伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

昭和から平成にかけて、変貌した我が町 「岩渕界隈の風景」

2017年09月27日 | 随筆・雑感・回想など

宇治山田駅から延びた「近鉄鳥羽線の高架橋」

 今回は、昭和から平成にかけて変貌した我が町、伊勢市岩渕界隈の風景について記述をしてみよう。
 伊勢市の岩渕と言えば、外宮前を基点に倉田山(徴古館)を経て、内宮へと向かう幹線道路の「御幸道路」(県道37号線)が東西に延びている。

外宮前から続く伊勢市役所前の「御幸道路」

岩渕一丁目から二丁目に至る「御幸道路」


 そして、その沿道には伊勢市役所や、伊勢シティプラザ、税務署、商工会議所、法務局、地方検察庁、公共職業安定所、地方裁判所(伊勢簡易裁判所)、複数の新聞社の支局、複数の銀行、伊勢郵便局、2つの寺院などがある。


岩渕三丁目の、御幸道路の沿道に移転した「伊勢郵便局」

昔のままの外観の「近鉄・宇治山田駅の駅舎ビル」


 又、街の中心部に近鉄宇治山田駅があり、その前には伊勢観光文化会館がある。 かつては、近鉄宇治山田線の終点であった西洋建築の横長のビルは、ローカル電鉄の駅舎としては雄大で、伊勢大神宮の門前駅としてのふさわしさを超越した程、破格のサイズで美しく、頑強な石材と化粧レンガ貼りの建造物である。
 この駅舎の外観は、現在も昭和の当時とさほど変わってはいない。


錦水橋手前の、我家(右手)の真ん前を走る「かつての市電」

岩渕二丁目の、中條眼科の前の市道を走る「かつての市電」


 岩渕の御幸道路やその裏に並行する市道に、JRの伊勢市駅前から市電(三重交通・神都線)が走っていた頃の、近鉄宇治山田駅の駅前は、岩渕の繁華街でもあり、観光文化会館横の箕曲社(みのやしろ・箕曲中松原神社)との間には、観光文化会館の裏へと続く明倫商店街があり、どの店も繁盛を極めていたし、その界隈には飲食店や旅館がたくさんあった。

かつては繁盛を極めた、宇治山田駅前の「明倫商店街」の入口


 外宮前から、宇治浦田町の猿田彦神社前と続く御木本道路(みきもとどうろ)が開通する以前は、参宮道路と言えば御幸道路と、岡本町から尾上町、倭町、古市町を経て、長峰の丘を中之町、桜木町、牛谷坂へと続く旧街道しかなかった。
 そして、岩渕を貫通する御幸道路は、勢田川の錦水橋を経て、町のはずれから左へ分岐する二見街道(県道102号線)への入口でもあった。

我家の屋上から眺めた、錦水橋から先の岩渕三丁目の「御幸道路」


 戦後の復興が進んだ、昭和20年代後半から30年代にかけての我が町・岩渕は、まさに伊勢市の中心街であった。
 我が家もずっと御幸道路に面した錦水橋の袂(たもと)にあるが、勢田川の改修と共に、今はこの橋も架け替えられて刷新している。
 そのような中で、昔と変わらない風景を見つけて眺めることは、今となっては実に難しい。


臨済宗の古刹「光明寺の山門」

光明寺境内の、昔のままの「鐘楼」


 当時の面影を残す、変わっていないものと言えば、既述の近鉄宇治山田駅の外観と、岩渕の真っ只中の箕曲社と、錦水橋を渡った左先の光明寺(臨済宗の著名な古刹)の山門や鐘楼、簀子橋(すのこばし・錦水橋のすぐ南の橋)から町外れの妙見堂に登る細い坂道ぐらいであろうか…。

かつての面影を残す、妙見堂(妙見神社)に登る細い坂道(妙見坂)


 昭和年代と比べて、特に変わってしまった主な風景等を並べてみると、

1.御幸道路等を走っていた、内宮・二見行きの市電(路面電車)が無くなった。
2.近鉄宇治山田駅が終着駅(終点)で無くなり、駅舎3階のホームから近鉄鳥羽線が延び、御幸道路を跨ぐ高架橋が架かった。

御幸道路を跨ぐ、岩渕二丁目の「近鉄線の高架橋」

3.明倫商店街が寂(さび)れ、仕舞屋(しもたや)が増えて、名称も一時「明倫村」となった。
   (最近又、「沢村榮治誕生の街・明倫商店街」に戻った)

仕舞屋ばかりとなった「明倫商店街の通路」

4.勢田川が改修され、御幸道路の嵩上げと共に、錦水橋が新しく架け替えられた。
5.御幸道路の両サイドの歩道が改装され、街路樹が少なくなり、御影石の石灯籠の方が多くなってしまった。

勢田川に架かる、架替え前の昔の「錦水橋」

架替え工事中の、御幸道路の「錦水橋」の風景 ~ 我家の2階から撮影

6.光明寺の前に伊勢郵便局の移転があり、その背後の墓地(一誉坊・いちょぼう)の雑木林の藪が殆ど伐採された。

雑木林の藪が伐採された、伊勢郵便局裏の「一誉坊の墓地」

7.御幸道路の沿道等に、高層ビルが幾つか建った。

沿道に高層マンション・ビルの立ち並ぶ、岩渕二丁目の「御幸道路」

8.宇治山田駅前の古い伊勢会館が建て替えられて、近代的な伊勢観光文化会館となった。

宇治山田駅前にあった「昔の伊勢会館」


 岩渕の町中(まちなか)の道路や家並(やなみ)の風景は、道路の拡幅や立ち退きを除けば、徐々に変貌を遂げて来たものの、区画整理などは殆ど無く昔のままである。 しかし、町のあちらこちらにあった草むらの広場や畑、勢田川沿いの水田などは、ことごとく宅地に代わってしまったし、どこの家屋も世代交代で刷新され、新建材の造りで綺麗になっている。
 昔のままの商店や飲食店などの店構えも、以前とは随分変わってしまい、古い木造住宅や老舗のままの店舗の姿を目にする事は、殆どなくなってしまった。
 かつての伊勢の木造の家屋は、伊勢神宮の神明造りの社殿に配慮をし、切妻造りの玄関は「妻入り型」が殆どであった。 岩渕の御幸道路の沿道に残っている妻入りの旧家屋は、錦水橋の袂の我が家ぐらいであろうか…。


簀子橋から上(かみ)の小田の橋を眺めた、改修前の「勢田川の風景」

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九月に入って、早ばやと爽やかな秋風を感じて…

2017年09月14日 | 随筆・雑感・回想など

南の空に浮かぶ秋の「ちぎれ雲」~ 宮川左岸の道路にて撮影

 今夏は例年に無く、短命な感じだった八月の夏の猛暑が終わり、早や九月になった。 残暑の一週間が過ぎた8日になって、季節は初秋へと移るかのように、朝から肌に感じる程の、少し強い爽やかな西寄りの風が吹いた。
 よく晴れわたった日の涼しさにも誘われて、この日は午後になって郊外に出てみた。 開放した車窓から吹き込む秋風は、残暑を吹き飛ばすかのように遠ざけて、ここかしこの草木がよくなびいている。
 南の青空には、真綿のようなちぎれ雲(秋空の積雲)が、まばらに少しずつ形を変えながら、東へと流れてゆく…。 逆方向の伊勢湾の上空にあたる北の空には、入道雲が北西から南東へと列状をなして連らなり、ムクムクと姿を変えながら発達しつつ、まだ夏空しかりの様相を見せている。


北方に列状をなして発達する、夏空の「入道雲」~ 宮川左岸の道路にて撮影


 車窓から眺める、伊勢市の背後から奥伊勢(度会郡)にかけての山々の風景も、この日は実にくっきりと見渡せて、シーイング最高の写真日和であるが、まだ野山には秋らしい気配は無く、少し林道に入ると、あちらこちらに猿の群れが降りてきてはいるものの、栗の実もまだ青く、ツクツクボウシが盛んに鳴いているぐらいで、秋半ばの実りの収穫の時期には程遠い。
 農村地帯を走っても稲刈りはまばらで、秋を象徴するコスモスも見られず、気流だけが早々と秋風になったような、ちぐはぐな日である。
 それでも、早ばやと秋風を感じた心地よさは、何にも変えがたい…。


 別にこの日は目的も無かったので、以前から少し気になっていた伊勢市内に残る古木や老木の大樹を、思いつくままに巡ってみる事にした。
 市電が走っていた子供の頃は、外宮から内宮へと続く、両サイドにレンガ道の舗道を備えた御幸道路には、桜や椛(もみじ)、楠(くすのき)などの巨木がたくさん繁っていたし、沿道にも松や桜、楓、銀杏、欅、枇杷などの大樹がたくさんあって、日射しを遮る木陰をつくっていた。
 確か岩渕の箕曲社(みのやしろ・箕曲中松原神社)の前の道路には、赤松の巨木があったし、近鉄宇治山田駅の裏手の藪の中には、欅(けやき)などの大木が数本繁っていた記憶がよみがえる。
 そのほか、「城之橋」傍らの商工会議所(岩渕一丁目)の前には、イチョウの大木が数本あって、銀杏(ぎんなん)を拾った事もあった。

 かつて、市街地にたくさんあった古木や老木、巨木・大木は、いつの間にか姿を消してしまい、昨今は、外宮・内宮の神苑や徴古館など神宮関係の施設や、摂社・末社等の神社、市街地のお寺(寺院)等の境内を除けば、巷には数えるほどしか残っていない。


市街地の真っただ中にポツンと残る「寝起松」


 子供の頃の記憶に従って、最初に訪ねたのは神久の「寝起松」(ねおきまつ)である。かつて見た巨木とは程遠く、かすかにそのイメージを残すものの、黒々と繁っていた枝は無残にも切り払われ、幹だけが名残をとどめる程度のスリムな姿となって残っている。 根元にはアクセサリーほどの祠が祭られ、前に「寝起松神社」と記した石標があった。
 おそらく、周囲に建て込んだ民家への日照問題等や、真ん前の市道の交通障害などからの伐採であろう事が、容易に読み取れた。


宮川右岸堤の「境楠」


 次に思い出したのが、宮川右岸の桜堤(さくらづつみ)の中ほど(度会橋~宮川橋の間)にあった「境楠」(さかいくす)である。 この巨大な老木も、注連縄がめぐらされ御神木として残ってはいたものの、半ば立ち枯れのド太い根っこと、分枝して伸びる樹幹を柵で保護してあり、大樹の枝は寝起松同様にかなり伐採されていた。
 ここの伐採は、「寝起松」とは違い周囲に民家も無く、交通上の要所でもないので、老木保存からの措置であろう…。

柵で保存された「境楠」のド太い根株

根株の前の「楠大明神」の簡素な祭殿

 根株の前には「楠大明神」の幟や鳥居があり、簡素な祭殿が設置され、御本尊として祭祀されていた。 そして、その上の堤の傍らには、この老木の名前の由来等を記した説明板が立っていた。


 楠の巨木と言えば、宇治山田駅に程近い、岩渕の真ん中にある箕曲中松原神社(既述の箕曲社・岩渕一丁目)の境内にも、注連縄を張り巡らせた、樹齢800年と言う根元の太い御神木がある。

宇治山田駅に程近い、岩渕の「箕曲中松原神社」

箕曲社(みのやしろ)境内の、樹齢800年と言う「楠の巨木」

 神社の境内ゆえに、今も天空に広がった枝もそびえるままであるが、ここは少年時代の遊び場で、その頃に幾度となく崇めたままの姿を見上げる度に、昭和20年代後半から30年代にかけての、当時の我が町の回想の念を禁じえない…。


 同様の「楠の巨木」と言えば、もう一つ市街地を少し離れた、宮川右岸の県道(22号線)を遡った津村にある事に気がついた。
 ここは横輪町に行く途中の道路(近年津村にバイパス道路が出来たので、現在は県道719号線となっている)際なので、しょっちゅう目にしていたが、止まって眺めた事はなかった。

県道際の津村八柱神社の「楠の巨木」

 すぐ背後に「津村八柱神社」があるので、これも紛れもなく御神木である。 樹齢ははかり知れないが、これほど根元の太い、ウロをもそなえた巨木は他にまず無いであろう。 やはり注連縄がめぐらされ、樹枝が青々と繁って路上を覆っているが、かなり高所なので枝払いされること無く、自然のままの大樹の姿を残している。
 気がつけば、車を止めて八柱神社に参詣し、しばしこの巨木に見入っていた。

鳥居を潜った右に、「ウロ」のある御神木の巨株

 人の一生の十倍以上もの長寿であるだろう事に、改めて楠(くすのき)の偉大な生命力と、樹木のパワーを身をもって感じた次第である。


 他にも、二見町の音無山の山上や太江寺の境内、蘇民の森などにも巨木が幾つかあったと思う。 折を見て、市街地の周辺に残る巨木も、散策がてら訪ねてみたいと思っている。



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