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帰洛

2007年05月29日 | 仏教
 親鸞聖人は「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」(正式書名は「顕浄土真実教行証文類」)を52才頃から執筆開始。(先日、新聞にも載っていましたが、聖人直筆の「教行信証」が東本願寺に保存されています)

 親鸞聖人は「教行信証」を執筆中の60才頃、家族を伴い、関東から京都に帰ります。
 その辺の事情は、

 終生、自分が新しい浄土教一派を開いたというような、開祖としての意識はなく、あくまで法然上人の弟子であると自認していた親鸞聖人です。

 1225年、再びの念仏弾圧(法然上人の墓所が破壊され、浄土教指導者が流罪)で、法然教団は荒廃、その教えも歪められていきますが、その噂に耐えられなくて、京都の法然教団の(たぶん年若い)同輩のためにも早く「教行信証」を完成し、法然上人の真意を伝えたかったのではないかと思われます。

 もちろん、京都では、鎌倉幕府により「念仏禁止令」が出ていますから、表だった布教はできません。住居も転々としながら、ひたすら著述に励まれたようです。

 漢文での論文である「教行信証」の著述が一段落してからは、一般庶民にわかりやすいように和文の著作を始められます。たくさんの著述がありますが、特に「和讃」は有名です。和語による仏や高僧を讃える歌です。
 76才の時「浄土和讃」「高僧和讃」、85才で「正像末和讃」を執筆されたそうです。

 すごいですよね。鎌倉時代の85才ですよ 何と頭脳明晰。

 「正信偈」の勤行の時、念仏に六首の「和讃」を加えたおつとめをしますよね
弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり ~」
 これは「浄土和讃」の中の阿弥陀仏を讃える歌です。
 
 こうして念仏弾圧の中、仏法を説くことが、仏さまのご恩に報いること の思いから著述を続け、ついに1262年11月28日(新暦1月16日)90才で往生されました。


 親鸞聖人のご生涯を絵で描かれた「御絵伝(ごえでん)」という4幅の掛け軸があり、「報恩講」行事の時など、本堂に奉懸します。
 

 

コメント (2)
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