アメリカの現代作家チャールズ・バクスターの短篇「グリフォン」が見つかったので、それをお送りします。ちょっと不思議な感じのする短篇です。一週間ぐらいの予定です。
原文はhttps://www.randomhouse.com/modernlibrary/library/display.pperl?isbn=9780307431912&view=printexcerptで読むことができます。
* * *
"Gryphon"
by Charles Baxter
水曜の午後、地理の授業で古代エジプトの手動灌漑設備を教わって、つぎの美術の時間に山裾に拡がる模型の街のスケッチを始めようとしたとき、ぼくら四年の担任のヒブラーという男の先生が、咳をし始めた。その咳は最初のうちはくぐもった咳払いが続いているようなものだったのだが、ヒブラー先生の閉じた口から漏れる音はだんだん大きくなった。
「あの音、聞こえる?」キャロル・ピータースンがひそひそ声で話しかけてきた。「大笑いが始まりそう」ヒブラー先生の笑い声は――ちょくちょくそんなことがあるわけではなかったのだが、なんだかふぬけになったような感じだった――ちょっと咳に似ていたのだ。だが、模型の街をスケッチしていたぼくらが、きっと先生は何かおもしろがっているのだろうと思ってそちらを見上げると、ヒブラー先生の顔は真っ赤になっていて、ほっぺたがふくらんでいる。笑ってるんじゃない。二度、体をくの字に折ったとき、ゆるめたネクタイが鉛直線みたいに首から下がった。そうして先生はクリネックスを口に当てて咳き込んだ。先生は、すまん、と言ってまた咳き込んだ。
「10セント賭けようよ」キャロル・ピータースンがささやいた。「明日代わりの先生が来る」
キャロルはぼくの真ん前の席のいやな子――だれも見てないと思ったら、ノートをちぎって鼻をかんでから、それを丸めてゴミ箱に投げたりするようなやつなのだ――だったが、ここぞというときになると、真実を衝くのだ。ぼくが10セント取られるのはまちがいない。
「いやだ」とぼくは言った。
終鈴直前にぼくたちをドアのところに並ばせたころには、ヒブラー先生はほとんど口もきけないようすだった。「すまないね、君たち」彼は言った。「調子が悪くなったらしい」
「ヒブラー先生、明日はお加減がよくなるといいですね」そう言ったのはボビー・クリザノウィック、完全無欠のおべっか使いだ。それにキャロル・ピータースンが意地悪なくすくす笑いを漏らすのが聞こえた。それからヒブラー先生はドアを開け、ぼくたちはバスに向かって歩き出した。ぼくらのグループはヒブラー先生の耳には届かないだろうと10メートルも離れるとすぐに、さわがしく咳払いしたり笑いあったりし始めた。
ファイヴ・オークスは田舎町でミシガン州にある。だから代理の先生も限られていて、町に住む職に就いていないコミュニティ・カレッジの卒業生である四人の母親の内から調達するしかないのだった。この人たちはそわそわと落ち着きがなく、おっかなびっくり、ぼくらが一週間も前に習った単元をおさらいするような、気楽な学校生活を提供してくれた。だから翌日教室に見たことのない女の人がやってきたのを見たときは驚いたのだった。紫のハンドバッグと、格子縞のランチボックスを下げ、本を数冊持っている。その女性はヒブラー先生の机の端に置き、反対側のヴォイス・オブ・ミュージック社製の蓄音機が置いてあるその隣りにランチボックスを置いた。先生が教室に入ってきたとき、ぼくら三人は、教室の後ろでヒーヴァーと遊んでいた。ヒーヴァーはカメレオンで、飼育箱で飼われているのだが、そこにはビニールが畳んで敷いてあった。
その人はぼくたちに向かって手を鳴らして言った。「ぼうやたち」と彼女は言った。「なんであなたがたはみんな固まってかがみ込んでるの?」ぼくたちが答えるより先に、その人は言葉を続けた。「生き物をいじめてるの? 戻してやりなさい。自分の席に着いて。一日のこんな時間には綱なんて入りませんよ」ぼくたちはあっけにとられたまま彼女を眺めていた。「あなたたち」と繰り返した。「着席なさい」
ぼくはカメレオンを飼育箱に戻して、その女の人に目を奪われたまま、自分の席まで手探りで戻った。白と緑のチョークで、彼女は黒板の左側に木を描き始めた。彼女はひどく変わっていた。さらに、彼女の描く木も、どういうわけだか極端に大きく、バランスが悪かった。
「この教室には木が必要です」彼女はそういうと、一本の線で葉っぱとおぼしきものを描いた。「大きくて、葉が茂り、木陰を作って、秋には落葉する……樫の木が」
彼女は細い明るい色の髪を上にまとめて――のちにそれがシニヨンというのだと知った――、薄い水色がかったレンズの金縁眼鏡をかけていた。ハロルド・ナーダールはぼくの向かいにすわっているのだが、彼は「火星人」とひとことささやき、ぼくもゆっくりとうなずいた。ひどく奇妙な一日になりそうだという予感をかみしめていた。代理先生はひどくもったいぶった仕草でもう一本枝を描くと、振り返って言った。「おはよう。まだわたし、あなたたちにおはよう、って言ってなかったわね」
(この項つづく)
原文はhttps://www.randomhouse.com/modernlibrary/library/display.pperl?isbn=9780307431912&view=printexcerptで読むことができます。
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"Gryphon"
by Charles Baxter
水曜の午後、地理の授業で古代エジプトの手動灌漑設備を教わって、つぎの美術の時間に山裾に拡がる模型の街のスケッチを始めようとしたとき、ぼくら四年の担任のヒブラーという男の先生が、咳をし始めた。その咳は最初のうちはくぐもった咳払いが続いているようなものだったのだが、ヒブラー先生の閉じた口から漏れる音はだんだん大きくなった。
「あの音、聞こえる?」キャロル・ピータースンがひそひそ声で話しかけてきた。「大笑いが始まりそう」ヒブラー先生の笑い声は――ちょくちょくそんなことがあるわけではなかったのだが、なんだかふぬけになったような感じだった――ちょっと咳に似ていたのだ。だが、模型の街をスケッチしていたぼくらが、きっと先生は何かおもしろがっているのだろうと思ってそちらを見上げると、ヒブラー先生の顔は真っ赤になっていて、ほっぺたがふくらんでいる。笑ってるんじゃない。二度、体をくの字に折ったとき、ゆるめたネクタイが鉛直線みたいに首から下がった。そうして先生はクリネックスを口に当てて咳き込んだ。先生は、すまん、と言ってまた咳き込んだ。
「10セント賭けようよ」キャロル・ピータースンがささやいた。「明日代わりの先生が来る」
キャロルはぼくの真ん前の席のいやな子――だれも見てないと思ったら、ノートをちぎって鼻をかんでから、それを丸めてゴミ箱に投げたりするようなやつなのだ――だったが、ここぞというときになると、真実を衝くのだ。ぼくが10セント取られるのはまちがいない。
「いやだ」とぼくは言った。
終鈴直前にぼくたちをドアのところに並ばせたころには、ヒブラー先生はほとんど口もきけないようすだった。「すまないね、君たち」彼は言った。「調子が悪くなったらしい」
「ヒブラー先生、明日はお加減がよくなるといいですね」そう言ったのはボビー・クリザノウィック、完全無欠のおべっか使いだ。それにキャロル・ピータースンが意地悪なくすくす笑いを漏らすのが聞こえた。それからヒブラー先生はドアを開け、ぼくたちはバスに向かって歩き出した。ぼくらのグループはヒブラー先生の耳には届かないだろうと10メートルも離れるとすぐに、さわがしく咳払いしたり笑いあったりし始めた。
ファイヴ・オークスは田舎町でミシガン州にある。だから代理の先生も限られていて、町に住む職に就いていないコミュニティ・カレッジの卒業生である四人の母親の内から調達するしかないのだった。この人たちはそわそわと落ち着きがなく、おっかなびっくり、ぼくらが一週間も前に習った単元をおさらいするような、気楽な学校生活を提供してくれた。だから翌日教室に見たことのない女の人がやってきたのを見たときは驚いたのだった。紫のハンドバッグと、格子縞のランチボックスを下げ、本を数冊持っている。その女性はヒブラー先生の机の端に置き、反対側のヴォイス・オブ・ミュージック社製の蓄音機が置いてあるその隣りにランチボックスを置いた。先生が教室に入ってきたとき、ぼくら三人は、教室の後ろでヒーヴァーと遊んでいた。ヒーヴァーはカメレオンで、飼育箱で飼われているのだが、そこにはビニールが畳んで敷いてあった。
その人はぼくたちに向かって手を鳴らして言った。「ぼうやたち」と彼女は言った。「なんであなたがたはみんな固まってかがみ込んでるの?」ぼくたちが答えるより先に、その人は言葉を続けた。「生き物をいじめてるの? 戻してやりなさい。自分の席に着いて。一日のこんな時間には綱なんて入りませんよ」ぼくたちはあっけにとられたまま彼女を眺めていた。「あなたたち」と繰り返した。「着席なさい」
ぼくはカメレオンを飼育箱に戻して、その女の人に目を奪われたまま、自分の席まで手探りで戻った。白と緑のチョークで、彼女は黒板の左側に木を描き始めた。彼女はひどく変わっていた。さらに、彼女の描く木も、どういうわけだか極端に大きく、バランスが悪かった。
「この教室には木が必要です」彼女はそういうと、一本の線で葉っぱとおぼしきものを描いた。「大きくて、葉が茂り、木陰を作って、秋には落葉する……樫の木が」
彼女は細い明るい色の髪を上にまとめて――のちにそれがシニヨンというのだと知った――、薄い水色がかったレンズの金縁眼鏡をかけていた。ハロルド・ナーダールはぼくの向かいにすわっているのだが、彼は「火星人」とひとことささやき、ぼくもゆっくりとうなずいた。ひどく奇妙な一日になりそうだという予感をかみしめていた。代理先生はひどくもったいぶった仕草でもう一本枝を描くと、振り返って言った。「おはよう。まだわたし、あなたたちにおはよう、って言ってなかったわね」
(この項つづく)