アバウトなつぶやき

i-boshiのサイト:「アバウトな暮らし」日記ページです

「やきものの色とかたち」展

2011年07月25日 | かんしょう
 ごぶさたです。
 最近、長男がキッチン横の常駐パソコンを占領する時間が増え(使いたい時間はバッティングする)、なんだかもー好きな時にブログ書くことが出来なくなってきてる今日この頃です。
 モバイル機もあるにはあるけど、それを起動する気力が…(^_^;)
 しかし、せめて鑑賞記録は続けたいので久しぶりの更新。

 昨日は、長男を連れて徳川美術館へ行って来ました。


 徳川美術館は国宝やら重要文化財やらがたくさんで、とても見どころのある美術館です。
 着物をまとったご婦人がタクシーで乗り付けてくることもしばしば。
 以前、国宝の源氏絵巻が展示された時は人が溢れかえってどえらいことになっておりましたが昨日はそのようなこともなく、代わりに徳川園(併設の日本庭園)で披露宴らしき和装の新婚さんを2組見かけました。

 今、NHK BSプレミアムで「へうげもの」というアニメが放送されているのはご存知でしょうか。古田織部という、千利休の高弟にあたる人物を描いた作品です。

 ワタクシはアニメどころか織部の人となりも知らなかったんですが、長男のお茶の先生が面白いというので原作を数冊貸してもらったらなるほど、確かに面白い。
 崇高な千利休に対して古田織部という人物はかなり人間臭く、その上で数寄者(すきもの)としての生き方を全うしておりついつい名物茶器を拝みたい気持ちにさせられてしまいます。

 この夏、その「へうげもの」にちなんで東海地方のNHKが協賛して、焼き物に関わる3県10館の美術館が合同展覧会として「織部・大数寄コレクション」をやっています。
 夏休み中、長男の茶道のメンバーで三重県津市に今年の5月に開館したばかりの石水博物館に行くことになっており、せっかくだから興味を持ってるうちにと思い、徳川美術館へ足を運んだわけです。

 今回の企画展は「やきものの色とかたち」。あいにく昨日が最終日でしたが、それなりのにぎわいがありました。
 ここは常設展示が第1室からになっているので、いつも企画展に行くまでに相当時間がかかります。だって、常設が立派なんで足を止めてしまうんですよ。
 何度か来てれば勝手も分かるので企画展が目当てのときは常設展は力を抜いて観るっていう技が使えるんですが、初めての者はそれができないから労力がいるようで…。
 大人でさえそんな感じなので、軽ーい気持ちでやってきた長男はまったくダメダメで常設の終わりごろに早々と「飽きた~」って言い出しました。
 誰の向学のために来とると思っとんじゃ!(ーー゛)

 企画展で展示されているやきものは時代と色によって分類されており、とても見やすい展示になっていました。
 そして、その数143点。
 ほとんどが館の所蔵物で、個人蔵のものは20数点のみ。さすが、歴史が違う!
 ワタクシが観てもその鑑賞点や価値を判断できるものばかりではありませんが、それでも、ここに揃っているものは色の深みや端正な形が突出していると思わざるを得ません。
 ガラスケース越しだと現実味がなくても、これを手に取ったところを想像するとその重々しさを実感することができます。

 【「へうげもの」の時代】のコーナーは前述の時代の織部焼が紹介されており、なるほどこれは奇抜だわ、と得心。
 今までにも目にしたことのあるだろう造形ですが、織部の背景を知らなかった時はおそらく「なんでこの柄が良いのかよくわからんなー」と思っていただろうもの。
 だって、柄がほとんどミロですよ、ホアン(ジョアン)・ミロ
 
▲織部焼(左)とミロ(右)

 当時は相当 斬新だったことでしょうに、それが従来のやきものからの脱却のみでなく日本人の美意識に沿う色や焼き肌を表現することで受け入れられていったのではないかと想像します。流行も後押ししてくれただろうし、新しい表現が楽しい時代だったんでしょうね。

 あと、最後に数点、昭和~現代の作家の作品がありました。
 そこに荒川豊蔵氏の志野茶碗があり、隣には加藤唐九郎氏の志野茶碗がありました。
 荒川豊蔵氏は最近、職場のまっちゃんから話を聞いて知った作家さん(故人です)。

▲荒川豊蔵氏の作品(ネット引用画像で、徳川美術館の所蔵品ではありません)
 まっちゃんは豊蔵氏の作品に心を奪われて、このところ豊蔵資料館に足を運んだり、彼の茶碗で茶をいただける企画に参加していたりしたのです。
 が、ワタクシはその話を聞いてもピンとは来ず、人間国宝にそんな人がいるんだ~、と思った程度という張り合いのなさだったのですが(芸術を愛する方にはホント申し訳ない。豊蔵を知らんとは何事かとお思いでしょうがご容赦、ご勘弁を願います)、気にとめて観てみると違うもんですねぇ。現金なもんです。
 まっちゃんは自分の感性を人に表現するのを控えるタイプなので解説はもらってないんですが、長男の茶道の先生が言うには「豊蔵の茶碗は鬼気迫るものがある」と。
 茶道の先生は川喜多半泥子を研究対象にした経験のある方なので半泥子と比較してしまうようで、半泥子のような財力がある人物の作品にある余裕のようなものが、豊蔵の作品にはないというのです。
 余裕がないというのは(大意では遊び心がないという意味も含めているようで)やきものに全身全霊を投げかけている、という意味のようです。
 そこまで聞かされてから茶碗をみると、なるほど、なんだか深みのあるような気がする。
 こんだけ言っといてこの価値が理解できんのか!って怒られそうですが、たった一点を気にして観ただけで何かを語るのは単なる知ったかぶりでしかないので仕方がない。
 ついでに言えば隣にある加藤唐九郎の志野茶碗のほうが自分としては好きなのでありまして、初めて志野の美しさに感動したのは今を去ること15年ほど前、岐阜県陶磁資料館で観た加藤唐九郎の作品であったことを思い出します。あの白地に溶け込む焼けるような赤色が印象的だったのです。
 まぁ、刷り込み現象なのかもしれませんが、そんなわけでなんとなーく唐九郎のほうが好き。
 そしたら作品解説に「静の豊蔵、動の唐九郎と称される」と書いてありました。
 そうか、これが静と動なのか、と思って観るとそう見えるからすごい。よくわかってない人間も、言葉で表わされるとちょっと腑に落ちるというか分かったとような気にさせられるのがありがたいことです。

 結局、長男の鑑賞眼にはなーんも効果はなかったようですが、ワタクシは来月に同行する石水博物館がとても楽しみになりました。
 少なくとも、来月は最低でもその日の記事はアップできるな(笑)
 しかし、日本史オンチが日本の美術を理解するのは本当の意味では無理だと痛感する今日この頃。いつまでも単なる「美術館好き」で「美術好き」を自称できないのはこの辺が理由です。はい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿