TVを見ていたら、おもしろいコマーシャルをやっていた。
坂口の息子(とわたしはいつも呼んでいるのだが、元レスラー“世界の荒鷲”坂口征二の息子はなんという名前だったっけ)が浮かない顔で海を見ている。脳裏に浮かぶのは、さきほど車をバックさせようとして助手席の背もたれに手をやったとき、そこにすわっていた女の子が、ひょいと体を避けた仕草である。
首尾良くデートに誘い出すことには成功したものの、女の子の本心を、その避けた仕草に見て取った坂口の息子は、気落ちしたようすで缶コーヒーを飲む。
そうして画面に、「ささいなところに本音は出る」と文字が出るのだ。
* * *
「告白する」という言葉を縮めた「告(コク)る」という言葉をいつからか耳にするようになったが、わたしが高校生のころにはもう周囲公認の「カップル」というと、「好きです。つきあってください」「いいですよ(というのも変な言い方だな)/お友だちでいましょう」という「告白」の手続きが必要だったように思う。
クラスメイトのなかに、いつもいっしょに帰っている男の子が「彼氏」かどうか、悩んでいる子がいた。はっきりと告白されたわけではない、相手の気持ちも聞いてない。だから、たとえ休みの日に映画を見に行ったり、豊島園に行ったりしていても、「わたしたち、つきあってるのかなあ」と不安だったようだ。一緒に過ごす時間を重ねる以上に「つきあっている」ことを証明することもないように思うのだが、当人としてみれば、まるで結婚式か何かのように、「告白」の儀礼は、その関係に入った証明として必要だったらしい。
周囲も「一度ちゃんと向こうの気持ちを聞いてみたらいいよ」としきりにけしかける。「告白の儀」を経ていないカップルを、「公認」して良いものかどうか判断しかねるという思惑もあったのだろう。いま考えてみると、たかだか学校から一緒に帰り、月に一度かそこら、遊園地でデートするような関係を、「公認」するも何もないと思うのだが、当時の高校生にとっては、そんなことでも一大事だったということだろうか。
ところがその「彼氏か、仲の良いクラスメイトか」が判然としない男の子に彼女が「わたしたち、つきあってるの?」と聞いたところ、なんとなくはっきりした返事もないまま、疎遠になったという。教室の隅で「いったいどうして」と「そんなこと、聞かなきゃよかった」を、涙混じりに何度もリピートする彼女の周囲を女の子たちが取り囲んでいた。
相手の男の子が、一体何を考えていたのか、そもそもその質問が疎遠になっていくきっかけになったかどうかはわからない。それでも、その出来事より前に、教室移動や図書館に行くときに一緒に行動していた子から、「わたしたち、友だちよね? ね?」と念を押されて、ちょっとうんざりしてしまったことを思い出したのだった。
一緒にいて楽しかった、またつぎも一緒に時間を過ごしたい、その気持ちをわたしたちはなんとか言葉に繋ぎ止めようとして、つぎに会う約束だけでなく、自分たちの関係に名前をつけ、かたちにしようとするのだろう。
だが、言葉というのはどこまでいっても心許ないものである。実際の話、好きではなくても「好き」ということはできるし、「つきあってるよ、当たり前じゃないか」と言うこともできる。わたしたちはそのことをよく知っているから、何度でも確かめずにはいられない。
「わたしのこと、好き?」という古典的な質問(こんなことを聞く人が実際にいるのかどうかは知らないが)にしても、一度聞いて、それでおしまいということにはならないだろう。この質問によって、一度でも安心感を得た人は、いずれ不安になり、また安心感を得て、この質問を繰りかえすことになるだろう。
だが、例のコマーシャルのごとく、ちょっとした仕草や振る舞い、表情で、相手の本心が見て取れることがある。
何らかの理由で、相手を自分の下につなぎとめておこうとして、本心を偽るそぶりを見せていても、表情や、仕草、態度をわたしたちは決して完全にはコントロールできないのだ。そこまでできたらプロ並みの役者といえるだろうし、逆に、ハリウッド・スターなど共演がきっかけでカップルになり、しばらくして別れる、などというニュースを見ていると、演技することで、逆に恋愛感情が生まれていく、言葉を換えれば、身振りからわたしたちの感情が生まれていくことがわかる。ただ、環境が変わって(共演期間が終わって)、その身振りを必要としなくなったとしても、その感情が継続するかどうかは、また別問題。その恋愛感情が擬似的なものだったのか、もっと深いものだったのかによるのだろう。
告白する、好きだと言う、つきあうという言葉を使う。ちょっとした言葉遣いから相手の本心を探ろうとしたり、メールの頻度や返信までの時間を気にしたり。
だが、友だちであれ、恋人であれ、一緒に過ごす相手であれば、「ささいなところ」でわかったりするものではないのだろうか。自分と一緒にいることを楽しんでいるかいないか、とか、一緒にご飯を食べておいしく感じられるか、とか。
言葉以外にもコミュニケーションのチャンネルはたくさんあるように思うのだ。
携帯メールがこれほど普及したのは、そこではチャンネルを言葉に限ってしまうことができるからなのかもしれない。
人間関係というのは、どれほど楽しい相手でもわずらわしい、面倒なところはある。だから、ひとつだけにしぼってしまえば楽ともいえる。
だが、その結果、いよいよ言葉に依存するようになってしまう。不安を解消しようとして、質問に質問を重ね、相手を言葉でがんじがらめにしようとしてしまう。
その危うさを、わたしたちは知っておいた方がいいように思う。
坂口の息子(とわたしはいつも呼んでいるのだが、元レスラー“世界の荒鷲”坂口征二の息子はなんという名前だったっけ)が浮かない顔で海を見ている。脳裏に浮かぶのは、さきほど車をバックさせようとして助手席の背もたれに手をやったとき、そこにすわっていた女の子が、ひょいと体を避けた仕草である。
首尾良くデートに誘い出すことには成功したものの、女の子の本心を、その避けた仕草に見て取った坂口の息子は、気落ちしたようすで缶コーヒーを飲む。
そうして画面に、「ささいなところに本音は出る」と文字が出るのだ。
* * *
「告白する」という言葉を縮めた「告(コク)る」という言葉をいつからか耳にするようになったが、わたしが高校生のころにはもう周囲公認の「カップル」というと、「好きです。つきあってください」「いいですよ(というのも変な言い方だな)/お友だちでいましょう」という「告白」の手続きが必要だったように思う。
クラスメイトのなかに、いつもいっしょに帰っている男の子が「彼氏」かどうか、悩んでいる子がいた。はっきりと告白されたわけではない、相手の気持ちも聞いてない。だから、たとえ休みの日に映画を見に行ったり、豊島園に行ったりしていても、「わたしたち、つきあってるのかなあ」と不安だったようだ。一緒に過ごす時間を重ねる以上に「つきあっている」ことを証明することもないように思うのだが、当人としてみれば、まるで結婚式か何かのように、「告白」の儀礼は、その関係に入った証明として必要だったらしい。
周囲も「一度ちゃんと向こうの気持ちを聞いてみたらいいよ」としきりにけしかける。「告白の儀」を経ていないカップルを、「公認」して良いものかどうか判断しかねるという思惑もあったのだろう。いま考えてみると、たかだか学校から一緒に帰り、月に一度かそこら、遊園地でデートするような関係を、「公認」するも何もないと思うのだが、当時の高校生にとっては、そんなことでも一大事だったということだろうか。
ところがその「彼氏か、仲の良いクラスメイトか」が判然としない男の子に彼女が「わたしたち、つきあってるの?」と聞いたところ、なんとなくはっきりした返事もないまま、疎遠になったという。教室の隅で「いったいどうして」と「そんなこと、聞かなきゃよかった」を、涙混じりに何度もリピートする彼女の周囲を女の子たちが取り囲んでいた。
相手の男の子が、一体何を考えていたのか、そもそもその質問が疎遠になっていくきっかけになったかどうかはわからない。それでも、その出来事より前に、教室移動や図書館に行くときに一緒に行動していた子から、「わたしたち、友だちよね? ね?」と念を押されて、ちょっとうんざりしてしまったことを思い出したのだった。
一緒にいて楽しかった、またつぎも一緒に時間を過ごしたい、その気持ちをわたしたちはなんとか言葉に繋ぎ止めようとして、つぎに会う約束だけでなく、自分たちの関係に名前をつけ、かたちにしようとするのだろう。
だが、言葉というのはどこまでいっても心許ないものである。実際の話、好きではなくても「好き」ということはできるし、「つきあってるよ、当たり前じゃないか」と言うこともできる。わたしたちはそのことをよく知っているから、何度でも確かめずにはいられない。
「わたしのこと、好き?」という古典的な質問(こんなことを聞く人が実際にいるのかどうかは知らないが)にしても、一度聞いて、それでおしまいということにはならないだろう。この質問によって、一度でも安心感を得た人は、いずれ不安になり、また安心感を得て、この質問を繰りかえすことになるだろう。
だが、例のコマーシャルのごとく、ちょっとした仕草や振る舞い、表情で、相手の本心が見て取れることがある。
何らかの理由で、相手を自分の下につなぎとめておこうとして、本心を偽るそぶりを見せていても、表情や、仕草、態度をわたしたちは決して完全にはコントロールできないのだ。そこまでできたらプロ並みの役者といえるだろうし、逆に、ハリウッド・スターなど共演がきっかけでカップルになり、しばらくして別れる、などというニュースを見ていると、演技することで、逆に恋愛感情が生まれていく、言葉を換えれば、身振りからわたしたちの感情が生まれていくことがわかる。ただ、環境が変わって(共演期間が終わって)、その身振りを必要としなくなったとしても、その感情が継続するかどうかは、また別問題。その恋愛感情が擬似的なものだったのか、もっと深いものだったのかによるのだろう。
告白する、好きだと言う、つきあうという言葉を使う。ちょっとした言葉遣いから相手の本心を探ろうとしたり、メールの頻度や返信までの時間を気にしたり。
だが、友だちであれ、恋人であれ、一緒に過ごす相手であれば、「ささいなところ」でわかったりするものではないのだろうか。自分と一緒にいることを楽しんでいるかいないか、とか、一緒にご飯を食べておいしく感じられるか、とか。
言葉以外にもコミュニケーションのチャンネルはたくさんあるように思うのだ。
携帯メールがこれほど普及したのは、そこではチャンネルを言葉に限ってしまうことができるからなのかもしれない。
人間関係というのは、どれほど楽しい相手でもわずらわしい、面倒なところはある。だから、ひとつだけにしぼってしまえば楽ともいえる。
だが、その結果、いよいよ言葉に依存するようになってしまう。不安を解消しようとして、質問に質問を重ね、相手を言葉でがんじがらめにしようとしてしまう。
その危うさを、わたしたちは知っておいた方がいいように思う。