伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

志摩の外海、海岸紀行

2010年10月27日 | 伊勢志摩旅情

~ 安乗岬から波切を経て、御座岬へ ~【 後編 】

 

上空から見た片田~布施田

 

片田(大野・麦崎)から布施田へ

 深谷水道を越え、少し行くと、正面に信号交叉点とコンビニ(サークルK)があり、ここで国道は旧道と新設のバイパスに分かれる。この紀行文は、志摩の外海の海岸紀行なので、旧道沿いの案内となる。旧道といっても国道(260号線)であり、当地志摩町の幹線道路に変わりがなく、真新しいバイパス国道から眺める志摩の入江の景観に比べれば、いささか古風であり見晴らしはかなり異なるが、見るべき場所などは実にたくさんある。

 

片田の大野浜  交叉点から左に入り、少しアップして下ると、目前に遥か先の麦崎の半島まで続く、大変美しい見事な弓なりの湾入「大野浜」が見えてくる。ここでも道路は防波堤と一体化し、大野の村落(片田地区に入る)は左下に見下ろす形となる。湾入と言っても、外海は激しい怒濤の熊野灘の海であり、先志摩の外海岸は、岬角部が海食によって削られ、土砂が沿岸流や潮流によって運ばれ、その土砂が岬角間の湾奥を埋めて、砂礫の堆積した弧状のビーチとなった訳である。この海水の三作用は、地質時代の第四紀を通して繰り返されて来ており、特に海食作用は、岬角部を削り取ったばかりでなく、低地に堆積していた段丘堆積層(鵜方層)までも抉り取り、その後、平衡状態に近づいて行った結果として、外海岸(そとかいがん)の出入りの激しかったリアス式地形は次第に均されて、ほぼ直線化してしまっているのだ。このような一つの半島において、内湾(英虞湾)側と様相を異にする外洋側の海岸線は、「対置海岸」(離水地形であるにもかかわらず、その後の海水の作用によって、沈水海岸のようになってしまった海岸線)の一種とみなす事が出来る。

片田稲荷神社  話が少し専門的になってしまったが、大野の村落は砂州の上に発達したかのように見え、明らかに海抜0m地帯で、元々低湿地帯だった場所柄、少しずつ地盤沈下も起こっているのではないかと思われる。村落の中には海跡湖の残骸のような「中スカ池」(明治期以降、周囲から埋め立てられ面積が縮小している)があり、以上の事を如実に物語っている。あと大野では、道路のすぐ右下に、朱色の鳥居の目立つ由緒ある片田稲荷神社がある。

 

片田の大野浜から麦崎を望む  大野を過ぎると、アップ・ヒルとなって、すぐにバス停のある小広いスペースに出る。この丘陵地の高台から南に突き出した岬をくまなく埋め尽くすように、外海岸にかけて民家の密集する片田の漁村となる。但し、村内には洋風の建物もチラホラ見られ、かつて明治の中頃から昭和の初期にかけて、アメリカへの出稼ぎ移民が続き、外地で成功を収め、裕福な資産家となって里帰りをした人達のいた、言わば史実の名残と言えそうだ。一時は、片田を「アメリカ村」と称した時期もあった。

麦崎灯台  岬の先端は「麦崎」と言い、先志摩の最南端である。白いきれいな無人灯台が、海食崖の上にポツリと立っている。漁港廻りの舗装された幅広い迂回道路と、路地のような村道があり、ダウン・アップして灯台への細道へと続く。小丘上に立つ灯台の真下は、海食地形のオンパレードである。急傾斜した互層を成す中生代白亜紀の地層(的矢層群)が見事な層理を見せ、下から眺める海食崖は目を見張らせる程素晴らしい。海食崖の下は、日南海岸に見る「鬼の洗濯板」のような海食台や、波食棚、溶食プール、海食ノッチなどの微地形が色々と観察できる。波食棚の泥岩層の中には、真っ黒な二酸化マンガン鉱より成る、大・小のノジュール(団塊)が含まれている。又、狭いながらも、灯台の裾は展望台になっており、熊野灘の海を見渡す絶好の場所と言える。右手には、和具沖合の大島・小島が水平線上に、帽子を伏せたように浮かぶのが眺望出来る。麦崎の波食棚の泥岩層内のノジュール

 

 国道まで村道を戻り、右側にある片田小学校の前を通り、漁港へのアクセス道路の分岐点過ぎて西に1kmほど行くと、布施田の村落に入る。かつては、両村間の沿道には人家が殆ど無くて、畑地だけが広がっていたが、今はごく普通の家々が立ち並んでいて村界がはっきりしない。布施田は、道路が先志摩半島のほぼ中央にあり、丘陵地上面の幹線道路(国道260号線)を挟み、民家が内・外両方の海側にまたがって、南北にベルト状に分布している。見かけ上、外洋側の漁村と内湾(英虞湾)側の高台の農村が合体したような感じである。字名を調べると、面白い事に、「浜村」と「畑(野)」、そして「根中」、「北中」とほぼ三つに分けられるようだ。旧家の屋敷地のとり方や、家屋の間取りなどを見ても、明らかに他の漁村とは違ったものが見られ、人々の気風もかつては農村型が多かったと聞く。布施田の東寄りの外海岸のビーチは、300mほどが近畿自然歩道(麦崎・磯笛の道)となっている。小さな漁港のある海岸へは、普通車が落に通れる村道が下っており、漁港から西方に海岸沿いにアップしながら村落を通り抜けると、和具の広の浜に出る。布施田から西の先志摩の海岸は、表和具漁港の突堤までほぼ真っ直ぐな海浜が続いている。

麦崎の海食崖の地層(急斜する的矢層群の互層)

 

先志摩最大の繁華街「和具の町」

上空から見た和具の町 

 国道を布施田からさらに西に1kmほど行くと、先志摩地方最大規模の漁港、繁華街を持つ和具の町に入るが、この途中も、今は沿道に民家などが立ち並び、どこからが和具なの解り辛くなっている。先ほどの広の浜へは、繁華街手前の志摩広域消防組合・志摩分署のある信号交叉点から左に入る真新しい舗装道路がついている。 道路際に「志摩総合スポーツ公園」の道路標示があり、左折し、スポーツ公園の前を通り抜けて、500m先まで進むと外海岸に出る。この広の浜には、サッカー場程のスペースの、浜を見渡す「ふれあい公園」がある。公園には、かつてほんの一時期、鳥羽一郎歌手が歌った「志摩半島」の歌碑がある。

 

街灯の残る和具の「みたま通り」  我輩が始めて和具に行ったのは、昭和40年、高校2年生の時である。部活仲間だったT氏に連れられて、彼の親戚を訪ねての志摩の旅であった。伊勢の町から賢島に出て、巡航船に乗り英虞湾を横断、途中「間崎」(英虞湾内の離島)に寄港しただけで、船はおよそ30分で着いた。当時、初めて訪れたこの和具の町は、このような志摩の海辺の方田舎に、伊勢の市街地並みのこれ程の町があったのかと、度肝を抜かれたものだ。彼の叔父は、剣道の師範で、整骨院を営みながら「武徳館」という剣道場を開いていた。 昼には、仕出しの寿司をとってくれてご馳走になったが、ネタの魚が新鮮でとても美味しかったのを、いまだによく覚えている。昨今は特に、元は沿岸漁業を営む漁師さんたちの、船上での即席ご飯だった「手こね寿司」が人気を博し、志摩の和具と言えば、即「手こね寿司」と出てくる程、当地の名物料理として全国に広まった。 和具は昔ながらの魚処であり、寿司処なのだ。

和具漁港に架かる「志摩大橋」

 昭和の頃の和具の町は、志摩町の中心地として町役場があり、他に銀行や農協、漁協、電信電話局、郵便局、交番、診療所、観光案内所、観光旅館、映画館(劇場)、銭湯、大衆食堂、八百屋、駄菓子屋、パチンコ屋など、何でも揃っていて、随分活気に満ち溢れていた。町に入ると国道筋約500mが商店街であり、この道路の中ほどから英虞湾岸の船着場に向かって、900m程一直線に伸びる「みたま通り」がある。かつては、この通りも300mほどはにぎやかな商店街であった。時を隔てた現在も、かつて繁華街だった頃の面影を残すかのように、電柱には提灯形の街路灯がぶら下っている。そして、程よい入江の英虞湾岸の港まで、ずっと町街地が南北に続くこの町には、外洋側の表和具漁港と、内湾(英虞湾)側の和具漁港の二つの立派な港がある。内港のすぐ前には、早くから実習船(しろちどり・はまゆう)を持つ水産学校(現在の県立水産高校)が開設され、若い船乗りたちの育成にも力を入れて来た。今、この船着場の目前には、入江を跨ぐように視界を横切って、一つアーチの白い志摩大橋(バイパス国道の橋)が架かっている。

和具沖の「大島・小島」  和具を語る時、忘れてはいけないのは、外洋の沖合2.5kmほどの所に、大島、小島の二つの小さな離島(無人島)のある事である。特に大島には浜木綿の大群落があり、夏季の「潮かけ祭り」の祭事場ともなっている。ここへは、夏場のみ観光客用の期間限定の船便があり、大島へはその時期を捉えて訪ねる事が出来る。島々の近海は、海女の格好の漁場であり、両島は和具の海女たちの休息地でもある。

 

越賀から御座へ

 和具の町を抜けて、左手の和具漁港過ぎ、岩井戸崎付近のアップ・ダウンを2度繰り返すと、目の前に湾入が見えてくる。この当地の一番東の浜は、社田方(さだほう)の浜(又は神社浜)と言い、越賀漁港となっている。このビーチの西の出鼻は城山と称し、先端には「城山休憩所」と書かれた、コンクリートの突堤のようなちょっとした展望台がある。ここには、城山休憩所を経由してこの出鼻を一周する、全長200mほどの小道(近畿自然歩道)がついている。城山を越えると、すぐ西隣りに似たようなスペースと形状の湾入がもう一つあるが、ここは「西方浜」である。

 越賀の漁村は、外洋側に古くからの村落が密集し、次第に丘陵上面から内湾の越賀浦の方向へと拡張していったようである。かつては、漁業中心の漁村形態の村落だったとみえ、越賀港は、古く江戸時代には、鳥羽、安乗、浜島とともに、志摩四津のひとつとして知られた港であったと言う。当地の北西には金比羅山(海抜99m)がそそりたち、北西からの季節風が遮られるので、先志摩地方では冬場も一番暖かく温暖である。当地の畑地で栽培される「越賀茶」は、志摩地方では特に上物とされている。

越賀の阿津里浜  越賀の幹線道路(国道)は、表海岸に沿って進むので、繰り返すリアス式地形の湾入が見え隠れし、海景は変化に富んでいて、とても良い眺めとなっている。西方浜の西方にもう一つの出鼻「天神山」があり、この丘上の越賀中学校の下を通り、アップ・ダウンを繰り返すと、又、見事な湾入が目前に展開する。ここは海水浴場としての再整備が成され、観光ビーチと化した、著名な越賀の「阿津里浜」(あづりはま)である。護岸も大変きれいに階段風にアレンジされていて、黄色い砂地の浜の真ん前には、離れ島を成す大・小2つの小島がある。左手の大きい島は「城ヶ島」、正面の小さな島は「雀島」(すずめしま)と呼ぶそうだ。漣の寄せ返すビーチの沖には、熊野灘の海が広がり、言うまでも無く、ここは先志摩地方きっての景勝地なのである。阿津里浜海岸には、トイレ付きのモーター・プールを備えた休憩スペースも作られている。

 道路を隔てた阿津里浜の反対側には、志摩観光協会のモダンな建物があり、「海女資料館」「海女小屋体験」「観光案内所」の立看板が立っている。その裏手は、志摩オート・キャンプ場となっている。ちょっと覗いてみると、「海女資料館」はワン・フロアのみだが、なかなかのものだ。入場無料なので見学するとよい。

 

 阿津里浜の隣に、ノリの浜と呼ぶもう一つ小さな湾入があるが、阿津里を過ぎると、とまん崎から続く雑木林となり、道路は少しアップし、雑木の繁る山越え道となって、この先、海は全く見えなくなる。やがて細長い下り坂にさしかかるが、雑木林の連なる南岸は、地形図上では荒見崎から参宮浜を経て岩井崎に続く、程良い展望地のはずなのだが、この広大な雑木林のスペースは、幾つかの企業の私有地となっていて、地元民も一般人も海岸へは近づけない。手付かずのまま、長い間ずっと荒れ放題になっている。かつて、我輩は、一人この雑木林(私有地)の藪道に迷い込み、苦労して岩井崎まで行った事があるが、見晴らしはブッシュに覆われてまるでダメだった半面、いろんな野鳥がいて、このままの方が良いのかも・・・、とさえ思ったものだ。このエリアは、今にして、言わば「止め山」であり、「入らずの海岸」なのだ。

 

 さらに、道路は少しアップし、右手の金比羅山の麓を迂回して回りこむように、細長い下り坂をカーブしながら進んで行くと、民家がチラホラ見えてくる。道路を下った所に、御座の入口に当たるひと塊の村落があり、「御座白浜」のバス停がある。ここから北方が御座である。御座港へは、ここからさらに右回りの幹線道路(国道)を少しアップし、Sカーブを下り、再度Sカーブの坂道をもう一度アップ・ダウンして1kmほど進むと、間もなく到着する。

 御座港は、こじんまりした船溜りに、定期船の桟橋を備えた英虞湾口の漁港で、先志摩半島先端の北海岸に位置している。湾を隔てた対岸には、浜島の町がはっきりと眺められる。以前は、英虞湾を横断して浜島に行き来する奥志摩フェリー(志摩勝浦観光汽船が就航させていた)があったが、今は巡航船が発着しているだけである。港からは、賢島行きと浜島行きの2航路の小型の定期船が出ている。

 御座の村落は、沿岸漁業と海女漁中心の漁村であるが、岩場を廻ったすぐ西方に、500mほどの長さの弧状を成す遠浅のビーチを持っている。白砂の大変きれいな寄せ波の静かな「御座白浜」である。夏場は海水浴場となり、海水浴客やキャンパー、観光客らで大変にぎわい、常設の海の家などの設備もよく整っている。季節限定ではあるが、当地のドル箱ビーチなのだ。

日和浜の岩場での磯釣り  御座白浜の西方は、金比羅山同様に、独立高峰を成す黒森(海抜96mの岬山)で、その突端は荒磯を成す御座岬である。この残丘状の小山に繋がるビーチの低地は、元は砂州のようで、どうも黒森は陸繋島らしい。反対側の外洋は、日和浜と言って、海女の稼ぎ場である。御座も又、和具、越賀とともに、先志摩地方における海女漁の本場なのだ。日和浜の荒磯は、御座岬の方へは荒々しい海食地形の岩石海岸が続き、正に絶海の果ての孤島ような印象である。海食崖には互層を成す的矢層群の地層が激しく褶曲し、複数の断層によって断ち切られ、弱帯には海食洞が幾つも出来ている。御座岬の周辺は、海食台や離れ岩だけでなく、沖合にまで暗礁、岩礁が無数にあり、古来、「御座のヤスリ」と称し、船頭たちに恐れられていた。古謡にも、

伊勢の神前岬(こうざき) 国崎(くざき)の鎧
御座のヤスリが邪魔になる

とさえ、謡われている。

御座岬稲荷  日和浜の東方は、遥か先の岩井崎まで、砂礫のビーチがきれいな汀線を形成して続いている。このビーチには、一般道路が無くて立ち入れないのは残念だ。黒森上端の御座岬灯台(無人灯台)へは、オート・キャンプ場のはずれから、黒森東斜面の別荘地へ登る九十九折りの簡易舗装の急坂を、300mほど車で途中まで登り、そこから、コンクリートの階段のある尾根伝いの急な山道を登って行く。およそ15分、360mほどの距離である。山頂には御座岬稲荷神社の祠があるので、やや道幅もあって手入れが成されている。但し、山頂の御座岬灯台に行っても、ブッシュに囲まれていて視界が遮られ、見晴らしは全く効かない。黒森は私有地なのか表示板等も無く、別荘があるだけで、観光化は微塵も成されていない。灯台へは、只、山道を登って戻って来るだけである。

御座の石仏  御座港界隈の名所を書き忘れたが、漁港の船溜り左手の岩場の岸(波打ち際)に、潮仏(入り口の道角に「女性の守り仏・石仏地蔵尊」の案内板がある)があって、満ち潮時に訪ねるとすっぽり海水に浸かっている。離れ岩を成す目の前の岩島には、ごく小さな海食洞門もある。もう一つの名所は、金比羅山北麓の谷間にある、由緒ある寺院、「爪切不動院」である。変化に富んだ境内は、アップ・ダウンが激しいが、寺院には、昔、弘法大師が爪で削って作ったと伝えられている、ご本尊の不動明王(秘仏である)が祀られている。この不動堂のそばの岩場からは泉水が湧き出しており、幾つかの見所を擁し、あたりは樹木も鬱蒼と繁っていて、ちょっとした幽秘境の趣がある。現在のここの管理人さんは、かつて上段の構えの名人であった、剣道の達人である。

 

 日が暮れると、夏から秋にかけての御座漁港は、夕映えが凪いだ英虞湾を染め抜き、茜色の夕空とともに、大変美しい海景を眺めさせてくれ、志摩の果てならではの、素晴らしい旅情をかきたてる ・・・ 。

 

旅のおわりに

 この拙稿では、志摩地方の外洋側の海岸にスポットを当てながら、風景の描写ばかりでなく、志摩の風土や村落の事、それに筆者の回想なども雑えながら、思いつくままに筆を進めてみた。志摩地方は、昭和から平成の時代へと歴史が移行して来た中で、道路網だけは驚くほど整備され、充実したと思う。

 半面、消えていったものも少なくない。かつて、英虞湾周辺の未舗装の道路は、数少ないバスの便では所要時間がかかり、オート三輪などが走るぐらいで、マイカーもまばらであった。それに代わり、定期船やフェリーが各港の間を頻繁に行き来し、志摩の海ならではの光景を見せていたものだ。海女漁も、志摩への旅情をそそる白い磯着から、黒いウェット・スーツに代わり、風物詩として見るには、実に風情がなくなった。

 しかし、昔も今も、海岸に働く人々の姿は変わらず、そこに豊かな海産物を育むきれいな海の風景・風物があってこそ、伊勢志摩国立公園の中の「志摩」としての魅力なのではないだろうか。

 筆者は、地元の人々だけでなく、四季折々に当地を訪れ、この変化に富んだ海の国立公園を旅する多くの人々にも、この「志摩」を大切にして頂きたいと思う一心で、この旅行記を記述した。以上の趣旨を述べて、本稿の終わりとしたい。

御座白浜

( 2010年10月25日・完 )

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志摩の外海、海岸紀行

2010年10月22日 | 伊勢志摩旅情

~ 安乗岬から波切を経て、御座岬へ ~【 中編 】

 

大王崎の上空から眺めた波切

大王崎の界隈を北から南へ

須場浜(すばのはま)から眺めた波切の灯台  志摩は、その昔、万葉人が「美し国」(うましくに)、「御食つ国」(みけつくに)と詠んだように、新鮮な海産物の豊富な、お伊勢さんの隣国である。 特に東に突き出した小高い大王崎の付け根の漁港が、波切であり、南北に続く荒磯は、「老崎」や「大里浜」、「須場の浜」、「宝門の浜」、「船頭の浜」、「米子の浜」を始め、地元の海女たちの絶好の漁場となっている。

 波切の北方には、畔名(あぜな)と名田(なた)の村落があり、いずれも防波堤の外に船着場程度の漁港しかないが、沿岸漁業と農業を主とする半農半漁の村落である。

 

畔名の海岸風景  市後浜の上を走る幹線道路は、志島を抜けるとすぐ右手に国道260号線への分岐路があり、左先の畔名へは下り坂となるが、この道を下ると畔名の村落に入る。ここは、弧状をなす湾奥の防波堤とこの道路に挟まれた、幅数十mほどの低地に細長く家屋が密集しており、次第に南北の丘の上へと居住区が広がっていった様相を見せている。元の地形は、海跡湖的な湿地帯であったのだろうと思われる。

 海岸に出るには、普通車だと路地道が狭く、厳しくて入れないゆえ、一旦、志島のはずれの分岐点の少し先まで引き返し、畔名小学校への小道(普通車一台が、すれすれに通れる程度の道幅しか無い)を大廻りしなければならない。地元民しか滅多に来ない、こじんまりした弓なりのビーチの両端は、小高い岬になっており、絶壁を成す海食崖真下の岩場や荒磯は、磯釣りには良いかも知れない。ちょっと面白い事に、この海岸にはカラスよりトビが多い。北方の小さな岬を「鳶ヶ巣」(とびがす)と呼称するのも頷ける。

 

 元の道路に戻り、畔名から、さらにアップ・ダウンを繰り返し少し進むと、舗装道路は海岸に向かうカーブの下り坂となり、左手前方に狭い低湿地があり、防波堤の向こうに海が開けてくる。ここは名田の大野浜である(ブログのバックナンバー参照)。 最近、道路際からすぐ前の防波堤に登る道が整備されたばかりだ。このこじんまりした礫浜のビーチは、まだ地元民もたまにしか来無いが、付近の藪道は東海自然歩道となっている。

名田の明神島 この大野浜の低地を越えたすぐ先に、舗装道路から左折して入る、名田の狭苦しい海岸へのバイパス道路が、最近ついた。名田の村落は、沿岸の狭い谷間に家屋が密集し、上方の幹線道路(県道)までへばりつくように建て込んでいる。突堤のすぐ前には、駱駝の背中のような明神島(地形的にはホッグ・バック-豚の背構造-の「離れ岩」的な岩島)が突き出ている。昔は祠を祀っていたようだ。特にこの近海は、海女たちの格好の漁場である。

 

 かつて、近海を航行する船舶の難所の一つだった、大王崎のある波切は、岬の灯台巡り(大王崎灯台。有料で公開されていて、登る事が出来る)で有名であるが、志摩地方では、魚市場を持つ比較的大きな漁港町である。ここは、漁村のイメージは全くと言ってよいぐらい無くて、細い灯台道に続くメイン道路には、真珠製品の販売店や海産物店、みやげ物屋などが並び、観光旅館や民宿の他、釣り客の為の渡船宿もある。早期より鵜方からの国道(260号線)が整備されて通じ、賢島や英虞湾とともに、志摩めぐりの観光コースのメインになっていた。冬場を除けば観光客の来訪も頻繁で、港湾北の干拓も進み、波止めブロックで護られた長い突堤が出来、無料駐車場やペーブメントなど、周辺域の整備も急ピッチで成されつつある。

米子の浜から眺めた波切の灯台  大王町は、当地波切を「絵描きの町」としても広めようと、そのP.Rに力を入れている。著名画伯や文人も数多く訪れ、灯台の見える風景は、写真よりも絵画の方が目栄えがし、地元の画家による名画も少なくない。地元の名人画家と言えば、先年亡くなられた甲賀の南幸男先生が偲ばれる。「波切」をテーマに数々の風景画の大作を描かれているが、どの作品も実に素晴らしい構図とタッチの名画であり、アーティストとしてばかりではなく、教育者としても遺憾なくその才能を発揮された立派な方であった。先生の知遇を得た者の一人として、合掌を禁じえない。

 当地から西方には、握りこぶしを英虞湾に突き出したように、丘陵地を成す登茂山半島が伸びているが、一直線に伸びる完全舗装の貫通道路が湾岸まで続いている。先端は、登茂山の頂上とともに、英虞湾を見晴らす優れた展望台(桐垣展望台)となっている。この登茂山半島は、英虞湾に臨む程良いスペースの自然公園であるが、最近はリゾート地としての開発も進められ、新設ホテルや人工ビーチ(次郎六郎海岸)の他、屋外スポーツ施設等もかなり増えている。

 

海跡湖を成す大王町・船越の大池  大王町から英虞湾を取り囲む、先志摩半島の先端の御座までは、点在する村落をつなぐ国道260号線が唯一の陸上経路であったが、最近になって、平行して延びる立派なバイパス道路が、英虞湾側に完成した。この先志摩半島に行く付け根の部分が船越(大王町)で、陸けい砂州の低地の真上に立地した漁村である。太平洋側には弧状の前浜がビーチ・カスプを見せて広がり、道路際には、この海湾を眺める「船越前浜小公園」が設置されている。前浜から数百mと離れていない英虞湾側は、湾奥の入り江が天然の良港となっている。但し、外洋に出るには、以前は御座岬を大廻りして行かなければならず、実に不便であった。低い地峡となった陸上を、その昔、男たちが人力で船を引っぱり、担ぐなどして運び出して行ったであろう事が、その地形から容易に伺え、それに基づく地名(船越)の由来がよく理解できる。

深谷水道  防波堤と一体化した船越の道路(国道260号線)を通り、村落を過ぎると、左手に葦の生える海跡湖のような「大池」を見る。海に近い池畔には船越温泉の小屋がある。そして、退治崎へと続く丘陵をアップ・ダウンすると、間もなく「深谷大橋」と言う小さな橋に出るが、この下は、志摩地方唯一の運河である「深谷水道」(ふかやすいどう)となっている。この人工の水路は、幅20m程だが、 英虞湾と外洋を行き来する小型漁船専用の通路であり、船越の漁船にとってはこの上なく便利になった。深谷水道を超えると、その先は志摩町となる。

船越の前浜

 

掲載写真は、上から

大王崎の上空から眺めた波切
須場浜(すばのはま)から眺めた波切の灯台
畔名の海岸風景(漁港と言っても、船着場のみである)
名田の明神島
米子の浜から眺めた波切の灯台
海跡湖を成す大王町・船越の大池
深谷水道
船越の前浜

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志摩の外海、海岸紀行

2010年10月16日 | 伊勢志摩旅情

~ 安乗岬から波切を経て、御座岬へ ~ 【 前編 】

 

上空から見た安乗岬

 

志摩市の5町について

 志摩地方は、つい近年、志摩5町がひとつになり、志摩郡から「志摩市」となった。伊勢神宮の別宮、「伊雑宮」のある磯部町は、的矢湾の奥半分を取り囲む場所に位置し、西方には「天の岩戸」や「鸚鵡石」など、古来の名所があって、昔は逢坂峠を越えて内宮裏の館町へと続く山路道(伊勢の側からは「磯部路」(いそべみち)と言っていた)を、古くから人々が盛んに往来していた。

国府白浜から安乗半島を望む  その東の阿児町は、志摩電鉄が鳥羽から賢島へと開通(昭和4年に開通)してからは、 鵜方を中心に志摩地方の中核地となり、鵜方は、駅前を中心に新興都市型の町へと急速に広がり、発展し、志摩地方最大の繁華街となった。特に賢島は、その後、阿児町最大の観光地へと変貌し、海岸線の入り組んだ波静かな南の英虞湾は、真珠筏の浮かぶ風光明媚な海景が展開し、伊勢志摩国立公園最大の観光資源となっている。この陰に隠れたようなもう一つの観光地が、北の突端、「安乗岬」である。さらに、町内の各地に通じる道路網が整備されて以降は、国府の白浜とともに、志島の「市後浜」(いちごのはま)がサーフィンのメッカとなり、シーズンになると県内・外の若者たちで賑わいを見せている。

 先志摩地方と阿児町をつなぐ位置にある大王町は、波切漁港と船越漁港中心のこじんまりした町で、東の小高い突端、大王崎は、灯台(有料公開)が観光のシンボルとなっていて、細い灯台への坂道にはみやげ物屋が軒を連ね、空をも遮っている。最近は、英虞湾に突き出し西に伸びる、登茂山半島の丘陵地や海岸がリゾート地として開発され、展望台とともに数々の観光施設が出来ている。

 志摩町は、陸繋砂州の上に立地している船越の村落から、西方に延びた鋸型の先志摩半島の殆どを占めるが、今は当地方唯一の運河である「深谷水道」が町界を成すので、はっきりしている。かつては幾つかの漁村が点在し、漁業中心の素朴なイメージの志摩の果てであったが、縦貫道路やバイパスが貫通し次第に散村と化し、俗化されて来ている。志摩町の中心地は、和具漁港であり、かつて外洋から内湾へと続く繁華街には、映画館やパチンコ屋も複数あったし、早くから水産学校(明治35年創立。現在の県立水産高校)が設置され、カツオ船などもたくさん出入りしていた。志摩町は、真珠養殖とともに、海女漁の最も盛んな場所でもある。

 阿児町から五ヶ所湾に続く沿岸部途中の浜島町は、どちらかと言えば「奥志摩」である。合歓の郷のある大崎半島によって区切られ、沿岸海域が英虞湾の多島海や有湾台地とは少し異なり、外洋的要素も加わった、英虞湾口北岸の漁業と観光の町である。ここでも海女漁は見られるが、かなり以前から遠洋漁船の入港もあり、鳥羽、渡鹿野と共に、船乗り相手の遊女のいた、三大色町の一つとしても発展して来た。漁村を骨格に、この港町は今、近代的な温泉を掘り備えた複数のリゾート・ホテルが並び、夜のネオンが怪しげに観光客を誘(いざな)うようだ。

 

安乗岬から志島へ

 国の重要無形民族文化財に指定されている、「安乗文楽」で知られる安乗の村落は、短い陸繋砂州の上から西方背後の丘陵地の高台へと立地した漁村である。ここの灯台は、北に突き出した小高い岬の突端にあり、その手前の芝生広場(元は、安乗中学校の跡地)の一角に、町が設置した簡易食堂兼休憩所と、安乗埼灯台資料館(入館無料)がある。ここへは、村落横の防波堤を通り、狭い急坂を上るが、普通車一台がやっと通れる道幅である。四角柱の灯台は、古い歴史があり、内部が有料で公開されていて登ることができる。的矢湾の湾口を隔てて相差の菅崎が間近に見えるが、渡鹿野島はここからは見えない。この灯台は、映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台として、そのロケで一躍有名になり、当時の写真などが内部の螺旋階段の上り口に飾られている。

 もう一つ安乗を知らしめた文学作品に、明治の漂白の詩人として著名な伊良子清白の詩集、「孔雀船」に収録された「安乗の稚児」という詩がある。最初の部分のみ記すと、

志摩の果て安乗の小村(こむら)
早手風岩をどよもし
柳道木々を根こじて
虚空(みそら)飛ぶ断(ちぎ)れの細葉

 

 今は、志摩地方の国道等も整備が進み、バイパスや各村落へのアクセス道路も出来て、交通至便になった。鵜方から国府(こう)を経て、安乗へ向かうかつての一本道も拡幅され、立派に舗装されている。

槇垣のある旧道(正面突き当たりに、国府神社がある)  安乗から国府へは小高い丘の上を通るが、ブッシュに囲まれていて見晴らしはきかない。途中に、今は高層ホテルの立ち並ぶ温泉歓楽街となった、渡鹿野島(的矢湾内の離島)の村落対岸の船着場に出る、アスファルト舗装の幅広いアクセス道路が出来ている。そこを通り過ぎ、切通しの坂を下ると、国府の手前右手の雑木林の中に、由緒のある古い国分寺(跡)がある。そして、目前に磯波の寄せる広々とした砂浜海岸が開け、遥か先の岬(城の崎付近)まで3kmにわたって弓なりの海浜となる。 夏場はサーファーや海水浴客らでにぎわう「国府白浜」である。臨海地は「志摩パークゴルフ場」となっているが、街村的な村落は海抜0m地帯に密集しており、かつては半農半漁で生計を立てていた。ここは、昔から海からの砂風除けの為、独特な槙垣のある村落として大変有名であり、その槙垣は今も旧道沿いの各家々に残存する。在所の中には国府神社があり、この村落を護っている。又、古くから当地の農家は、風習としてどの家も隠居制を敷き、今も屋敷内に年寄りの為の離れ家(別棟)を持っている家がかなり見られる。

国府の国分寺(跡)   

 国府を過ぎると、間もなく防風林の松林となり甲賀に至る。当地の海浜は「甲賀白浜」とも言い、歴史的に著名な「阿児の松原」があり、万葉集を始めとする古歌にも歌われている。夏場になるとサーファーや海水浴客らで賑わい、松林の中には「阿児の松原スポーツセンター」がある。その管理棟の前には、 

「阿胡の浦に船乗りすらむ乙女らが 玉裳のすそに潮満つらむか」(詠み人:柿本人麻呂) 

の歌碑が建っている。但し、この古歌に詠まれた「阿胡の浦」が、今の場所なのかどうかについては異論もある。

 ところで、この「伊賀・甲賀」の文字の一方を充てる、当地「甲賀」という地名であるが、由来は古く戦国時代を遥かに遡り、大化の改新以後、各地に国府(こくふ)の置かれた時代かららしい。但し当地の「甲賀」は、後年に文字を充てたものらしく、諸説ある中で、元は「国府ヶ浜」(こうがはま)だったのが短縮されて「国府ヶ」となり、「甲賀」の字を充てたのだと言う説を採りたい。

 

 甲賀のはずれの右手は、海潟湖(かいせきこ)の跡のような低湿地帯となるが、海沿いの旧道は上り坂となり、坂を登りきった丘の上が志島(しじま)である。この丘の上から東側の海岸まで、ダウン・ヒルの急斜面に家屋が密集し、下の漁港まで続き、まとまった村落となっている。

王女丘古墳  志島といえば、志摩地方では大・小の古墳群の集中する場所としてよく知られている。古墳は全部で15基あり、このうちの第11号古墳は、一番高い場所にあり、正式な学術調査も行われ、「王女丘古墳」(おじょかこふん。割石積・横穴式・石室古墳)として広く知れわたっている。当地ふのり海岸の渚付近の丘上の塚穴古墳(4号古墳・円墳)と共に、以前は覗いて内部が見学出来るようになっていたが、今は雑草で覆われている。「おじょか古墳」へは、道路沿いに案内板があるが小さくて解りにくい。志島のバス停の少し先にある、「フードショップ 出口食品」横の細い路地を少し入った、民家の入口横の小丘がそうである。志島古墳群は、鉄刀、古鏡、勾玉、管玉、金鈴、金環や蓋杯、埴輪など、豊富な副葬品の出土例から見ても、志摩地方最大級の古墳遺跡である。

遠浅・白砂のビーチ「市後浜」  この他、志島は、古来、沿岸漁業を主とし、農業を従として生活を営んで来た村落であるが、海女漁も盛んで、かつては村内婚の多さでも有名であった。稼ぎ頭で働き者の女娘(おなご)は、昔は磯桶ひとつで嫁入りして行ったとさえ言われている。

 最近、志島は、漁港の南の市後浜(いちごのはま)が脚光を浴びるようになり、シーズン・オフでもサーファーや観光客が訪れるようになった。阿児町も地元も、この程よい距離の遠浅・白砂の景勝ビーチを観光資源として売り出しており、夏場は大変な混みようである。専用道路や駐車場(有料・無料)、トイレにシャワー小屋、それにリゾート・ホテルもあって、当地のドル箱ビーチとなりつつあるようだ。

「おじょか古墳」の説明板

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お伊勢さんのその昔

2010年10月11日 | 伊勢志摩の歴史・民俗など

戦後の神宮奉納博覧会・開催中の近鉄宇治山田駅

絵葉書・観光パンフなどに見る-名所・風景・風物、あれこれ-

 

昔のお伊勢参り

河崎・河岸の達磨船(だるまぶね)  江戸時代以前の昔のお伊勢参りは、「おかげ参り」も含めて、庶民には、一生に一度、行けるかどうかの命がけの旅であった。この伊勢の地は、古来、外宮・内宮の両大神宮が鎮座する、わが国最大級の由緒ある聖地であり、古くから参宮の為の表街道(参宮街道)や裏街道が通じ、道中の各所に旅人たちの為の宿駅や陣屋が出来、雲出川や櫛田川、宮川などの大きな河川には、船の渡し場や籠、馬の返し場(返馬・へんば)があった。そして、街道筋には名物食を売る店や、謂れのある名所なども次第に整って行った。かつて栄えた古市のような、立派な遊郭をも備え持った門前町は、地方都市ではそうザラにはない。大正時代までは、伊勢の「古市」と言えば、この地方きっての格式の高い花街であり、まだ幾つかの遊郭も残っていた。当地方きっての歓楽街であった事は、言うまでもない。外宮から内宮に向かう途中の尾部坂は、いつの頃からか、参宮客に「間の山・あいのやま」とも呼ばれるようになり、そこには見世物小屋などもあったようだ。江戸時代の川柳に、

「伊勢詣り 大神宮へも ちょっと寄り」

と言うのがある。

 本来の目的は、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)のおわします内宮への参拝、祈祷であっても、これをサッと済ませて、逸るにまかせて古市へ馳せ参じたようすが、面白おかしく伺えるが、この川柳の「大神宮」は、古市の「遊郭」を意味するのかも知れない。

 

昔の伊勢参宮のガイド・ブック

昔の外宮前の風景  観光名所と言うのは、著名になればなるに従って、訪れる観光客が増えていくのは当然の事である。付随して宿泊施設や食堂、みやげ物屋も増え、ガイド・ブックなどの案内書が出来る。伊勢の事は、江戸の昔からいろんな書物に書かれているが、最も有名な案内書は、「伊勢参宮名所図絵」(寛政9年)と、「伊勢名勝志」(明治22年)、そして神宮司廳発行の「神都名勝誌」(明治28年)であろう。これらは何回も復刻版が出版されているので、市の図書館に行けば見る事が出来る。他に、「伊勢参宮細見大全」(明和三年)や、「伊勢参宮道中獨案内」(明治22年)のような、一般には知られざる名著(稀覯本)もある。

 書物の他に、いろんな刷り物がある。「名所案内」、「参宮順路」、「獨案内」(ひとりあんない)、「道中志るべ」、「道中双六」はもとより、絵巻物や瓦版などにも及び、江戸時代の墨筆画や木版画をはじめ、印刷技術の飛躍した明治期以降になると、石版画や銅版画、写真版なども加わり、夥しい数となる。それに内宮・外宮の両神宮前や二見ヶ浦の各旅館、食堂兼みやげもの屋などが、それぞれ、鳥瞰図(観光絵地図)入りのP.R.用パンフレットやリーフレット(チラシ)を独自に作って、盛んに旅行客らにばら撒いていた。

錦水橋の手前付近(写真集・伊勢の市電より) 特に伊勢の街は、戦前は「神都」と言って、明治の半ばには国鉄(参宮線)や市電が開通し、皇室ゆかりの神々しさの漂う地方の大都市であった。この様子は、古い絵葉書などを見れば、一目瞭然である。当地伊勢の往時の町並みや名所は、他に、吉田初三郎や新美南果らが描いた幾つかの鳥瞰図に見る事が出来る。中でも、「宇治山田市立体地図」(昭和15年 発行)は、実に細かく見事なタッチの描画で、大変見応えがある。

 

伊勢市の主な昔の鳥瞰図

 我輩、伊勢すずめが、伊勢志摩地方を中心に、これまでに蒐集した三重県下の数々の鳥瞰図の中から、「伊勢」のものを幾つかを紹介しよう。

  • 「参宮要覧 伊勢名所圖繪」(吉田初三郎 作画・大正8年 発行)
  • 「伊勢参宮 名所圖繪」 (新美南果 作画 大正13年 発行)
  • 「参宮要覧 伊勢名所案内」(新美南果 作画・大正14年 発行)
  • 「伊勢参宮御名所圖繪」(吉田初三郎 作画・昭和5年 発行)
  • 「御遷宮奉祝 神都博覧会鳥瞰圖」(田初三郎 作画・昭和5年 発行)
  • 「合同電車沿線御案内」(吉田初三郎 作画・昭和6年 発行)
  • 「朝熊岳」(吉田初三郎 作画・発行年の記載なし)
  • 「朝熊岳名所圖繪」(吉田初三郎 作画・大正8年 発行)
  • 「伊勢あさま名所図絵」(増永金生 作画・昭和3年 発行)
  • 「伊勢 参宮の志を里」(作画・発行年の記載なし・旅館油屋 発行)

 

お伊勢さんのかつて名所

朝熊登山鉄道への乗り換え・「楠部駅」  当地、伊勢市には、戦前は朝熊山登山の為のローカル鉄道が整備されていて、北斜面には、東洋一の急勾配を持つケーブル・カーがあった。この様子は、古い絵葉書にたくさんその光景が残っており、当時としても大変珍しく、神都線の市電と共に、伊勢の名所であり、名物であった。その市電も今あれば、貴重な観光資源となっており、市内の各地をゆったりと走る姿は、鉄道写真マニア(俗にいう、「撮り鉄」)の格好のターゲットとなったに違いない。同じように市内を走る路線バスでは、写真にもならない。

 この市電の姿は、開設当時から数々の絵葉書に収録されているし、かつて市内の同好者たちが、最後の三重交通時代の姿だけでも残そうと、立派な写真集を編集し、自費で出版している。(「伊勢の市電(山田のチンチン電車)」・平成3年、勢田川出版発行を参照)

 伊勢名所として紹介されている絵葉書では、市電の写真は、何故か「山田駅前」、「外宮前」(ここには、明治村に移設のユニークな洋館風の郵便局があった)のほか、「錦水橋」、「汐合の鉄橋」、「楠部駅」の風景ぐらいしか残っていない。ちなみに、この電車はパンダ・グラフがトロリー・ポールであり、内宮行きの複線では右側通行で走っていた。

 そのほかの失われた伊勢の名所を、古い絵葉書などで探ると、

  • 国鉄の山田駅
  • 山田駅前通り
  • 山田郵便局
  • 宮崎文庫
  • 旧・神宮農業館
  • 河崎・河岸の達磨船
  • 朝熊登山鉄道の朝熊駅
  • 朝熊登山鉄道の平岩駅
  • 朝熊山上のケーブル駅前
  • 朝熊山上のとうふ屋旅館
  • 金剛証寺門前の萬金丹本舗
  • 内宮前停車場
  • 蒸気機関車の走る宮川の鉄橋(鉄橋は今も昔通りだが、S.Lが無くなった)
  • 古市の妓楼
  • 商品陳列所
  • 公会堂
  • 五二会ホテル

     などとなる。調べれば、他にも建造物や風景写真の絵葉書があると思うが、まあ、こんな処だろうと思われる。

    御幸通りの錦水橋(左前方に我輩の家が見える)

     

    ケーブル・カーの乗り場のあった「平岩駅」東洋一の急勾配を誇った「朝熊山のケーブル・カー」

    朝熊山山上の駅舎と駅前

     写真上から、

    1. 戦後の神宮奉納博覧会・開催中の近鉄宇治山田駅(ボンネットバスに注目)
    2. 河崎・河岸の達磨船(だるまぶね)
    3. 昔の外宮前の風景…伊勢郵便局
    4. 伊勢すずめの家の真ん前を行く伊勢の市電
    5. 朝熊登山鉄道への乗り換え・「楠部駅」
    6. 御幸通りの錦水橋(左前方に我輩の家が見える)
    7. ケーブル・カーの乗り場のあった「平岩駅」
    8. 東洋一の急勾配を誇った「朝熊山のケーブル・カー」
    9. 朝熊山山上の駅舎と駅前
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    伊勢志摩に一番近い「水晶」の産地

    2010年10月07日 | 三重県の鉱物など

    少年達のお宝、「水晶」

     今は、百円ショップで、 パワー・ストーンとかラッキー・ストーンとかの名前でいろんな鉱物が売られており、水晶は「コーツ」や「クリスタル・ストーン」などと名付けられ、ピカピカに研磨した小石が小袋に入って並んでいる。昔からの言い伝えでは、無色透明の水晶玉は「魔除け」の御守りになった。そして、この六角のとんがり帽子の頭と柱から成る天然の結晶は、「六方石」とも呼ばれ、近くの岩山などで採れようものなら、少年達の探検心を煽るお宝であり、宝石に匹敵する憧れの鉱物であった。

     伊勢市では本物の水晶は、高麗広の大滝谷口の五十鈴川の岸でごく細かなものが産するが、伊勢道路が出来る以前は、五十鈴公園付近の小谷(施餓鬼谷)から「針水晶」なるものがたくさん採れた。それゆえ、この小谷を誰もが「水晶谷」と呼んでいた。見かけは白色~無色透明の針状の水晶さながらの鉱物であり、蛇紋岩の空隙に群生して産したが、この鉱物の正体は、後になって針状~柱状の方解石や霰石だという事が判った。

     伊勢市内の少年達は、それでも水晶だと信じ、この「針水晶」をよく採りに行った。学校には、幾つかの立派な本物の水晶の標本があったが、夏休みの宿題として学童らが集めた石の標本の中にも、岩から細かな水晶が生えたものを何処からか採ってきて出していた子がいた。その水晶の生えた石は、大杉谷で拾ってきたものだと言っていたのを覚えている。

     

    三重県下で「水晶」の採れる所

     ブログのバックナンバーで、志摩市磯部町産のきれいな水晶の写真を紹介したが、この標本は、鸚鵡石付近の広の谷より産したものである。他では、鳥羽市安楽島町の海岸や青峰山の砂岩から砂糖粒のような微細な水晶(群晶)が採れるが、目ぼしい産地となると、伊勢志摩地方には殆ど知られていない。

     三重県下の水晶の産地は、幾つかあるが、現在でも拾える場所は、まず鈴鹿山脈の花崗岩地帯やスカルン帯が上げられ、ペグマタイト(巨晶花崗岩)の見られる宇賀渓や宮妻峡、朝明渓谷、スカルン鉱物(接触変成帯特有のCaに富む珪酸塩鉱物)の出る青川の上流などに行けばよい。さらに、伊賀市や名張市にもペグマタイト地帯は幾つかあり、県の南部では、紀北町海山区の船津や木津(こつ)、栃山、大杉谷(多気郡大台町)などがよく知られており、和歌山県に近い紀州鉱山やその周辺にも産地が点在する。

     伊勢志摩に一番近い場所で、誰もが手軽に行ける所としては、 松阪市の堀坂山(ほっさかさん)に古来の大産地がある。それゆえ、ここを紹介しよう。

     

    松阪市丹生寺町から眺めた堀坂山(中央の山)

    松阪市堀坂山の水晶の産地

     堀坂山は、奈良朝の昔から雲母石(きららいし・白雲母)の産地として有名な場所である。終戦後の昭和20年代には、珪石(石英)や長石を採掘し、陶磁器の原料鉱石として出鉱していた鉱山跡もある。雲母谷(きらだに)をはじめ、山の各所にペグマタイトと鉱脈があり、美しい水晶や柘榴石(ざくろいし)が採集されている。

     詳しくは、引き続いて記す「産地のガイド文」(筆者の著作「堀坂山の鉱物」より引用)を参照されたい。

    1. 堀坂山について

     松阪市の西方に、山ひだの発達した険しそうな山々がそびえています。そのうちひときわ高い2つの頂きが目につきますが、向かって右側が観音岳(605.9m)、左側が堀坂山(757.4m)です。堀坂山には、東に下る尾根の中腹に電波の反射板が2つあり、銀色に輝いているのが眺められます。観音岳と堀坂山との間には堀坂川が流れ、ちょっとしたV字谷を形成し、小滝(乙女の滝、他)やきれいな渓流が見られます。谷の入り口を横切る高速道路付近の地形は扇状地で、山すそには活断層も走っており、以前は河床に段差のある露頭が見られましたが、平成に入ってからの改修によって消滅しました。

     山地へは、伊勢寺町から県道(合ヶ野-松阪線)が堀坂川の河谷に沿って通じており、松阪市森林公園を過ぎ、堀坂峠(468m)越えると与原の在所に至ります。 又、堀坂山の南・西方背後の山間地へは、辻原町で国道166号線から分岐し、阪内町を経て細野峠(450m)越えに分け入る県道(小原-辻原線)が通じており、伊勢山上(飯福田寺の行者岩で名高い山)のある飯福田町に至ります。さらにここから与原や一志方面に回ることもできます。

     松阪市の高峰堀坂山は、昔から白雲母(古名を"きらら"と言う)の産地として名高い場所です。伊勢名勝志という本によれば本朝年代記に元明天皇和銅6年(西暦713年) 伊勢大和両國より水銀雲母を貢す 今堀坂山に雲母石あり 往年紀伊和歌山藩主へ此の石献せしことあり 勢國見聞集 」 との記述があります。 又、終戦後の一時期に、珪・長石(珪石と長石、珪石は石英の鉱石名)を採掘し出鉱していた鉱山跡が、雲母谷とその上方の尾根付近にあり、現在も索道の一部(ワイヤー)が残っています。

     昭和30~40年代には、鉱山跡のズリ(捨て石場)や貯鉱場の跡付近から、巨大な白雲母、水晶がたくさん採集されました。これらの鉱物は、いずれもペグマタイトと呼ばれる鉱脈から産出するものです。堀坂山には、この鉱物の宝庫とも言えるペグマタイト脈が、今も各所に眠っています。

     

    2. 堀坂山の鉱物

    堀坂山産の水晶  堀坂山には、ペグマタイト鉱脈のほか、アプライトの岩脈や石英脈、含炭酸塩粘土脈などがあり、雲母谷の鉱山跡をはじめ、小谷やガレ場、河床の転石、道路沿いの崖などから、各種の鉱物が産出しています。雲母谷の鉱山跡では、常に石英、カリ長石、白雲母など、数種類の鉱物を採集することができますが、当地の鉱物は、松阪市森林公園と松阪市図書館(1階のロビー)に展示されています。

     堀坂山の主な鉱物種は、次の通りです。

    【 ペグマタイト鉱物 】

    1. 珪酸鉱物:石英、水晶、煙水晶、玉髄
    2. 珪酸塩鉱物
      a.長石類
      :カリ長石(正長石、微斜長石)、曹長石、紅長石※、文象長石※
      b.雲母類
      :白雲母、加水白雲母、絹雲母、黒雲母、鉄雲母
      c.粘土鉱物
      :カオリナイト、モンモリロナイト、加水白雲母、絹雲母、緑泥石
      d.その他
      :鉄礬石榴石(てつばんざくろいし)、鉄電気石、普通角閃石(母岩中)、緑簾石、緑泥石
    3. 炭酸塩鉱物: 方解石、苦灰石

    【 金属鉱物 】

        輝水鉛鉱、黄鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱※、二酸化マンガン鉱※、忍石※
      ( ※ 正式な鉱物名ではありません )

     

    3. 雲母谷の鉱物採集

     松阪市森林公園から、堀坂峠に至る県道に出て右に折れると、すぐ先の左手に「林道雲母谷線」が分岐しています。この簡易舗装された林道を500mほど登って行くと、終点付近に貯鉱場の跡があり、路面に白っぽい石英の小片が散乱しているのが目につきます。この前方の小谷が雲母谷です。谷の入り口左手の山の斜面に当時の試掘跡のズリがあり、ここで水晶や煙水晶、鉄礬石榴石、白雲母、カリ長石などを採集します。ズリの土砂をザルですくって水洗いをすると、時々サッカーボールのような感じの、コロコロしたきれいな鉄礬石榴石の結晶(最大数ミリ程度)を採集することができます。

     石英塊の散乱するこの谷を少し奥に入ると、作業小屋跡の石積みがあり、純白のきれいな石英を拾うことができます。さらに、ブッシュをかき分け谷を上り詰めると、谷壁を成す岩盤の一部に、小さなレンズ状の晶洞を伴うペグマタイト脈の貫入露頭が見られます。(この晶洞内の水晶はすでに採集されてしまいました )

     以前は、採集の度に小型の水晶(平板タイプが多い)が拾えましたが、今は結晶面のあるかけらが拾えればよい方です。整った形のきれいな水晶を採集するには、この山の上方の尾根付近にあるもうひとつの鉱山跡に行かなければなりません。 ただし、ここからさらに40分ほど、立ち消えになった当時の山道をたどらなければなりません。

     雲母谷では、次の鉱物をチェックし、採集して下さい。

    石英、水晶(かけら)、煙水晶(かけら)、鉄礬石榴石、カリ長石、紅長石、曹長石、文象長石、白雲母、黒雲母、鉄雲母、絹雲母、緑泥石。

     

    4. 堀坂山の水晶

     六角の柱面と、とんがり帽子の錐面から成る水晶は、珪酸( SiO2 )を成分とする石英の結晶を言います。地方によっては俗に「六方石」とも呼び、昔から蛍石(ほたるいし)や石榴石(ざくろいし)、とともによく知られ、親しまれてきた庶民的な日本人好みの鉱物です。石英を鉱石として掘り出す時は、「珪石」(けいせき)と称し、主にガラスの原料などになります。

     堀坂山では昔から「きらら石」がたくさん採れ、これといっしょに水晶も産出し、珪石・長石を目的とした鉱山が開発された当時は、鉱脈中の晶洞よりビールびん大を超える巨大な結晶が出たそうです。近年、雲母谷南隣のスス谷において大きな晶洞が発見され、煙水晶の巨晶が採集されていますが、堀坂山の水晶は正しい形のものとともに、薄っぺらな「平板水晶」(ひらばんすいしょう)と言うタイプの結晶が数多く見られます。

    堀坂山産の煙水晶  鉱物は産地によって結晶の形や色、出方に癖があり、平板水晶もその「晶癖」のひとつです。このほか、双晶を成すもの、幾つもの小型の結晶が「笙の笛」のように行儀よく並んでくっついた状態の平行連晶を成すもの(笙状水晶や鎧水晶)、太さの違う2本の水晶が連結したような「松茸水晶」(平行連晶の一種)、そして頭の一部にアクセサリー的な小面を備えた「右水晶」や「左水晶」などが見られます。色ついては、無色透明のものを外国では「Rock Crystal」と呼びますが、普通の水晶は無色透明か白色です。堀坂山ではこのほか、乳白色の「乳水晶」(ちちずいしょう)、焦げ茶色の「煙水晶」(けむりずいしょう)、やや黄色味がかった淡い「黄水晶」しか採れません。色が単色でないものは俗に「二色水晶」などと呼んでいます。

     また、異質の水晶として、結晶の内部に小型の水晶や別の鉱物、気泡、水泡などが入り込んでいるものがあり、見え方によって、それぞれ「山入り水晶」、「草入り水晶」、「泡入り水晶」、「水入り水晶」などと称します。結晶内部のこれらの包有物は「インクルージョン」と言い、ひとつの水晶が結晶として成長する以前に、すでに鉱液の内部にその鉱物が晶出していたものです。 堀坂山の水晶にも時折、電気石の針状結晶や絹雲母の微片などを取り込んだ、いわゆる「ススキ入り」や「箔入り」タイプが見られます。

     

    5. 水晶の本

    水晶だけを取り上げて解説した書物となると、以外と少なく、 鉱物図鑑以外にはなかなか見つかりません。そこで、手ごろな初心者向けの一般書を幾つか紹介します。

    • カラー自然ガイド 鉱物 -やさしい鉱物学-
      (益富寿之助 著・初版 1979 , 保育社)
    • 鉱物採集フィールドガイド
      (草下英明 著・初版 1982 , 草思社)
    • 楽しい鉱物学
      (堀 秀道 著・初版 1990 , 草思社)
    • 山の結晶 -水晶の鉱物学-
      (秋月瑞彦 著・初版 1993 , 裳華房)
    • たのしい 鉱物と宝石の博学事典
      (堀 秀道 著・初版 1999 , 日本実業出版社)
    • 「鉱物」と「宝石」を楽しむ本                    (堀 秀道 編著・初版 2009 , PHP文庫)

     中には絶版となった本もあるかも知れませんが、 最寄りの書店に依頼すればどれかは入手できるはずです。この内「山の結晶」は専門書ですが、他はアマチュア向けのやさしい読み物(解説書)です。中でも、「カラー自然ガイド 鉱物 -やさしい鉱物学-」は、色々な水晶のカラー写真を掲載した文庫本で、内容のあるとてもよい本です。なお、小学生向けの手軽な図鑑としては、学習研究社のポケット図鑑シリ ―ズの「鉱物・岩石」をお薦め致します。

       

      写真上から

      • 松阪市丹生寺町から眺めた堀坂山(中央の山)
      • 堀坂山産の水晶
        (上3個は普通の水晶、下の2個は平板水晶-ひらばんすいしょう。左上の標本で、長さ約4㎝)
      • 堀坂山産の煙水晶(左の標本で、長さ約3.5㎝)

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      詩情漂う秋の日の志摩半島

      2010年10月01日 | 伊勢志摩旅情

      志摩市大王町名田「大野浜」

       

      暑さ、寒さも、彼岸まで…

       今年は、夏の季節が延長したのか、九月半ばを過ぎても残暑ではなく猛暑日が続いた。日本列島全体が、異常な暑さに見舞われた。しかし、昔の人は、「 暑さ、寒さも、彼岸まで! 」とはよく言ったもので、秋分の日を境に、丸一日の地雨の後、一気に気温が下がり、伊勢志摩地方にも晩秋のような秋が足早にやって来た。朝夕はめっきり冷え込み11月の気候みたいであるが、昼日中(ひるひなか)はまだ、初秋の残暑のような日差しである。時折そよぐ秋風は実に爽やかであるが、涼しすぎて、半そでだと肌寒さを覚えてしまう。そして、何故か感傷的な気持ちにさせられてしまう。

       

      九月の終わり、志摩の海へ行くと…

      名田の大野浜  九月もいよいよラストとなった29日、朝から好天に恵まれ、山の景色がくっきりと見えるほどシーイングもよかったので、久しぶりに志摩の海辺に行った。場所は道路に近くて、つい最近、車が防波堤の上まで乗り入れられるように整備された、名田の大野浜である。このこじんまりした礫(さざら)のビーチは、真夏でも殆ど誰もいなくて、我輩貸し切りのようなとてもいい遊び場である。ここは波切の少し北で、サーフィンのメッカ市後浜(いちごのはま。阿児町志島)の手前だ。海を隔てて左手前方には安乗の村落をへばりつかせたような安乗岬が眺められる。さらに水平線を右に辿ると、ブルーの海原の彼方に神島や伊良湖岬がかすかに見える。

       

      名田の大野浜にて、秋を感じる

       数日前の嵐のせいか、ビーチカスプの形もかなり崩れ数も減少していたが、いつものように、程よい長さの弧状の渚に降りて、漂礫の小石眺めながら、打ちあがったアラメの続く満潮ラインにそって歩き、漂着物を物色する。いつもよりたくさん、しかも大きな軽石が散乱していた。サングラスをしていてもまぶしい陽射しの中で、時折、海風が何かを運んできた。何だろうと思ったら、「秋の詩情」である。志摩の海辺にもやっと秋が来たのだ…。

      「今は、もう秋…、誰もいない海 ♪♪~~」(歌:トワ・エ・モア)

       つい、昔のフォーク・ソングを口ずさんでしまう。自作のメロディーの方がいいのにと思いながらも、これは、青春の頃に感じた、秋への「センチメント」なのか、「ノスタルジー」なのか…。

       

      秋の歌など、雑感…

       秋の歌は、フォーク・ソングだけでなく、唱歌から歌謡曲まで、いつまでも心に残る名曲が少なくない。我輩の好きな秋の歌は、秋風がテーマであったり、海の歌だったり、悲しい恋歌だったり、とにかく哀愁や哀調を帯びた短調の旋律なのだ。

       一番好きな曲はと言うと、ダ・カーポさんがかつて歌っていた「夏の日の忘れもの」であろう。

      「もう、夏は終わったの…、赤いサンダルひとつ… ♪♪~~」

       さらに、舟木一夫さんのかつての「B面コレクション」の中に収録されていた「想い出通り」が実にいい…。

      「立ち止まることなく、時は流れゆき…、愛だけがはぐれて、迷う街… ♪♪~~」

       好きな曲を幾つか記すと、季節感は無いが、青春時代に聴いた本間千代子さんの「海ほうずきの頃」がある。声は細くてあどけなかったけれど、純真で甘っぽくてよく澄んだ彼女の当時の歌声が、記憶のざわめきの中にはっきりと残っている。この他、中山千夏さんの「あなたの心に」とか、本田路津子さんの「秋でもないのに」や、牧村三枝子さんの「はまゆうの花」(TBS系テレビドラマ"女の一生"主題歌)がある。

       同じ秋の歌でも、歌手によってかなり違ってしまうのは、どうしても否めない。例えば、日本の抒情歌になってしまっている「旅愁」や、「里の秋」の他、「浜辺の歌」や「赤とんぼ」、「もみじ」など、ソプラノ歌手の鮫島有美子さん(国際的に活躍する、日本が生んだ超一流のソリスト)の歌唱ともなると、聴いていてしびれてしまいそうだ。声質・音量はもとより、感情移入、抑揚、ビブラートなど、発声楽的な完成度はもとより、類まれな彼女の感性は実に魅力的であり、国際舞台でのトップ・クラスでのボーカルは、先々まで他の追随を許さないであろう。何度でも聴きたくなる程、実にすばらしく、歌に魅了されずにはいられない…。

       また、同じ歌でも、コーラス・グループやデュオ歌手が歌うと、その歌の良さがかなり違ってくる。例えば、スリー・グレイセスの歌った「夏の日の恋」や「山のロザリア」、ボニー・ジャックスの「ちいさい秋みつけた」、伊藤ゆかり&ダークダックスの曲「秋が突然」(NHK・TV"歌の祭典"より)など、いい感じの歌をいくらでも拾い出す事ができる。デュオでは、キャッツ・アイの「めっきり冷たくなりました」が、今の季節にピッタリだ。

       さらに、古い歌を引っ張り出すと、ザ・リガニーズの「海は恋してる」や、ヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の髪の乙女」、ワイルド・ワンズらの「想い出の渚」など、昭和60 年代まで遡ってしまい、エレキバンド・イン・グループサウンズや、カレッジ・フォーク・バンドの時代のヒット・ソングを列挙する事となり、切りがないので、これぐらいにしておこう。

       

      自作の、「秋」にちなんだ作品をひとつ

       志摩の海辺では、素材を見つけ、情景を描写し、これまでにいろんな詩を書いた。抒情詩もあれば歌謡詞もある。我輩の詩は、どこか子供っぽくて、寂しくて、女性的でいけない。例えば、

      黄昏の今来た小道
      振り返ると 誰かいるような…
      あの人が微笑んでいるような…
      でも、それは冷んやりとした
      秋風のざわめき

      (以下、省略。「黄昏の小道にて」より)

      こんな調子である。

       

       自作のC.D化作品をひとつだけ記すと、「秋風さらさら」(リリック歌謡曲。松崎昌子さん編曲・ボーカルのインディーズ盤)が、季節感があって、とても気に入っている。

      秋の陽射しに 呼び止められて
      独りで辿る 野辺の小径(こみち)
      コスモス揺れている 風の通り道(みち)
      ひと時 私も 風になり
      秋風さらさら 何処(どこ)へ行こうか
      遥か彼方の あの人の街よ

      揺らぐ木漏れ陽 落ち葉の絨毯(じゅうたん)
      ふたりで歩いた 学園通り
      色づく銀杏(いちょう)に プラタナス
      あの頃 通った カフェテリア
      秋風さらさら 枯れ葉に染まり
      過(よ)ぎる青春 想い出の街よ

      悲しみ色の 夕焼け雲(ぐも)に
      侘しさ預けて 辿る小径
      梢(こずえ)に熟(う)れてる 残り柿(がき)
      夕暮れ かさこそ 風の声
      秋風さらさら 面影呼べば
      口笛吹いてる あの人がいる

       

      秋が突然めっきり冷たくなりました

        

      写真上から

      • 志摩市大王町名田の「大野浜」
      • 同じく、名田の「大野浜」
      • 「秋が突然」(EPレコードのジャケット)
      • 「めっきり冷たくなりました」(EPレコードのジャケット)
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