5.わたしの「田舎」
弟が生まれた年だから、わたしが三歳の夏休みのことだ。
出産を目前に控えた母に連れられて、中国地方の母の実家に行った。
そのときの記憶というと、竹藪のなかを通ったら、うっそうと繁る竹に息が詰まりそうになり、雀のお宿を探しにいったおじいさんもこんなだったのだろうか、と思ったことと、祖父が庭に動物園の鳥舎のように大きな鳥小屋を作って、そこに何十羽もカナリヤやセキセイインコを飼っていたことぐらいだ。
それ以来、毎年ではなかったけれど、お盆やお正月、あるいは法事のときなどに、そこをときどき訪れた。
わたしにとって「ふるさと」という言葉が喚起するイメージは、やはりそこの家になるのかもしれない。実際の「ふるさと」というには、あまりに縁の薄いものだったが。
新幹線の駅から、在来線に乗り換えてしばらく行くと、小さな駅がある。母が通学で使っていた頃と同じ建物だという、木造の小さな駅舎を出て、赤いだるま型のポストが店先に置いてある文房具屋と、駄菓子屋のあいだの道を抜け、山に向かって歩く。やがて山道に入り、うっそうと繁る竹藪を横目で見ながら登っていく。竹藪の反対側には、大きな農家の白い漆喰塀が延々と続く。遠くにお寺の屋根が見えるようになると、少し開けた場所に出る。そこの門をくぐっていくと、広い庭があって(鳥小屋があったのはごく短い期間だった。半ば道楽で始めた小鳥の飼育は、お金がかかるばかりだったとかで、すぐやめてしまったのだった)、元は土蔵の、いまはそこを改造して叔父が住んでいる離れや、昔は牛小屋だったという離れの向こうに主家があった。
玄関を入ると土間で、その土間はお勝手のほうまで続いていた。入ってすぐのあがりぐちに、まず部屋があり、そこには低いテーブルが置いてあって、まわりを座布団が囲んでいる。たいがいまずそこでもてなされ、その奥につづく座敷の一角にある仏壇に、行くとまず、手を合わせるよう言われた。
庭に面した側には縁側が続いていて、ガラス戸は日がいっぱいにさしこみ、晴れた日の座敷は明るかった。玄関から出入りしたのは最初のうちだけ、すぐにその縁側から出入りするようになったのだった。
その座敷の隣の小部屋がわたしたちの寝泊まりに当てられていて、夜、寝ていると、お線香の匂いがして祖父がお経を読む低い声を夢うつつに聞いた。
確かしばらくの間、その部屋には天井板が貼ってなくて、黒々とした梁が剥き出しになっていて、斜めの天井が見えていた。
みんなが食事をする茶の間は、奥座敷から一段低い、土間のお勝手に続く部屋だ。
ちゃぶ台をふたつつなげて、板張りの上に座布団を敷いて座る。一番多いときには、二十人近くが卓を囲んでいたのではなかったか。親戚とはいえ、知らない人ばかりで、学校のことなどあれこれと聞かれながらする食事は、気疲れするものだった。
ところがわたしが小学校の高学年になったぐらいだったと思う。
ある年、そのお勝手口から見る光景がまるで変わっていて、愕然としたのだった。
それまではうっそうと木の生い茂る裏山だったのだ。
それがその年、何か磨りガラスの向こうが妙に白々と明るく、そこを開けてみると、目の前にはなにもなかった。
山の斜面の宅地造成の工事が始まっていたのだ。
むきだしになった赤土のなかに、ブルドーザーはお盆休みのためか、ところどころにうち捨てられたように、ちょうど砂場に、子供が忘れていったおもちゃのブルドーザーが転がっているように停まっていたのだった(ちょうどお盆休みかなにかだったのだろう)。翌年にはすでにアスファルトが敷き詰められ、一部では家さえ建っていて、さらにその翌年には、色とりどりの屋根のマッチ箱のような家並みが出現していたのだった。
お盆やお彼岸でそこに行くときは、たいていみんなで連れだって、花やバケツ、ひしゃくやお線香やロウソクを手に手に持って、お勝手口から山道をくだり、お墓参りに行っていた。ところが、宅地造成がほぼ完了したころには、ブロック塀で仕切られた一角に、お墓も窮屈に寄せ集められていたのだった。
そうなってからも何度かお参りに行ったはずなのだが、はっきりと覚えているのは、春の記憶だ。
お墓の敷地こそ窮屈になっていたが、斜面には視界をさえぎるものもなく、春の陽がいっぱいに差していた。新幹線がすぐ近くを轟音を挙げて走っていき、国道を走る車の音はひっきりなしだったが、それでも高くヒバリの鳴き声も聞こえていた。そうして、遠くにマッチ箱ほどの大きさの海が、陽にきらきらと輝いているのが見えたのだった。
そこに埋められている人で、わたしが知っている人はいなかった。
名字さえ、わたしには馴染みのない、母の旧姓だった。
それでも、何度も話に聞いてひどく身近に感じられる、二十代で亡くなった祖母が、そこに埋められているのだな、と思ったのだった。そうして、わたしはそのおばあさんに手を合わせた。二十代で亡くなった人に、「おばあちゃん」と呼びかけたら、叱られるかなぁ、などということをばくぜんと考えながら。
そこを最後に訪れてから、もう二十年近くが過ぎている。
それでも、わたしが感じる「田舎」に一番近い場所は、そこなのかもしれない。
(次回最終回)
弟が生まれた年だから、わたしが三歳の夏休みのことだ。
出産を目前に控えた母に連れられて、中国地方の母の実家に行った。
そのときの記憶というと、竹藪のなかを通ったら、うっそうと繁る竹に息が詰まりそうになり、雀のお宿を探しにいったおじいさんもこんなだったのだろうか、と思ったことと、祖父が庭に動物園の鳥舎のように大きな鳥小屋を作って、そこに何十羽もカナリヤやセキセイインコを飼っていたことぐらいだ。
それ以来、毎年ではなかったけれど、お盆やお正月、あるいは法事のときなどに、そこをときどき訪れた。
わたしにとって「ふるさと」という言葉が喚起するイメージは、やはりそこの家になるのかもしれない。実際の「ふるさと」というには、あまりに縁の薄いものだったが。
新幹線の駅から、在来線に乗り換えてしばらく行くと、小さな駅がある。母が通学で使っていた頃と同じ建物だという、木造の小さな駅舎を出て、赤いだるま型のポストが店先に置いてある文房具屋と、駄菓子屋のあいだの道を抜け、山に向かって歩く。やがて山道に入り、うっそうと繁る竹藪を横目で見ながら登っていく。竹藪の反対側には、大きな農家の白い漆喰塀が延々と続く。遠くにお寺の屋根が見えるようになると、少し開けた場所に出る。そこの門をくぐっていくと、広い庭があって(鳥小屋があったのはごく短い期間だった。半ば道楽で始めた小鳥の飼育は、お金がかかるばかりだったとかで、すぐやめてしまったのだった)、元は土蔵の、いまはそこを改造して叔父が住んでいる離れや、昔は牛小屋だったという離れの向こうに主家があった。
玄関を入ると土間で、その土間はお勝手のほうまで続いていた。入ってすぐのあがりぐちに、まず部屋があり、そこには低いテーブルが置いてあって、まわりを座布団が囲んでいる。たいがいまずそこでもてなされ、その奥につづく座敷の一角にある仏壇に、行くとまず、手を合わせるよう言われた。
庭に面した側には縁側が続いていて、ガラス戸は日がいっぱいにさしこみ、晴れた日の座敷は明るかった。玄関から出入りしたのは最初のうちだけ、すぐにその縁側から出入りするようになったのだった。
その座敷の隣の小部屋がわたしたちの寝泊まりに当てられていて、夜、寝ていると、お線香の匂いがして祖父がお経を読む低い声を夢うつつに聞いた。
確かしばらくの間、その部屋には天井板が貼ってなくて、黒々とした梁が剥き出しになっていて、斜めの天井が見えていた。
みんなが食事をする茶の間は、奥座敷から一段低い、土間のお勝手に続く部屋だ。
ちゃぶ台をふたつつなげて、板張りの上に座布団を敷いて座る。一番多いときには、二十人近くが卓を囲んでいたのではなかったか。親戚とはいえ、知らない人ばかりで、学校のことなどあれこれと聞かれながらする食事は、気疲れするものだった。
ところがわたしが小学校の高学年になったぐらいだったと思う。
ある年、そのお勝手口から見る光景がまるで変わっていて、愕然としたのだった。
それまではうっそうと木の生い茂る裏山だったのだ。
それがその年、何か磨りガラスの向こうが妙に白々と明るく、そこを開けてみると、目の前にはなにもなかった。
山の斜面の宅地造成の工事が始まっていたのだ。
むきだしになった赤土のなかに、ブルドーザーはお盆休みのためか、ところどころにうち捨てられたように、ちょうど砂場に、子供が忘れていったおもちゃのブルドーザーが転がっているように停まっていたのだった(ちょうどお盆休みかなにかだったのだろう)。翌年にはすでにアスファルトが敷き詰められ、一部では家さえ建っていて、さらにその翌年には、色とりどりの屋根のマッチ箱のような家並みが出現していたのだった。
お盆やお彼岸でそこに行くときは、たいていみんなで連れだって、花やバケツ、ひしゃくやお線香やロウソクを手に手に持って、お勝手口から山道をくだり、お墓参りに行っていた。ところが、宅地造成がほぼ完了したころには、ブロック塀で仕切られた一角に、お墓も窮屈に寄せ集められていたのだった。
そうなってからも何度かお参りに行ったはずなのだが、はっきりと覚えているのは、春の記憶だ。
お墓の敷地こそ窮屈になっていたが、斜面には視界をさえぎるものもなく、春の陽がいっぱいに差していた。新幹線がすぐ近くを轟音を挙げて走っていき、国道を走る車の音はひっきりなしだったが、それでも高くヒバリの鳴き声も聞こえていた。そうして、遠くにマッチ箱ほどの大きさの海が、陽にきらきらと輝いているのが見えたのだった。
そこに埋められている人で、わたしが知っている人はいなかった。
名字さえ、わたしには馴染みのない、母の旧姓だった。
それでも、何度も話に聞いてひどく身近に感じられる、二十代で亡くなった祖母が、そこに埋められているのだな、と思ったのだった。そうして、わたしはそのおばあさんに手を合わせた。二十代で亡くなった人に、「おばあちゃん」と呼びかけたら、叱られるかなぁ、などということをばくぜんと考えながら。
そこを最後に訪れてから、もう二十年近くが過ぎている。
それでも、わたしが感じる「田舎」に一番近い場所は、そこなのかもしれない。
(次回最終回)