大統領になることはほぼ確実だと思われていたオバマだけれど、現実に大統領になって、やはりよかったなと思う。
モーガン・フリーマンが1998年の映画で大統領をやったとき、最近の映画にはめずらしいほど格調高い、アメリカ人が理想とするような正統的な大統領だなあ、と思った記憶がある。こういう映画ができるということは、そのうち黒人大統領も誕生するのだろうと思ったものだった。
反面、なかなかそれはむずかしいかもしれない、という気もしていた。やはりアメリカの人種問題というのは、日本で「差別は良くない」と考えるのと、全然問題のレベルがちがうような気がする。
先日やっとアップした「納屋は燃える」でも、貧乏白人である主人公の父親が、お屋敷に雇われている黒人の使用人に、家にはいることを止められて、激しい屈辱を感じる場面がある。同様の場面は同じフォークナーの長編『アブサロム・アブサロム』にも出てくる。
主人公のサトペンは、山から出てきて間もない、未だ「貧しい」ということがよくわからないころに、父親の雇い主の屋敷を訪ねたところ、「貧乏人は裏へ回れ」と黒人の使用人に言われて、ひどい屈辱を味わうのだ。
白人から貧しさを指摘されることと、黒人に指摘されることでは、屈辱のレベルがまるで異なる。貧しい白人にとって、自分が白人であるということは、ほとんど唯一のよりどころであるのに、その自分が、自分より下とみなしている黒人に、貧しいがゆえに「差別」されるのは、これ以上ないほどの屈辱なのである。
だが、これは小説のなかの話だ。しかもサトペンにせよ、アブナー・スノープスにせよ、人格者とは言い難い人物ではある。
だが、こういうのはどうだろうか。
これは初出が『スチューデント・タイムズ』に載ったコラムで、わたしは '86年に新聞に載ったときに初めて読んで、以来ずっと奇妙に感じていたものだ。
このコラムが書かれたのは、当時日本の首相だった中曽根康弘が、アメリカの「知的水準」は、「黒人やメキシコ人、プエルトリコ人、その他『そういうの』のせいで低くなっている」と発言した。それを受けて書かれたものである。
「人種主義という疫病は、白人によって作られ、広められた。その種族の一員として私ができることは、いつでも、どこでも、どんな形で現れようと、人種主義に反対するということだ。この態度は、有色人種の人々がとるにしても、立派で威厳のある態度だと思う」に続いて、上に引用した文章が来る。
白人が人種主義を口にするときよりも、有色人種が口にすると、「ことさら醜さを増す」のだそうだ。その理由が有色人種であるわたしにはわからない。そこに醜さを感じるのは、筆者が「白人」であるからではないのか。「白人」であるという意識の中に、有色人種とはちがう、という意識があるからではないのか。
ダグラス・ラミスというと、何年か前に出た『世界がもし100人の村だったら』の監修者として有名かもしれない。ベトナム反戦運動の経験があり、日本で平和運動を続ける、リベラルとして知られる。そういう人がそんなことを無自覚に書けるというところに、人種問題の厄介さがあるのではないだろうか。
「人種主義という疫病は、白人によって作られ、広められた」とラミスは書いているが、何も差別は白人の専売特許ではない。人間が自分が誰かの上に立とう、誰かを支配しようという意識がある限り、あらゆる場面で差別意識は生じるはずだ。差別の問題を考えていくとき、まず向き合わなくてはならないのが、自分の中にもまぎれもなくそれがある、ということだろう。自分と正面から向き合い、差別意識を持っている自分を知ろうとしない限り、この問題の入り口にも立てないと思うのだ。
オバマが大統領になったことは、やはりすばらしいニュースだと思う。
けれども、どこがどういいのかをやっぱり考えなくちゃ、と思うのだ。
※更新情報もアップしました。
コメントの返事、おそくなってごめんなさい。明日書きますね。
モーガン・フリーマンが1998年の映画で大統領をやったとき、最近の映画にはめずらしいほど格調高い、アメリカ人が理想とするような正統的な大統領だなあ、と思った記憶がある。こういう映画ができるということは、そのうち黒人大統領も誕生するのだろうと思ったものだった。
反面、なかなかそれはむずかしいかもしれない、という気もしていた。やはりアメリカの人種問題というのは、日本で「差別は良くない」と考えるのと、全然問題のレベルがちがうような気がする。
先日やっとアップした「納屋は燃える」でも、貧乏白人である主人公の父親が、お屋敷に雇われている黒人の使用人に、家にはいることを止められて、激しい屈辱を感じる場面がある。同様の場面は同じフォークナーの長編『アブサロム・アブサロム』にも出てくる。
主人公のサトペンは、山から出てきて間もない、未だ「貧しい」ということがよくわからないころに、父親の雇い主の屋敷を訪ねたところ、「貧乏人は裏へ回れ」と黒人の使用人に言われて、ひどい屈辱を味わうのだ。
白人から貧しさを指摘されることと、黒人に指摘されることでは、屈辱のレベルがまるで異なる。貧しい白人にとって、自分が白人であるということは、ほとんど唯一のよりどころであるのに、その自分が、自分より下とみなしている黒人に、貧しいがゆえに「差別」されるのは、これ以上ないほどの屈辱なのである。
だが、これは小説のなかの話だ。しかもサトペンにせよ、アブナー・スノープスにせよ、人格者とは言い難い人物ではある。
だが、こういうのはどうだろうか。
人種主義はいかなる時でも醜い。しかし、歴史的に人種差別の主要な被害者のうちに数えられてきた有色人種の一人が公然とこれを口にするとき、人種主義者はことさら醜さを増す。(C.ダグラス・ラミス『最後のタヌキ ―英語で考え、日本語で考える』中村直子訳 晶文社)
これは初出が『スチューデント・タイムズ』に載ったコラムで、わたしは '86年に新聞に載ったときに初めて読んで、以来ずっと奇妙に感じていたものだ。
このコラムが書かれたのは、当時日本の首相だった中曽根康弘が、アメリカの「知的水準」は、「黒人やメキシコ人、プエルトリコ人、その他『そういうの』のせいで低くなっている」と発言した。それを受けて書かれたものである。
「人種主義という疫病は、白人によって作られ、広められた。その種族の一員として私ができることは、いつでも、どこでも、どんな形で現れようと、人種主義に反対するということだ。この態度は、有色人種の人々がとるにしても、立派で威厳のある態度だと思う」に続いて、上に引用した文章が来る。
白人が人種主義を口にするときよりも、有色人種が口にすると、「ことさら醜さを増す」のだそうだ。その理由が有色人種であるわたしにはわからない。そこに醜さを感じるのは、筆者が「白人」であるからではないのか。「白人」であるという意識の中に、有色人種とはちがう、という意識があるからではないのか。
ダグラス・ラミスというと、何年か前に出た『世界がもし100人の村だったら』の監修者として有名かもしれない。ベトナム反戦運動の経験があり、日本で平和運動を続ける、リベラルとして知られる。そういう人がそんなことを無自覚に書けるというところに、人種問題の厄介さがあるのではないだろうか。
「人種主義という疫病は、白人によって作られ、広められた」とラミスは書いているが、何も差別は白人の専売特許ではない。人間が自分が誰かの上に立とう、誰かを支配しようという意識がある限り、あらゆる場面で差別意識は生じるはずだ。差別の問題を考えていくとき、まず向き合わなくてはならないのが、自分の中にもまぎれもなくそれがある、ということだろう。自分と正面から向き合い、差別意識を持っている自分を知ろうとしない限り、この問題の入り口にも立てないと思うのだ。
オバマが大統領になったことは、やはりすばらしいニュースだと思う。
けれども、どこがどういいのかをやっぱり考えなくちゃ、と思うのだ。
※更新情報もアップしました。
コメントの返事、おそくなってごめんなさい。明日書きますね。