伊勢すずめのすずろある記

伊勢雀の漫歩…。
 伊勢の山々から志摩の海までの、自然史スポット&とっておき情報など…。
  感性の趣くままに-。

伊勢の歳末風物詩 ~ 厄除け、縁起物としての「伊勢注連縄」

2013年12月30日 | 伊勢志摩の歴史・民俗など
今社(いまのやしろ)神社の前に並ぶ、伊勢注連縄を販売する出店(伊勢市宮町にて)

 注連縄と言えば、伊勢を訪れる観光客の多くは、まず名所(名勝)・二見ヶ浦の立石崎にある、日の出の遥拝で有名な夫婦岩(大岩・小岩)を�壓ぐ大注連縄を思い浮かべるようだが、伊勢市内では、かつては大晦日になると殆どの家が玄関(入口)の上に、伊勢地方独特の形をした注連縄の付け替えをしていたものだ。 これは伊勢が神都故に、出店で伊勢注連縄を買い求める人々
神領民として縁起よく新年の正月を迎える為の風習であり、この特別仕様の注連縄は、「伊勢注連縄」と言い、古来、伊勢に伝わる正月飾りの厄除けの縁起物でもある。 新しく付け替えられた伊勢注連縄は、松の内が過ぎてもはずされずに、一年間そのままに飾られてその家を護る訳である。  師走に入り歳末が迫ると、商店街では大売出しとなり、料亭はどこもかも忘年会でいっぱいである。子供たち主役のクリスマスが過ぎ、大晦日の前日ともなると正月の準備に大わらわであり、かつては一家総出で煤払いや畳干しなど大掃除を行い、臼と杵で餅を搗いたり、おせち料理をつくったりしたものだ。 そして、おおつごもり(大晦日)の夜は、寺院で撞かれる除夜の鐘を聴きながら、年越し蕎麦や搗きたての丸餅を焼いて食べ、新年の「厄除け招福 」「無病息災」「家内安全」「商売繁盛」「五穀豊穣」「交通安全」などを祈願しに、年越し参りや初詣に出かけたものである。
「笑門」の木札のついた、我が家の新しい伊勢注連縄(中型)
  さて、今年も終わりに際し、「伊勢注連縄」について話しておこう。 昨今は年末になると、スーパー・マーケットや大型量販店などで色んな注連縄が盛んに販売されているが、昭和年代の半ば頃はまだ現在のような大型量販店は無く、スーパー・マーケットがちらほらあったぐらいだった。注連縄の販売はもっぱら、主な神社の門前や街角に並ぶ出店だけで、市民らはそこでこぞって買い求めたものである。 新興団地などの住宅では、あまり注連飾りをしなくなったようだが、市街の旧家や大店、商店街はもとより、駅や病院、公衆浴場(銭湯)をはじめとする公共施設においては、立派な門松と共に、新年の飾り物として特大の注連縄を飾る所がある。それ故か、年々注連縄の種類も豊富になり、一部の量販店では「伊勢注連縄」のミニチュアまで、数量限定で販売されるに及んでいる。「蘇民将来・・・」の木札の付いた、ミニ注連縄(左横のコインは10円玉) 伊勢注連縄というのは、藁作りの二つ編みの大根のような横繩に、藁を束ねてつくった幾つかの簾のような足を垂らしたものが土台で、それに木札(門符)や四手紙(しでがみ)、ウラジロ(羊歯の葉)、ダイダイ(柑橘類)、ヒイラギ、小型の護り札などを取り付けたものが一般的である。  特に木札の表には、墨筆書きの「蘇民将来子孫家門」(又は「蘇民将来子孫門」)と「笑門」(わらうかど)の二種類があるが、他に「千客萬来」と記した商家用のものもある。 ちなみに、「蘇民将来子孫家門」は、二見町松下地区にある蘇民の森神社の言い伝えによるものであり、「笑門」は、「笑う門には福が来る」との故事に由来するものである。
 大体母屋の入口の大きな神棚用の小さな「大福神」の注連縄
注連縄は、この三つであるが、これとは別に、神棚用の少し小さ目の簡素な注連縄があって、それには「大福神」と記されている。 この木札の墨書きも、今ではスタンプやプリントされたものが大半である。 大型量販店や出店などを回って、正月飾りの注連縄の種類を見てみると、玄関用の伊勢注連縄には特大を除くと、一般向けには大・中・小の三種類が並んでおり、価格は小の1,200円位から大の3,000円位までである。 他にはツボキという藁作りの独特の芯を持つ門松(ツボキに榊と松を添えて作られている。カド、又はカド飾りとも言う)や、縄状の簡素なつくりの注連縄があり、三本足は水周り用、五本足は勝手口用、七本足は物置や倉庫用、ながジメ(長注連縄~メートル単位幾らの値段で、需要に応じて切り売りされている)は店舗用である。 さらに、ミニサイズの「自動車注連縄」(「交通安全」のお札つき)や、トンボと称する簡素な一本足の「自転車注連縄」まである。 これらの伊勢注連縄の製作は、伊勢市では郊外の中須町などの農家や、近郊では主に岩出(玉城町)以南の宮川筋の度会郡内の農家が、稲刈りの終わった頃から、季節限定の副業(専業内職)として行なっている。  参考までに記すと、宮川を遡った度会郡の山奥(奥伊勢地方)には、注連縄作りと関わりの深い地名に、注連指(しめさす・度会町)や注連野(しめの・紀勢町)、注連小路(しめこうじ・紀勢町)と言った村落があり、又、志摩の英虞湾沿岸にある神明(しんめい、志摩市阿児町)も、古名の注連の浦(しめのうら)から来ていると言われている。




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お伊勢さんのその昔

2010年10月11日 | 伊勢志摩の歴史・民俗など

戦後の神宮奉納博覧会・開催中の近鉄宇治山田駅

絵葉書・観光パンフなどに見る-名所・風景・風物、あれこれ-

 

昔のお伊勢参り

河崎・河岸の達磨船(だるまぶね)  江戸時代以前の昔のお伊勢参りは、「おかげ参り」も含めて、庶民には、一生に一度、行けるかどうかの命がけの旅であった。この伊勢の地は、古来、外宮・内宮の両大神宮が鎮座する、わが国最大級の由緒ある聖地であり、古くから参宮の為の表街道(参宮街道)や裏街道が通じ、道中の各所に旅人たちの為の宿駅や陣屋が出来、雲出川や櫛田川、宮川などの大きな河川には、船の渡し場や籠、馬の返し場(返馬・へんば)があった。そして、街道筋には名物食を売る店や、謂れのある名所なども次第に整って行った。かつて栄えた古市のような、立派な遊郭をも備え持った門前町は、地方都市ではそうザラにはない。大正時代までは、伊勢の「古市」と言えば、この地方きっての格式の高い花街であり、まだ幾つかの遊郭も残っていた。当地方きっての歓楽街であった事は、言うまでもない。外宮から内宮に向かう途中の尾部坂は、いつの頃からか、参宮客に「間の山・あいのやま」とも呼ばれるようになり、そこには見世物小屋などもあったようだ。江戸時代の川柳に、

「伊勢詣り 大神宮へも ちょっと寄り」

と言うのがある。

 本来の目的は、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)のおわします内宮への参拝、祈祷であっても、これをサッと済ませて、逸るにまかせて古市へ馳せ参じたようすが、面白おかしく伺えるが、この川柳の「大神宮」は、古市の「遊郭」を意味するのかも知れない。

 

昔の伊勢参宮のガイド・ブック

昔の外宮前の風景  観光名所と言うのは、著名になればなるに従って、訪れる観光客が増えていくのは当然の事である。付随して宿泊施設や食堂、みやげ物屋も増え、ガイド・ブックなどの案内書が出来る。伊勢の事は、江戸の昔からいろんな書物に書かれているが、最も有名な案内書は、「伊勢参宮名所図絵」(寛政9年)と、「伊勢名勝志」(明治22年)、そして神宮司廳発行の「神都名勝誌」(明治28年)であろう。これらは何回も復刻版が出版されているので、市の図書館に行けば見る事が出来る。他に、「伊勢参宮細見大全」(明和三年)や、「伊勢参宮道中獨案内」(明治22年)のような、一般には知られざる名著(稀覯本)もある。

 書物の他に、いろんな刷り物がある。「名所案内」、「参宮順路」、「獨案内」(ひとりあんない)、「道中志るべ」、「道中双六」はもとより、絵巻物や瓦版などにも及び、江戸時代の墨筆画や木版画をはじめ、印刷技術の飛躍した明治期以降になると、石版画や銅版画、写真版なども加わり、夥しい数となる。それに内宮・外宮の両神宮前や二見ヶ浦の各旅館、食堂兼みやげもの屋などが、それぞれ、鳥瞰図(観光絵地図)入りのP.R.用パンフレットやリーフレット(チラシ)を独自に作って、盛んに旅行客らにばら撒いていた。

錦水橋の手前付近(写真集・伊勢の市電より) 特に伊勢の街は、戦前は「神都」と言って、明治の半ばには国鉄(参宮線)や市電が開通し、皇室ゆかりの神々しさの漂う地方の大都市であった。この様子は、古い絵葉書などを見れば、一目瞭然である。当地伊勢の往時の町並みや名所は、他に、吉田初三郎や新美南果らが描いた幾つかの鳥瞰図に見る事が出来る。中でも、「宇治山田市立体地図」(昭和15年 発行)は、実に細かく見事なタッチの描画で、大変見応えがある。

 

伊勢市の主な昔の鳥瞰図

 我輩、伊勢すずめが、伊勢志摩地方を中心に、これまでに蒐集した三重県下の数々の鳥瞰図の中から、「伊勢」のものを幾つかを紹介しよう。

  • 「参宮要覧 伊勢名所圖繪」(吉田初三郎 作画・大正8年 発行)
  • 「伊勢参宮 名所圖繪」 (新美南果 作画 大正13年 発行)
  • 「参宮要覧 伊勢名所案内」(新美南果 作画・大正14年 発行)
  • 「伊勢参宮御名所圖繪」(吉田初三郎 作画・昭和5年 発行)
  • 「御遷宮奉祝 神都博覧会鳥瞰圖」(田初三郎 作画・昭和5年 発行)
  • 「合同電車沿線御案内」(吉田初三郎 作画・昭和6年 発行)
  • 「朝熊岳」(吉田初三郎 作画・発行年の記載なし)
  • 「朝熊岳名所圖繪」(吉田初三郎 作画・大正8年 発行)
  • 「伊勢あさま名所図絵」(増永金生 作画・昭和3年 発行)
  • 「伊勢 参宮の志を里」(作画・発行年の記載なし・旅館油屋 発行)

 

お伊勢さんのかつて名所

朝熊登山鉄道への乗り換え・「楠部駅」  当地、伊勢市には、戦前は朝熊山登山の為のローカル鉄道が整備されていて、北斜面には、東洋一の急勾配を持つケーブル・カーがあった。この様子は、古い絵葉書にたくさんその光景が残っており、当時としても大変珍しく、神都線の市電と共に、伊勢の名所であり、名物であった。その市電も今あれば、貴重な観光資源となっており、市内の各地をゆったりと走る姿は、鉄道写真マニア(俗にいう、「撮り鉄」)の格好のターゲットとなったに違いない。同じように市内を走る路線バスでは、写真にもならない。

 この市電の姿は、開設当時から数々の絵葉書に収録されているし、かつて市内の同好者たちが、最後の三重交通時代の姿だけでも残そうと、立派な写真集を編集し、自費で出版している。(「伊勢の市電(山田のチンチン電車)」・平成3年、勢田川出版発行を参照)

 伊勢名所として紹介されている絵葉書では、市電の写真は、何故か「山田駅前」、「外宮前」(ここには、明治村に移設のユニークな洋館風の郵便局があった)のほか、「錦水橋」、「汐合の鉄橋」、「楠部駅」の風景ぐらいしか残っていない。ちなみに、この電車はパンダ・グラフがトロリー・ポールであり、内宮行きの複線では右側通行で走っていた。

 そのほかの失われた伊勢の名所を、古い絵葉書などで探ると、

  • 国鉄の山田駅
  • 山田駅前通り
  • 山田郵便局
  • 宮崎文庫
  • 旧・神宮農業館
  • 河崎・河岸の達磨船
  • 朝熊登山鉄道の朝熊駅
  • 朝熊登山鉄道の平岩駅
  • 朝熊山上のケーブル駅前
  • 朝熊山上のとうふ屋旅館
  • 金剛証寺門前の萬金丹本舗
  • 内宮前停車場
  • 蒸気機関車の走る宮川の鉄橋(鉄橋は今も昔通りだが、S.Lが無くなった)
  • 古市の妓楼
  • 商品陳列所
  • 公会堂
  • 五二会ホテル

     などとなる。調べれば、他にも建造物や風景写真の絵葉書があると思うが、まあ、こんな処だろうと思われる。

    御幸通りの錦水橋(左前方に我輩の家が見える)

     

    ケーブル・カーの乗り場のあった「平岩駅」東洋一の急勾配を誇った「朝熊山のケーブル・カー」

    朝熊山山上の駅舎と駅前

     写真上から、

    1. 戦後の神宮奉納博覧会・開催中の近鉄宇治山田駅(ボンネットバスに注目)
    2. 河崎・河岸の達磨船(だるまぶね)
    3. 昔の外宮前の風景…伊勢郵便局
    4. 伊勢すずめの家の真ん前を行く伊勢の市電
    5. 朝熊登山鉄道への乗り換え・「楠部駅」
    6. 御幸通りの錦水橋(左前方に我輩の家が見える)
    7. ケーブル・カーの乗り場のあった「平岩駅」
    8. 東洋一の急勾配を誇った「朝熊山のケーブル・カー」
    9. 朝熊山山上の駅舎と駅前
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    鳥羽のお話

    2010年06月12日 | 伊勢志摩の歴史・民俗など

    国際観光都市鳥羽の海景

    観光と交通の拠点、鳥羽

     志摩半島北海岸の国際観光都市「鳥羽」は、島嶼(とうしょ:島々の事)に囲まれた、波静かな天然の良港を持つ港町として起こったが、現在は言うまでもなく、伊勢志摩国立公園の中枢的観光都市となっている。かつての国鉄参宮線(現在はJR東海のローカル線)の鳥羽駅には、近鉄電車が発着し、志摩線と直結しており、京・阪神地方や名古屋方面からの直行特急が、鳥羽を経て賢島まで行き来するほど交通至便な場所となった。

     

    天下随一の景色

     市内には、巨大化し近代化した立派な鳥羽水族館があり、養殖真珠開発の拠点でもあった御木本パール・アイランド(相島)へは、専用の跨水橋が架かっているが、二条の島列(答志島列と菅島列)の織り成す海景は、昔も今も天下随一である。

     

    古城の面影

     鳥羽は又、九鬼氏の居城跡としても有名で、志摩水軍の大将である九鬼嘉隆が、付近の豪族を平定し、鳥羽城を築いたのは、今から約400年も昔のことである。城跡は石垣だけが残存し、かすかに昔時の面影をとどめてはいるが、城址公園としての整備はようやく始まったばかりである。

     

    鳥羽は泊場(とまりば)から

     鳥羽という地名の起こりは、古名にある「泊浦」(とまりうら)が語源と考えられている。古来、付近を通る帆船は、伊勢湾口にあるこの東海随一の良港、海路の至便な停泊地に入って風待ちをする慣わしがあった。古謡にも、 

      「 伊豆の下田を朝山巻けば、晩には志州領鳥羽の浦 」

    と、謡われているように、帆船の泊場(とまりば)としてあまりにも有名な港であった。つまり鳥羽という地名は、「とまりば」が「とまば」や「とりば」と短縮され、最終的に「とば」とまで簡素化された結果と言えなくもない。漢字で「鳥羽」と書くのは、皇族など格式の高い著名人にあやかったものなのか、「とりば」の発音に合わせた単なる当て字なのかは、定かではない。

     

    はしりがね

     昔時、志州きっての港町としてさかえた鳥羽は、的矢湾に浮かぶ渡鹿野島とともに、船乗り相手の遊女の町としても、その名が知れわたっていた。かつて、この地方の遊女のことを俗に「はしりがね」と称したが、この奇妙な名前の由来を探ってみるのも一興である。 

      「 名物は鳥羽の港に日和山、宿かりもする走りがねあり 」

    だとか、 

      「 鳥羽はよいとこ朝日をうけて、七つ下がればお女郎が出る 」

    という古謡は、あまりにも有名である。

     

      江戸時代の版画に見る鳥羽港(安藤広重 筆画)

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