陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

百年に一度の大安売り

2009-03-14 23:02:46 | weblog
昨年の秋以降、「百年に一度の危機」という言葉が、頻繁に目に飛び込むようになってきた。おそらくその言葉が指している、「百年前の危機」というのは、1929年の大恐慌のことなのだろうが、1929年と今回が何らかのかたちで共通しているからというより、1929年の大恐慌以来、最悪の金融危機である、ということが言いたくて、「百年に一度」という表現が使われるようになったのだろう。

以来、その言葉は現在の不況全般を指す表現に用いられるようになった。だが、それは、つねにその言葉を用いる人の「百年に一度」という実感を伴っているのだろうか。わたしにはそれがはなはだ疑問に思われるのだ。

まず何よりも、現在進行形で、あらゆることが日々刻々と変わっていっている出来事をとりあげて、終わってしまい、もはや動かない歴史的事実と比較することは、実際にはできない。ただ、そのなかにいるわたしたちにできるのは、過去の出来事を現在に重ね合わせ、共通点・相違点をさぐることだけだろう。何のために?――もちろん、未来図を描くために。

ところが当初、その言葉を使った人がそれなりの意味をこめて使っていたとしても、それが広く行きわたることによって、一種の定型文としてストックされ、本来の意味を失ってしまう。百というきりのいい数字が、「一日千秋の思い」「千載一遇の好機」などと同様の使われ方、誇張表現の一種になってしまうのだ。

誇張表現になってしまった「百年に一度の危機」という言葉は、危機の深刻さを訴える以上の意味をもはや持たなくなってしまった。さらに、あまりに頻繁に使われるせいで、受け手の側もその言葉に麻痺してしまい、深刻さすらも伝えていない。

そんな言葉を使っていいものだろうか。

佐藤信夫は『レトリック感覚』のなかで、誇張法を使ったこんな愉快な文例をあげている。
 ぼくが、じゃ明日から来ますと答えると支配人は総金歯をにゅっとむいて笑ったので、あたりが黄金色に目映く輝いた。
(井上ひさし『モッキンポット師の後始末』)

もちろんいくら総金歯であろうが、あたりがまばゆく輝くことはない。これはあきらかに嘘だ。けれども、人をだますことを目的とした嘘が、密かに紛れ込むのに対して、誰の目にもあきらかな嘘、だまされる人もない嘘は、嘘が、あからさまな嘘であることによって、この表現自身への批判となっている。この表現は、自己批判を含んでいるために、上質のユーモアを生む、と佐藤は読み解く。

「百年に一度の危機」「百年に一度の不況」「百年に一度の……」この言葉の空虚さは、「百年に一度」が実感も覚悟もないまま使われ、そのために嘘であるかどうかの吟味すらなされていないことから来るのだろう。

ならばいっそ、これから「百年に一度のいい天気」だとか、「百年に一度の仕事」だとか、日常でどんどん粗雑に消費することによって、みんなが飽きることで葬ってしまえばいいのかもしれない。

(※朝も告知したように、「善人はなかなかいない」、サイトにアップしました。明日には更新情報、あと、翻訳の作品と著者紹介のページもリニューアルする予定です。お楽しみに、っていうほど、変わってないんですが、たぶんちょっと読みやすくなってるはずです。)

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