ロバート・シェクリィの短篇に、『人間の手がまだ触れない』という短篇がある。
短篇のネタバレになってしまうのだが、いまとなっては手に入れにくい短篇なので、まあいいか、と思って取り上げることにする。読んでみようと思われている方は、パスしてください。
餓死寸前のふたりの宇宙飛行士が、未知の星に不時着してドーナツ型の建物を見つける。どうやらそこは倉庫らしい。ひとりの飛行士はそこで、その星とアルムブリギア語の辞書を見つける。幸運なことに、彼はアルムブリギア語を知っていたのだ。その辞書を頼りに、箱に書かれたラベルを読みながら、ふたりは食べ物を必死で探す。
ひとりの飛行士は主張する。
「もし、この惑星に住んでいたのがどんな種類の生物か推定できれば、やつらがどんな食物をたべていたか、そして、それがわれわれにも食べられるかどうかがわかるはずだ」
ところがその星にどんな生物がいるか、情報はほとんどない。
そこで飛行士たちは仮説を立てる。
・彼らの肉(※ここでは食物の意)は、われわれの肉である。
・彼らの肉は、われわれの毒である。
・彼らの毒は、われわれの肉である。
・彼らの毒は、われわれの毒である。
「万人の食用に適す」という書いてある箱を開けてみる。すると、赤くて細長い直方体がでてきた。赤い、ぶよぶよした直方体は、くすくす笑っている。とても食べられそうにない。「万人の飲料」は、襲いかかってきて、ふたりを飲み込もうとする。
ならば、「彼らの毒はわれわれの肉」だろうか。「いかなる場合にも食べてはなりません」と表示のある「充填材」の箱をあける。すると、そこからはいやな臭いの緑色の泡がぶくぶくでてくる。充填材は、部屋一杯になってもふくらむのをやめない。膨張する充填材に追われて、ふたりは別々の方向に逃げ出した。
飛行士は考える。同じ酸素のある星でも、彼らの肉はわれわれの毒、彼らの毒もわれわれの毒、となると、彼らの肉でも毒でもないものを食べれば良いのか。
扉の向こうから、もうひとりの飛行士の助けを求める声が聞こえる。
先ほど、ふたりが「食べ物ではない」とうち捨ててきた「超特性輸送機」が、動物のような臭いの息をさせて襲いかかってきた。
飛行士たちは「彼らの肉でも毒でもないもの」の「肉」だったのだ。
この短篇は「記号論」として読むことができる。
ここでは「記号」の受信者はふたりの飛行士だ。彼らは辞書(コードブック)を片手に、なんとか見知らぬ記号の意味を解読しようとする。
記号はひとつだが、発信者と受信者が同じコードを共有していない場合、昨日の「ミニスカート」の例でもあきらかなように、コミュニケーションは失敗に終わってしまう。
だから、ここでこの飛行士の考える「もし、この惑星に住んでいたのがどんな種類の生物か推定できれば、やつらがどんな食物をたべていたか、そして、それがわれわれにも食べられるかどうかがわかるはずだ」というのは、まったく正しい。
通常のわたしたちは、言葉をあたかもコミュニケーションの便利な道具として、特に意識することもなく使っている。
ところがちょっとしたとき、「コミュニケーションの便利な道具」は、ちがう様相を見せる。
ある人の言葉の真意を知りたく思う。
ちょっとした仕草から、相手の本音を読みとろうとする。
あるひとつのことの解釈をめぐって、どうも考え方がちがうような気がする。
そんなときは、いずれも、わたしの「記号」と相手の「記号」のあいだのずれに気がついた、ということでもある。
このずれは、わたしたちが、相手を「自分とは異なる人」とはっきりと意識するときでもある。このずれを一致させるためにはどうしたらいいか。それは「相手がどんな人かを知ること」なのである。
オセローがもし、イアーゴーがどんな人間か知っていたなら、彼の言葉を信じて妻を疑うこともなかっただろう。
けれど、戯曲の登場人物ではない、身の回りの人びとが、イアーゴーのように、一言で要約できるような人間ではない。同じ人が、状況や場面によって、言うことも考えることも変わっていく。わたしたちに知りうるのは、飛行士が異星人がどんな生物かを推定する程度なのだろう。
結局、ここまできて気がつくのは、わたしたちがほんとうに相手が発信するさまざまな「記号」を、正しく受信できているかどうかは、どうやってもわからない、ということだ。
ずれが生じて初めて、なにかがうまくいってないことに気がつく。
けれども、それは同時に、相手のことをもっと知りたいと願う機会でもある。
わたしたちにできるのは、なんとか相手のいうことを正しく読みとりたい、自分の言うことを正しく伝えたい、と願うことだけなのかもしれない。
短篇のネタバレになってしまうのだが、いまとなっては手に入れにくい短篇なので、まあいいか、と思って取り上げることにする。読んでみようと思われている方は、パスしてください。
餓死寸前のふたりの宇宙飛行士が、未知の星に不時着してドーナツ型の建物を見つける。どうやらそこは倉庫らしい。ひとりの飛行士はそこで、その星とアルムブリギア語の辞書を見つける。幸運なことに、彼はアルムブリギア語を知っていたのだ。その辞書を頼りに、箱に書かれたラベルを読みながら、ふたりは食べ物を必死で探す。
ひとりの飛行士は主張する。
「もし、この惑星に住んでいたのがどんな種類の生物か推定できれば、やつらがどんな食物をたべていたか、そして、それがわれわれにも食べられるかどうかがわかるはずだ」
ところがその星にどんな生物がいるか、情報はほとんどない。
そこで飛行士たちは仮説を立てる。
・彼らの肉(※ここでは食物の意)は、われわれの肉である。
・彼らの肉は、われわれの毒である。
・彼らの毒は、われわれの肉である。
・彼らの毒は、われわれの毒である。
「万人の食用に適す」という書いてある箱を開けてみる。すると、赤くて細長い直方体がでてきた。赤い、ぶよぶよした直方体は、くすくす笑っている。とても食べられそうにない。「万人の飲料」は、襲いかかってきて、ふたりを飲み込もうとする。
ならば、「彼らの毒はわれわれの肉」だろうか。「いかなる場合にも食べてはなりません」と表示のある「充填材」の箱をあける。すると、そこからはいやな臭いの緑色の泡がぶくぶくでてくる。充填材は、部屋一杯になってもふくらむのをやめない。膨張する充填材に追われて、ふたりは別々の方向に逃げ出した。
飛行士は考える。同じ酸素のある星でも、彼らの肉はわれわれの毒、彼らの毒もわれわれの毒、となると、彼らの肉でも毒でもないものを食べれば良いのか。
扉の向こうから、もうひとりの飛行士の助けを求める声が聞こえる。
先ほど、ふたりが「食べ物ではない」とうち捨ててきた「超特性輸送機」が、動物のような臭いの息をさせて襲いかかってきた。
飛行士たちは「彼らの肉でも毒でもないもの」の「肉」だったのだ。
この短篇は「記号論」として読むことができる。
ここでは「記号」の受信者はふたりの飛行士だ。彼らは辞書(コードブック)を片手に、なんとか見知らぬ記号の意味を解読しようとする。
記号はひとつだが、発信者と受信者が同じコードを共有していない場合、昨日の「ミニスカート」の例でもあきらかなように、コミュニケーションは失敗に終わってしまう。
だから、ここでこの飛行士の考える「もし、この惑星に住んでいたのがどんな種類の生物か推定できれば、やつらがどんな食物をたべていたか、そして、それがわれわれにも食べられるかどうかがわかるはずだ」というのは、まったく正しい。
通常のわたしたちは、言葉をあたかもコミュニケーションの便利な道具として、特に意識することもなく使っている。
ところがちょっとしたとき、「コミュニケーションの便利な道具」は、ちがう様相を見せる。
ある人の言葉の真意を知りたく思う。
ちょっとした仕草から、相手の本音を読みとろうとする。
あるひとつのことの解釈をめぐって、どうも考え方がちがうような気がする。
そんなときは、いずれも、わたしの「記号」と相手の「記号」のあいだのずれに気がついた、ということでもある。
このずれは、わたしたちが、相手を「自分とは異なる人」とはっきりと意識するときでもある。このずれを一致させるためにはどうしたらいいか。それは「相手がどんな人かを知ること」なのである。
オセローがもし、イアーゴーがどんな人間か知っていたなら、彼の言葉を信じて妻を疑うこともなかっただろう。
けれど、戯曲の登場人物ではない、身の回りの人びとが、イアーゴーのように、一言で要約できるような人間ではない。同じ人が、状況や場面によって、言うことも考えることも変わっていく。わたしたちに知りうるのは、飛行士が異星人がどんな生物かを推定する程度なのだろう。
結局、ここまできて気がつくのは、わたしたちがほんとうに相手が発信するさまざまな「記号」を、正しく受信できているかどうかは、どうやってもわからない、ということだ。
ずれが生じて初めて、なにかがうまくいってないことに気がつく。
けれども、それは同時に、相手のことをもっと知りたいと願う機会でもある。
わたしたちにできるのは、なんとか相手のいうことを正しく読みとりたい、自分の言うことを正しく伝えたい、と願うことだけなのかもしれない。