伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

赤福餅添付の「伊勢だより」の版画栞に見る「伊勢志摩のレアな風景・風物 など」

2024年06月19日 | 随筆・雑感・回想など

赤福添付の版画 「志摩ノ海女 貝の口あけ」 の絵柄 ( 伊勢だより )
赤福添付の版画 「志摩ノ海女 貝の口あけ」 <br>
 裏面の解説 ( 伊勢だより )

 伊勢名物の赤福餅( 箱入り )に添付されている「伊勢だより」の版画栞( しおり )は、サイズは概ね縦幅 8.2cm、 横幅
約 15.2cm( 全て同寸同大 )で、和紙風の中厚紙に印刷されています。これまでに、数百種類の版画が製作されているそうです。


赤福添付の版画 「伊勢志摩 波切 大念佛踊」 の絵柄 ( 伊勢だより )

赤福添付の版画 「伊勢志摩 波切 大念佛踊」 裏面の解説 ( 伊勢だより )

 内容は、「伊勢神宮」の年中行事( 催事 )などの他、伊勢志摩や近隣地域の「伊勢神宮関係」のもの以外にも、三重県下の風景や風物、名物 ( 物品や地物 )、催事、伝統工芸品などが幅広く取り上げられ、地方色豊かな資料物の印刷物となっています。


赤福添付の版画 「伊勢名物 くり物店」 の絵柄 ( 伊勢だより )

赤福添付の版画 「伊勢名物 くり物店」 裏面の解説 ( 伊勢だより )

 やや大きめの短冊サイズながら、多くは地方色豊かな飾り絵にもなる、きれいな色刷りの風景や風物などの絵柄であり、裏面には「伊勢だより」として、版画の解説( 簡単な説明文 )が記され、資料価値を高めています。


赤福添付の版画 「神宮御浅沓司 西澤利一師」 の絵柄 ( 伊勢だより )

赤福添付の版画 「神宮御浅沓司」 裏面の解説 ( 伊勢だより )

 この「赤福」限定品のオリジナル版画「伊勢だより」は、大変好評で観光客のみならず、地元内外の庶民にとってもかなりの人気があり、これを目当てに赤福の本店を訪れる方々や、全国各地には蒐集家が多数みえるようです。
 特に印刷枚数の限られた数少ないバックナンバーは、かなりレアな資料物の印刷物として、ヤフオクなどにも出品されています。

赤福添付の版画 「五十鈴川 神足石」 の絵柄 ( 伊勢だより )

赤福添付の版画 「神足石」 裏面の解説 ( 伊勢だより )


 今回は、投稿者所蔵の数多くの「伊勢だより」の版画の中から、伊勢志摩のレアな風景・風物・伝統工芸品など数枚をピックアップし、ブログに掲載をさせて頂きました。

  追記 上載の赤福添付栞の絵柄の内、「神宮御浅沓司 西澤利一師」は、投稿者の小学生時代からの親友であり、伊勢市の「伝統工芸士」の第一人者でしたが、10年程前に60歳台の半ばで急逝をされました。 お弟子さんもみえたのですが、その後は「後継者」が無く、江戸時代より伊勢の地に継承され、平成年代まで続いておりました伝統工芸の「御浅沓」の製作は、完全に途絶えてしまいました。



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緊急のご連絡「 i.epman の名称で発信の【偽メール】のばらまき 」に、充分にご注意をして下さい。

2024年06月10日 | 随筆・雑感・回想など

 

 最近、発信者名が「 i.epman 」の名前で、不特定多数様宛に「電子メール」や、ヤフー株式会社様の「ヤフーメール」で、不審な内容の【メール】がばらまかれておりますが、全て投稿者本人とは無関係の【偽メール】( 迷惑メール )ですので、内容いかんに拘わらず充分にご注意をして下さい。 決してメッセージ等を開かずに、即「削除」をお願い致します。


【 迷惑メール 】 に振り分けられた中の 「疑メール」 の一部です


 小生の電子メールは「 i.epman@chic …… 」ですが、パソコンを買い換えました1昨年末より、個人様宛にも複数の方々へも、「電子メール」での文章等の発信は、全く致しておりません。 従いまして、どなた様にも当方から「電子メール」を発信して差し上げる事は一切御座いませんし、「電子メール」でのメッセージ等の受信を致しましても、「返信メール」の発信は控えさせて頂いております。

 大変失礼ではありますが、電子メールの発信者様から戴きました当方への「受信メール」に、パソコンから電子メールでの「御返事」や「御返答」等を、「返信メール」として発信をさせて頂きます事は、全く致しておりません。
 今後につきましても、通信手段に当方から「電子メール」を使用をする事は、一切御座いませんので、どうぞ御諒承の程、よろしくお願い致します。

 当方への文書での通信手段は、携帯電話の「SMS」( ショートメール )だけで御座います。 なお、「電子メール」をパソコンに受信させて頂きましても、ご返信が出来ないようにセッティングをさせて頂いております。

 本件につきましては、目下対策を検討中で御座いますが、今回はとりあえず「ブログ」にて【緊急のご連絡】をさせて頂きます。
 以上の件につきまして、お心当たりの御座います方は、どうぞご理解と御容赦の程、よろしくお願い致します。

 以下に、【偽メール】 「迷惑メール」( 不特定多数の方々へのばらまきメール )の一例を記させて頂きます。

   迷惑メールの一例

  i.epman 【AEON】カード利用確認手続きのお知らせ 【i.epman】(発信者 i.epman <kqk@christophemaLi.com>)
  Amazon.co.jp 【重要なお知らせ】お客様のお支払い方法が承認されません  Amazon お客様!
  三井住友カード 【重要】三井住友カードの緊急連絡、情報を確認してください
  東京電力エナジーパートナー 【重要なお知らせ】未払いの電気料金について連絡させていただくものです
  イオン銀行 6月ご請求額のお知らせ イオンフィナンシャルサービスからのお知らせ

 以上の「メール」は、このブログの投稿者( 本人 )には全く身に覚えのない、無関係の【迷惑メール】です。


 さて、季節は初夏へと移行し、急に蒸し暑くなって参りました。 このブログにアクセスをして下さいました方々には、時節柄、心より御清祥を祈念申し上げます。



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5月の連休初旬の4日に、伊勢市とその近郊の気になっていた場所を見回る。

2024年05月04日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク

一之瀬川に注ぐ 「彦山川」 の落合河口の川原 ~ 2024 年5月4日 撮影

 先月は、曇天の中を少し強行に伊勢市内の気になる場所を3箇所見回ったが、5月に入って時を待つかのように天気がやっと五月晴れとなった。 このゴールデン・ウィークの連休は、伊勢神宮や鳥羽・志摩への道路は混雑極まりないと思い、伊勢市郊外の奥伊勢へと車を走らせ、気になっていた場所を見回ってみることにした。
 伊勢・鳥羽・志摩の観光地をはずれた伊勢から奥伊勢にかけての道路は、それ程の車の往来も無く、暑いぐらいの春日和の郊外へのドライブは、新緑の山野を目にしながら実に快適である。


「日向橋」 の川上から眺めた一之瀬川の川原 ~ 2024 年5月4日 撮影


 最初に立ち寄ったのは、一之瀬川の日向橋の橋下の川原である。 ここは一之瀬川では名石の集積する一番広い川原であるが、下りやすい事もあって、週末などには川遊びの家族連れや、鮎釣りのシーズンには川漁師が何人も竿を投げ入れている。 しかし、水石の趣味はどちらかと言えば、高齢者のたしなみのせいか、川原の転石を見回る探石者は全く見られなくなった。

「日向橋」 川上の川原で揚石をした、手のひら大の 「梅林石」の転石礫
「日向橋」 川上の川原で揚石をした、手のひら大の 「滝石」 の転石礫 ~ 2個にカット
 この川原は、かつては「梅林石」がよく採れたが、表面が巣立ち状のものが多いので、鑑賞用に磨き上げる作業が大変である。 他には青玉石化した「紫雲石の化け石」が時たま揚石できるが、この石は当地方では最高級の石質であり、すぐ上流の一之瀬川の支流、火打石の彦山川からの流出礫である。
 彦山川を遡って丹念に探石をすれば、時たま名石が見つかる事がある。 中には珪化作用よって、見事な程の「青玉石」( 碧玉 )の層状脈を呈する美石もある。
 この日は彦山川の上流には入らず、一之瀬川との合流地点の渓流の小狭い川原 ( 旧 天祥橋の直下 )に下りてみたが、ただ見回っただけであり、こぶし大の「紋様石」1個を揚石したものの、全くの期待外れであった。


旧 「天祥橋」 下の川原 ~ 2024 年5月4日 撮影

「旧 天祥橋」 下の川原で揚石をした、こぶし大の 「紋様石」


 この先の支流の「小萩川」へは、昨年に入っているので、火打石で折り返して伊勢市の横輪町に立ち寄ってみた。 桜花のシーズンが過ぎた今は、散策に訪れる人もまばらであるが、横輪川は昭和年代には数々の名石を産し、水石の趣味者にはよく知られた山里の谷川である。 当地に交流施設の「風輪」が出来て10数年が経過した今は、水石よりは田舎風の食品や農家直売の野菜などの販売がメインであり、地産の「横輪芋」は高味な特産物となっている。


「共栄橋」 の川下から眺めた横輪川の川原 ~ 2024 年5月4日 撮影


 この川の転石礫は、「風輪」付近から上流は五十鈴川川上の高麗広から続く古生層が分布しているせいか、転石礫も高麗広付近と殆ど同じである。 特に鎧石や伊勢赤石、伊勢古谷石などは、大・小の見ごたえのある超名石がかつては多産し、昭和年代には県外からの業者の探訪が、何度も繰り返されてあったと聞く。
 今は、この山里の住民が皆高齢者となったせいか、地元民らの水石集めも以前のような熱意が冷め、川原を見回る人などいなくなり、横輪川の流れだけが変わる事なく、昔時のままに転石礫を眺めさせているにすぎない。


横輪川の川原で揚石をした、こぶし大の転石礫 ・2個( 右 : 伊勢赤石、左 : 伊勢古谷石 )

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春のたけなわ、曇天の4月21日に、伊勢市内の気になる場所を見回る。

2024年04月21日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク


五十鈴トネル入口右横の 「水晶谷」 ~ 4月21日の午前中に撮影


 今年も四月の下旬となり、春たけなわのシーズンとなった。 今月の上旬から中旬にかけては、九州から延びた停滞前線が紀伊半島の沿海にかけて、断続的に発生しては消え、小型の温帯低気圧が前線上に何度も発生し、足早に通り過ぎたせいか、曇天やぐずついた雨天がくりかえされ、真冬のような寒気に見舞われたかと思えば、移動性高気圧の張り出しで、気温の上昇した夏日のような汗ばむ日々もあった。
 丁度桜のシーズンを迎えたものの、桜雨( さくらあめ )に花冷え、菜種梅雨と言った感じの日々であったせいか、桜の名所である「宮川堤」も思った程の人出もなく、早々と葉桜に移行し、新緑の芽吹く皐月( さつき )目前の野山となった。

 伊勢市内で人出の多いのは、伊勢神宮の内宮界隈だけで、土曜日~日曜日や祭日などは、天気にかかわらずごった返し、市営の駐車場も自家用車で満杯である。 こういった人出の多い町なかには、なるべく行かないようにしている。 多くの人々がマスクをせずに平然と雑踏を形成し、庶民の感染意識もかなり薄れて来てしまっているが、新型コロナウイルスの蔓延は未だに収まっていないからである。

 フィールドに全く出向かず、引き籠りがちの生活を続けていると、幾つかの気になる場所が頭をよぎり、なかなか脳中がクリアされない。 そのような場所は、少しでも見回れば気が済むのだが、今までは天候の影響とガソリン代の再高騰で、買い物以外は車での外出を控えていた次第だ。
 しかし、4月の下旬になっても、例年のように春暖の日和が続かず、西から延びる前線による不安定な空模様がずっと続いているゆえ、五月晴れまで待てずに、4月21日の日曜日に気晴らしをも兼ね、伊勢市内に限って朝から少し見回ってみた。


「御側橋」下の整地された五十鈴川の川原 ~ 4月21日の午前中に撮影


 最初は、何といっても五十鈴川の「旧 御側橋」撤去工事後の橋下の五十鈴川の川原である。 地均しが成され元のレベルにまで低まった川原には、隅から隅までブルドーザーのキャタピラの跡だらけであり、サラ地と化した川原は見渡す限りの転石礫が全て泥土まみれであった。 降雨による増水で一度洗われなければ、探石が出来ない状況である。 この日は川渚のきれいな僅かなスペースに行き、かろうじて緑色岩の「三角礫」2個と、岩質不明の「神足石」1個を見つけて持ち帰っただけである。
4月21日に採集の 「三角礫」 ~ 辺稜幅の最大値は約8cm
4月21日に採集の 「神足石」 ~ 縦幅約11cm


 次に見回ったのは、五十鈴トンネルの入り口右横の「施餓鬼谷」( 古名、俗称「水晶谷」)である。 蛇紋岩や斑糲岩の崩落角礫に幾つかの鉱物が含まれるが、かつては多産した針状の方解石や、放射束を成す霰石の美晶がこの谷のメインであり、磁鉄鉱やクロム鉄鉱、パイロオゥロ石、水滑石、水苦土石、透輝石、ジュエイ石、琅玕( ろうかん )質の蛇紋石などもかなり採れた。


「水晶谷」 の堰堤下の石溜り ~ 4月21日の午前中に撮影


 今は、五十鈴トンネル前の売店の裏側から通じていた草分け道も無くなり、地主によって整地されたスペースにはチェーンが張られ、「立入禁止」となっていたが、忍びで砂防下まで行き、少しだけ石溜りを見回ったものの、枯れ葉の散乱もあり採集は全く駄目で、写真だけを撮った。


「朝熊川」 の小狭い川原 ~ 4月21日の午前中に撮影


 さらに、昨夏より少しだけ気になっていた朝熊山北麓の「朝熊川」を見回ってみた。 ここも3年程入川していないので、その後どうなっているのか、雨の降りだしそうな中を、1ヶ所だけ立ち寄ってみた。
 小狭い川原の転石礫は、三波川変成帯の広域片岩類( 殆どが緑色片岩 )に、朝熊山の複数の沢谷から流下した塩基性深成火成岩類が、3割程度入り混じっている。 後者の中には巨晶斑糲岩の転石があり、運が良ければ異剥石の見事な巨晶の密集小塊や晶洞も見つかる。

4月21日に揚石の 「朝熊石」 ~ 横幅約13cm

 しかしながら、主目的は、やはり形状の良い水石としての「朝熊石」の探石である。 流路の状況は変わっていないものの、昨夏の豪雨の影響なのか、川原の堆積礫の様子は一変していた。 この日は思う程の良石には出遭わず、空振りに終わりそうであったが、ひと握りの斑糲岩質の転石を1つだけ持ち帰った。 底面をカットし、仮台を当てがってみた処、残丘の突出したまずまずの段石風の「朝熊石」となった。



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その15( 最終回 ) 伊勢市朝熊山 「 金剛證寺境内の仏足石 」

2024年03月28日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


朝熊山 ・ 金剛證寺境内の 「仏足石」

 伊勢市朝熊山( あさまやま )山上の金剛證寺の境内に、「仏足石」( 佛足石 )と称する大石がある。 鎮座する場所は、山門( 仁王門 )を潜った先の「連間の池」奥のほとりで、本堂前の石段の下あたりである。池の対岸にある「雨宝堂」の左横に位置する。
 石冊の囲いと瓦屋根だけのこじんまりとした「仏足石堂」の中にあり、畳一畳ほどの大石の研磨された上面に、一対の仏陀の大足跡が見事な刻線で描かれている。 その表面には、賽銭の硬貨が何枚か投げ入れられている。


朝熊山 ・ 金剛證寺境内の 「連れ間の池」


 この大石は、ぐるりが「朝熊石」特有の鉄錆色の風化被殻に覆われ、明らかに朝熊山上産の塩基性深成火成岩の巨石であることは、明白である。 この岩石は、見かけ上は蛇紋岩化しているが、研磨面を観察する限り、ほぼ等粒状完晶質の組織を残す緻密な黒緑色であり、原岩は現地性の橄欖岩か橄欖斑糲岩か、角閃橄欖岩のようである。
 類似の岩石は、旧登山道にも転がっており、山上広苑の露頭などで、母岩の岩体や風化した母材礫を幾らでも目にする事ができる。


「連れ間の池」 奥のほとりの 「仏足石堂」


「仏足石堂」 の前に立っている 「説明札」


研磨された巨石の表面に刻まれた 「仏足跡」


 さて、この見事な研磨面上に彫刻された繊細な仏陀の大足跡のモデルが、いつの時代に製作されたものであろうか。 そもそも「仏足石」は、説法の座下に「仏足跡」を描いて、御仏( みほとけ )の存在を示すものとされ、発生はインドの仏教信仰の中で生まれ、その後中国に伝わり、日本には奈良時代の初めに、遣唐使に随従した仏僧が長安の普光寺において、「仏足跡」を転写して持ち帰ったことに始まるとされている。
 その当時は、仏教美術としての「仏足跡図」が崇拝されていたが、やがて「石に刻み込んだもの」が「仏足跡」として崇められ、「仏足跡」の石としては、奈良県の薬師寺の「仏足石」が最古とされている。
 全国的には、幾つかの寺院に「仏足跡」の転写図や、数例の「仏足跡石」( 仏足石 )があるが、奈良県の薬師寺の国宝の「仏足石」の他は、一般には比叡山西塔の仏足石が知られているに過ぎない。


「仏足石」 背後の 「歌碑」


 朝熊山 「金剛證寺の仏足石」 は、文献によれば、鎮座する大石全体の高さは約65cm、研磨された上面の横幅は約1m84cm、奥行きは約1m22cmである。 刻み込まれた足跡は、薬師寺様式の仏足跡で、研磨された石面に線彫りでその全形を表している。 仏足跡の縦幅は約51cm、横幅は約21cmである。1対の彫刻された足面には、左右対称の精密な線図柄の紋様がぎっしりと刻まれ、両足の周囲には四方から輝く光明を表すかの如く、数条の刻線筋が走り、その中には瑞花や瑞雲のちりばめも見られる。


上載写真の 「歌碑」 の背面
 

 この「仏足石」の背後には、「釈迦牟尼佛足石」の題字のある、万葉仮名で刻字された歌碑( 高さ約1m35cm、幅約66cm )が立っている。
 この歌碑の背面には、天保四季癸巳年の刻銘がある事から、金剛證寺境内のこの「仏足石」が造られたのは、お堂前の「立て札」にも記されているように、江戸時代末期の 1833年である事が判る。
 おそらく、国内では一番鮮明できれいな「仏足石」(佛足石) ではないかと思われる。

  注 ; 上載写真は、いずれも 2024年3月28日の午前中に撮影を致しました。



 

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伊勢市五十鈴川の「 御側橋 」付近の川原が浚渫され、「 神足石と三稜石(三角礫)」が続出 !

2024年02月25日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク


工事中の五十鈴川の 「御側橋」 右岸直下の川原 ~ 2月24日に橋上から撮影

 先月末より始まった、五十鈴川に架かる新設の「御側橋」( おそばはし ~ 伊勢市中村町 )と並んで残っていた「旧 御側橋」の撤去作業が、昨年の初夏の洪水で堆くなっていた、この橋を挟む川原の浚渫工事と共にずっと続いている。 現場には何台かの重機( ユンボ )が入り、クレーン車が居座り、ショベルカーやブルドーザーが動き回り、行き来するダンプカーが多量の土砂が運び出していたが、大半は大きな土嚢袋に袋詰めにされたまま川原に並べ置かれ、今月の半ばになって、ようやく「御側橋」川下直下の右岸の川原の一部が解放されていた。 ごく狭いスペースではあるが、どうにか立入りが出来るようになった。

   

工事中の五十鈴川の 「御側橋」 右岸直下の川原 ~ 2月24日に対岸から撮影


「御側橋」 右岸直下の解放された僅かな川原 ~ 2月24日に橋上から撮影


 2月24日( 土曜日 )は、ここ1週間程断続的に続いていた降雨が上がり、久しぶりに冬晴れとなった。 肌寒さを除けば、日射しは春半ばを感じさせるような輝きで、梅雨晴れのような天気であったが、その後の工事現場の様子を見に立ち寄ってみた。 川原に並べられた土嚢袋の先には、ショベルカーによって彫り込まれた幅1m~2mの複数の溝に水が溜まっており、3連休のせいか作業が中断していたので、立ち入れるようになった僅かなスペースの右岸の川原に下りてみた。
 川原には、まだキャタピラーの跡が生々しく残り、掘り起こされた転石礫は土砂まみれでかなり汚れていた。 期待をせずに20分程歩いた処、その中に思わない程幾つかのハート形の転石礫と共に、比較的きれいな緑色岩の「神足石」が数個見つかった。

2月24日に採集の五十鈴川産の 「神足石」 ~ 最長縦幅約8cm

 五十鈴川の浦田橋( 伊勢市宇治浦田町 )より川下の川原では、昨年のブログに記したように、風食面のある三稜石( 三角礫 )が比較的数多く見られるが、この日歩いた川原でも、こぶし大以下の「三稜石」がちらほら認められ、標本になる形状のものを数個採集した。 歩き回った時間と川原のスペースを考えると、「神足石」と共に続出と言ってよい程の高確率であった。
 工事中の「御側橋」直下から川上にかけての、浚渫後の川原の見回りが待ち遠しく楽しみである。

 2月24日に採集の五十鈴川産の 「三稜石」 ~ 辺稜の最長幅約6cm

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伊勢市内の断層地形と活断層を再検討

2024年02月01日 | 随筆・雑感・回想など


宮川河床( 辻久留2丁目 )の中央構造線上の岩盤を切る断層群の露頭

 伊勢市内の活断層については、既にブログのバックナンバー( 2010年05月29日 / カテゴリー「伊勢」)に記しましたので、その記事にてご覧を頂けると思いますが、今年の元日に能登半島で、震度7( 気象庁の定める震度階級の最大震度 )の大地震が発生し、当地方一帯の市町村に甚大な被害を及ぼし、現在も中~小規模の浅発地震が余震として頻繁に続いている。
 気象庁は、毎日のニュースで、地震活動は徐々に収まって来ているが、ここ1~2週間程度は震度5強程度の地震の発生する可能性があると、繰り返し注意を呼びかけている。


津市の南が丘団地の造成中に露われた、安芸層群( 鮮新統 )の地層を切る逆断層


 果たしてそうだろうかと、日頃より他の地震学者らの発言を注視し拝聴していると、気象庁の発表する見解とには、かなりの温度差がみられる感じである。 そもそも能登半島一帯では、2~3年前から群発地震が多発しており、その震源域が徐々に浅くなって来ており、ここ1年程は複数の既知の活断層群に沿って線状に発生していた傾向を示していたにも拘わらず、志賀原発が立地しているせいか、政府の関係機関等も、日本海側〔 特に能登半島 〕の大地震の可能性については、「南海トラフ」のように繰り返し情報を発信していなかった。
 現在の地球科学では大地震の予知は出来ないとの理由や、群発地震の原因を地下の流体( 水や熱水など )の上昇と移動がその原因だとし、当地方が活断層の密集地帯である事を全く考慮せずに、立場上からも慎重になりすぎたのか、地域住民への注意を怠っていたように思われてなりません。


 地震予知は出来なくても、人体には感じない揺れの無感地震( 震度0の微動地震 )の多発は、今も減少傾向には無くずっと続いていると思われます。 能登半島から断続的に東方へと延びている佐渡西方沖の複数の活断層などが、今回の大地震では動いてなくても、例えるならば、先の大地震の地震波の影響で「震撼している」( かすかに震え揺れている )かもわりません。
 ここ2~3ヶ月の間に、連動してひずみエネルギーの解放が無ければ幸いなのですが、地域住民の方々は日頃より前兆現象( 宏観異常現象・まえぶれ )の観察に気を配り、自らが地学的な知識と防災意識を備えていなければ、他に手立ては無いのが現状です。
 「天気予報」のように当たりはずれもあるなどとの感覚で、他人任せに暮らしていては、今回の地震活動によるような生活圏の再度の被災は免れません。 自然界のこの地質現象は、「観天望気」のように予想が目には見えないのですから …。


中央構造線直南の地溝帯に形成された 「五桂池 ~ 栃ヶ池」 〔 断層地形 〕


 さて、我が伊勢市は、三重県の東紀州以南に甚大な被害を与えた終戦間際の東南海地震( 昭和19年に発生 )以来、大規模な地震災害には見舞われていないし、直下型の大地震などは全く発生していない。 江戸時代以前に遡っても、内陸の活断層の再活動による大地震も記録が見当たらない。
 しかし、市域に活断層が無い訳では無く、日本列島最大の活断層である「中央構造線」が市内のど真ん中を西南西から東北東にかけて、沖積地( 完新統 )の地下に潜在している。
 この中央構造線は、多気町丹生付近に複数個所その露頭があり、北方( 内帯側 )の領家変成帯の片麻岩や花崗岩類と、南方( 外帯側 )の三波川変成帯の千枚岩や結晶片岩類が、高角度の北傾斜の逆断層で接し、直線的な露頭界線を形成している。
 断層破砕帯も幅数10m以上に及び、副断層群を伴う「断層帯」を構成し、多気町の五桂池から栃ヶ池へかけての地溝帯を形成し、玉城町積良付近を経て宮川を横断し、やや北方に屈曲をしながら、伊勢市の市街地の地下へと続いている。 但し、玉城町以東では「潜在活断層」となっている。


中央構造線の露頭 ~ 伊勢自動車道の勢和インター( 多気郡多気町 )付近


 この中央構造線は、南北方向に並行して流下する五桂池付近の小谷群の流路の類似した地形の変形から、完新世の時代( 過去1万年程の期間 )になってから、左ズレの水平移動断層の様相を示し、地形図上での計測によると、中央構造線上の地形の屈曲した変位は、西方へ概ね80m程移動していることが判る。



 日本列島最大の活断層である「中央構造線」は、丹生から西方へは櫛田川の河谷に沿って高見峠に至り、その先は奈良県から和歌山県の紀ノ川沿いに西進し、紀伊水道をよぎり、四国の吉野川( 徳島県 )の河谷を形成し、新居浜付近を通って四国を縦断し、佐田岬半島( 愛媛県 )を経て、九州まで達している。
 この中央構造線の西端には阿蘇山があり、この阿蘇山の周辺に始まった中~小規模の浅発地震群の震源が、ここ数年来東進をし続け、どうも活動域が和歌山県にまで進ん出来たような感じがする。 さらに東進をし続ければ奈良県の山岳部を経て三重県へ、そしてついには伊勢市の市街地から伊勢湾へと移動するのではないかと、懸念される次第である。
 震源地が地下10km程度の場合、極く小規模な地震で済めばよいのだが …。 その前に第2東南海地震や第2南海地震が発生したり、中部国際空港付近の海底にある、「伊勢湾断層」( 活断層 )の再活動による直下型の大地震( 第2三河地震 )が発生すれば、もはやそれまでである。


西行谷( 伊勢市宇治館町 )に露われた 「朝熊ヶ岳断層」 の破砕帯


 かつて筆者は、学生時代の卒論を機会に、現職の頃に伊勢市の地質を調べた事がある。 その時に撮影した断層 ( 地質断層 ) や活断層の露頭の写真が出て来たので、その一部を紹介がてら掲載を致しました。


中央構造線直南の断層地形である、二見浦から続く鳥羽湾口の 「飛島島列」


 伊勢市内の活断層は、先の中央構造線の他、「朝熊ヶ岳断層」と地形のリニアメントから推定される「昼河山断層」( ひるごうやまだんそう・仮称 )があります。 前者は地形の変換点が明瞭で、山麓の風景として地形への反映が眺望されますが、その露頭は殆ど未確認です。
 後者は、伊勢市朝熊町北方の波状を呈する高度100m前後の山地を東進し、二見町の南方から池の浦湾を経て、鳥羽市の小浜半島中央の凹地( キレット状の小地溝 )までの伸長が読みとれます。
 その他、二見浦から鳥羽湾口へと続く「飛島島列」も、中央構造線に支配された直南の断層帯の沈水地形とされています。




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「辰年」の新年1月2日に、暖かな日和に誘われ1年半ぶりに一之瀬川を遡る。

2024年01月04日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク

度会町火打石の冬枯れの一之瀬川の風景 ~ 2024年1月2日 天祥橋下の川原にて撮影

 今年の元旦は、午前中は年賀状の返信を20枚程書いて過ごし、昼過ぎに伊勢郵便局に投函に行ったきりで、暇つぶしにと、以前志摩の海浜で採集をした海藻を、冬枯れの枯れ木に見立て、棚ざらしに置いてあった添配用の小物品等を添えて、部屋飾りの「置物品」を作ってみた。


新年の元旦に作製をした、手作りの部屋飾り作品 ~ 台座板の横幅は約15cm


 そして、夕方になってお湯を沸かしに台所に行き、電気ポットをセットした時にゆっくりとした小刻みな揺れが床を揺すり、家全体が少し揺れたので、震度2程度の「地震」かなと感じ、すぐに収まるだろうと炊事を続けたら、以前「阪神大震災」の時に体感したような、ゆったりとした揺れが数十秒程続いたので、どこか遠方で大きな地震が発生したなと思い、ポケット・ラジオをつけたら、能登半島の大地震( おおじしん )の緊急地震速報があり、NHK の女性アナがヒステリックに津波の発生について、繰り返し大声でがなり続けていた。
 即パソコンを立ち上げたら、輪島市辺りが「震度6強」と出ており、後で近隣の志賀町が「震度7」と追加され、大津波警報も発令された事を知った。

 この地域はここ2~3年来、群発地震が多発していたので、さほど驚かなかったが、まず興味をもったのは、気象庁がこの地震の発生メカニズムをどのように解析するかであった。 アナウンサーの言う事はあてにならないから、この先々は単一の活断層の再活動後のスプリング・リバウンドによる余震群がずっと多発するのかなと思いつつ、共役する潜在活断層や雁行断層群などへの影響も懸念され、熊本の地震のような「双子地震」の発生が頭をよぎったが、被害状況の報道や関係省庁等の事後対応も、いつも通りだと思いつつ、夕食の準備を続けた。

 一夜明けた「辰年」の新年1月2日は、朝から自宅前の舗装道路が少し湿っていたので、夜間に小雨でも降ったのかと思いながら、空を見たら上天気で、風も無く実に穏やかな日和であった。 伊勢市内の道路は、高速道路を来る外来客のマイカー等の侵入が規制されているので、どの道もガラすきである。
 午前中は、昨日の大地震のニュースの続報をパソコンで暫く見ていたが、昼前になっても真冬とは思えない程のホカホカ陽気なので、この暖かな日和に誘われて、久しぶりに伊勢市の郊外に自家用のポンコツ車で外出をしてみた。 そして気の向くままにと、1年半ぶりに一之瀬川を遡ってみた。


左岸の護岸整備が成されていた小萩口付近の一之瀬川 ~ 2024年1月2日 撮影


 昨夏の豪雨による宮川の大洪水後には、横輪町以外へは全く出向いていないので、一之瀬川の川原がその後どうなっているのかと、ちょっとだけ眺めに行った次第である。
 いつものように、度会町の川口から左岸の県道を遡り、小萩林道まで走ってみた。 林道を少し行った山林の入口は、小萩川左岸の雑木や植林木がかなり伐採され、川岸まで小広く盛土で埋められ、渓流の川原や石溜りが一変していた。 いつもの探石場所は谷川の流路となり、きれいな滝石や五色石、紫雲石、小萩青石などの良石が採れた石溜りは、どこもかも上流から流れ出た汚れた転石礫や、水苔に覆われたゴロタ石に置き変わり、探石に下りる気になるまでもなく、林道から唖然と水流を眺めるだけであった。


小萩川との出合い地点の一之瀬川の川原 ~ 2024年1月2日 撮影


 時間に合わせて、帰りに小萩川が一之瀬川に合流する出合いの左岸の川岸に立ち寄った。 ここも河岸の立木やブッシュが丸裸に伐採され、真新しいガードレールが川下方向に100m程設置されていて、その下の岩盤が露わになり、かつての川原もかなり狭められていた。
 10分程の寄り道であったが、ここでは手頃なサイズの小萩青石の「滝石」と、花柄模様の出る方解石の白脈入りの「紫雲石」をひとつずつ揚石した。

1月2日に、小萩川との出合い地点の一之瀬川の川原で揚石をした小萩青石の 「滝石」 ~ 石の横幅は約13cm

1月2日に、小萩川との出合い地点の一之瀬川の川原で揚石をした 「白花紋脈入りの紫雲石」 ~ 石の横幅は約15cm


 その後、メイン目的の火打石の「天祥橋下の川原」に立ち寄った。 ここは真冬の渇水期でもあり、川原は細長く広がっていたが、その半分ほどは細かな砂利や川砂に覆われ、五十鈴川のような真新しい堆積礫の刷新は無く、ただ歩いただけであった。
 しかしながら、諦めかけていた最後の最後に、細脈ながら大変珍しいの紫雲石の「赤筋滝」の妙石を手にした。

1月2日に、天祥橋下の一之瀬川の川原で揚石をした赤筋脈の 「滝石」 ~ 石の横幅は約14cm


 今年も、「水石」の探石に始まってしまった。 「辰年」にちなんで、出来れば「龍」の紋様石か形象石( 姿石 )を見つけたいものである。


天祥橋の橋上から眺めた川下方向の一之瀬川 ~ 2024年1月2日 撮影



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伊勢・志摩・度会の石紀行 その14 伊勢市五十鈴川に見られる「 ハート型の転石と三角礫 」

2023年12月01日 | 伊勢・志摩・度会の石紀行


今秋に採集の五十鈴川産の 「ハート型の転石」( 左 )と 「三角礫」( 右 )です

 伊勢市の清流であり、伊勢神宮・内宮境内の「御手洗場」ともなっている五十鈴川は、その源流を高麗広( こうらいびろ )山奥の剣峠付近の峻険な山地に発し、途中に大・小の支流を幾つか合流し、二見浦( ふたみがうら )西端の伊勢湾南岸のへと流下し、東西へと続く西南日本外帯の帯状の地質区を横切るように侵食し、壮年期地形に顕著なV字谷の河谷を形成している。 その結果、中流が殆ど無く、宇治橋の川上から川下にかけての2km程の川原には、主に古生層由来の各種の堆積岩や、現地性の塩基性深成 ~ 半深成火成岩類、さらに外帯の北限となる中央構造線直南の三波川変成帯の広域変成岩類も数多く見られ、岩石種の豊富な転石礫の堆積する平坦な川床となっている。
 特に、内宮境内の南側を東西に流れる最大の支流である「島路川」は、塩基性深性火成岩 ( 橄欖岩・斑糲岩・蛇紋岩 )類が豊富であり、五十鈴川本流へのこの種の転石礫の供給源となっている。


内宮境内の五十鈴川の 「御手洗場」 ~ 2023年12月1日 の早朝に撮影

上載の 「御手洗場」 のアップです ~ 2023年12月1日 の早朝に撮影


 日本全国が観賞用の「水石」ブームとなった昭和年代の半ば頃には、伊勢神宮の宮域である五十鈴川の上流からも、高麗広の地元民らによって「神代石」( 後の「伊勢古谷石」類似の石質 )や「伊勢赤石」「鎧石」等の銘石が数多く持ち出され、世に紹介されてから当地は一躍「名石」の多産地となった。
 高麗広を含む神路山から島路山、朝熊山にかけては、殆どの山河が伊勢神宮の宮域であるので、岩石の探石・揚石はもちろんの事、動物の捕獲や植物の採集等全てが厳禁であり、五十鈴川を遡る左岸の県道の通行利用以外は、一般人の立ち入りは禁止されている。
 従って水石の探石は、宇治橋川下の川原でしか出来ない。
今秋に採集の五十鈴川産の 「神足石」 ~ 左側の 「神足石」 の縱幅は約8cm です

 五十鈴川の紹介で、前書きが長くなってしまったが、この五十鈴川からは、かつて「神足石」と称する奇石が多産し、既にブログで何度か紹介をさせて頂いてきた。「神足石」は、昨今は希産となってしまっていましたが、今夏の豪雨によって五十鈴川が氾濫し、その後の渇水で刷新され堆くなった宇治橋川下の川原を、先月まで何度かに分けて踏査した結果、この特殊な形状の転石( 奇形礫 )である「神足石」と共に、その半長径程の形状の大小のきれいな「ハート型」の類似礫も、転石としてかなり含まれていることが判った。
 さらに、これとは別に「三稜石」類似の三角礫や多面礫も数多く入り混じっていたので、連載をし続けてきた「伊勢・志摩・度会の石紀行」に、本年の締め括りとして加えることに致しました。
今秋に採集の五十鈴川産の 「ハート型の転石」 ~ 左側の最長礫の縱幅約5cm です

 砂漠や海岸砂丘などの風食礫である「三稜石」は、水流には関係しない特殊な成因の定形角礫ですが、五十鈴川の川原に見られる「三稜石」は、風食と共に水食も加わり、頂角や辺稜が少し丸味を帯び、純然たる「三稜石」とは言い難いものが多産するので、今回は「三角礫」として、上述の「ハート型の転石」と共に写真を掲載し、紹介をさせて頂く事に致しました。
今秋に採集の五十鈴川産の 「三角礫」 ~ 辺稜幅は3cm から5cm です

 「ハート型の転石」も「三角礫」も、あらゆる岩石種に形成されていますが、かつてブログに記しましたように、「神足石」は緑色岩の場合は、交差する母材角礫の節理に関係して形成されているようで、地質作用のプロセスが成因であるとみなせますが、緑色岩以外の転石礫にもかなりきれいなものが生じている成因は、何故なのかよくわかりません。 五十鈴川が古来、神聖地の「神がかり」的な河川だからなのでしょうか。
 ちなみに、「三角礫」は、砂質岩( 砂岩や硬砂岩 )と緑色岩( 主に角閃岩や緑色片岩 )に比較的多く見られますが、他の岩石礫にも生じています。



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10月末から11月上旬にかけて、宇治橋下流の五十鈴川の全川原を踏査

2023年11月07日 | 伊勢志摩~奥伊勢のフィールド・ワーク

「新橋」 川上の晩秋の五十鈴川の風景 ~ 2023年11月3日 撮影

 秋の深まりと共に、10月末から11月初旬にかけては天候も安定し、初冬のような肌寒い日はあったものの、11月の3連休は連日好天の小春日和となった。 伊勢神宮は、外宮・内宮共に平日でも観光客が大勢押し寄せ、例年以上に賑わっているように見える。


「新橋」 から眺めた、その先の五十鈴川川上の風景 ~ 2023年11月3日 撮影

「新橋」 から下流の 「浦田橋」 にかけて広がる五十鈴川右岸の川原 ~ 2023年11月3日 撮影


 この好天を利用し、夏以降ずっと気になっていた、五十鈴川の氾濫後の未踏査の川原を遡り、11月4日の土曜日までかけて、宇治橋のすぐ下流の川原まで踏査をした。 全長約1.5km程であるが、「浦田橋」からその上流の「新橋」までの川原は、昼間は観光客らの遊歩もあるので、石探しの恰好で歩き回るのはどうかと思い、いずれの日も早朝に試みた次第だ。


かつて 「神足石」 の多産した、五十鈴川の 「新橋」 直下の川原 ~ 2023年11月3日 撮影


 日の出に合わせて午前6時半頃から、何回かに分けて歩いたが、川原の堆積礫の真新しさもあり、1~2時間がすぐに経過した。 午前8時半を過ぎると、右岸の河川敷の市営駐車場にも何台かの車が入ってくるし、対岸の観光街である「おかげ横丁」のあるお祓い町通りや、五十鈴川沿いの裏小路にも清流を眺めながら行きかう人々が絶えなくなるので、やむなく朝露に湿っている川原の石を見回った次第だ。


11月3日 に 「新橋」 下流の川原で採集をした、大変きれいな緑色岩の 「三稜石」 ~ 辺稜の長さは7cmから12cm

10月末から11月3日までに採集の、五十鈴川産の小型の 「神足石」 ~ 最長約7cm

 特に、「浦田橋」からその上流の「新橋」直下の川原は、かつては「神足石」の宝庫であったが、今回もそれなりの成果はあった。
「浦田橋」から川下の「御側橋」にかけては、干上がると只っ広い平坦な川原が出現し、広すぎて1度や2度では見回りきれない。 過日ブログに投稿した掲載記事のように、ここでは「神足石」と共に「三稜石」が比較的多く見られるが、一通り踏査はしたものの見逃しも随分あったと思っている。 しかし、今回で気になっていた川原は全て見回ったので、五十鈴川での今年の採集と探石は、これで終了と致します。
 以上の文中並びに、以下に掲載の転石等の写真は、今回の最新の成果です。


11月3日に採集の 「赤玉石」 の貫入脈のある転石  ~ 写真の左右幅約6.5cm

11月3日に揚石のきれいな珪質岩の 「滝石」 ~ 横幅約9cm

11月3日に揚石の残存曹長石の紋様石 「銘 ・ 笹舟に乗ったカッパの子」 ~ 高さ約5cm
10月29日に揚石の、残存曹長石脈の浮き出た 「白花の紋様石」 ~ 横幅約10cm

10月29日に揚石の白紋入りの緑色岩の 「紋様石」 ~ 高さ約11cm


上載写真左下の 「白紋」 の部分アップです

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