陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話したっけ ~家のある風景

2006-11-18 22:30:18 | weblog
4.子供部屋

大学に入ってから帰省して自分の部屋に入ると、ひどく奇妙な感覚を覚えた。

その家に越してから、北東のその部屋は、ずっとわたしのものだった。
自分の部屋ができたのがうれしくて、壁にロープを渡してさまざまなものをつり下げて、「楽屋じゃないんだから」と母親に叱られたこともあったし、ピアノの裏に返ってきた答案を丸めて隠し、あとで大目玉をくらったこともあった。机の下がお気に入りの場所で、引き出しのある側によりかかり、丸くなって座って、とめどもない物思いにふけったり、悲しいときは泣いたりもした。

白い棚が欲しくて交渉しても聞き入れられず、こちらの希望を無視して木目の棚を買われてしまい、休みの日に苦労してペンキを買ってきて塗り直したこともあった。安い刷毛を買ってきたら、どうやっても毛が抜けて、塗り直しても塗り直しても毛がついてしまう。途中で腹を立て、投げ出してしまいそうになったのだが、その残骸があまりに悔しくて、泣きながら最後まで塗ったのだった。おかげで毛があちこちにへばりついている悲惨な棚もあった。

十年近くをその部屋で過ごし、柱にマジックで書いた落書きも、机の端のシールも、天井板一枚一枚の節目さえも、よく知っている部屋だった。

ところが大学に入って、たったひと月後、五月の連休に帰ったのに、どうも落ち着かない。少し体に合ってない洋服を着ているように、自分と部屋とがしっくりこないのだった。

自分の身体の一部は、京都に残しているような。
京都の生活と、いまこの部屋にいる自分が結びつかない。そんな奇妙な感覚を味わったのだった。

それまで、「自分」はただひとりの人間のはずだった。
十代の半ばぐらいから、「自分」が何者かを考え、こうありたい「自分」の像を模索し、「自分」を作り上げるのだ、と考えていた。
そうして、たとえいまはその途上にあるにせよ、自分はたったひとりしかいないし、自分を世界で一番よく知っているのも、この自分だと思っていた。

ところがその部屋に戻ってきた「自分」が、妙に食い違っている。
何か、不思議にリアリティを欠いているような、反面、京都に残してきたはずの生活が、長い夢を見ていたのかもしれない、とも思い、この感覚、自分がふたつに裂かれてしまったような感覚というのはなんなのだろう、と思ったのだった。

連休が終わって寮の部屋に戻ってみると、ああ、自分の場所に帰ってきた、という感覚、自分がまたひとつのものになったような感覚を覚えた。かならずしも、まだよく馴染んでいるとは言いがたい、あまりにも私物が少なく、押入には「米帝打倒」と落書きがしてあり、この「米帝」というのは、おそらくアメリカ帝国主義のことなのだろうな、それを「打倒」してどうするんだろうか、と思ったものだったが、そんな具合に、あちらこちらに自分とは関係のない痕跡が、たくさん残っている部屋だったのだ。
それでも、わたしの日常生活の現実は〈ここ〉にあるのだ、と。

そうして、この「自分」という感覚、アイデンティティともいうけれど、自分が自分である、という感覚は、かならずしも一枚岩のようなものではないのだ、ということを、初めて理解したのだった。
さまざまな場面、さまざまな関係のなかで、さまざまなあらわれれ方をする、それが自分なのだと。

その後、家に帰るたびに、その部屋は、わたしにとってよそよそしいものとなっていった。
「子供時代に別れを告げる」という言葉を聞いて、なによりも思い出すのが、馴染んだ部屋でありながら、それまでの感覚をどんどん失っていくあの部屋のことを思い出す。

いまでもそれはそこにある。
けれども、とうてい「わたしの部屋」と呼ぶことはできない。

(この項つづく)