お寺のオバサンのひとりごと

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流刑地

2007年05月27日 | 仏教
 色っぽい「愛の流刑地」ではなく、「承元の法難」で流罪となった親鸞聖人の「流刑地」でのお話です。

 35才の聖人は藤井善信の俗名で越後の国府に流罪となります。
 当時の「僧」の資格は、朝廷から許可され、政教一致、国家繁栄を祈願する、言わば「国家公務員」だったんです。どんな理由があっても出家の僧を罰することはできなかったので、一旦、還俗させて(俗名つけて)から刑罰を与えた。

 僧の資格を剥奪された「藤井善信」氏は、国府の居多ヶ浜(こたがはま)に上陸したと伝えられています。
 
越後での生活で、親鸞聖人は、朝廷のための仏教僧侶でない ことを表明して、「僧に非ず、俗に非ず」と言い、「禿(とく)」の字を姓として、「愚禿親鸞」と名乗られました。

「愚」とは、自分の力をあてにして修行する立場を放棄。念仏の教えが「愚者を自覚して救われる」道であることを表し、
「禿」は、「ハゲ」ではなく・・剃髪して僧の姿をしているが、国家の求める旧来の僧ではないこと、また、自分は、高僧ではなく、俗人と変わらない凡夫そのものである という深い自己内省 の表明です。

(余談ですが、名字に「禿」の字が付くお寺の友人がいます。彼女は、人に口頭で名字を説明する時、とても説明しづらい・・・と話していました。特に相手の紳士が頭の毛の薄い方の場合・・・)

 さて、親鸞聖人は、越後の土豪の三善為教の娘「恵信尼」と結婚します。
 当時、比叡山の出家僧にも隠れて妻子をもつ僧が多々あったらしいですが、「僧」が公に妻子を持つことなどありえなかった。 ところが、親鸞聖人は、正々堂々と結婚生活をされるのです。

 「恵信尼」が晩年、末娘の「覚信尼」にあてた手紙の中で
「おもはいので宗祖に打ち明けたことはないが、私は宗祖のことを観音様の化身であると信じていた」と書かれているそうです。
 尊敬、尊重しあい、何とうるわしい夫婦愛。

 
 
コメント
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