている。大野浜のビーチ・カスプは全て崩され、うるさい程の潮騒と供に、浜砂利が音を立てて浚われては返し、傾斜した渚で転げ回っている。
 両端の突端を成す離れ岩や海食崖には、次々との大波が打ち寄せ、高々と波しぶき上げて逆巻いている。
 海風も半端じゃない。ともすれば吹き飛ばされそうで、無論誰一人といない。いつもなら渚に降りて石拾いをするのだが、この日はそれどころではない。荒磯の激しい海食作用と、実に生々しい荒波の運搬作用を目撃しただけである。

 志島を通り過ぎ、漁港のある城ノ崎~甲賀の砂浜海岸に行っても、状況は同じであった。甲賀漁港には、もやい綱に繋がれた十数隻の無人の漁船が、回り込む大波に激しく揺れていた。
 その北方の砂浜の渚には、ここ数日来流れ着いた夥しい数の大小の流木群が、整然とした列を成して打ちあがっていた。それらの流木の一部が、浜辺の所々に寄せ集められ積まれている。後日焼却する為であろう。
 甲賀の砂浜海岸北端の出鼻から、阿児の松原海水浴場を眺めると、たたみかけたバラック組みの数軒の「海の家」あり、海風にさらされていた。この日はさすがにサーファーもいなかった。


台風一過の国府白浜


 最後に国府の白浜北端の岩場に立ち寄った。この白浜海岸は遠浅であり、波消しブロックの効果もあってか、押し寄せる大波も連続ではなく、吹き付ける海風もさほど波しぶきを含んでいない。昼下がりの日射が、長々と続く白砂の浜と防波堤のコンクリートに照り返してさらに眩しく、秋晴れの残暑に全身が汗ばむ程だ。

 砂浜に下りると、陸水の流れ出るちょっとした水路があり、砂浜をえぐって海へと続いていた。そこには大小の黒っぽい角礫が散乱していた。手にとって見てみると、多くは砂質岩のようだ。的矢層群(中生代の白亜系)のグレイワッケ型砂岩だろうか。中には剥離性に富む泥質岩(泥岩~黒色頁岩)も混ざっている。多分、このすぐ横(白浜北端)の海食崖を成す荒磯から崩落した、現地性の角礫であろう。

 幾つか見ていくうちに、幅1cm程の白い筋脈の入った角張った塊を見つけた。純白ではあるが結晶粒の認められない陶器状の方解石脈のようだ。ひょっとすると、水石として「滝石」になりそうなものがあるのではと思いながら、目の前の岩場に行った。
 似たような角礫は幾つかあったが、筋脈が海水の溶食作用(溶解浸食)でえぐられすぎているのと、岩石に多数の節理や破れ目、亀裂もあって、すぐに砕けてしまいそうなものばかりである。うまく勝ち割れば、何とか「滝石」にみなせそうではあるが、とても山水景石とはならない。
方解石脈の入った、現地性の砂岩角礫 ~ 小片の方は握り拳大


 もっと北方の安乗までの間の外海岸に行けば、古谷石のようないいものがあるかも知れない。多分、地元には鑑賞用の流木を拾い集める人はいても、このような水石趣味者はいないであろうし…。

 明日又ここに来て、まずはこの先にある隠れた入浜の国府漁港に行き、ゆっくりと国府白浜から安乗にまで続く外海岸を見回ってみる事にした。この日は、手ごろな滝石風の岩片を一つだけ持ち帰ることにした。台座をつければ、ちょっとした「滝石」として鑑賞出来そうである。

 志摩の外海岸に来てみて、「滝石」の新産地を発見した事もあり、さらに国府漁港には一度も行った事が無いので、帰路に着いた帰りは久しぶりに明日が楽しみであった。
国府白浜北端産、仮台に載せた「滝石」~ 左右幅約11.5cm

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志摩地方の隆起海食台の土地利用

2010年06月30日 | 志摩

丘陵地上面の貫通道路と畑(越賀)

 

マリン・ブルーとグリーン・ヒル

 英虞湾を中心とする志摩地方は、リアス式海岸を成す複雑な汀線が陸地を囲み、隆起海食台より成る丘陵地が海抜30~60mの高度でなだらかに広がっています。その為、鋸歯状に入り組んだマリン・ブルーとグリーン・ヒルとが織り成す当地一円の風景は、四季を通じてこの上ない魅力的な観光資源となっています。

 

「かちごえじま」が賢島に、そして志摩の観光拠点へと

 今は近鉄電車の終点となり、離れ島の気が全くしなくなったが、 志摩・奥志摩への観光の中心地でもある賢島は、かつては周囲7.5km程の英虞湾最大の離島であった。昭和4年に志摩電鉄が開通するまでは、「徒越島」(かちごえじま)呼ばれる雑木の茂る赤茶けた単なる離島にすぎず、島と言っても対岸とは20m程しか離れていなく、それ以前は、神明から狭い水道に粗末な橋が一つ架かっているだけであった。当地の地図を開いてみると、賢島は、阿児町国府から大王町を経て、先志摩半島先端の御座まで辿ると、半径約6kmの円弧の中心に位置する事が解る。そして、ほぼ1.5km~3kmの間隔で、この円弧に沿って主な村落が点在しているのが読み取れる。

 

丘陵地の上面を貫くように建設された幹線道路

 これらの村落に通じる幹線道路や、村落間を繋ぐ村道などを見ると、丘陵地や岬のほぼ中央を貫通するように建設されていて、志摩地方独特の地形をうまく活用し、農・漁業中心の田舎暮らしの生活と密着した、無駄のない効率の良い土地利用が成されて来ているのに気づく。現在は、都市文化の浸透や観光開発などが進み、大きく変貌しつつあるが、それでも随所に原形をとどめている風景を眺める事が出来る。

 

丘陵地の高台は段々畑として利用

 先ず、丘陵地には河川が殆ど無い事に気づくが、高台となっている広々とした丘陵地の上面は、水の便が悪いので水稲耕作が出来ず、畑地(段々畑)となっている。畑地としての利用は、上面ゆえに開墾が容易くて、平坦地が広くとれたことも掲げられる。

 

軟弱地盤を補強する丘陵地斜面の山林

 次に畑地を取り囲む谷地や海食崖上方の急斜面は、地盤が軟弱で、侵食によって崩れやすい場所柄ゆえ、侵食防護や地盤強化の必要性もあって、主に山林(ウバメガシやヤブツバキ、アカマツなどが多い)となっている。

 

小谷の低地に見られる水田の分布

 そして、小谷の低地や湾奥の低地は、水の集まりやすい位置であり、湧水もあって引水しやすい場所としての条件をクリアしている事から、主に水田(棚田)として利用されている。これら事は、志摩地方の田畑、並びに山林の分布図を描いてみると一目瞭然である。

 

考え抜かれた志摩地方独特の土地利用~特に幹線道路の設置条件について~

 さて、最初に紹介した賢島の観光拠点としての土地利用の絶妙さを再認識しながら、続いて記した主要道路の設置場所の諸条件についてまとめてみると、次の事があげられる。

  1. 海水の被害を受けにくい上、地盤の一番安定した建設のしやすい場所である。
  2. 見晴らしがよく、観光道路としての条件も備えている。
  3. 内湾、外洋、いずれの海岸へ物資を運ぶのにも便利な位置である。
  4. 広々とした畑地への交通が極めて便利であり、所要時間が短縮されるうえ、枝道がつけやすい利点がある。
  5. 直線ゆえ、辿る距離が短くて済み、建設費の点からも経済的である。

 

地方色に富んだ志摩地方探訪の旅を…

 ところで、みなさんは、以上の事にお気づきでしたでしょうか。英虞湾周辺の志摩地方の風景、風物に接しながらこの地方を観光する時、自然の姿のみならず、地理や歴史、民族などにも触れられると、一層楽しさも増し、旅情豊かな志摩の旅が出来るとのではないかと思う次第です。

 

谷地を利用した水田(甲賀口付近)

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志摩で見つけた「高師小僧」

2010年06月19日 | 志摩

鵜方層の露頭(志摩自動車学校付近)

 

地学的見地から志摩を見る

 伊勢志摩国立公園は、複雑で美しい海岸風景が観光資源である。そして、真珠のふるさとであり、海女の獲る海の幸の数々は、四季を通して食感をそそり、旅情に彩りを添えてくれる。

珍しい石や岩が各地に点在

 この変化に富んだリアス式海岸線を持つ隆起海食台の丘陵地形や離島、緑の山並みが織り成す情景豊かな伊勢志摩国立公園を歩き回ると、観光名所や名産物の影に、他所では見られない程、色々な珍しい石(岩石・鉱物・化石、遺物など)に出会います。

「石」なるものとは ・・・

 ひと口に「石」と言っても原始人の使っていた石器の類から、石材や地下資源として掘り出される各種の鉱石、そしてクリスタル(結晶)や宝石類、又、地球や大地の歴史を知るのに役立つ動・植物の化石、鑑賞石としての色々な水石、そのほか、信仰の対象となっている各地の謂れ石や名物岩など、実にさまざまである。

高師小僧(たかしこぞう)

 筆者は、今は鵜方(阿児町)の住宅街となっている裏城団地の造成が始まった頃、当地の粘土層の中から無数の「高師小僧」(たかしこぞう)を見つけ、夢中でいろんな面白い形のそれをたくさん採集した事がある。現在も、志摩自動車学校付近の粘土層をはじめ、志摩地方各地の同様の地層の中からいくらでも採れる。

れっきとした鉱物の名前

 さて、「高師小僧」と言うと、何だかお寺の小僧さんのあだ名みたいであるが、れっきとした鉱物である。地方によっては、「鬼わらび」だとか「狐の小枕」など、さまざまな呼び名がついているが、時代の若い未固結の地層の中から出てくる、ミニサイズの土人形を思わせる黄土色のその形を見れば、小僧と言う名前が妙を得ていて、頷けなくもない。しかし、石化した化石ではなく、地層中において化学的に生成するコンクリーション(単層の中の不定形の固結塊で、結核とも言う。球形のものはノジュールと呼び、区別される)の一種である。

由来は豊橋市の高師ヶ原から

 「高師」と言うのは、仏教用語ではなく、明治期にその原産地であった愛知県豊橋市郊外の「高師ヶ原」(現在の曙町、西幸町一帯)の地名に由来するものである。

鵜方層から産出

高師小僧の露出する粘土層の上面  これが、英虞湾を取り巻く志摩地方の海成段丘堆積層の粘土層の中から、無尽蔵と言ってよいぐらいたくさん産出する。現在も、志摩自動車学校付近の道路沿いの地層のカッティングやその上面で、誰でも簡単に採集できる。高師小僧を含む当地の地層は、更新世時代のもので、鵜方層と言う。

正体は植物の根や茎を取り巻いた鉄分

無数に散らばる高師小僧  高師小僧の多くは、大昔の池沼や低湿地などに生えていた植物の根や茎の周囲に、地下水に含まれていた鉄分が水酸化鉄(褐鉄鉱や針鉄鉱)となって、粘土とともに沈着したものである。典型的なものの断面を見ると、中心にストロー状の孔があり、その周りを年輪状に幾層もの外皮が取り巻いている。いわゆる成長皮殻である。

現在も進行形で生成

 志摩自動車学校から裏城団地バス停にかけての地層では、その上に現生するウバメガシなどの植物根に付着しているものがあって、比較的地表に近い上層部に集中しており、現在も生成が進行中の「即成」高師小僧と考えられる。

志摩では採集し放題

 豊橋市では、天然記念物になっているが、当地では高師小僧は採集しほうだいである。オーソドックスな管状や樹枝状のものを手始めに、小球状のもの、鍔付きのもの、茸やわらび、瓢箪、魚、ヒトデ、鳥、獣などの形の他、さらにマドロスパイプやバーベル、亜鈴、リングになったものなど、いろんな姿格好のものを集めてみると楽しい。但し、人形の姿をした「小僧タイプ」ものはなかなか見つからない。

昔は、漢方の石薬であった

 この高師小僧は、古名を「土殷けつ」(どいんけつ)と言い、全国各地に産し、江戸時代既に一部の漢方学者らには「石薬」として知られ、処方に用いられていた。当時の石類学者の木内石亭の著書「雲根誌」にも「志摩国神明浦(しめのうら)に産する」とあり、当地一帯が昔からの著名な産地であった事が伺える。

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志摩の海岸で見つけた珍しい石を二つ紹介します

2010年06月04日 | 志摩

田曽白浜から南張海岸を臨む

 

その1.南伊勢町田曽白浜~志摩市浜島町・南張海岸の漂着軽石

 

弧状に伸びる綺麗な汀のライン

 南志摩、浜島町の西方には、田曽浦(南伊勢町)へと続くリアス式海岸の岬角(こうかく)間に、断続的に小磯や砂浜が連なっている。特に、田曽浦の東方には弧状に伸びる汀線の綺麗な大きな砂浜が、小さな岬を挟んで2つ続いているが、西方のビーチが「田曽白浜」、その東が当地最大規模(全長約600m)の南張海岸である。両海岸とも夏季にはキャンパーやサーファー、海水浴客らで賑わう。

 

浜に漂着、火山の小石

 この内、田曽白浜の一部には、礫浜海岸特有の微地形であるビーチカスプが形成されている。又、当地も含め付近一帯の砂浜海岸には、ここ数年来、大小の軽石が漂着し話題となっている。現在では多くが砂に埋没してしまったが、流木や漁具、生活廃品等、様々な漂着物の密集した場所(ゴミ溜まり)を探せば、こぶし大以下の小塊を採集することができる。

 

黒潮に乗って

 この軽石の由来は定かではないが、最近噴火した火山と言えば、富士火山帯の三宅島が最有力と考えられる。黒潮に乗って、はるか彼方から流れ着いた可能性が高い。

 

夕焼けの熊野灘

 なお、晴れていれば、広々とした熊野灘の素晴らしい夕焼けの海が眺められる。

 

その2.志摩市大王町・名田の大野浜海岸の断層の入った小礫

的矢層群という中生代の地層に由来

 大王岬の北方にある小さな小礫の浜の一つに、名田の大野浜がある。ここは在所の北はずれにあり、舗装道路のすぐ前で、最近護岸の強化工事等が成され、行きやすくなった。波切の周辺には、似たような小規模の小礫の浜が幾つかあり、浜を見下ろす小高い岬には的矢層群という中生代の地層が露出し、志摩地方のリアス式海岸の海食崖や海食台、離れ岩(岩礁・暗礁)等を形成している。この地層を構成する泥岩(頁岩)や砂岩、チャート等が海食の結果漂礫(ひょうれき)となり、寄せては返す磯波によって程よく淘汰され、きれいに磨かれて大小の浜砂利となって、ビーチカスプを形成して堆積している。

 

断層入りの小石は、名田の大野浜に集中

 特に大野浜では、この浜砂利の中の小礫に縞目のきれいな小石があり、それらの中には層内断層(そうないだんそう)を伴うものがかなりの頻度で混在している。目が慣れてくるに従い、探せばいくらでも見つかるので採集するとよい。なぜ、このような珍しい小礫が大野浜に集中しているのかは、定かではない。

 案外、『地震の御守り』になるかも ・・・・・ 。

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志摩の先志摩半島 ~ 地形と地質について ~

2010年04月30日 | 志摩

 先志摩半島

 志摩市の最南にある先志摩半島は、元々は船越(大王町)で途切れた一つの離れ島で、崎島(転じて崎志摩)と言い(注1)、英虞湾を取り囲む東西に細長く伸びた後背地を成す離島であったが、現在は狭小な陸繋砂州で地続きとなり、志摩半島の退治崎から西方に突出した小半島を呈している。ちなみに、当地の最南端は麦崎である。

 先志摩のリアス式海岸の成因

 先志摩半島の大地の骨格が誕生したのは、中生代の白亜紀以降であるが、その後の地質時代を通して、幾度かの地盤の昇降運動(隆起・沈降)に侵食輪廻が加わり、何段階かの複雑なプロセスを経て、現在見るようなリアス式海岸を備えた隆起海食台(有湾台地)となった。

 英虞湾と外洋の海岸(太平洋岸)

 地形は、現在およそ標高20~40mの東西に続く定高性の台地をベースに、氷河期(第四紀更新世)及びその後に刻まれた小谷が、後氷期の海進により一部は湾入(溺れ谷)となり、特に英虞湾側は、その後はさほど海食を受けていないので、そのまま出入りの激しい鋸歯状の海岸線となっている。一方、太平洋側は激しい外洋の海食作用によって、かつて低所(凹地・堆積台)に一度堆積した地層(海成段丘堆積層・鵜方層と言う)が小規模な離水後に海食作用で抉られて湾入となった後、岬角部の基底岩層より供給された砂礫が再度堆積し、湾を埋積、その結果比較的なだらかな砂浜や礫浜海岸が岬角間に断続する直線的な海岸地形(対置海岸)となった。
 沿岸低地の一部には、砂州によって内湾が閉塞されて生じた小型の海跡湖的な池沼(注2)や、さらにこれが埋積され、淡水化して生じた湿地帯のほか、汀線には、堆積微地形であるビーチカスプも見られる(日和浜海岸ほか)。

 岬に見られる激しい海食作用

 先志摩半島先端の御座岬や岩井崎、麦崎等、外洋側の突端部は、現在も進行中の激しい海食作用に晒され、険しい岩石海岸(荒磯)となり、海食崖、海食台、海食洞、海食洞門(注3)、離れ岩等の海食地形の他、ミニサイズの陸繋島や、海岸線の後退による岩礁、暗礁が多数点在する。
 なお、独立標高点を成す御座の金毘羅山(標高99.0m)と、陸繋島として地続きになっている御座岬の小山・黒森(標高96m)は、いずれも残丘状の孤峰である。

 先島半島の地質 

 先志摩半島の地質は、西南日本外帯地質区に属し、主として四万十累帯北半の日高川帯を構成する上部白亜系の付加体(当地では、中生代白亜紀頃の地層を的矢層群と呼ぶ)と、これを不整合に被覆し、隆起海食台の上位に広がる鵜方層(第四期更新世時代の海成段丘堆積層)から成る。

 的矢層群は
 北方(一部南方)に急斜する厚さ5~10cmの砂岩・泥岩互層を主とし、一部にチャートや凝灰岩(輝緑凝灰岩)層のほか、グレイワッケ型砂岩、アルコーズ砂岩、石灰岩レンズ、含マンガン鉄鉱層(膨縮するレンズ状鉱体)等を介在させている。本層は先志摩半島一帯の道路のカッティング(切り割り)や海食崖等において詳しく観察され、見かけ上は、一般走向N50~70°E及びE-W、北傾斜(傾斜角65°以上)の単斜構造であるが、化石に乏しく、層内には激しい地殻変動の跡を物語る褶曲(背斜及び向斜構造、一部に等斜褶曲)や小断層群が複雑に発達する。特に、御座岬付近や越賀の阿津里海岸、麦崎灯台直下の海食崖等に好露頭が見らる。
 鵜方層は
 厚い箇所では厚さ20m以上あり、未固結の粘土(白色、青灰色、黒褐色、黄土色等)、砂(一部シルト)、礫(注4)等から成り、ほぼ水平に成層し、凹凸のある明瞭な不整合面を見せて基底の的矢層群を被覆する。特に粘土層の一部には埋もれ木等の植物遺体を含み、有孔虫や貝化石、ウニ等の海生軟体動物化石とともに、コンクリーションの一種である高師小僧を形成している場所もある。

 なお、礫層の中には海成起源とは考えにくい、由来不明の径1cm前後のきれいな乳白色チャートや珪岩等、石英質の円磨度の高いきれいな円礫が多数含まれている。(注5) 

  • 注:1 科学画報 11巻・1 号 P.94 掲載記事 「志摩の先島半島」 参照
  • 注:2 大王町船越の大池や、志摩町大野の中スカ池など
  • 注:3 大王町波切の米子の浜には、かつて大きな海食洞門があった
  • 注:4 主にチャートの円礫・亜円礫より成る。但し基底礫には分級不充分な砂
        岩角礫も介在する。
  • 注:5 「志摩町史」によれば、「俗に鳩目石と呼ばれている」とある。

<参考文献> 「志摩地方の地形と地質」(1985) 編集・発行:志摩マリンランド

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