陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

役員さん

2008-11-21 22:53:23 | weblog
知り合いにPTAの役員をやっているという人がいる。月に一度、学校での会合に出なければならないのだそうだ。四月に役が回ってきたときは、なんと運が悪い、と思ったが、実際始めてみると、学校の様子もわかるし、ほかのお母さんからの話も聞ける。確かに会合のあるときは、仕事時間の調整もしなければならないし、ときにそこでのつきあいがわずらわしく思えるときもあるけれど、いまではやって良かったと思っている、という話だった。

わたしはいま輪番制で回ってくる、住んでいるところの役員をやっているのだが、実際、役が回ってきたときは、ほんとうに気が重かった。集合住宅といっても、知っているのは両隣の人ぐらい。まったく顔も知らない、ふだんのつきあいもまったくないような人と、最低でも月に一回顔を合わせ、あれやこれやの話をしなければならない。おまけに配布物だの回覧板だのと、さまざまな仕事もある。

ところがそういう仕事を始めて見て、ひとつわかったことがあった。
PTAにせよ、アパートの自治会にせよ、ふだんのわたしたちの生活に「なくては困る」と実感されるものではない。わたしなんて、回覧板が回ってきたら隣りに送っていたけれど、そんなものがあるということすらはっきりとは知らなかった。PTAにしても、「何であんなものが必要なんだろう」という声も少なくないという。

けれど、「そんなことはないに越したことはない」ようなことが起こったときに、必要なのがそういう組織なのである。たとえば学校で事故があったり、あるいは大きな地震が起こったりしたようなとき。保護者や住人が一堂に会して討議が必要な事態はあるのだ。

そんなとき、保護者や住人が集まることのできる組織が必要なのである。
危急の事態では、ただ集まればいいというものではない。たとえば学校側に情報の開示を求めるとか、危険区域の情報の集中とか、そういうときには集まることに目的がある。そうして目的を達するためには、役割分担も必要になってくる。PTAや住民の自治会がないところでは、まずそうした組織を作るところから始めなければならず、緊急を要するときは、そういう組織をあらかじめ備えているところといないところでは、大きな差ができてくるだろう。

つまり、輪番制の住民自治会とか、PTAの役員とかは、いつくるか定かではない、来ない方が望ましいような「いざ」というときに備えて、バトンを渡され、つぎに手渡すリレー走者のようなものなのだ。自分たちが、組織があることの恩恵を受けることはないかもしれないが、それでも「いつか」のために、みんなで少しずつ役割を分担していく。

思い起こしてみれば、わたしの母親は一貫して一学期の授業参観日のあとの懇談会には出席せず、わたしと一緒に帰っていた。今日懇談会に出ると、PTAの役員を押しつけられるから、というのがその理由で、それはずっと続いた。当時はそういうものか、ぐらいに思って、別に疑問を感じたこともなかったのだが、当時ですら、PTAの役員というのはそんな具合で、なり手に事欠く状態だったのだろう。いまは仕事で参観日に行けなかったら、そのあいだ「欠席裁判」で役員を押しつけられた、という話も聞いたことがあったので、もはや母のようなことをやっても、役員からは逃れられないらしい。

あんなもの必要はない、そんなものに時間をとられるぐらいなら、もっと家族と過ごしたい、という意見も聞いたことがある。
けれど、自分の時間と労働力をそういう組織に提供することで、未来の誰かの役に立つだけでなく、やはり、わたしたち自身が得るものがあるように思う。

ふだんは接することのないような年代の人と話をする機会もできるし、わたしが住んでいるところでも、普通に生活しているだけでは知らないような場所があることもわかった(だからといってどうということもないのだが、それでもなんだか知らない場所があったことを知ったというのは楽しい)。

もちろん、そういう人ばかりではない。幼稚園での保護者会のとりまとめの役がまわってきて、幼稚園とほかの保護者の要求のあいだで板挟みになって、神経性胃炎を患ったという人の話も聞いたことがある。青い顔で、あと何ヶ月の辛抱、と言い、そんな役は二度とこりごり、と言っていた。人が集まれば、意見の一致をみないことも当然あるだろうし、それがもとで揉めることもあるだろう。

それでも、わたしたちには、やはり組織が必要なのだ。
もちろん必要ではない、という考え方もある。けれど、それが行き着く先は「お金を払えばいい」という、「お客さん」の発想だ。お客さんは自分からは何もしなくてすむ。誰とも関わらなくてすむ。けれど、「お客さん」はそこを利用させてもらうだけだ。お金を払って、代価を受け取るというだけだ。

そうじゃない関係がある、ということを経験できることが、最大の得るものなのかもしれない。