アバウトなつぶやき

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本居宣長展

2017年10月28日 | かんしょう
三重県立美術館で開催中の開館35周年記念Ⅲ 本居宣長展を観てきました。




三重県で「歴史に名を遺した人」と言って思い出すのは藤堂高虎と本居宣長ではないでしょうか。
得意分野によって思い出す人は他にもたくさんあれど、本居宣長が三重県の人、という認識は県民であれば強いはずです。
でも、「高虎=大名」は知ってても「宣長=国学者」とならない人は案外多いと思います。宣長=医者になる人は結構いるのにね。
宣長は医者もやってたのでそれ自体は間違いではないのですが、功績や他に与えた影響という点では医者より国学者と認識したほうが一般的です。
そして「国学者として何を残したか」となると、ちゃんと答えられる人がこれまた減ると思います。
私も「古事記とかをちゃんとわかりやすく世に広めた人」って答えてましたから、実際(^^;

概要
契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。
本居宣長は、『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。
また、本居宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。
本居宣長の代表作には、前述の『古事記伝』のほか、『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、そして『玉勝間』、『馭戎慨言(ぎょじゅうがいげん)』などがある。
門下生も数多く『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載れている。主な門人として田中道麿、服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿・長瀬真幸・高林方朗(みちあきら)・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。

▲ウィキペディアより抜粋


このような地元の名士を正しく理解するために、一度くらい展覧会を見ておこうと思い足を運びました。
数々の書簡や関連の軸・絵画を見ることで、ぼんやりとですが本居宣長の功績を知ることができたと思います。
しかし、正直なところ「これは博物館の方が向いてる気がする…」と思いました。
確かにご本人も絵を描いておられるし画家との交流も多いので関連する美術品はそれなりにあるけれど、やはり博物的価値の高い展示物の方が圧倒的に多く、美術館で観るのはビミョーだな、と思ってしまいました。
(前回のテオ・ヤンセン展は逆に博物的見地を持つ科学的な物体でありながら、有機的な動きやその造形は芸術的であると感じましたが。)

その反動か、同時開催している常設展の「凸(やま)と凹(たに)平原と空」がすごく面白いと思いました。
その話はまた後日。

ジャコメッティ展

2017年10月21日 | かんしょう
木曜日のこと、シロウタと豊田市美術館で開催中のジャコメッティ展を観てきました。



ジャコメッティは細長いシルエットの彫刻として独自のスタイルを確立しているので、一目見て彼の作品だと分かると思います。
その特徴的な造形に至るまでにどんな変遷があったのだろうと思ったのですが、変遷も何も、彼の行き着く先はここになることが決まっていたのかも知れない、と思わせられる内容になっていました。
ジャコメッティは若い頃はキュビズムやアフリカやオセアニア等のプリミティブな造形に影響を受けていたのですが、30代には前述のシルエットの彫刻にたどり着いています。
そのシルエットに至るまでの理由が、常人と違う物があるとは思わずにはいられません。
彼は「見えるものを見えるままに」造形することが困難だったというのです。対象物を描く際、人間なら個性を表現しやすい上半身であるとか、雰囲気を表現する全身像、という風な描き分けをするのが普通でしょう。
しかしジャコメッティは人間を見ると全体像として捉えてしまうため、絵にするとどんどん小さくなってしまうというのです。
それで、一時期は彫刻も手のひらに収まる2〜3cmのものしか作れなくなっていたほどです。
また、デッサンにより物事を捉えようとするあまり、モデルを数時間にわたり拘束するのは当然で、それが数週間から数ヶ月に渡ったといいます。
モデルにそういう無茶な要求をするので身近な人しか付き合ってくれなかったそうですが、、、それだけのデッサンをして出来上がるのがあのシルエットという不思議。一体、どうやって頭の中が変換されているのでしょう。
「モデルを前にした制作」の章で、デッサンに「生きたまなざしを捉えるため目に線が集中している」という解説が付いていました。
それを読んで、「そんなに目に重点を置いといて、出来上がった造形は全体のシルエットの方が印象的ってどういうことよ?」って思ったのですが、そのプロセスが無ければあの造形には辿り着かなかったのでしょうね。
実際、そこに展示されていた弟がモデルの胸像は正面から見るとまなざしより醸し出す存在感に意味がある様に見えるのに、ある角度から見ると視線が定まっている様に見えました。
「書物のための下絵」を見た時も、ただ、書きなぐった様に見える線でありながら、同様の構図を比べると明らかに存在感の違いがある絵があり、簡単に見える作品の中にある奥深さを感じました。

▲《書物のための下絵Ⅲ》1951年


  
▲一部の作品は撮影可能なため、出版物ではあまり見られない角度で画像を残せるのが面白い。

全体的にはその存在感に魅せられるカッコイイ彫刻なのですが、よく見ると表情すら感じる作品が時々あったりして、これが実物の醍醐味だなって思いました。

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同時開催している「髙橋節郎:宇宙の彼方へ」も、もちろん観てきました。



この方の作品、すごい存在感で圧倒されます。
なにせ、使っている素材が漆です。技術がすごくて、細部がとても美しいのです。
しかし、描かれるモチーフがとってもシュール…。
伝統的な技術を使って、前衛的(?もしくは超古典的)な世界を作り出しているのです。
これをどう言えばいいのか!楽器が箔押とか鎗金とかって趣味が良いのか!?このパネルを飾りたいと思うのは一体どんな人なのか??
私にはわけが分かりません。
でも、こんな立派な記念館が建ってるし、東京芸大の名誉教授だったし、とにかく立派な方なんですよ。はい。
前も思ったけど、髙橋節郎館は贅沢な空間ですわ。。。なんか笑いが出ちゃうんですよね、立派すぎて。
パンフレットもつやつやの良い紙と印刷使ってるし、豊田市ってホントお金持ち

オシメちゃんは六年生(読み聞かせ18)

2017年10月18日 | よみもの
今日は6年生での読み聞かせでした。

最近はすっかり読書量が減っていて、新しい本に手を伸ばすことが減ってきました。
前より滑舌も悪くなってきて、読み聞かせを続けるか悩むところなのですが、完全にやめてしまうと本とのつながりが切れてしまいそうな気もするので細々と参加させて頂いております。

今回は、灰谷健次郎さん。
うちには灰谷さんの本は長編と詩集しかないので、図書館で短編集を探してきました。

6年生なので、あまり小さい子が主人公の話は避けたい、、、と思ってたらぴったりのタイトルを発見。
「オシメちゃんは六年生」です。

お母さんが入院のため、弟の面倒をみなければならなくなったモッちゃん。先生の計らいで、学校に弟を連れてきます。
そのことがキッカケで、もう1人の兄弟の多い少年が心を開いてくれます。

このお話は灰谷さんの童話セレクションの他、「学校図書」が出版している「6年生の読みもの」にも収録されています。
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普通の速さで読んで20分弱。間をあけながらゆっくり読むと20分ではちょっとキビシイと思います。


※「読み聞かせ」検索でたどり着いた方へ
 私が読み聞かせに使った本とその時間をメモしています。
 カテゴリの「よみもの」をクリックすると今までの投稿も出てきます。
 あまり熱心な活動はしていませんし投稿数も少ないのですが、私も時々検索しているので同じ境遇の方がいるかも…と思いました。どなたかの参考になれば幸いです。

長沢芦雪展

2017年10月14日 | かんしょう
水曜日のこと、シロウタと一緒に愛知県美術館で開催中の長沢芦雪展に行ってきました。




 長沢芦雪は「伊藤若冲や曽我蕭白と並んで『奇想』の画家と称されて」いるというのが一般的な認識なんだそうですね。
 うちにはずっと以前に動物好きの友人が某展覧会の土産としてくれた長澤蘆雪/曾道恰(合作)《花鳥蟲獣図巻》のクリアファイルや絵ハガキがあります。犬たちの愛くるしい様子が特徴的な絵のため、長い間私は芦雪に「可愛い動物を描く人」というイメージを持っていました。
 そのためリーフレットの《虎図襖》を見た時も「あらまぁ、なんて猫っぽい虎だろう。可愛らしいこと」と思っており、『奇想』という評価がピンときませんでした。
 今回、いろんな作品を観ることで芦雪の概要が掴めると期待して行き、その期待は外れることがなかったと言えると思います。

 円山応挙の弟子ということで二人が同じテーマを描いた作品の比較がいくつもあったので、技術を習得していった流れとその後どのように個性が発揮されていったかがよくわかります。犬の描き方が似ていることは感じていましたが、芦雪の描く犬はふざけた格好をしていてとても面白い。犬に限らず、描き方が似ていてもその構図や動きが違うことで強い個性を感じることができます。
そういう点で、長沢芦雪は『奇想』という評価を受けたのですね。
 とにかく、彼の描く絵は構図が大胆!です。
特に大きなもの-屏風や襖絵などを描く際に画面からはみ出すサイズで対象物を描いているのには圧巻です。
《白象黒牛図屏風》の象ははみ出すどころではなく一部しか入らない大きさで描いているのがさすがなのですが、それと対の牛はそれに負けないほどのサイズなのもさることながら、添え書きしてある犬がやたらちんまりとしているうえに腰砕けの格好をしていてユーモアたっぷりです。

 この展覧会の目玉はおそらく南紀・無量寺のふすま絵空間の再現で、ふすま絵を絵画としてただ並べて見るのではなく実際の配置と同じにすることによって、臨場感であるとか調和の妙であるとかを感じることができるようになっています。
 前述の《虎図襖》ですが見るものに迫ってくるような描き方で、実際に目の前で見るとかなりの迫力です。
 顔つきが猫っぽくて可愛らしいのは第一印象の通りではありますが、それを凌駕する迫力があるのでちゃんと訴える力があり虎としての役割が成立しています。
 また、裏面に描かれた猫の絵を見えるように展示することでストーリー(魚から猫を見ると虎のように見えたであろう)がちゃんと成立しており、この虎が猫っぽいことに意味があることになっているのがとても機転が利いていて感心します。
 円山応挙が虎を見たことがなく、猫をモデルに虎を描いたため応挙の虎はちょっと猫っぽいのですが(もっともこの時代に日本人で虎を見たことがある人は非常に稀)、同様に芦雪も虎を見たことはなかったのでしょう。それを隠さずに表現しているところは潔くて好感が持てます。

 私がこの展覧会で一番気に入ったのは《朝顔に蛙図襖》です。
本来動かない植物と少ない描写で動きのある空間を作り出していることにスタイリッシュな粋を感じて感服しました。


展示の終わりのコーナーに【画業の深化:寛政後期】として非常に繊細に描かれた絵やちょっと不気味な雰囲気の絵が紹介されていました。その中の《大原女図》はその表情や描き方が印象的で、長く生きてくれたらもっと違う表現の名作が生まれたのではないかと考えさせられました。
芦雪は46歳で亡くなっており、その死は謎に包まれているそうですがその辺りはあまりクローズアップされていませんでした。生き方に焦点を当てなくても、その画業だけで「奇才」ぶりを表現できる画家だったということなんでしょうね。

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おまけ

 この展覧会の帰りにささしまライブに寄ってFLOWERS by NAKEDに行ってきました。
 名駅付近、ホント頑張ってますね~♪ 新しい街ができているのを見るのは楽しいです!
 丸栄が閉店し、芦雪の展覧会のあとは一年半も愛知県美術館は改装のため閉業だしでしばらく栄は元気がなくなっちゃいそうな気がします。
 私は近鉄利用者なので名駅が元気なほうが嬉しいですが、名駅は広い公園がないのでショッピング利用のみになりがちなんですよね。笹島が文化ゾーン目指してるんならついでに美術館や図書館とか作ってくれたら良いのになぁ。