陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

カーソン・マッカラーズ 『過客』 その2.

2006-11-28 21:48:39 | 翻訳
「過客」 その2.

 フェリスは確認の電話を入れるために、アドレス帳を取りだした。ページをめくるうちに、いつのまにかそこに引きこまれていた。名前や住所はニューヨークのものもあれば、ヨーロッパの首都のものもある、なかには自分の故郷である南部の、記憶もおぼろげなものがいくつかあった。色あせた、活字体で書いた名前や、酔いにまかせて書いた文字。ベティ・ウィリス:ゆきずりの恋の相手、いまは結婚している。チャーリー・ウィリアムズ:ヒュルトゲンの森(※第二次世界大戦)の戦闘で負傷、以降消息不明。ウィリアムズ老はまだご存命だろうか。ドン・ウォーカー:テレビ業界での受注生産でひとやま当てた。ヘンリー・グリーン:戦後、落ち目になって、噂では精神病院にいるらしい。コージー・ホール:彼女は死んだという話だ。奔放で笑い上戸のコージーが……。あの他愛のない女の子だったコージーまでもが死んでしまうなんて、奇妙なことのように思える。アドレス帳を閉じたフェリスは、偶然というか、無常というか、ほとんど恐怖に近いような感覚に襲われたのだった。

 不意に、フェリスの身体がぎくっとした。窓の外を眺めている目の前の歩道を、別れた妻の姿が横切ったのだ。エリザベスはすぐ近くを、静かな歩調で歩いていた。どうしてこんなに胸が騒ぐのか、自分でもよくわからなかったけれど、胸が激しく波うち、やがて度を失った感覚となんともいえないやさしい気持ちが、その姿が消えてもなお、あとに残っていった。

 急いで精算をすませ、息せき切って歩道に出た。エリザベスは交差点に立ち止まり、五番街を渡ろうとしている。声をかけようとそちらへ急いだが、その前に信号が変わって、エリザベスは渡ってしまった。フェリスもあとに続く。反対側の通りでは、いつでも追いつくことができたのだけれど、自分でもよくわからないまま、歩みを速めることはできないでいた。明るい茶色の髪をすっきりとまとめた姿を眺めているうちに、かつて父親がエリザベスのことを「ものごしが美しい」と言ったことを思い出していた。つぎの角で曲がったので、フェリスもそうしたが、もはや追いつこうとする気持ちは失せていた。自分のエリザベスを見たことで、自分の身に起こった動揺、手は汗ばみ、心臓が高鳴ったことが、いまさらながら不思議だった。

 フェリスがまえに別れた妻の姿を見てから、八年が過ぎていた。再婚したということも、何年も前に聞いていた。いまでは子供が何人かいるはずだ。ここ数年は考えることもほとんどなくなっていた。だが、離婚してからあとしばらくは、エリザベスを失ったことは、耐え難い苦しみだったのだ。やがて時という鎮痛剤が効き、彼はまた恋を、それからそのつぎの恋を重ねた。ジャニーヌがいまの恋人だ。別れた妻に寄せる思いは、まぎれもなく過去のものになってすでに長い。なのにどうして身体はかくも動揺し、胸が騒ぐのか。自分にわかるのは、このふたがれたような心は、日差しの明るい、翳るところのない秋の日に、ふしぎなほど場違いなものだということだけだった。フェリスは急に踵を返すと、おおまたに、ほとんど駆け出さんばかりにしてホテルに戻ったのだった

 まだ十一時にもならない時刻だったが、フェリスは酒を注いだ。まるで疲労困憊したかのように、肘掛け椅子に身を投げ出し、バーボンの水割りが入ったグラスを少しずつ口に運んだ。翌朝パリ行きの飛行機に乗るまで、丸一日ある。やらなければならないことを確かめてみた。エア・フランスに荷物を持っていくこと、上司と一緒に昼食を取ること、靴とオーバーを買うこと。それから何か――ほかになかっただろうか? 酒を飲み終えたフェリスは、電話帳を開いた。

 別れた妻に電話しようと思い立ったのは、衝動的なものだった。電話番号はベイリーの項にあった。夫の名前である。そうして、あれこれ自問するより先に、電話をかけていた。クリスマスにはカードのやりとりをしていたし、結婚通知を受けとったときにはナイフとフォークのセットを贈った。電話をしてはいけない理由など、なかった。だが、先方を呼び出すベルの音を聞きながら待っているあいだは、不安が胸を満たしていた。

 エリザベスの声がした。懐かしいその声は、新たな衝撃を与えた。二度、自分の名前を繰りかえさなければならなかったが、だれだかわかると、エリザベスはうれしそうな声になった。今日一日しかニューヨークにいられないんだ、と説明した。わたしたち、劇場の予約をしてるのよ、とエリザベスが答えた。でも、早めの晩ご飯にいらっしゃらない? フェリスは、喜んでそうさせてもらうよ、と返事をした。

 用事をひとつずつこなしながら、何か大切なことを忘れているような気がする瞬間が、相変わらず胸に兆す。フェリスは午後遅くには入浴と着換えをすませ、何度かジャニーヌのことを考えた。明日の夜には一緒にいられる。「ジャニーヌ」こんなふうに自分は話をするだろう。「ニューヨークにいるとき、前の女房にひょっこり会ってね、一緒に飯を食ったんだ。もちろんご亭主も一緒だよ。こんなふうに何年も経ってから会うなんて、奇妙な感じだったな」

 エリザベスは東五十番通りに住んでいたので、フェリスはタクシーでアップタウンへと向かった。交差点にさしかかるたび、立ち去りかねているような夕日が見えていたが、目的地に着く頃には、秋の日はとっぷりと暮れていた。そこはひさしのついたビルで、ドアマンが立っており、彼女のアパートメントは七階にあった。

「フェリスさん、どうぞお入りください」

エリザベスか、想像することもできない夫のほうか、と身構えていたフェリスは、赤毛のそばかすの子供に虚をつかれた。子供がいることは知ってはいたが、フェリスの意識のうちではどういうわけかその存在を認められずにいたのだ。あんまり驚いたので、へどもどと後じさったほどだった。

「ここがぼくたちのうちです」その子は礼儀正しかった。「フェリスさんでしょう? ぼく、ビリーです。お入りください」

 玄関ホールから居間に入っていくと、こんどは夫に驚かされることになった。感覚的には、夫の存在もまた、認めていなかったのだ。のっしのっしと歩いてくるベイリーは、赤毛で、起居振舞いの慎重な男だった。

「ビル・ベイリーです。初めまして。エリザベスもすぐ来るでしょう。着換えももうすぐ終わるでしょうから」

 その最後の言葉を聞いて、昔の記憶があとからあとからすべるように浮かびあがってきた。白い肌のエリザベス、入浴するために、肌をバラ色に染めて裸でいるところ。下着姿のまま鏡台のまえで、美しい栗色の髪を梳かしているところ。甘やかでくつろいだ睦み合い、柔らかな肉体の美しさを、まぎれもなくわがものにしていたこと。フェリスはふと浮かんできた記憶にひるみ、ビル・ベイリーのまなざしを正面から受けとめざるを得ないような気持ちになった。

「ビリー、台所のテーブルから飲み物をのせた盆を持ってきてくれないか」

 子供は素直に言うことを聞いて部屋を出ていくと、フェリスは世間話でもするように「いいお坊ちゃんですね」と言った。

「ええ、いい子ですよ」

 黙ってしまったところに、その子はグラスとマティーニのカクテル・シェイカーを盆にのせて戻ってきた。酒をきっかけに、ふたりは話を盛り上げようとした。ロシアの話、ニューヨークの人工降雨、マンハッタンとパリの住宅事情、ふたりはそんな話をした。

「フェリスさんは明日飛行機に乗って、海を超えるんだよ」ベイリーは自分が座る椅子のひじかけにおとなしく行儀よく腰をおろしている小さな少年に言った。「おまえはフェリスさんのスーツケースに入れてほしいのだろう?」

ビリーは 垂れてくる前髪をかきあげた。「ぼく、飛行機に乗って、フェリスさんみたいに新聞記者になりたいな」そういうと、急に言明するようにつけくわえた。「大きくなったらぜったいにそうなるんだ」

ベイリーが言った。「おまえは医者になりたいんじゃなかったのか」

「そうだよ! どっちもなりたいんだ。あと、原子爆弾を研究する科学者にもなりたいな」

(この項つづく)