陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

カーソン・マッカラーズ 『過客』 その3.

2006-11-29 21:28:16 | 翻訳
過客 その3.

 エリザベスが女の赤ちゃんを抱いて入ってきた。

「ジョン!」そう言うと、赤ん坊を父親の膝にのせた。「いらっしゃい。来てくださって、ほんとうにうれしい」

 小さな女の子はベイリーの膝の上にちんまりとすわっていた。淡いピンクのクレープデシンのベビー服は、胸元の切り替えの部分にぐるりとバラの刺繍がしてあって、おそろいの絹のリボンで、淡い、ふわふわしたくせ毛をうしろでたばねている。陽に焼けた肌、茶色い目には金色の斑点が散り、声をあげて笑っていた。手を伸ばして父親の角縁眼鏡をさわろうとしたので、父親は眼鏡をはずし、ほんの少し、眼鏡越しの世界を赤ん坊にのぞかせてやった。「どんなふうに見えるかな、おちびちゃん」

 エリザベスはたいそう美しかった、というより、おそらく、これほどまでに美しいとは気がついたことがなかったのだ。くせのない清らかな髪は輝いていたし、おだやかな顔は、なんの翳りもなく澄み切っている。聖母の美しさ、家庭的な雰囲気が醸し出す美しさだった。

「ちっともお変わりじゃないのね」エリザベスが言った。「あれからずいぶんになるのに」

「八年だね」フェリスはうしろめたげに薄くなった頭に手をふれながら、なおも社交辞令のやりとりをつづけた。

 不意に、自分が野次馬になったような気がしてくる――ベイリー家への侵入者、と言った方がいいか。なぜ自分はここへ来てしまったのだろう。自責の念がこみあげてくる。自分の生活がひどく孤独なものに思え、歳月の廃墟のただなかに、一本だけ、何のささえもなしに立つ、いまにもくずれそうな柱のように思えた。もうこれ以上、家族団欒の部屋に留まることには耐えられそうもない。

 フェリスは腕時計に目を走らせた。「劇場にいらっしゃるんでしたよね」

「ごめんなさいね」エリザベスが言った。「先月から予約していたの。でも、ジョン、あなたもいずれそのうち、お帰りになるんでしょう。国を捨てたわけではないのだから、ね?」

「国を捨てた、か」フェリスは繰りかえした。「そういう言い方は好きじゃないな」

「じゃ、どう言ったらいいの?」

 しばらく考えてから答えた。「過客、っていうのはどうだろう」

 フェリスがまた時計に目をやり、エリザベスがまた謝った。「もしもっと早くわかってたら……」

「ここにいるのは今日だけなんだ。急に帰国が決まったからね。父が先週亡くなったんだ」

「お父様がお亡くなりになったの」

「そうなんだ。ジョンズ・ホプキンス大学病院で。もう一年近く入院してたんだよ。葬式はジョージアの家であげたけどね」

「まあ、ほんとうにお気の毒だったわね、ジョン。お父様のことは、わたし、ずっと大好きだったのよ」

 男の子が椅子の向こう側からやってきて、母親の顔をのぞきこもうとした。「だれが死んだの?」

 フェリスのはりつめた気持ちが切れた。父の死で頭がいっぱいになったのだ。棺の中、絹の布の上に横たえられた亡骸が、ふたたび目の前に顕れた。遺体にほお紅がさしてあるのがひどく不自然で、見慣れた手が体を覆うバラの上で固く組み合わされていた。記憶はそこで途絶え、エリザベスの穏やかな声にはっとした。

「フェリスさんのお父様よ、ビリー。ほんとうに立派な方だったの。あなたはお会いしたことはないけれど」

「だけど、どうしてママがお父様、って言うの?」

 ベイリーとエリザベスが、しまった、というふうに目配せした。子供の疑問に答えたのはベイリーだった。「もうせん」父親は言った。「おまえのお母さんはフェリスさんを結婚してたんだ。おまえが生まれる前……ずっと前だが」

「フェリスさんと?」

 男の子はフェリスの顔をまじまじと見た。驚いた、信じかねるような面もちで。男の子の視線を受けとめたフェリスの目にも、何か、信じられないとしかいいようのない色が浮かんでいた。ほんとうにそんなことがあったのだろうか。かつてこの見も知らぬ女を、エリザベスと呼び、夜ごと、愛を交わすたびに“かわいいアヒルちゃん”と呼んだようなことが。ともに暮らし、おそらく千もの夜と昼を共にし……そうして……突然落ちこんだおそろしいまでの寂寞、結婚生活をおくるなかで紡いできた愛という織物が、嫉妬や、アルコールや、金銭上の諍いのなかでひとすじごとにほつれていく惨めさに耐えていったことが。

 ベイリーが子供たちに向かって言った。「誰かさんの晩ご飯の時間になったぞ。さあ、行こう」

「だけど、パパ、ママとフェリスさんが……ぼく……」

 ビリーの相も変わらぬまなざし――考えあぐねたような、うちにかすかな敵意のこもるまなざし――は、フェリスにもうひとりの子供の目を思い出させた。ジャニーヌの息子――憂いをおびた小さな顔と、品のいい膝小僧を持つ七歳の男の子で、フェリスがなるべく考えないようにし、多くの場合に忘れてしまっている子供だった。

「さぁ、行進だ!」ベイリーはビリーの体をドアの方向に優しく向けてやった。「さぁ、おやすみなさいを言いなさい」

「おやすみなさい、フェリスさん」それから恨めしげに言い足した。「ケーキの時間まで起きてていいと思ってた」

「あとでケーキを食べにここに来ていいのよ」エリザベスが言った。「いまはパパと一緒に晩ご飯を食べに行きなさい」

(この項つづく)