映画「容疑者Xの献身」のときに不満だったのは
・事件解決に物理学がさほど必要ではなく「幾何の問題のように見えて実は関数の問題」という、魅力的ではあるけれど精神論になっていた
・なぜ湯川の推理によって真実が暴かれなければならないか、に説得力がない
……ということだった。今回も
・「真理というのは人類が正しい道を進むために、この世界がどうなっているのかを教えてくれる地図のようなものだ。」という精神論が優先されて、物理学はペットボトルロケットに応用されるだけ
・最初の被害者にわずかに認められるだけで、この連続殺人(じゃないか)にはほとんど悪意が存在しない。だから湯川が求めた真理によって、はたしてどれだけの人間が幸福になれたか疑問
……と、相変わらずなのである。
象徴的なのがオープニング。夏休みに親戚の家に向かう小学生が電車に乗っている。彼はおむすびをほおばりながら携帯で家族と連絡をとっている。となりに座った老夫婦は「電車のなかでは携帯を使っちゃいけない。電源を切りなさい」と叱りつけ、携帯をとりあげようとする。たまたまそこへ居合わせた湯川は、子どものおむすびを包んでいたアルミホイルを使い、携帯をラップすることで事態を解決する。「通信は遮断された」と(わたし、同じ発想のミステリを近ごろ読んだばかりです)。
みごとな展開だとは思う。しかし子どもの携帯相手にファナティックにつかみかかる老人はそうはいないだろう。だから湯川の推理のために、現実が少なからずゆがめられているのだ。あざといぐらいに。
メインの事件においても、それは同様。
あの“犯人”に設定することで感動はするだろう。しかし釈然としない部分はどうしても残る。大団円とはお世辞にもいえず、それは東野圭吾原作=福田靖脚本という理に落ちるコンビにとって、今回も計算違いだったのでは?……っていうか、何でガリレオで毎回【感動しなければならない】んでしょう。