伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

春日和、鳥羽市の河内谷を訪ねて

2015年04月19日 | 伊勢志摩国立公園の自然と風物


鳥羽市河内町の「河内谷」~ 左手の山に、かつてMn鉱山があった

 3日間ほど寒くてぐずついていた春のきまぐれな天候が一変し、久しぶりにカラリと晴れ渡った。四月も半ばが過ぎ、上天気の週末(18日、土曜日)となった。桜の木立は花吹雪から葉桜へと移行し、新緑の息吹が聞こえて来そうな日和に誘われて、とにかく外出する事にした。
 どこへ行こうかと思案し、いつもなら志摩の海岸に行く処であったが、この日は鳥羽の秘境とも言える「河内谷」(こうちだに)を思い立ち、車を走らせてみた。


 伊勢市の市街地から鳥羽市へは、昨今は道路事情が大変よくなり、「伊勢-二見-鳥羽ライン」(有料道路)を使えば15分程しかかからない。又鳥羽と志摩の中間に位置する、古刹・正福寺のある青峯山(あおのみねさん)へは、途中から分岐する「第二伊勢道路」を使えばすぐ麓の白木町(鳥羽市)に出る。


=


 この日は第二伊勢道路を走り、国道167号線に出て少し鳥羽方向に戻ってみた。国道沿いの岩倉町(鳥羽市)から西方に延びる加茂川の河谷(かこく)が「河内谷」で、その奥に行くと河内ダムがある。朝熊山の南側に当たるこの谷は、入り口は狭いが奥に行くと広くなり、五十鈴川や横輪川の渓谷に匹敵する長さである。
 加茂中学校の前を通り、加茂川左岸の一本道を進むと、すぐに河内町(鳥羽市)の村落に至る。さらに奥の「奥河内」の村落の手前に差しかかると、渓流はここで大きく蛇行し、真上にこの谷間を跨ぐように建設された、第二伊勢道路の細長い高架橋を見上げる事になる。

加茂川の渓流と第二伊勢道路の高架橋


河内谷を跨ぐ第二伊勢道路の高架橋


 河内町界隈は、国際観光都市である鳥羽の市街地や鳥羽湾、観光化されリゾート施設の増えた海域沿岸の漁村などとは違い、山あいの閑寂な農村地帯である。猫の額ほどの小狭い加茂川の氾濫原は、全て水田と化しており、時期的に田植えが始まっていた。途中の道路沿いには、「彦滝大明神」を祭る彦滝神社の道しるべや、急な石段の付いた河内神社がある。

道路沿いの「河内神社」


 奥河内と言えば、かつてかなり大々的に稼行していたマンガン鉱山のあった場所で、明治期に発見され、古くは加茂鉱山として開発され、その後休山をはさみ、昭和40年代まで「鳥羽鉱山」として採掘、高品位の二酸化マンガン鉱や鉄マン(主に含マンガン赤鉄鉱)を出鉱していた。今でも川を渡ると、社神坑(やしろがみこう)の跡があり、トロッコ・レールの軌道跡や通洞坑とともに、幾つかの小規模坑の坑口が残存している。

鳥羽鉱山産の「マンガン鉱」~ 左右幅約7cm

 ここへは、10年ほど前に行ったきりである。雑木の茂る山腹の斜面に複数の露頭があり、至る所に鉱石やズリ石が転がっている。各種のマンガン鉱物と供に、黄鉄鉱やマンガン方解石の他、重晶石や重土十字沸石なども産出していた。
 この他、当地は全国的に著名な「燐鉱」の産地でもある。但し、ここの燐鉱は、肥料原料としての採掘には至っておらず、文献上の産地に過ぎないが、とにかく明治期から「加茂の燐鉱」として全国に知れ渡っていた。
 しかしながら、その実態は、二酸化マンガン鉱等に伴う白色のボロボロの土状鉱物である。主成分は、燐灰石との分析データがあるのだが…。


河内谷の奥にある「河内ダム」


河内ダムの上から眺めた「上流方向の風景」


河内ダムの上から見下ろした「下流方向の風景」


 奥河内の村落を過ぎると、全く人の気配が無くなる。対向車など滅多に見ることも無く、道はいつの間にか林道となり、小さな橋を渡るとすぐに河内ダムに至る。当地ではちょっとした雄大なコンクリート・ダムである。国道からここまでは、約3.5kmの距離である。
 このダムの上は、林道の続きとなっていて、真っ直ぐに険しい谷を横切って渡る事になる。さらに先は、朝熊山南麓の山林となり、渓流も狭まり「石乃鍛冶の滝」などのある八石(はちいし)という所に至るが、林道は行き止まりである。

 ダムの手前には、さらに上流へと続く別の林道があり、右岸に一本道として続いている。この先の七石(しちし)には、川魚(カワナ)の養殖をしいてた、水槽のある人家らしき建物が一軒あっただけで、他には作業小屋の立ち腐れが見られたのを記憶しているが、七石まで行ったのは、もう30年も前である。
 ダムでいっぷくした後、とにかく七石まで行ってみる事にした。ダムサイドの崖道は、昔のままであり、曲がりくねったガタガタの悪路である。


「硯石石材片」(転石)の流れ出た七石の渓流

 まるで渇水したダム湖のような巾着状の谷間の右岸を、車一台がやっと通る細い林道を回るようにして1kmばかり進むと、やがて枝谷から流れ出る細い渓流に出合うが、この渓流沿いの山中(さんちゅう)に、かつて硯石の石材を試掘した場所があったらしい。今は全く判らなくなったが、林道沿いの渓流の石溜まりに、その当時に切り出した岩塊や岩片が転石となって流れ出ている。
 ここの石材は、山口県の赤間石に似たアズキ色をした泥質岩(赤色頁岩~粘板岩)で、明治の初期に発見されたようで、その頃の文献に「燧石」(ひうちいし)と供に既に記載されている。

 この他、当地の山中には、マンガン鉱山の坑道跡なども複数あり、現地には今も二酸化マンガン鉱等の鉱塊が転がっているが、ここも、もう知る人が少なくなってしまい、雑草に覆われるにまかせて、「今は昔…、つわもの共の夢のあと」と化している。


 久しぶりに鳥羽の河内谷に分け入り、人里はなれた雑木の小谷で森林浴に浸るも、耳にするのはせせらぎと野鳥の囀りだけであった。帰りには、渓流で硯石の石材片を幾つか拾い、ゆっくりと岐路についたが、河内谷界隈は、春日和ののどかさを通り越して、全く忘れられたような山あいの田舎風景であった。


七石の渓流で拾った「硯石石材片の転石」~ 握り拳大




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする