陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

何もない一日

2009-03-24 22:57:07 | weblog
「こんな時代だから」、買い物をしても、何となく服やアクセサリも買いにくくて、毎日が楽しくない、という話をしている人がいた。

「こんな時代」というのが実際にどういうことなのか、具体的な出来事があったり、何かをはっきりと把握しているわけでもないだろうに、ただ「買いにくい」という気分になってしまうというのが、まさに「時代の気分」ということなのかもしれない、とも思う。

ただ、服やアクセサリを買っていれば楽しいのか、そもそもそんなものをめったに買うことのないわたしには、あまりよくわからない。あれこれ選ぶのが楽しさというのをまったく理解しないので(いや、タワレコに行ったらそんな気分になるかな。あそこに行くと、セロファンとプラスティックのにおいを嗅ぐだけで、幸せな気分になる)、その時間を持てないのが楽しくない、ということなのだろうか。

だが、もともと毎日というのは、それほど楽しいものではないだろう。これということが何も起こらない、昨日と同じような一日がまたやってきて、やらなければならないことのいくつかが自分を待っていて、それをこなしているうちに終わってしまう、それが日常というもののはずだ。

新聞を見ていると、連日いくつもの事件が起こっている。ドラマでも登場人物は恋愛したり、事件に巻き込まれたり、大忙しだ。だが、実際のわたしたちの日常では、ほとんど何も起こらない。起こると大変だから、起こらないようにあちこち気を配って生きているのだ。

山本周五郎の、数少ない現代小説に『寝ぼけ署長』というものがあるが、これは、しょっちゅう昼寝をしている警察署長“五道三省”を主人公とした連作短篇である。五道三省がいるところ、何も事件が起こらない。それもそのはず、何かが起こる前に、目立たないよう、気付かれないよう、五道三省が気を配っているからだ。

現実に、わたしたちはさまざまな面で、五道三省と同じ気配りを続けている。隣人とのあいだにトラブルが起こらないよう、ゴミ出しには気をつけているし、クラスのなかでももめ事を起こさないよう、譲るべき点は譲る。家族が病気にならないように、食事や衛生に気を配っているお母さんもいるだろうし、車を運転するときには、爽快感を求めて飛ばす代わりに、交通法規を守りながら、周囲に気を配って運転する。

小説でも、五道三省の気配りは、たとえ事件を未然に防いでも、賞賛されることもなければ、感心されることもない。運が良かったから、あんな寝ぼけ署長でも勤まった、などと悪口さえ言われる始末である。

けれど、小説なら、わたしたちの目には、その気配りがどのように実を結んだかは見えてくる。現実のわたしたちには、その果実は見えない。ただ、何もない日々が続くだけだ。

みんなで協力しながら社会を成り立たせているわたしたちは、「何も起こらないよう」、小さな努力を日々積み重ねているのだろう。そのことは、誰かが目立ったり、脚光を浴びたりするような努力の対極にあるものだ。楽しかったりするようなものではないが、それが楽しくないのが、幸福だということなのかもしれない。

新聞やドラマでしか「人生」を知らない十代の子供が、何も起こらない自分の毎日にいらだつのは理解できる。わたし自身、「何でもない」自分に耐え難い時期が結構長く続いた。

それでもいつからか、「これといって楽しいことのない」毎日が、どれだけありがたいことか、そうして楽しみとはほど遠い、ありふれた自分の仕事を、評価とは関係なく、ひとつひとつ丁寧にやっていくことが大切なのだとわかってきた。それが実行できているかとなると、まだまだなのだけれど。

毎日というのはもともと楽しくないものだ、と思ってしまえば、逆に、春の日差しがそれだけでうれしくなってくる。こういうのは、買い物よりもきっと楽しいことのように思える。