アバウトなつぶやき

i-boshiのサイト:「アバウトな暮らし」日記ページです

永青文庫「日本画の名品」展

2017年02月26日 | かんしょう
今日が最終日の展覧会なので備忘録ですが、、、先週、ワダちゃんとお休みが重なったので名古屋市美術館へ「永青文庫 日本画の名品展」を観に行ってきました。

ワダちゃんはクロネコを飼っているので▲菱田春草《黒き猫》の絵を大変気に入っております。


▲菱田春草《落葉(重要文化財)》。残念ながら前期展示のため観れなかった。



以前、元首相:細川護熙氏の作品展を観た折に細川家の芸術との関り方が素晴らしいことを知り、永青文庫に足を運んでみたいと長年思っていました。
実際に行くとなるとなかなか機会に恵まれなかったので、今回、名古屋にやってきたのは非常に喜ばしいことです。
全ての所蔵品ではないけれど、どういうものか体感するには十分です。

さて、見てびっくり。
リーフレットを見れば「恐るべき慧眼、」と紹介されており、どのような作品を展示してあるかは大体わかっていたけれど本当に恐るべき美意識と審美眼です。
展示物のどれを見ても美しい、美術品ばかり。
ワダちゃんが隣で「私は芸術じゃなくてこういう美術が好き」と言ったのが本当に的を得ている。安心して心穏やかに、でもわくわくやうっとりを感じることのできる空間が広がっていました。
横山大観や菱田春草はこれまでにも幾度となく作品を見てきましたが、なんというか落ち着いた統一感のある空間で見ることによってしみじみと美しさを感じるものなんだと改めて思いました。
また、小林古径は今までそれほど気にしていませんでしたが《孔雀》の美しさに魅せられて「もっと他の作品も見たい!」と思いました。
そして、こういったコレクションを有する細川家の財力を見せつけられ蒐集に関する逸話などを読むに付け、お金持ちの感覚が違いすぎることを思い知らされるのでした。別世界だわ~。
今回の展示物を集めた「慧眼」の持ち主、細川護立氏はコレクションを美術館に貸し出す度に傷んで戻ってくることを悲しんでいたということですが、我々のような見せて頂ける側からすれば本当にありがたいことです。美術館の指導を守って正しく鑑賞させて頂く所存ですので、コレクターの方々においては心よく貸し出して頂ければ幸いです。

ゴッホとゴーギャン展

2017年02月18日 | かんしょう
今年の新春からの愛知県美術館、注目展覧会「ゴッホとゴーギャン展」を観に行ってきました。

↑はペアチケット前売り券のリーフレットの表紙と裏表紙で、

↑こちらはその折り込み内部の見開きページです。
2枚綴りのチケットの図案はそれぞれ左側にある、ゴッホの描いた《ゴーギャンの椅子》と、ゴーギャンの描いた《肘掛け椅子のひまわり》でした。
展覧会を見終えてからこの2作の意味を考えると切なくなるという…。

リーフレットを何種類も作るのは最近の流行りなのか、この展覧会も会場で2種類見かけました。
 
両方ともゴーギャンの絵を見出しに使っていたので、もしかしたらゴッホバージョンとかもあるのかな?
表の絵だけを差し替えてて、裏は同じ構成です。



平日のあさイチでしたが結構な入場者でした。団体さんとかも来るようで さすが有名どころ、という感じ。

有名といえばゴッホとゴーギャン、共同生活の末の耳切事件なわけですが、興味を持って知ろうとしない人間にはこの事件が曲解されているのだと思い知らされます。私、「友人に対してヒステリーを起こしたゴッホがあてつけに耳を切って、恨みの深さをぶつけるために送り付けて縁を切った」んだと思ってたんです。いやぁ、知らないってコワイ。
自信ないから人に話したことなかったけど、あやうく話してたら恥かくとこだったわ。

ヒステリーを起こしたってのは当たらずしも遠からじって感じですが、耳は実際は知人の娼婦に預けていてゴーギャンに届けたわけではないし、衝突はあったものの決して恨みという感情ではないようです。また、縁も切ったわけではない。

この展覧会は二人の関係性を描く、ということになっていますが、実際に見終えてみると伝わってくるのはゴッホのゴーギャンへの思慕がほとんど。
お互いに影響を及ぼしあったということは分かるのですが、共同生活の頃の紹介や作品を見ているとゴッホからはゴーギャンがやってくる、と椅子を買ったり部屋を飾ったりしてウキウキしてる感じが伝わるのにゴーギャンからはそういう感じは伝わってこない。親しい画家の友人が絵を描くのに良い環境を紹介してくれたからぜひお邪魔しよう、という感じ? 
自分を慕ってくる後輩画家の多かったゴーギャンにすればゴッホは画家の仲間の一人だったのに対し、ゴッホはクレバーなゴーギャンに魅せられていたって気がします。
ゴッホは純粋な人だったんだなぁ、としみじみ。
精神的に病弱であったことも含め、繊細であったことを知ってから彼の描く糸杉や星空を思うと一層美しく感じてしまうものなんですねぇ。

二人の関係性以外の視点として、どのように画風が変化してきたかもよくわかりました。
特にゴッホはいつ頃、誰に影響を受けたのかが分かりやすい展示でした。
黄色い家に住んでいた頃、黄色がお気に入りだったのが伝わって、私まで黄色が好きになって帰ってきました。


さて、会場を出てからミュージアムショップを見てたらいろいろ面白いグッズがあって楽しかった。

この、ホットチョコレート用のスティックは他所でも見たことあったんですが、この展覧会でピックアップされてるのはグッド♡な感じ。ゴッホの絵はマグカップに合うし、黄色が暖かくて飲み物が美味しそうに見える。


あと笑えるのがゴッホ、ゴッホ、で龍角散の咳止めに引っ掛けた風邪予防グッズが出てたこと。
時期といい洒落といい、秀逸だなぁ~と思った次第。買ってきたらよかった、とちょっと後悔してます。

再発見!ニッポンの立体展

2017年02月08日 | かんしょう
1月のことになってしまいましたが、シロウタと三重県立美術館で開催中の「再発見!ニッポンの立体展」を観に行ってきました。



土偶から始まり、仏像、人形、フィギュア他いろんな立体物を展示しています。



明治時代に西洋の芸術思想が日本に伝わるまでの日本の造形物は芸術といえるのか?という視点の展覧会のため、生活と密着した展示物がほとんどです。
土偶や仏像などは宗教的な意味合いが強いので生活感はさほど感じないけれど、招き猫やペコちゃん人形を芸術と呼ぶのは私にとって難しい分野。
でも、浮世絵や土産店で売られている工芸品の中には感嘆するほどの斬新さ、デザイン性、技術の高さを備えているものは多く、芸術で無いとは決して言えない。
そう考えると招き猫やペコちゃん人形もデザイン性が高いという点ではあながち芸術と呼べなくも無いのです。
希少であることに価値が付加されて「芸術品」となった大衆作品は多いわけで、芸術とはいったいなんだろう?という謎は深まるばかり。
結果として芸術は思想という結論に行き着くわけで、、、 なんにせよ、自分の好きなものを好きであると言えることが人生の幸せにつながるわけですよ。
決して珍しい「希少価値」のある作品は多くありませんが、芸術について考えさせられる展覧会でした。


閑話休題。展示物の出展に静岡市芹沢銈介美術館蔵のものがたくさんありました。
芹沢銈介ってどんな好事家かと思ったら、染色家の方だったんですね。美術館は氏の作品と収集物の両面からの展示をしているようです。
そして、美術館の所在地は登呂。土偶や埴輪が似合いそう(笑)

安藤七宝店

2017年02月08日 | かんしょう
先日名古屋へ出かけた際に、宮内庁御用達の安藤七宝店(名古屋店)に行ってきました。


以前、「超絶技巧!,明治工芸の粋」展で百華文七宝大壷(ひゃっかもんしっぽうたいこ)を観て以来、一度訪ねてみたいと思っていたんです。


▲安藤七宝店製造 林喜兵衛,作「百華文七宝大壷」

七宝焼きはガラス釉薬のもつ質感と発色がとても綺麗。そこにデザインの良さが加わるとホント宝物のような美しさです。
現代において七宝焼きは家財のメインから外れている気はしますが、手間と技術を要する工芸なのは間違いなく、名品は非常に高価。
焼き物という点で陶器や磁器とも比較できそうですが七宝焼きはそれらに比べて手間が格段に多く、それぞれの工程に熟練の職人が必要です。そういう点で、作家だけでなく製造所が注目されることになります。

安藤七宝店、栄のGAPの隣にある狭い路地を入った奥にあります。
アプローチもなかなかですが、店から見える中庭が高級感を漂わせています。


一般の販売店舗からつながる廊下の奥には、名品を揃えた部屋と、安藤七宝店のコレクションを展示している「七寳蔵部(しっぽうくらぶ)」があります。


大正時代に建てられた落ち着いた蔵の中に明治時代以降の名品が並んでいます。
入館料は大人300円ですが、店内でお買い物をすれば無料。決して美術館のような大きな規模のものではありませんが、ゆっくり眺められる雰囲気は抜群です。
誰も居ないし監視カメラもないので写真を撮りたかったけど、ご遠慮くださいって書いてあったので我慢、我慢。
前述で紹介した超絶技巧と呼ばれる細かい細工の七宝はもちろんですが、ここの2階で胸を打たれるくらい美しいブルーの壺を見ることができました。
瑠璃色という名前が付いていましたが、ラピスラズリよりもトルコ石に近い色をしたセルリアンブルーにトルコ風の文様の入った壺で、上からライトを照らしているのに下から光っているかのようなグラデーションです。
透明感を感じるその仕上がりの感動をお店の人に伝えたら、「普通の七宝焼きは体部が銅ですが、あの壺は銀でできているんです。だからあんな光るような透明感が出るんですよ」と教えてくれました。
ものすごく綺麗だったので、また見たい。


▲廊下にあった技法が一覧できるパネル。ここは撮影オッケーでした。

七寳蔵部のリーフレットを読んだら「このような名品の数々は、国内外の愛好家の垂涎の的ですが、科学・経済の発展した現代でさえ、再び製造することは困難であるとされています。」と書いてありました。そうなんだ、やっぱり現代でこのクオリティを保つ名工を揃えることは難しいんですね。残念なことです。
美術館や博物館でも観ることが出来る七宝の名品ですが、買い物のついでに隠れ家的な場所で観るのもなかなかオツなものです。


ユトリロ回顧展

2017年02月02日 | かんしょう
松坂屋美術館で開催中のユトリロ回顧展を観てきました。

▲チラシを飾る《可愛い聖体拝受者》は「白の時代」の代表作


私は特にユトリロに興味を持って観たことが無く、叙情的な建物が並ぶ風景を描く人として捉えていました。
今回足を運んだのは回顧展ということで画家の全体像を確認できるかも、と思ったと同時に、少し前にルノワール展でユトリロの母親のヴァラドンがモデルの「都会のダンス」を観たことでユトリロの人物像に興味がわいたこともありました。

▲ピエール=オーギュスト・ルノワール《都会のダンス》
 モデルは当時18才のユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドン。この時ユトリロを身籠もっていたためルノワールが父親という説もあるけど、複数の人と付き合っていたので真偽は不明。


で、私の感想を一言でまとめると「ユトリロって不幸な人だったんだ、知らなかった」でした。
エコール・ド・パリを代表する画家なので美術愛好家ならよく知ってることかも知れないけど、私は知らなかったんです。ユトリロの生い立ちも画業も。

母親の愛情が無いとは言わないけれど、恋多き母の元で育ち、アルコールに溺れ奇行に走り、ある時期友人は母親と結婚し、画家として成功するもその友人と母に報酬は搾取され、結婚相手は母親の薦めた女性。
風景画がほとんどで人物画は無く、初期の作品の街並みに人影はありません。風景に人物が描かれるようになっても、まるでLEGOの人形のように単なる点景でしかなく、人間に対しての愛情や信頼を感じさせる絵はまったくありませんでした。
ただ、結婚相手の女性リュシーとは知り合ってから10年後に結婚していますが(知り合った当時はまだご主人が存命だった)、この夫婦と知り合ってから花の絵を描くようになった、というエピソードが紹介されていたので、リュシーに対する愛情が無かったとは思いたくありません。
「白の時代」の後「色彩の時代」と呼ばれる作風に変化していきますが、それを経て40~50代になると絵に生活感を感じ取れるようになってくる気がしました。人物が点景なのに変わりはないのですが、配置が点在していたり門が開いていたりして動きがあるものが増えてくるようでした。晩年は、多少なりとも穏やかだったと思いたい、、、でないとなんか悲しい気持ちになっちゃう。


ユトリロは「白の時代」と呼ばれる20代~30代初の作品の評価が高い、というのはよく分かります。寂しいけれど美しい街や建物の佇まいがあるからです。

エドモン・ジャルーという評論家が「フェルメールがデフルトを、ホイッスラーがロンドンを、ユトリロがパリを有名にした」と言うような言葉を残しています。
実際、ユトリロに描かれるまでサン=ピエール教会やサクレ=クール寺院のある辺りは今のように美しいとされる地域ではなかったそうです。
ユトリロ以降、モンマルトル一帯がパリの中でも美しい街並みと称されるようになっていったとか。

ユトリロは同じ場所を繰り返し描いていますが、居酒屋風の酒場になったりレストランになったりした「ラパン・アジル」のある場所もそのひとつ。

▲1910-12年頃のラパン・アジル(ユトリロ27-29才頃)

▲1936-38年頃のラパン・アジル(ユトリロ53-55才頃)
この構図、好きです。この絵だけを比べても、晩年の方がより(雪の風景とは言え)優しい気がします。

展示数は80点ですが、ユトリロ-ヴァラドン委員会のセドリック・パイエ氏監修という回顧展。少なからずユトリロの人物像に迫っているのではないでしょうか。
現在、名古屋は「ゴッホとゴーギャン展」の方が注目されていてこの展覧会はあまり紹介されていないのですが、やはり大御所。平日なのに結構な入場者でした。