陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

枯れ尾花が怖いわけ

2008-11-23 22:56:32 | weblog
昨日の続きで、今日も三島由起夫の『不道徳講座』をもとにした話である。

せっかくだからと電車のなかで全編を読み返してみたのだが、「知らない男とでも酒場へ行くべし」とか「大いにウソをつくべし」とか「約束を守るなかれ」とか「弱い者をいじめるべし」とかというタイトルは刺激的でも、実際のところはとてもまっとうで良識的なことが書いてあって、さほどニヤリともできないし、鈍いわたしには、解説を書く奥野健男のように「得意の心理分析、洞察で人間の心理を裏返し、悪へ、革命へ、破滅へ虚無へ向かう人間の現存在の深淵をチラリと垣間見」れるようにも思えず、結局は想定された「読み手」を「この程度」と踏んでいたのかなあ、という印象が強かった。

それでもそんな具合に、ごく力を抜いて軽く書いているにもかかわらず、小説よりももっとずっと「素」の三島の健全さ、まじめさが透けて見えるようで、ジンメルの「各人が他者についてその他者がすすんで明らかにするよりもいくらかはより多くのことを知ってい」て、「しばしばその多くのことは、それが他の者によって知られるということをその本人が知れば、本人には都合が悪いことなのである」(『社会学』)ということばを改めて思い出したりもしたのだった。

とはいえ、やっぱり「なるほど」と思う章もいくつかあった。「悪口の的となるのは、…必ず何らかのソゴであります」という「批評と悪口について」の章、「ニセモノの物語には、バレるというクライマックスが絶対必要」という「ニセモノ時代」の章、そうしてここで取り上げようと思っているのが「自由と恐怖」という章である。

三島はここでは自分がカニがコワイ、という話から話を書き起こす。カニが怖い、あるいはナメクジが怖い。どうしてこんなつまらないものが怖いのか。たとえば真剣にナメクジを怖がっている人に、原爆や水爆とナメクジとどちらが怖い? と聞けば、おそらくナメクジの方が怖いというだろう。
 今のところまだ落ちるか落ちないかわからぬ水爆よりも、目の前のナメクジのほうが怖い! 実はこれがわれわれの住む世界の本質的な姿なのです。この法則からは英雄も凡人ものがれることができない。世界中の恐怖が論理的に説明のつく正当なものだけならば、世界中の人の恐怖心は一致して、水爆も原爆も戦争も、立ちどころにこの世から一掃されることでしょう。しかし歴史がそんなふうに進んだことは一度もありません。人間にとって一番怖いのは「死」の筈であります。でもあらゆる人が死の恐怖において一致したということはない。アパートの一室で死にかけた病人が死の恐怖にすべてを忘れているとき、隣の部屋では、健康な青年が油虫を怖がって暮らしているのです。
 そう考えてゆくと、「正当でない恐怖」こそ、人間の一等健康な姿かもしれないのです。…
 カタツムリやカニなど、とるに足らないものへの恐怖は、他人のマネではなくて、全く自分だけの個性的な恐怖でありますから、むしろそこには自由の意識が秘められている。死や水爆や戦争に対する恐怖は、受動的な恐怖であって、こちらの自由を圧殺して来るおそろしい力に対する恐怖ですが、それに比べると、カニやクモや鼠や油虫に対するわれわれの恐怖は、むしろ積極的なものだ。われわれはそれらを、進んで怖がるのです。…

人間、生きるためには、下らんものを怖がっているほうがよろしい。人の心の抱く恐怖の分量などは各人大体同じだから、下らぬものを怖がっていれば、恐怖の全分量がそれで一杯になってしまい、死や水爆や戦争に対する恐怖を免れる。そういう圧倒的な、のしかかって来る恐怖から自由でいられる。そのおかげで、現在における自分の自由を確保できるのです。
(三島由紀夫『不道徳教育講座』角川書店)

これはまったくその通りだと思うのだ。恐怖ばかりではない、不安でも、悩みでも、現れ方はさまざまだが、根本的にはどれもまったく同じように思う。

以前、職場で「Aさんはあのときああ言った、Bさんは別のときこんなことを言った」と、端で聞いていれば、ほとんど取るに足らないようなことを、しかもよくよく聞いてみれば、一年も二年も前の出来事を、執念深く思い返しては改めて腹を立て直しているような人がいた。だがその人は、わたしの目から見れば仕事の上で、もっとずっと深刻な、即座に抜本的な改善の必要があるような問題を抱えていたのだ。また、何年も失敗を続けている資格試験の前になると、決まってややこしい恋愛を始めて、周囲も巻き込んで大騒ぎを始める人もいた。

「そういう圧倒的な、のしかかって来る恐怖から自由でい」るために、人は積極的に怖がったり、腹を立てたり、不安がったり、悲しんだりするのだろう。三島は「人間には、こんな風に、恐怖をほしがるふしぎな心理もあります」と書いているが、恐怖ばかりではない、さまざまなネガティヴな感情を、多くの場合、人は進んで求めている。

何かが怖いと思ったとき、ほんとうはちがうものを恐れているのではないか。自分はその恐怖や不安を必要としているのではないか。そう問い返してみることは、決して無意味なことではないように思う。おそらく、ほんとうの原因がわからない限り、自分の感情をコントロールすることはできない。「生理的に受けつけない」というのは、自分のごまかしを自分自身に正当化しているだけなのだろう。