こんなニュースを見た。
http://www.j-cast.com/2008/01/16015650.html
そのうちリンクが切れるだろうから、要旨をここに書いておく。
わたしはこの「大島」という人が誰だか知らないのだが、おそらくアイドルなのだろう。
ミニスカートをはいている若いアイドルの女の子(うう、おばさんくさい言い方だ)が、「オジサンにミニスカートから出ている足を見られただけでチカンと思う」と発言したことをめぐって、「チカン」呼ばわりされた男性の側が、「被害者ぶってるけど、そういうことを誘発しているのはそちらでしょ!挑発的な格好をして被害者のふりをするな!!」と怒った、というものである。
この議論のずれは、以前にも感じたことがある。
流行というのは不思議なもので、いまはすっかり目にすることもなくなったが、二年ほど前には若い女の子たちはローライズのパンツ(下着の意にあらず)が多かった。自転車に乗っていて、そんな子の後ろで信号待ちをするようなときは、目の前に素肌の背中というか、腰というかが見えていて、下着ものぞいている。たとえ同性であっても、目のやり場に困るような思いがしたものだった。
ただ、彼女たちはまちがってもそんな場所を人に見せようと思って、そういう格好をしていたわけではないにちがいない。彼女たちは、ただ、そういう格好が「かわいい」「おしゃれ」と思っていただけのはずだ。彼女たちにとって「ローライズのパンツ」にせよ「ミニスカート」は、「いま流行の、かわいくておしゃれな服」を意味する「記号」なのである。
だが、前屈みになれば人目にさらさない方が良いような場所まで丸見えになってしまうローライズや、膝から上がどーんと剥きだしになっているミニスカートをはいている結果、そういう場所に目を向ける男性がいると知れば、「いやらしい」と腹を立てる。彼女たちにとって、ローライズにせよミニスカートにせよ「いま流行の、かわいくておしゃれな服」という解読以外をされるのは、記号の誤った解読、コードエラー以外の何ものでもない。まるで赤信号で直進してきた車を見るように、それ以外の解読をする人に対して、腹を立てる。
そこで腹を立てられた男性の側は、「そんな格好をしておいて!(見せたいからじゃないのか?)」と、非常に不本意な思いをする。
このとき男性にとって「ローライズのパンツをはく女の子」や「ミニスカートをはく女の子」は「肌を見せたがっている女の子」を意味する「記号」なのである。
ここで議論になってしまうのは、双方とも記号の解読の仕方は単一である、と信じているからだ。
助さんだか格さんだかが印籠を取り出すと、先ほどまで水戸黄門を「じじい」呼ばわりしていた悪人どもが、いっせいに、ははーっとはいつくばる。
それは「印籠」の解読の仕方が、悪人であっても虐げられている民百姓であっても、まったく同じだからだ。水戸黄門の登場人物たちは、「印籠」に対して、単一の意味しか読みとらない。だからそこで混乱はおこらない。もし「印籠」というより、「葵の御紋」に対して一切の権威を認めない「南蛮渡来のアウトロー」が登場すれば、黄門様はあっというまに銃弾の餌食となってしまうことだろう。
わたしたちのコミュニケーションは、相互理解の欲求に支えられている。だから、ミニスカートをはく女の子(発信者)は、それを見る相手(受信者)にも、自分のミニスカートを「かわいい」と思ってほしいし、さらにはそれをはいている自分も「かわいい」と思ってほしい。ところがそれ以外の見方をする受信者は、発信者にとっては誤解にほかならない(というか、おそらくおじさんは彼女たちの想定する受信者のなかには入っていない)。
おそらく件のアイドルに対して、感情的に怒りをぶつける人びとは、自分たちが記号を読み違えていることを指摘されたことへの怒りばかりでなく、自分たちの存在が「圏外」扱いされたことに対するいらだちも含まれているのであろう。
だが、双方とも忘れてはならないのは、どこかに「正解」があるのではなく、「記号」というのはさまざまな読み方を可能にするものである、ということだ。そうして「誤解」が浮上してきたときこそ、自分以外の人びと、すなわち〈他者〉がいる、ということが、初めて意識にのぼってくるときなのである。
問題は、自分の見方を唯一の見方として、巡り会った〈他者〉をその読み方に屈服させるか、〈他者〉の存在を織り込んだ上で、ことなった読み方を容認していくか、どちらの方向をわたしたちが取っていくのか、ということなのだ。
そうしていまのわたしたちのコミュニケーションは、記号の同一の読解をしない人びとを、排除しよう、排除しようとする方向に向かっていっているのではないか、ということなのである。
そろそろ次回あたりにまとめたい。
(※すいません。ちょっと忙しくて二日ほど更新できませんでした)
http://www.j-cast.com/2008/01/16015650.html
そのうちリンクが切れるだろうから、要旨をここに書いておく。
わたしはこの「大島」という人が誰だか知らないのだが、おそらくアイドルなのだろう。
ミニスカートをはいている若いアイドルの女の子(うう、おばさんくさい言い方だ)が、「オジサンにミニスカートから出ている足を見られただけでチカンと思う」と発言したことをめぐって、「チカン」呼ばわりされた男性の側が、「被害者ぶってるけど、そういうことを誘発しているのはそちらでしょ!挑発的な格好をして被害者のふりをするな!!」と怒った、というものである。
この議論のずれは、以前にも感じたことがある。
流行というのは不思議なもので、いまはすっかり目にすることもなくなったが、二年ほど前には若い女の子たちはローライズのパンツ(下着の意にあらず)が多かった。自転車に乗っていて、そんな子の後ろで信号待ちをするようなときは、目の前に素肌の背中というか、腰というかが見えていて、下着ものぞいている。たとえ同性であっても、目のやり場に困るような思いがしたものだった。
ただ、彼女たちはまちがってもそんな場所を人に見せようと思って、そういう格好をしていたわけではないにちがいない。彼女たちは、ただ、そういう格好が「かわいい」「おしゃれ」と思っていただけのはずだ。彼女たちにとって「ローライズのパンツ」にせよ「ミニスカート」は、「いま流行の、かわいくておしゃれな服」を意味する「記号」なのである。
だが、前屈みになれば人目にさらさない方が良いような場所まで丸見えになってしまうローライズや、膝から上がどーんと剥きだしになっているミニスカートをはいている結果、そういう場所に目を向ける男性がいると知れば、「いやらしい」と腹を立てる。彼女たちにとって、ローライズにせよミニスカートにせよ「いま流行の、かわいくておしゃれな服」という解読以外をされるのは、記号の誤った解読、コードエラー以外の何ものでもない。まるで赤信号で直進してきた車を見るように、それ以外の解読をする人に対して、腹を立てる。
そこで腹を立てられた男性の側は、「そんな格好をしておいて!(見せたいからじゃないのか?)」と、非常に不本意な思いをする。
このとき男性にとって「ローライズのパンツをはく女の子」や「ミニスカートをはく女の子」は「肌を見せたがっている女の子」を意味する「記号」なのである。
ここで議論になってしまうのは、双方とも記号の解読の仕方は単一である、と信じているからだ。
助さんだか格さんだかが印籠を取り出すと、先ほどまで水戸黄門を「じじい」呼ばわりしていた悪人どもが、いっせいに、ははーっとはいつくばる。
それは「印籠」の解読の仕方が、悪人であっても虐げられている民百姓であっても、まったく同じだからだ。水戸黄門の登場人物たちは、「印籠」に対して、単一の意味しか読みとらない。だからそこで混乱はおこらない。もし「印籠」というより、「葵の御紋」に対して一切の権威を認めない「南蛮渡来のアウトロー」が登場すれば、黄門様はあっというまに銃弾の餌食となってしまうことだろう。
わたしたちのコミュニケーションは、相互理解の欲求に支えられている。だから、ミニスカートをはく女の子(発信者)は、それを見る相手(受信者)にも、自分のミニスカートを「かわいい」と思ってほしいし、さらにはそれをはいている自分も「かわいい」と思ってほしい。ところがそれ以外の見方をする受信者は、発信者にとっては誤解にほかならない(というか、おそらくおじさんは彼女たちの想定する受信者のなかには入っていない)。
おそらく件のアイドルに対して、感情的に怒りをぶつける人びとは、自分たちが記号を読み違えていることを指摘されたことへの怒りばかりでなく、自分たちの存在が「圏外」扱いされたことに対するいらだちも含まれているのであろう。
だが、双方とも忘れてはならないのは、どこかに「正解」があるのではなく、「記号」というのはさまざまな読み方を可能にするものである、ということだ。そうして「誤解」が浮上してきたときこそ、自分以外の人びと、すなわち〈他者〉がいる、ということが、初めて意識にのぼってくるときなのである。
問題は、自分の見方を唯一の見方として、巡り会った〈他者〉をその読み方に屈服させるか、〈他者〉の存在を織り込んだ上で、ことなった読み方を容認していくか、どちらの方向をわたしたちが取っていくのか、ということなのだ。
そうしていまのわたしたちのコミュニケーションは、記号の同一の読解をしない人びとを、排除しよう、排除しようとする方向に向かっていっているのではないか、ということなのである。
そろそろ次回あたりにまとめたい。
(※すいません。ちょっと忙しくて二日ほど更新できませんでした)