陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

見えない本音

2009-03-18 22:31:22 | weblog
もう少し「ささいなところに本音は出る」ことを考えてみたい。

「ささいなところに本音は出る」というのは、逆に言うと、「ささいでないところには嘘が隠されていることもある」ということになるだろう。ささいでないところ、というのは、つまり、意識的な言葉や表情や態度が該当するはずだ。

たとえば、プレゼントをもらって、“あれれ、持ってるよ、これ”と思っても、相手に気を遣って「わあ、こんなのほしかったんだ、うれしいなあ」と、にこやかに笑って言ってみせるような。こうした意識的な言葉や表情・態度が「伝えたいメッセージ」とすれば、それをうっかり持って帰るのを忘れて、つい「本音」が出てしまうと、「伝わってしまうメッセージ」ということになる。「ささいなところに出る」本音なのである。

こんな場合もある。わからない問題だができるふりがしたい。「そんなの簡単にできるよ」と自信満々のそぶりをしてみせる。ところが「じゃ、やってみて」と言われたらどうしよう、と内心ヒヤヒヤしていて、ふと見ると、特に暑くもないのに額に汗をかいている。

こうやって考えてみれば「伝えたいメッセージ」というのは、ほんとうか、うそか、で判定できる、言ってみれば論理的・実証的な内容なのに、「つい伝わってしまう」のは、心情とか感情とかといったもののようだ。

こう考えていくと、受け手はもちろん相手の「伝えたいメッセージ」も受けとるが、相手がかならずしも伝えたくないメッセージ、意図に反して伝わってしまうメッセージも受けとっていることがわかる。
このことを単純に図式化するとこうなるだろう。

メッセージの発信者の伝えたいこと<メッセージの受け手の受け取ること

とくに、相手の反応が自分にとって重要な場合(就職希望先の面接官や、好きな相手や、単位がかかっている指導教官)、わたしたちは相手の言葉以上のメッセージを、語感を総動員して受けとろうとする。

そんなときは、

発信者の伝えたいことの量<<<<<受け手の受けとるメッセージの量

などということもあるだろう。もちろん受け手が受けとったものが正確かどうかは、はっきりしない、ただ鼻の頭がかゆかったために、顔をしかめただけかもしれないのだが。

ところが人間というのはややこしいもので、以前こんな話を聞いたことがある。
彼女は「ダンナが鈍い」とこぼしていた。今度の連休は、(夫側の)実家で過ごそうと提案されたのだが、彼女は「もちろんいいよ」と答えたのだという。ところが鈍い、わかってくれない、と怒るのである。というのも、彼女からしてみれば、本当は嫌なのだが、夫のことを考えてそう答えているので、そのことを察してほしい、と言っているのだ。

ここでは、

発信者の伝えたいことの量>受け手の受けとるメッセージの量

ということになる。
冗談を真に受ける人なども、この場合に当てはまるだろう。
だが、こういうときはコミュニケーションは成立していないので、わたしたちのコミュニケーションにおいては、

メッセージの発信者の伝えたいこと<メッセージの受け手の受け取ること

が「あるべき姿」と言えるだろう。

ここで考えてみたいのが、頻繁にやりとりされるメールやチャットは、この図式が成り立っているのだろうか、ということなのだ。

「あの映画、みたよ」
ということが、現実の会話の場で語られたとする。
聞き手はこれだけで、相手がその映画を観たという情報だけでなく、どんな感想を持ったか、見当がつく。

ところがテキストベースのコミュニケーションであれば、「あの映画、みたよ」は、話者が見たという以上の情報を伝えないのである。

もちろんメールやチャットはその限りではない、それについてどう思ったかの記述が続くわけだから、わたしたちは相手の伝えたいことを受けとることはできる。けれども、わたしたちのコミュニケーションが、受け手の側がつねに送り手の伝えようとすること以上のものを「読みとろう」とするのが常態であるとすれば、これは受け手からみれば、情報の慢性的な飢餓状態に置かれていることを意味する。

メールが頻繁にやりとりされている状況は、一面だけ見れば、活発なコミュニケーションが展開されているといえるだろう。だが、実は、双方、情報不足をなんとか補おうとしているだけだとしたら、どうだろう。何か、不健全な印象を受けてしまわないだろうか。

このことは明日ももう少し考えてみたい。