陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール 「羊の殺戮」 その2.

2006-11-08 21:15:29 | 翻訳
羊の殺戮 その2.

メアリーが見ていると、夫が少しずつ飲んでいる黄褐色の液体には、油のような小さな渦巻きがいくつもできていて、あらためてそれがひどく強い酒なのだと思った。

「ひどい話よね」とメアリーは口を開いた。「あなたみたいな刑事クラスの人を一日中歩き回らせるなんて」

夫の返事はないまま、メアリーはうつむいて縫い物に戻った。夫がグラスを口元に運ぶたびに、氷が立てるカラカラという音が聞こえる。

「ねえ」と声をかける。「チーズでも持ってきましょうか? 木曜日だから、晩ご飯の用意をしていないんだけど」

「いらない」

「疲れてて食べに行くのが億劫だったら」メアリーはなおも続けた。「まだそんなに遅いわけじゃないから。冷凍庫には肉だのなんだの、食べる物ならたっぷりあるのよ、だから何も外へ行かなくても、晩ご飯にできるわ」

メアリーの目は、夫の返事でも、ちらっと笑いかけるだけでも、ほんの少しうなずくだけでもいい、そうしたしるしを待っていたのだが、そこには何も浮かんでいない。

「ともかく」メアリーはさらに言葉をついだ。「ご飯の前に、チーズとクラッカーか何か、持ってくるわ」

「いらないんだ」

大きな目を夫の顔から片時も話さず、メアリーは椅子に座ったまま不安げに身をよじった。「だけど、何か食べなくちゃ。支度ならすぐにできるのよ、食べたくなかったら食べなくていいけど……」

縫い物をランプのそばのテーブルに置くと、メアリーは立ち上がった。

「座ってろよ」夫が言った。「ちょっとでいいから、座っててくれ」

そのときになって初めて、メアリーの心に恐れが兆した。

「さあ、座って」

メアリーはとまどいの色を濃くした大きな目を夫にすえて、ゆっくりと椅子に身を沈めた。二杯目を干した夫は、険しい顔でグラスの底を見つめている。

「聞いてくれ。君に言っておかなきゃならんことがあるんだ」

「何? どうかしたの?」

身じろぎもせずうつむいた夫を、傍らのランプが顔の上半分だけを斜めに照らし、口元や顎を闇の中に置き去りにしていた。左のこめかみがかすかにぴくぴくと動いている。

「たぶん、君はひどいショックを受けるんだろうな」夫は言葉を続けた。「だがこれは、よくよく考えてのことだし、君にはありのままを話すしかない、と思ったんだ」

そうして夫はそれを打ちあけた。長くはかからない、せいぜい四、五分といったところで、そのあいだメアリーは黙ったまま、ひとこと言うたびに、遠くへ行ってしまうような夫を、頭のくらくらするような恐怖を感じながら、ただ見つめていたのだった。

「そういうことなんだ」それから夫はこう付け加えた。「そりゃ、いまこんなことを君に言っちゃいけない時期だってことはわかってるんだが、ほかに方法がなかったんだ。もちろんお金は払うし、これから先の責任だって取るつもりだ。だからガタガタ騒ぎたてる必要はないんだよ。少なくとも、おれはそんなことがないように願っている。おれの仕事にも差し障りがあるからな」

まっさきに、信じちゃだめ、何も聞いちゃだめよ、と本能がささやいた。ほんとうにはあのひとはなにも言ってやしない、なにもかもわたしが空想ででっちあげたことなんだわ。きっと自分のやらなきゃいけないことを続けて、なにも聞かなかったことにしてたら、そのうち目が覚めて、ああ、何もなかったんだ、って思うんじゃないかしら。

「晩ご飯の用意をしてくるわ」なんとかか細い声を押し出すと、こんどは夫の方も止めようとはしなかった。

部屋を歩いていても、足が地についているような気がしない。何も感じられない……ただ、かすかな吐き気がこみあげてくるだけだ、ああ、吐いてしまいたい。もはや何をするにも、ただ機械的にこなすだけだった。地下の貯蔵庫へ降りていくのも、スイッチをひねって明かりをつけるのも、深い冷凍庫の中に手を伸ばし、なんでもいい、最初にふれたものを引っぱり出すのも。持ち上げてそれを見る。紙にくるまれていたので、それを取って、もう一度よく見た。

羊のもも肉。

これなら大丈夫、晩ご飯はラムね。メアリーは細い骨の部分を両手でぶらさげて、階段をのぼり、リビングを過ぎようとしたところで、夫がこちらには背を向けて窓辺に立っているのを目に留めた。そこで歩を止めた。

「悪いんだが」メアリーが来たことを察した夫は、振り向きもせずにそう言った。「おれのぶんはいらない。出かけるから」

ふとメアリー・マロニーは、考えるより先に夫の背後まで歩を進め、立ち止まりもせず、カチカチに凍った大きなラムのもも肉を、虚空たかだかとふりあげて、渾身の力をこめ夫の頭上にふりおろした。

鉄の棍棒でうちかかったのとまったく同じだった。

一歩さがってじっとしていると、奇妙なことに夫は四秒か五秒も立ったまま、微かに体をふらつかせている。やがて、カーペットにどたりと倒れた。



(さあ、夫を殺してしまったメアリー、このあといったいどうなるのか。
あとは明日のお楽しみ)