陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

この話したっけ ~家のある風景

2006-11-22 22:26:53 | weblog
6.家の記憶

これまで、いくつもの家に住んだし、いくつもの家に入っていった。一軒の家だったこともあるし、単なる部屋だったこともある。ひとりで住んだこともあるし、何人かで一緒に住んだこともある。

たいていのとき、自分の家は意識にのぼらない。
ところが他人の家に行くときは、その「家」が強烈に意識される。招待してくれたその家の主を超えて、「家」が圧倒的な存在感を持って、迫ってくる。
「家」はそこに住む人間の単なる「入れ物」ではない。

逆に、ふだん意識に上らないはずの自分の家が、引っ越したとき、あるいはだれかが家に来たとき、つまり自分の日常から逸脱すると、急に意識されるようになってくる。そうして、日常を取りもどすにつれ、また「家」のことは意識からこぼれおちてしまう。

わたしが初めて家族を離れ、長年住み慣れた家を離れて、新しい場所に移ったとき、どこか方向感覚を失ったような気がした。東西南北がやたらはっきりしている京都の街だったのに、自分の内に方向感覚を失っていたのだ。

そのとき、わたしは「家」が自分の感覚の起点となっていたことを知った。
そうして、寮の一室が自分の「家」になっていくとともに、わたしはふたたび方向感覚を取りもどしていたのだった。
そうして、そのときはすでに長年暮らした自分の実家は、「実家」であって、いま、ここにいるわたしの「家」ではなくなっていた。

「家」はまず、形を持つ。
木造の一軒家、二階建て、マンション、そうして建物の中の一室。
「家」というのは、建物ばかりではない。
「家」の中に入れられる家具調度の類は、そこに住む人間を伝える。生活をしていくうちに、家具調度類は生活を反映させていく。
そうなると、「家」は同時に生活の一要素ともなっていく。

隣家の犬の声がやかましいアパートの一室に住んだことがある。そこで生活した期間が短かったこともあるけれど、そこでの生活の記憶が妙に希薄なのは、あまりに犬がやかましかったせいで、その部屋と深い関係を結ぶことができなかったのではないか、と思う。「自分の家」という意識は、犬の声によってさえ左右される。

家は、雨露ばかりではない。
外の世界や外部の視線から、わたしを守ってくれる。
家にいれば、保護され、安心感を抱く。そうやって、わたしは家と絆を結んでいく。

建物であり、物理的な存在でありながら、それを超えてわたしの意識と結びつき、さまざまな記憶の背景となっている家。
同じような家は、何千軒、何万軒とあるのに、わたしの「家」はただ一箇所。


あんたたちはどこにも行けないよ、
だってあんたたちの心はそこにあるから
だけどあんたたちはとどまることもできない、
だってあんたたちはずっとどこかよそにいるのだから
―Sly and the Family Stone "Family Affair"


(この項終わり)

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