陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

バクスター自作を語る

2008-11-18 22:11:56 | 翻訳
【今日も画像は本文とは何の関係もありません】

チョコエッグ第二弾! ルイージを当てました。
チョコエッグの中身を透視する才能があるのかも!?

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「グリフォン」に関して、作者であるチャールズ・バクスターが語っていました。
http://www.charlesbaxter.com/published_works/gryphon_main.htm
なかなかおもしろかったので、訳してみました。

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チャールズ・バクスターは短篇「グリフォン」について質問されることが少なくない。学生の理解を助けるために、チャールズは頻出の質問に対して、このサイトのために答えてくれた。

Question:この小説のタイトル「グリフォン」にはどのような意味があるのですか? グリフォンは、作品のなかではそこまで重要ではないように思うのですが――グリフォンというのはこの小説のなかでどのような意味を持っているのでしょう。

Baxter:フェレンチ先生はグリフォンを、自分がエジプトで実際に見た生き物だと言っています。けれども、グリフォンというのは、半身がワシ、半身がライオンという想像上の生き物です。言葉を換えれば、グリフォンというのは、現にある「部分」から成り立っているけれど、それを合成することで、この世には存在しない、新しい生き物を作りだすことになるのです。それまで誰も考えたこともないような。おそらく彼女は子供たちに対して、型にはまらない事実と可能性をあらわにしてみせることが必要だと感じていたのでしょう。もちろん、フェレンチ先生自身がどこかしらグリフォンじみている、と読むことも可能です――半分がこの世の、具体的な世界の存在、もう半分はこの世ならぬ存在として。

Question: この物語のある箇所で、フェレンチ先生は児童たちに向かって「6×11の答えが68になるのは代理の事実」であると言います。この「代理の事実」というのは物語のなかでは大きな問題となっているのでしょうか。

Baxter: 「代理の事実」ということが、単に誤りであったり不正確であったりという場合もありますが、そうでない場合、つまり神話であるとか想像力の産物である場合もあるのです。フェレンチ先生は教室の子供たちに驚くような「事実」を喜んで話してやっています。その話のなかには真実もあれば、神話もある、そうして単にほんとうではない話もある。そうやって子供たちに、不思議さに目を開いていくような感覚を伸ばしてやろうとしているのです。

Question: フェレンチ先生は子供たちに嘘をついていると思いますか?

Baxter: 物語のなかで、フェレンチ先生が自分が子供たちに嘘をついていると思っていることを指し示すような点はまったくありません。おそらく彼女は子供たちに「事実」として語る出来事が生み出されるような世界で、ほんのごくわずかなあいだだけでも、生きているのでしょう。

Question: この物語はフェレンチ先生のクラスのひとりの子供の視点で語られていますが、これは回想のかたちを採っています。もしこれが現在時制で語られていたとしたら、物語は変わったでしょうか。物語の語り手は、話が始まった時点にくらべてファイヴ・オークスに対するちがった考え方を持つようになっていたのではないでしょうか。

Baxter: わたしがこの作品を書いたときに、トミーの視点が、明らかに大人の目から見たフェレンチ先生とならないように、非常に気を遣いました(フェレンチ先生がトミーを占ったとき――彼の未来を――彼は読者にその予言が当たったかどうかを明らかにしていないことに留意してください)。わたしには、この物語には振り返っている感覚が必要なもののように思われました。わたしには、この物語をひとりの児童が、児童のままで語ることはできないように感じたのです。読者がこの物語に向かうとき、ひとりひとりが自分の気持ちを決めなければなりません。フェレンチ先生は果たして善良なのか悪人なのか、正直なのか、それとも危険なのか、刺激的な人物なのか、不適切な人物なのか。トミーが自分の考えを読者に押しつけるべきではないのです。

Question: おそらくヒブラー先生のクラスのだれもが、フェレンチ先生は奇妙な人だと思ったでしょう――わたしの目にも、一風変わった人のように映りますから。あの顔にある「操り人形の線」はどこから来たのですか? そうして、どうして彼女はあんな変な話し方をするのでしょうか?

Baxter: 最初にフェレンチ先生を見たとき、トミーはその操り人形の線を見て、ピノキオを連想します。ピノキオは、ご存じのとおり、ふたつの面で有名ですよね。まず、彼はほんものの男の子ではありません(そうなりたかったのですが)。もうひとつ、彼はうそつきだった。フェレンチ先生というのはどこかほんとうの人間ではないようなところ、まるで何ものかに紐で操られているようなところがあります。それに、わたしは昔、ほんとうに、口の両脇からシワが二本下がっている先生に教わったことがあったのです。その先生を見ているといつも操り人形を思い出したものです。そのせいもありますね。

Question: なぜ最後の段落ではこまかな事実がたくさん記されているのですか? そうしてなぜ物語はそこで終わるのですか?

Baxter: フェレンチ先生の影響を受けて、この世界のあらゆるこまごました事実から、不思議さという要素の意味の獲得が始まっていく、ということです。――この物語の結末部分にある、たとえば昆虫のようにもっともありふれたものでさえ。この物語の終わりは、ヒブラー先生が「わたしたちの知識をテストしに」もどってくるだろうというところで終わりますが、もちろんこれは同時に、フェレンチ先生を知ったあとの子供たちが、ほんとうに知ったことは何だったのか、という疑問の始まりでもあるのです。

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ずいぶんこのインタビューは参考になりました。
最初は四年生の子の語りとして訳文を作っていったのだけれど、これを読んで少し改めました。でも、やっぱりこれは大人の語り手ではないような気がする。回想ではあるけれど、ティーンエイジャーぐらいの感じにしています。だから彼自身、自分の占いが当たったかどうか、まだわからないんじゃないか、という解釈で。

ともかく、明日にはサイトにアップすると思うので、またよろしく。