よく晴れわたった志摩の海は、四季を通じて様々な表情を見せてくれる。サンライズ(日の出)の夜明けの海やサンセット(日没)の夕映えの海は、朝紅(あさくれない)や夕紅(ゆうくれない)、さらに条件によっては茜雲(あかねぐも)や紫雲(しうん)が漂い、感無量の海景を見せてくれる。
各地に設備された特定の展望台以外にも、当地には隠れた絶景ポイントが数多くある。
真昼においても、入り江や岬の地形、リアス式海岸や多島海のマリン・ブルー、有湾台地のグリーン・ヒルなどが織り成す志摩の海景は、自然美そのものである。
志摩の風景・風物などを追って走ってみると、その日の天気や時間帯によって表情がかなり異なり、時々刻々と移り変わってゆく様子がよく解る。
志摩地方から奥志摩にかけての海岸は、東西に広がっている場所が多いので、太陽との位置関係によって海の色が全く変わってしまうし、月齢による大潮・中潮・小潮の違いや、波浪、うねり、凪、引き潮、満ち潮などの潮時(しおとき)の差によっても、微妙に変貌してしまう。
それに、荒磯や砂浜の渚に打ち寄せる磯波(寄せ波や砕け波、大波・小波、漣など)の表情を入れると、全く同じ風景は皆無と言って良い。
昨今は、暴風時の高潮や津波の対策で、入浜となっている漁村等の海岸には、波消しブロックがぎっしりと積まれ、防波堤も補強され随分高くなった。
海岸に人造の地物(じぶつ)が多いと、海景の自然美が半減してしまうので、志摩の海景写真を撮る時は、自然の風景の美しさと共に、なるべく昔ながらの素朴な風物のみを念頭に、各地を探索している次第である。

志摩半島のほぼ全域を占める、志摩地方から奥志摩(南伊勢町)にかけての「伊勢志摩国立公園」の海景は、当地方を訪れる観光客の最大の魅力となっている。
そして、旅行ガイドブックや写真集、雑誌、絵葉書等にも各所の絶景がクローズ・アップされて掲載されており、当地方の海岸美は全国屈指であり、国内外に広く知れわたっている。
四季折々、多彩な表情を見せる数々の海景も、その絶景ポイントが多数の写真家や風景画家らによって探り尽くされていて、もはや知られざる場所は無いように思われる。
我輩こと「伊勢すずめ」も、志摩から奥志摩地方にかけての海岸美に魅せられた一人であるが、これまでに撮影した当地方の多数の海景フォトの中から、特に気に入っている絶景を何点か選び、改めて掲載する次第である。
志摩の海景は、地元の人達によると、写真を撮るなら夏よりは冬の方が海の色が濃くてきれいだと言います。
海岸線の位置(地形)によるのか、日射の角度によるのか、空気の澄み具合なのか、あるいは暖流の流れ込み具合等も関係しているのか、とにかく外洋の場合は、私には気圧配置が冬型(西高東低)のカラッとよく晴れた日の、しかも午前中に濃紺の海面が広がっていて、写真撮影にはベストのように思われます。
夏場は、どこに行っても海岸に人が多いこともあり、海の色も冴えませんが、内湾等の夕景を撮影する場合は、太陽の沈む位置関係もあって、夏から秋にかけてがベストのような気も致します。
掲載写真は、全てコンパクトカメラ(デジカメ)による素人撮影のオリジナル・フォトです。

3日間ほど寒くてぐずついていた春のきまぐれな天候が一変し、久しぶりにカラリと晴れ渡った。四月も半ばが過ぎ、上天気の週末(18日、土曜日)となった。桜の木立は花吹雪から葉桜へと移行し、新緑の息吹が聞こえて来そうな日和に誘われて、とにかく外出する事にした。 どこへ行こうかと思案し、いつもなら志摩の海岸に行く処であったが、この日は鳥羽の秘境とも言える「河内谷」(こうちだに)を思い立ち、車を走らせてみた。
伊勢市の市街地から鳥羽市へは、昨今は道路事情が大変よくなり、「伊勢-二見-鳥羽ライン」(有料道路)を使えば15分程しかかからない。又鳥羽と志摩の中間に位置する、古刹・正福寺のある青峯山(あおのみねさん)へは、途中から分岐する「第二伊勢道路」を使えばすぐ麓の白木町(鳥羽市)に出る。
この日は第二伊勢道路を走り、国道167号線に出て少し鳥羽方向に戻ってみた。国道沿いの岩倉町(鳥羽市)から西方に延びる加茂川の河谷(かこく)が「河内谷」で、その奥に行くと河内ダムがある。朝熊山の南側に当たるこの谷は、入り口は狭いが奥に行くと広くなり、五十鈴川や横輪川の渓谷に匹敵する長さである。 加茂中学校の前を通り、加茂川左岸の一本道を進むと、すぐに河内町(鳥羽市)の村落に至る。さらに奥の「奥河内」の村落の手前に差しかかると、渓流はここで大きく蛇行し、真上にこの谷間を跨ぐように建設された、第二伊勢道路の細長い高架橋を見上げる事になる。
河内町界隈は、国際観光都市である鳥羽の市街地や鳥羽湾、観光化されリゾート施設の増えた海域沿岸の漁村などとは違い、山あいの閑寂な農村地帯である。猫の額ほどの小狭い加茂川の氾濫原は、全て水田と化しており、時期的に田植えが始まっていた。途中の道路沿いには、「彦滝大明神」を祭る彦滝神社の道しるべや、急な石段の付いた河内神社がある。 奥河内と言えば、かつてかなり大々的に稼行していたマンガン鉱山のあった場所で、明治期に発見され、古くは加茂鉱山として開発され、その後休山をはさみ、昭和40年代まで「鳥羽鉱山」として採掘、高品位の二酸化マンガン鉱や鉄マン(主に含マンガン赤鉄鉱)を出鉱していた。今でも川を渡ると、社神坑(やしろがみこう)の跡があり、トロッコ・レールの軌道跡や通洞坑とともに、幾つかの小規模坑の坑口が残存している。
ここへは、10年ほど前に行ったきりである。雑木の茂る山腹の斜面に複数の露頭があり、至る所に鉱石やズリ石が転がっている。各種のマンガン鉱物と供に、黄鉄鉱やマンガン方解石の他、重晶石や重土十字沸石なども産出していた。 この他、当地は全国的に著名な「燐鉱」の産地でもある。但し、ここの燐鉱は、肥料原料としての採掘には至っておらず、文献上の産地に過ぎないが、とにかく明治期から「加茂の燐鉱」として全国に知れ渡っていた。 しかしながら、その実態は、二酸化マンガン鉱等に伴う白色のボロボロの土状鉱物である。主成分は、燐灰石との分析データがあるのだが…。
奥河内の村落を過ぎると、全く人の気配が無くなる。対向車など滅多に見ることも無く、道はいつの間にか林道となり、小さな橋を渡るとすぐに河内ダムに至る。当地ではちょっとした雄大なコンクリート・ダムである。国道からここまでは、約3.5kmの距離である。 このダムの上は、林道の続きとなっていて、真っ直ぐに険しい谷を横切って渡る事になる。さらに先は、朝熊山南麓の山林となり、渓流も狭まり「石乃鍛冶の滝」などのある八石(はちいし)という所に至るが、林道は行き止まりである。 ダムの手前には、さらに上流へと続く別の林道があり、右岸に一本道として続いている。この先の七石(しちし)には、川魚(カワナ)の養殖をしいてた、水槽のある人家らしき建物が一軒あっただけで、他には作業小屋の立ち腐れが見られたのを記憶しているが、七石まで行ったのは、もう30年も前である。 ダムでいっぷくした後、とにかく七石まで行ってみる事にした。ダムサイドの崖道は、昔のままであり、曲がりくねったガタガタの悪路である。
まるで渇水したダム湖のような巾着状の谷間の右岸を、車一台がやっと通る細い林道を回るようにして1kmばかり進むと、やがて枝谷から流れ出る細い渓流に出合うが、この渓流沿いの山中(さんちゅう)に、かつて硯石の石材を試掘した場所があったらしい。今は全く判らなくなったが、林道沿いの渓流の石溜まりに、その当時に切り出した岩塊や岩片が転石となって流れ出ている。 ここの石材は、山口県の赤間石に似たアズキ色をした泥質岩(赤色頁岩~粘板岩)で、明治の初期に発見されたようで、その頃の文献に「燧石」(ひうちいし)と供に既に記載されている。 この他、当地の山中には、マンガン鉱山の坑道跡なども複数あり、現地には今も二酸化マンガン鉱等の鉱塊が転がっているが、ここも、もう知る人が少なくなってしまい、雑草に覆われるにまかせて、「今は昔…、つわもの共の夢のあと」と化している。 久しぶりに鳥羽の河内谷に分け入り、人里はなれた雑木の小谷で森林浴に浸るも、耳にするのはせせらぎと野鳥の囀りだけであった。帰りには、渓流で硯石の石材片を幾つか拾い、ゆっくりと岐路についたが、河内谷界隈は、春日和ののどかさを通り越して、全く忘れられたような山あいの田舎風景であった。


伊勢志摩は、志摩半島北半の複雑なリアス式海岸や多島海(鳥羽湾)と、隆起海食台より成る有湾台地の樹枝状の入江(英虞湾とその周辺)が、背後の濃緑(こみどり)の壮年期山地と共に、一体となって自然美を折り成す、風光明媚な海の国立公園である。
この自然公園には、伊勢神宮があり、伊勢市の前身である神都・宇治山田市までは、明治期より順次鉄道が整備され、多くの参詣者や観光客を運んだ。その後は国鉄が鳥羽まで延長され、又、鳥羽からは南志摩の拠点の鵜方、賢島(志摩市阿児町)へと、ローカル電車(通称、志摩電)が通じた。
鉄道が開通すれば、まず主な停留所の駅前が整備される。そして次第に旅館や商店が出来、付近一帯の景勝地や名所・旧跡、名物などがクローズアップされ、当地への旅客を誘い、旅行者の関心を惹き付けたのは言うまでもない。 中には商店街やメインストリートさえ出来た町もあった。むろん戦前の話である。
昔と今では、交通事情も道路網も大きく異なっているが、鉄道の駅から遠くはなれた志摩地方の農漁村は、かつては幹線道路もバス一台がやっと通るだけの、未舗装のガタガタ道であった。今は、旧来の狭い国道も二車線に拡幅整備され、バイパス道路や農免路道なども出来て、たくさんあった巡航船の航路に代わって、自動車主流の時代となっている。
現行の航路は、鳥羽湾の三つの離島と神島への市営船と、的矢湾の唯一の離島・渡鹿野島、並びに英虞湾の賢島 ~ 間崎(離島) ~ 先志摩(和具・御座)への巡航船だけで、幾つかの漁村をつないでいた海上輸送の航路は、昭和の半ばを境に全て無くなった。
伊勢志摩で大きく変わった風景は、まず旧国鉄や私鉄の終点やターミナル駅の駅前であろう。そして貨客船の発着港や漁港、市街地の町並みなども、戦前と戦後では大きく変わった所が少なくない。中には、戦後は全く失われてしまった鉄道や名所も数多くあり、そんなかつての懐かしい風景を、古い絵葉書から選り出してみた次第だ。
一枚一枚の古い絵葉書に見る風景は、レトロなノスタルジーの絵世界でしかないが、そこには、発展途上だった頃の不便さを映しながらも、今ほどに環境を破壊する事のなかった、何かしら素朴な良さが顧られはしないだろうか・・・。

古代人達の超パワー
古代の人々は、大自然の偉大な営みに「神の存在」を信じ、太陽を崇め、海洋を拝し、大地に宿る神霊を祀った。時には敬い、時には祈願し、生活エリアの安泰とともに、自身の生命の健康を願った。近代科学が、順次自然界のしくみや諸現象を解明するまでは、人々は神とともに暮らしてきた。しかしながら、エジプトのピラミットやマチュ・ピチュの高山都市、ナスカの地上絵など、世界各地に点在する巨石文明の遺跡や遺物を目の当たりにする時、そこには、人智を遥かに超えた古代の驚愕すべき絶大なパワーを読み取る事が出来る。 未だに解明されていない巨石の加工や運搬、構築技術、それに拘る幾何学の応用や高度な土木技術など、古代人達の超パワーを感じずにはいられない。
巌(いわお)や巨木のパワー
古代の謎とされる巨石文明とは別に、私たちは、峻険な巌(いわお)や樹木の巨木などにも神がかり的なパワーを見せつけられ、今は観光名所や津々浦々の天然記念物になっているものの、古代の人々には、摩訶不思議な大自然のパワーを宿した神の化身であったに違いない。一例を挙げれば、夫婦岩があり、石割桜があり、屋久島の縄文杉がある。わが国におけるこのような例は、「史跡・名勝・天然記念物」の本を見れば、幾らでも拾い出す事が出来る。
都会のパワー・スポット
最近、都会などでは、「何処どこのパワー・スポット」というのがあって、若い女の子らに人気を博し、そこを訪れる事で「元気」を分けてもらえるとか・・・。さながら名所巡りの感覚で持てはやされている。都会のど真ん中なら観光タワーの他、焼け残りの古風な洋式建築のビル(戦争遺物)や、工場の巨大煙突、教会、洋館の尖塔など・・・。郊外や地方であれば、古寺・仏閣や由緒ある寺院、海の見える丘陵地や河口の突堤、岬の灯台などである。謂れのある巨木や巨石、池泉、滝つ瀬、五重塔、陵墓、城跡などもいいのかも知れない。
伊勢志摩の「パワー・スポット」
ところで、もし、伊勢志摩でこのような場所を探すとすれば、はてさてどこだろう。まず挙げられるのが「伊勢神宮」(外宮・内宮)神域の杉・檜の巨木の林立する参道や別宮であろう。昔は外宮の森の背後の高倉山に登る事が出来、その頂上に「岩屋」があった。伊勢参宮のガイド・ブックであった数々の昔の名所案内や案内図には、「天の岩屋」とか「岩戸」として必ず図が描かれていた。ここは、今は行けなくなったが、古墳時代の豪族を葬った、羨道と玄室からなる伊勢地方最大の古墳(高倉山古墳)である。筆者も中~高生の頃、何回か見学に行ったが、その当時、特別なパワーを授かったかどうかは定かではない。次に、かつてあ然とする程、海のパワーを感じた場所に、波切の「米子の浜」があった。今は崩壊し無くなってしまったが、そこの海岸には巨大な天然橋のような「海食洞門」があって、暫し目を見張った。この「波切」(なきり)という地名は、太平洋に突き出した小高い岬が、沖海から押し寄せる激しい怒涛を南北に分断しており、波を切って、沖海を遠州灘と熊野灘に分けている場所柄から生じたのであろう。確かに海の「大王様」を垣間見るのにふさわしい海食の激しい岬である。昔は、船の難所として船乗り達に恐れられ、
伊勢の神前岬(こうざき) 国崎の鎧 波切・大王なけりゃよい
と、謳われていた程、当地は海からのパワーあふれる場所である。
探そう、伊勢志摩の知られざる「パワー・スポット」
本稿は、未完である。というのは、「伊勢すずめ」は、歳を喰っていて、若い女の子らのように、今風の鋭い感性やバイタリティーを持ち合わさず、若者の好みなども全く知らないし、最先端の流行センスに疎いからである。情けないが、パワーを感じることの出来る、いい感じの静かなスポットがあれば、ぜひ教えて頂きたいものだ。伊勢志摩には、それぞれ地元の人しか知らない「パワー・スポット」が、いろんな場所に潜んでいるはずである。たとえ車では行けなくても、「 ここは、成る程な ? 」と思える、とっておきの場所を見つけたい。しかし、そのような場所は、公表をしない方がよいかも知れないけれど、馬齢を喰んだ我輩「伊勢すずめに」には、命の糧に新鮮なパワーが必要で、自身の為にも「パワー・スポット」を探しに、これからも伊勢志摩を飛び回るつもりである。いつか、パワー・スポットの「ベスト・3(スリー)」とか「トップ・10(テン)」として、又、紹介できればと思う次第である。
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2010年4月にスタート致しました、ブログ「伊勢すずめのすずろある記」で、「伊勢志摩の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など・・・・・」として掲載致しました、当地方の観光地やエリア情報等を紹介したエッセイは、今回で終了と致します。
採石の進む菅島 ~採石場の岩石は、黒っぽい橄欖岩や蛇紋岩 ~
(2010年6月撮影)
鳥羽の起こり
鳥羽という地名は、その昔、帆船が海上航路を往来していた頃、恰好の風待ち港としての、船の「泊まり場」が短縮されて発生したと言う話は、既に「鳥羽のお話」に記しておきました。
鳥羽の特殊な地名
鳥羽市の地図を見ると、安楽島(あらしま・元は荒島か? )、安久志(あくし・古名に飽石浦[あくしうら]とある。)、加布良古(かぶらこ・株浦越え? )、船越浦(ふなこしうら・海岸の地峡部を人が船を担いで越した場所の意。答志島の北海岸)、桃取(ももとり・藻採りからの転化か? )など、興味を覚える珍しい地名が幾つかあるが、これらの他に気を引くのが、地学に関係すると思われる地名がかなりの頻度で存在することである。たとえば、岩や石、赤・白・黒・青などの文字の付く地名である。これらは、自然地形や地質、並びに地質現象に関係して発生したと考えられる。
石・岩にまつわる地名
まず、石や岩について掲げてみると、岩倉(いわくら)、石鏡(いじか)、石鏡島(いしかがみじま)、碁石ヶ浜(ごしがはま・答志及び菅島)、砥石山(といしやま・答志)、砥谷(とや・安楽島)、千賀石(せんがし・答志)、七石(しちし・河内川の上流)、八石(はちいし・河内川の上流)等となる。
石鏡と七石
石鏡(いじか)は、沖合の石鏡島にちなんで付いた地名のように思われるが、古来、「石鏡」(いしかがみ)とは、断層に伴う破砕帯の粘土化によって岩盤の断層面が磨かれ、天然の「石の鏡」となったものを言う。この種のものを地質学では「鏡肌」(かがみはだ。スリッケン・サイド)と称しており、近隣では、伊勢市五十鈴川上流の「鏡岩」(かがみいし)がある。又、七石は燧石(ひうちいし。ここの岩石はチャート)の産地であり、明治期には、「赤間石」に似た良質の赤色粘板岩が出る事から、硯石の石材としてこれを試掘した場所でもある。
色にまつわる地名
次に、色合いを表す文字の付く地名であるが、市街地のはずれに赤崎(あかさき)があるほか、赤岸(あかきし・堅神、及び菅島の字名)、白崎(しらさき・菅島)、白石崎(しらいしざき・坂手島)、白浜(菅島)、白根崎(しらねざき)、シラヤ崎(神島)、白島(しろじま・国崎の小島)、白木(しらき)、黒崎(答志)、黒崎鼻(菅島)、青峰山(あおのみねさん・松尾)などがあげられる。各地を巡り、字名などを詳しく聞き込めば、まだたくさんあるはずである。
「赤」と「白」の意味
「青」以外のこれらの地名は、古人が地表や海岸の天然状態をごく自然に目に映るまま、そのように呼び始めたものであろう。おそらく赤は、海岸の崖が崩れて赤土等がむき出しになっている場所であり、鳥羽の赤崎にはかつて銅山(赤崎鉱山)があった。古地図にも赤崎金山と記してあり、銅鉱床の露頭がいわゆる「ヤケ」(鉱床の酸化帯で、黄銅鉱などが酸化・加水分解し、水酸化鉄である褐鉄鉱を生じた箇所を言う)となって、今も赤茶けて崩れた鉱山跡の山肌を晒しているのが確認できる。
白色は、石灰岩や石英片岩、白色珪石(チャート)などの露頭が考えられ、白根崎やシラヤ崎には古生層中に石灰岩やチャート層が介在し、白い岩肌となって露出している。この事は、地質図と照合すればある程度納得できると思う。
「黒」の意味 ~歌に詠まれた碁石ヶ浜~
最後に黒色は、当地には黒っぽい橄欖岩や蛇紋岩など、塩基性深成火成岩類も分布するが、地名とのはっきりした一致を見ない点から、これらの地名は、むしろ三波川変成帯のメンバーである黒色片岩(石墨片岩など)の露頭か、あるいは、海岸の黒色系の漂礫の色合いに起因すると考えるのが自然である。特別に目立つ白や赤以外の岩石は、沖合から眺めれば殆どのものが地山や岬の常緑樹林に隠されて、黒っぽく見えてしまう為、その対比からであろうか ・・・。
なお、西行法師(歌人・118 ~ 1190)の著した「山家集」には、
伊勢の答志と申す島には小石の白のかぎりを侍るにて黒は一つもまじらず
むかいて菅島と申すは黒かぎり侍るなり
と記され、次の歌が詠まれている。
菅島や 答志の小石 わけかへて 白黒まぜよ うらの濱風
鷺島の 小石の白を 高波の 答志の濱に うちよせてける
合わせばや 鷺と烏と 碁を打たば 答志菅島 黒白の濱
赤崎鉱山の赤茶けた崖(昭和40年代半ば頃撮影)
~昔から銅鉱脈の露頭があり、山土(やまつち)は真っ赤に見えた~
河内町の鳥羽鉱山の写真(稼行中の昭和40年代半ばに撮影)
付近には「石」にまつわる場所が幾つかある。
勢州と志州
伊勢・志摩地方は、昔はそれぞれ勢州(せしゅう、又はせいしゅう)、志州(ししゅう)と呼ばれていました。
県のほとんどが勢州
かつての伊勢の国は、今の伊勢市のみならず三重県の北勢地方にまで及び、その殆どが勢州であり、外宮、内宮のある山田や宇治の町は、明治初期には度会県に属し、鳥羽は志摩国(志州)の一部でした。
勢州八奇石
さて、江戸時代の古文書(古い文献)に、「勢州八奇石」なるものが記録されており、そのうちの幾つかは、伊勢志摩地方に集中しています。著名なものからあげると、「夫婦岩」(めおといわ・二見ヶ浦)、鸚鵡石(おうむいわ・磯部町のものが特に有名、他に度会町南中村にもある)、鏡石(かがみいわ・五十鈴川上流)でしょう。
鏡 石
鏡石は、仙人下橋付近の五十鈴川の右岸にありますが、伊勢神宮の宮域ゆえ、昔のように見物に立ち入ることは出来ません。「伊勢参宮名所図会」や「神都名勝誌」など、昔の観光ガイドブックや郷土誌・史には必ず出ています。この岩の鏡の面(石鏡・いしかがみ)は、断層に伴う鏡肌(スリッケン・サイド)であり、昔は人の顔が写るほどピカピカだったと言います。このような名物岩は全国各地にありますが、「石鏡」と書いて「いじか」と読む地名が鳥羽市にあります。この漁村の沖合いには、岩礁のひとつに「鏡石」があって、崇拝の対象にもなっているようです。
奇岩・怪石の伝承
さて、伊勢志摩で他の「石・岩」にまつわる話を続けると、ちょっとした名物岩に「獅子岩」(横輪町、横輪口バス停付近)、兜岩(矢持町下村)、鮑石(あわびいわ・五十鈴川上流)、立石(阿児町立神)、天狗の力石(二見町三津)、興玉石(二見町・立石崎の沖の海中)、不動岩(鳥羽市神島)などがあり、それぞれに言い伝えや謂れがありますので、地元を訪ねて、これらのエピソードを聞いてみるのも面白いと思います。
神足石
さらに謂れのある石(奇石)を、取り上げてみると、五十鈴川の宇治橋付近の川原で江戸時代に発見されたと言う「神足石」(しんそくせき、又はじんそくせき)があります。これは小石の一部にV字形の欠刻を持つ、人の足の形やハート形をした特殊な礫(転石)です。形のよいものはなかなか見つかりませんが、今でも拾えますので、宇治橋より下流の川原で見つけて下さい。
信仰のみならず
又、朝熊山の金剛証寺の境内に行きますと、崇拝の対象となっている「仏足石」がありますし、伊勢市古市の麻吉旅館(中之町)の下には「つづら石」があります。又、度会町には「火打石」(ひうちいし)という地名があり、かつての発火道具である火玉石(燧石・ひうちいし・ここの岩石はチャートです)の産地として知られています。
石に宿る思い入れ ~石の民俗誌~
このような神石(しんせき)は全国各地にあり、道祖神のようなものから、神社や仏閣の御神体、時には天然記念物となっている巨石や露岩まで、色々です。果てには、隕石や特殊な鉱物、化石までもが登場し、昔の人々にとって石や岩はごく身近なものでもあり、その現れ方や形状によっては不思議な自然物として崇められ、謂れ話が出来、後世に言い伝わったのではないでしょうか。日本の国歌にも「さざれ石」(礫石と書く。但し、国歌に歌われている礫石は石灰角礫岩である)の巌となりて・・・ と、堆積岩が詠みこまれていますが、このような地質現象の経過を国歌にしているのは、世界中でわが国だけでしょう。
伊勢の山々
伊勢市の山と言えば、まず第一に観光名所で最高峰の「朝熊山」がありますが、市内の町なかや町のはずれなどにある、ちょっとした小山などは案外知られていませんね。それらを西方から挙げると、
- 大仏山(小俣町)
- 秋葉山(徳川山)
- 三郷山
- 喜倉山
- 白石山
- 高倉山
- 藤岡山
- 蓮随山
- 檜尾山(外宮の宮域)
- 高神山(宮山、外宮の宮域)
- 坊山
- 瀧浪山(世義寺山)
- 船山
- 船江山
- 丸山(藤里町と宇治今在家町の2箇所にある)
- 妙見山(隠山)
- 八幡山
- 虎尾山(笠松山)
- 朝日山
- 永代山
- 桃山
- 倉田山
- 貝吹山
- 松尾山
- 男山
- 岩井田山
- 昼川山(ひるごうやま)
- 豆石山(二見町)
- 五峯山(二見町)
- 音無山(二見町)
などが掲げられます。
(注:岩井田山は、宇治館町の西行谷のあたりの山、古地図や名所図絵にその記名があります)
皆さんは、どれだけ知っていますか ? 他に伊勢の両神宮の間の山として「間の山」(あいのやま。別名、尾上山・おべやま)がありますが、ここは山と言うよりは坂(旧名、尾部坂)なのです。この坂道を上ると、旧道は倭町を通り、古市から中之町、桜木町を経て牛谷坂まで続く高台の家並み道で、ちょっとした尾根筋となりますが、この高台を昔は「長峰」(ながみね)と言っていました。
又、町街地の背後にそびえる少し大きくて、険しい山となると、朝熊山以外では、五十鈴川の源流のある「神路山」と「島路山」(いずれも地域名で、伊勢神宮の宮域林となっています)、そして伊勢の町の南方に聳えるのは、誰もが目にしている鼓ヶ岳、その続きの前山、さらに南方奥の鷲嶺(袴越山)などがあげられます。
山には、谷が刻まれ、川が流れ、渓流や滝があり、山肌には常緑樹が育ち、広葉樹が繁り、それぞれが四季折々変化に富んだ風景となり、時にはそこに生息する野生動物達も一体となって風物詩を奏でてくれます。
又、地下には、岩盤があり、褶曲した地層があり、岩石や鉱物、化石、そして鍾乳洞など、無生物の世界にも目を向けると、不思議な謎を秘めた地球のお宝や、クリスタルにも出会えます。
私-伊勢雀は、ここかしこをぶらぶら歩きながら、これから先、このブログで色々とおしゃべりをさせていただきます。
志摩の海
志摩の海と言えば、まずは、海女のふるさと、真珠の海、近鉄線の終着地でもある「賢島」の浮かぶ「英虞湾」でしょうね。そして、多島海や、リアス式海岸プラス有湾台地の織り成す美しい志摩半島の海景は、伊勢志摩国立公園として多くの人々に知られていて、三重県きっての観光地となっています。
さて、みなさんは、「志摩半島」の地理学的な位置をご存知でしょうか? 志摩半島は、自然地理学では、
「鳥羽市小浜町と志摩郡(現在は志摩市)浜島町南張を結ぶ線から東の地域を指す」
となっています。
志摩半島に行くと、なだらかな丘陵地(アップ・ヒルやダウン・ヒル)が続き、その先の海岸は、小高い岬となって突き出している場所や、岬角間(こうかくかん→岬と岬の間)が溺れ谷となっていたり、広々とした弓なりの砂浜海岸が続いていたり、実に変化に富んだ絶景やリゾート地が展開しています。
おしゃべり雀は、この鳥羽・志摩地方の、一般には知られていないような隠れた観光名所や、自然史スポット、そして秘密の場所での掘り出し物など、興味津々の情報を紹介させて頂きます。
