その5.
エミリーは台所のテーブルに身を預け、曲げた肘に顔を埋めるようにして、すすり泣いていた。マーティンはスープをよそってその前に置いた。あえぐようにすすり泣く声を聞いているうちに、彼の気持ちも寄る辺を失っていた。その原因が決して褒められたものではなかったにせよ、思いを爆発させた彼女に、胸の奥のいつくしみの感情を揺さぶられたのである。思わず、黒い髪に手をのせた。「体を起こして、スープを飲むといい」顔を上げたその顔は、悔い改め、慈悲を請うような表情が浮かんでいた。アンディが二階へ上がったせいか、それともマーティンの手がふれたことで、気持ちの方向が変わったのか。
「マ……マーティン」彼女は泣きじゃくっていた。「あたし、恥ずかしい」
「スープを飲みなさい」
その言葉に従って、あえぐ息の合間にスープをすする。二杯目のカップが空になると、夫に引かれて寝室へ上がっていった。いまはもうおとなしく言われるままになっていた。マーティンがナイトガウンをベッドにのせて部屋を出ようとすると、アルコールによる精神的動揺のためだろう、新たな悲しみが噴き出した。
「あの子、行っちゃった。あたしのアンディが、あたしを見て背を向けた」
いらだちと疲労のせいで声がとがってしまうのはどうしようもなかったが、それでも慎重に言葉を選んで話した。「きみはアンディがまだ小さい子だということを忘れちゃいけない――あんな場面を見ても、何がなんだかわかりゃしないよ」
「ねえ、あたし、そんな場面を見せちゃったの? ああ、マーティン、あたし、子供たちの前で“あんな場面”って言われなきゃならないようなことをしちゃったの?」
その怯えきった表情を見て、胸がまた揺さぶられたが、どういうわけか思いがけず笑いそうにもなったのだった。「もういいんだよ。寝間着に着替えてもう寝なさい」
「あたしの子供があたしに背を向けて行っちゃった。アンディはママの顔を見て、背を向けた……」
エミリーはまたアルコールによる悲しみの周期にとらえられていた。マーティンは部屋を出ながら言った。「頼むから、もう寝ておくれ。子供たちも明日には忘れてるさ」
そう言いながら、彼はほんとうにそうなのだろうかといぶかってもいた。あの場面が、そんなに簡単に記憶から滑り落ちていくものなのだろうか……それとも、無意識の底に根を張り、後になってもそこに巣くうのだろうか。 マーティンには何とも言えなかったが、あとの場合のことを思うと、気分が悪くなった。エミリーのことを考える。一夜明けての惨めな気分が目に見えるようだった。断片的な記憶と明瞭な意識が、容赦ない光を忘却という暗闇の底に沈んだ恥辱に投げかけるのだ。おそらくエミリーはニューヨークの事務所に電話を寄越すだろう。二度は――もしかしたら、三度、四度と。マーティンにはそのときの自分のばつの悪い気持ちがいまから予想できた。事務所の連中は何か勘づくだろうか。彼は、秘書がずいぶん前から自分の抱えている問題を知っていることに気がついていた。つかのま、彼は自分の運命を憤り、苦い気持ちをかみしめた。
だが、ひとたび子供部屋に入ってドアを閉めると、その夜初めて温かな心地を感じた。マリアンヌは床にころんと転がっては自分で立ちあがり、「パパ、見てて」と大きな声で言い、また転がり、立ちあがり、そうやって繰りかえしながら決まって父親を呼ぶのだった。アンディは子供用の低い椅子に腰かけて自分の歯を動かしている。マーティンは浴槽にお湯を張り、洗面所で自分の手を洗ってから、アンディをバスルームに呼んだ。
「もう一回、歯を見てやろう」マーティンは便器の蓋に腰をおろし、両膝でアンディの体をはさんだ。子供が口をあんぐりと開けたところで、マーティンは歯をつかんだ。ぐらぐらと動かして、すばやくきゅっとねじってやると、真珠のような乳歯は抜けた。最初、怖そうだったアンディの表情は、じき、びっくりしたような顔に、それからぱっとうれしそうな顔に変わっていく。アンディは水を口に含んでから、洗面台にぺっと吐きだした。
「見てよ、パパ! 血が出たよ。マリアンヌ!」
(明日最終回)
エミリーは台所のテーブルに身を預け、曲げた肘に顔を埋めるようにして、すすり泣いていた。マーティンはスープをよそってその前に置いた。あえぐようにすすり泣く声を聞いているうちに、彼の気持ちも寄る辺を失っていた。その原因が決して褒められたものではなかったにせよ、思いを爆発させた彼女に、胸の奥のいつくしみの感情を揺さぶられたのである。思わず、黒い髪に手をのせた。「体を起こして、スープを飲むといい」顔を上げたその顔は、悔い改め、慈悲を請うような表情が浮かんでいた。アンディが二階へ上がったせいか、それともマーティンの手がふれたことで、気持ちの方向が変わったのか。
「マ……マーティン」彼女は泣きじゃくっていた。「あたし、恥ずかしい」
「スープを飲みなさい」
その言葉に従って、あえぐ息の合間にスープをすする。二杯目のカップが空になると、夫に引かれて寝室へ上がっていった。いまはもうおとなしく言われるままになっていた。マーティンがナイトガウンをベッドにのせて部屋を出ようとすると、アルコールによる精神的動揺のためだろう、新たな悲しみが噴き出した。
「あの子、行っちゃった。あたしのアンディが、あたしを見て背を向けた」
いらだちと疲労のせいで声がとがってしまうのはどうしようもなかったが、それでも慎重に言葉を選んで話した。「きみはアンディがまだ小さい子だということを忘れちゃいけない――あんな場面を見ても、何がなんだかわかりゃしないよ」
「ねえ、あたし、そんな場面を見せちゃったの? ああ、マーティン、あたし、子供たちの前で“あんな場面”って言われなきゃならないようなことをしちゃったの?」
その怯えきった表情を見て、胸がまた揺さぶられたが、どういうわけか思いがけず笑いそうにもなったのだった。「もういいんだよ。寝間着に着替えてもう寝なさい」
「あたしの子供があたしに背を向けて行っちゃった。アンディはママの顔を見て、背を向けた……」
エミリーはまたアルコールによる悲しみの周期にとらえられていた。マーティンは部屋を出ながら言った。「頼むから、もう寝ておくれ。子供たちも明日には忘れてるさ」
そう言いながら、彼はほんとうにそうなのだろうかといぶかってもいた。あの場面が、そんなに簡単に記憶から滑り落ちていくものなのだろうか……それとも、無意識の底に根を張り、後になってもそこに巣くうのだろうか。 マーティンには何とも言えなかったが、あとの場合のことを思うと、気分が悪くなった。エミリーのことを考える。一夜明けての惨めな気分が目に見えるようだった。断片的な記憶と明瞭な意識が、容赦ない光を忘却という暗闇の底に沈んだ恥辱に投げかけるのだ。おそらくエミリーはニューヨークの事務所に電話を寄越すだろう。二度は――もしかしたら、三度、四度と。マーティンにはそのときの自分のばつの悪い気持ちがいまから予想できた。事務所の連中は何か勘づくだろうか。彼は、秘書がずいぶん前から自分の抱えている問題を知っていることに気がついていた。つかのま、彼は自分の運命を憤り、苦い気持ちをかみしめた。
だが、ひとたび子供部屋に入ってドアを閉めると、その夜初めて温かな心地を感じた。マリアンヌは床にころんと転がっては自分で立ちあがり、「パパ、見てて」と大きな声で言い、また転がり、立ちあがり、そうやって繰りかえしながら決まって父親を呼ぶのだった。アンディは子供用の低い椅子に腰かけて自分の歯を動かしている。マーティンは浴槽にお湯を張り、洗面所で自分の手を洗ってから、アンディをバスルームに呼んだ。
「もう一回、歯を見てやろう」マーティンは便器の蓋に腰をおろし、両膝でアンディの体をはさんだ。子供が口をあんぐりと開けたところで、マーティンは歯をつかんだ。ぐらぐらと動かして、すばやくきゅっとねじってやると、真珠のような乳歯は抜けた。最初、怖そうだったアンディの表情は、じき、びっくりしたような顔に、それからぱっとうれしそうな顔に変わっていく。アンディは水を口に含んでから、洗面台にぺっと吐きだした。
「見てよ、パパ! 血が出たよ。マリアンヌ!」
(明日最終回)