陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

本音はどこにある?

2009-03-19 22:47:33 | weblog
以前、ある会の世話役をやっていたときのこと。
一緒にやっているひとから、「本音が見えない」と言われて、ちょっと驚いたことがある。
わたしはそのときおもに会議の司会をやっていたのだが、議事の進行がつつがなく進んでいくように、無駄口をたたかず、誰かと特別に親しくすることもなく、かといって、義務感からばかりではなく、それなりに楽しんでやっていたつもりだった。

ところが「本音が見えない」と指摘されて、わたしは変な気がしたのだった。本音もなにも、わたしは先に書いた以上の思惑があったわけではない。「本音が見えない」と言われてもなあ、という気分だった。

進め方が少し事務的過ぎたかなあと思って、以来、会議が一段落ついたあたりで、「今日は~でしたね」とか「ちょっとまとめ過ぎちゃいましたか」などというような、ちょっとした「おしゃべり」的な一言を入れるようにしてみた。すると、以前に「本音が見えない」と言った人は、「あなたもだんだん慣れてきて、みんなを信頼してくれるようになったんですね。本音でしゃべっていいんですよ」という。何か、ものすごく奇妙な気がしたできごとだった。すくなくともわたしが差し挟んだ「おしゃべり」は、本音でも何でもなく、わたしの工夫でしかなかったのだから。この場合、「わたしの本音」というのは、わたしの側にはなくて、それを聞き取った側にあったといえる。

たとえばここに一枚のハンカチがある。
歯医者に行くときの必需品だし、暑くなっても必要だ。東京に行った恋人が心変わりして、故郷に残された女の子が、最後に一枚、それを送ってくれ、と頼むものだし(この意味がわかる人は少数だったりして……)、そうしてシェイクスピアの戯曲『オセロー』ではことのほか重要な意味を持つ。
オセロー:(…)あのハンカチーフはおれの母親があるエジプトの女から貰ったものだ。その女は魔法使いでよく人の心を読みあてたものだが、それが母にこう言った。これが手にあるうちは、人にもかわいがられ、夫の愛をおのれひとりに縛りつけておくことが出来よう。が、一度それを失うか、あるいは人に与えでもしようものなら、夫の目には嫌気の影がさし、その心は次々にあだな想いを漁り求めることになろう、と。
(シェイクスピア『オセロー』福田恆存訳 新潮文庫)

オセローは、その母ゆかりの「ハンカチ」を妻に与える。つまり、彼にとってそのハンカチを大切にする妻は「夫の愛をおのれひとりに縛りつけておける存在、手放してしまうことは、すなわち「その心は次々にあだな想いを漁り求めること」を意味するのである。

ハンカチにそんな意味を勝手にこめられても……と思うのだが、オセローにとってはそうなのである。

イアーゴーにとっては、ハンカチは陰謀の道具である。そのハンカチを、デズデモーナがキャシオーと密通した証拠にしようと目論んでいるのである。

このハンカチを手に入れたのはイアーゴーの妻、エミリア。
エミリア:よかった、ハンカチーフが手に入って。(…)早速、模様を写しとって、それをイアーゴーにやりましょう。一体どうするつもりか、私の知ったことではない。

これを見ると、ものの「意味」というのは、そのものがあらかじめ持っているのではなく、それを見る人間の側にあることがわかる。

「本音」というのも、その言葉にこめられた額面通りの意味ではない、別の意味、ということだ。これが「本音」である、と思うのは、受け手の側なのである。

例の缶コーヒーのコマーシャルにしても、「ささいなところに本音は出る」というのは、あくまでも女の子の仕草を受けとった、坂口の息子のそれなのである。もしかしたら女の子は、坂口の息子の手を反射的に避けたのではなく、目の前に飛んできた虫を避けたのかもしれないのだ。

相手の本音はどこにあるんだろう、と考えたくなったら、まずそのことを思い出してみよう。相手の仕草や態度、ちょっとした言葉に「本音」を読みとっているのは、わたしたち自身だ。

もうちょっとこの話を続けます。