陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

パセリの話

2009-03-11 22:16:43 | weblog
わたしはだいたい香味野菜のたぐいは何でも好きなのだが、そうしたものが好きになったそもそものきっかけは、やはり付け合わせのパセリだったのだろう。

家族で外食、といっても、ほとんどのときはデパートの食堂だったのだろうが、そういうところに行くと、お子さまランチでもハンバーグでも海老フライでも、たいてい端っこにパセリがついていた。家では決して目にすることのない、緑のあざやかな親指の先ほどのパセリを指でつまんで食べると、ちょっと苦いような、青臭いような、独特の味がした。わたしにとって、外食を象徴するのが、そのパセリだったのである。

ところが一緒に行った家族は、パセリなんて苦い、おいしくない、と言うし、あろうことか母などは「これは食べるものではない」とまで言う。とんでもないと、みんなのを集めて、自分の皿に集めて丁寧に立てた。そうすると、緑の小さな花束のようで、見ていてとても楽しかった。もちろん最後はひとつずつつまんで、全部食べた。

幼稚園のころ、近所に住んでいたユカちゃんと、よくおままごとをして遊んでいた。ある日ユカちゃんが「田中のおばちゃんの庭に、小さい木があるよ」と言う。せまい通りを越えたところに、板塀に囲まれたその家はあった。勝手に門をくぐって、庭先に出る。ユカちゃんが指さした先には、まわりの葉にくらべてひときわ濃い緑の葉むらが見えた。縮れた葉っぱを見ても、これがあのパセリだとは思わなかったような気がする。地面から枝分かれした濃い緑の茎の先に、それぞれに葉のかたまりを戴いたそれは、お子さまランチの端に載っているものより、絵本に載っている遠い世界の木のようだった。枝をひろげた木を、そのまま縮小したような。
ユカちゃんは、「これが何年も何年もすると木になるんだよ」と言い、わたしもそれを疑わなかった。

ところが、ゆくゆくは木になるはずのそれを、ユカちゃんはもらっていこう、と言う。
「取っちゃダメなんじゃない?」とわたしが言うと、「お花だったらダメだろうけど、これは草だから大丈夫だよ」とユカちゃんは自信ありげに断言する。確かに、周囲にはオレンジのマリゴールドや黄色いキンセンカが咲き乱れている。そんな花に較べて、花壇の隅、雑草のような葉っぱがぽつぽつと芽を出しているそばにある「小さな木」は、あまり大切にされているようには思えなかった。

ユカちゃんは、二株とも根っこからすぽりと抜き、ひとつをわたしにくれた。そうしてわたしたちは、手に一つずつ収穫物をぶらさげて、おもちゃのまな板とおもちゃの包丁で調理したのだった。

その夜、ユカちゃんのお母さんが家に来た。大人ふたりで頭を寄せて、ひそひそと話している。やがて母に呼ばれた。
「あんた、田中さんのところの庭からパセリを抜いたの?」
「あれ、パセリだったの?」
何年かすれば立派な木に育つはずの「あれ」は、お子さまランチの端に載っているパセリだったのだろうか。わたしはおどろいてしまった。あれだけあると、いったい何皿ぐらいのお子さまランチに載せることができるだろう。
「あと、ユキノシタの芽も抜いたの?」
「雑草のような葉っぱ」とわたしが思ったのは、ユキノシタだったのだろうか。だが、そちらの方は、ユカちゃんは抜かなかったような気がする。

「わたしは抜かなかったけど、ユカちゃんが抜いた」
別に自分は罪を逃れるつもりはなかったのだが、実際に抜いたのは、ユカちゃんの方だった。とはいえ、それでおままごとをしたのはわたしも同罪である。うちの庭の隅に、切り刻まれたパセリが、半ばひからびて転がっているはずである。

わたしとユカちゃんは、それぞれのお母さんに付き添われて、田中さんのお宅にあやまりに行った。玄関の引き戸をがらがらとあけると、コンクリートのたたきがあって、奥から田中のおばさんが出てきた。結構長いあいだ、小言を言われ、母に押さえつけられて、何度も頭を下げさせられた。いったい何を言われたか、まったく覚えていないけれど(聞いていなかったのかもしれない)、小さな電球のオレンジ色の灯が照らす暗い玄関はいまでもはっきりと覚えている。

庭先にうっちゃられていたパセリは、母が拾い集めて、ジャガイモや挽肉とまぜてコロッケを揚げてくれた。翌日食べたパセリ入りのコロッケは、それはそれはおいしかった。