今日からしばらくロアルド・ダールの "Lamb to the Slaughter" を訳していきます。
気楽に訳せるもの、という規準で選んだごく軽いミステリです。
たぶん目安としては四日ぐらいで終わりますので、ちょっとずつ読みたくない、という人は、そのくらいに、あるいはサイトにアップしたところでまとめて読んでください。
邦訳では『おとなしい凶器』(短編集『あなたに似た人』所収)となっていますが、ここでは "Lamb to the Slaughter" という原題に近いものにしてみました。
もちろんこれは、屠所に連れて行かれる羊、という意味ばかりでなく、いくつかの掛詞でもあります。
原文は
http://www.classicshorts.com/stories/lamb.html で読むことができます。
暖かい部屋はきちんと片づいて、カーテンが引かれ、ランプがふたつ――ひとつは彼女のもとに、もうひとつは向かいの空の椅子の傍らに――ともっていた。彼女の背後のサイドボードには、丈の高いグラスがふたつ、ソーダ水とウィスキー、アイスペールには、取りだしたばかりの氷が詰まっている。
メアリー・マロニーは夫が仕事から帰ってくるのを待っていた。
どうかすると時計を見上げてしまうのだが、やきもきしているせいではなく、針が進むたびに、だんだんあの人が帰ってくる時間に近づいてきた、と、うれしくなるからだった。メアリーの周囲にも、メアリーがやったことのひとつひとつにも、そのゆったりしてほほえましげな雰囲気が伝わっているのだった。縫い物をするためにうつむいた、そのうなじのあたりにも、たいそう和やかなものがあった。メアリの肌は、妊娠六ヶ月、ということもあって、美しく透き通り、口元はふっくらと、それまでになかった穏やかな色が加わった目は、いっそう大きく黒々と光っていた。時計が五時十分前を指すと、メアリーは耳を澄ます。まもなくいつものように時間通りに、外でタイヤが砂利を踏む音が聞こえ、車のドアがバタンと閉まる音、窓の傍らを過ぎていく足音、鍵を回す音がそれに続く。メアリーは縫い物を脇へどかし、立ち上がると、入ってくる夫にキスしようと足を踏み出した。
「お帰りなさい」
「ああ」
夫のコートを取ると、クローゼットにかけ、部屋を横切って飲み物を作り、強い方を夫に渡して、弱い方を手元に置く。それから自分の椅子に戻って、縫い物を続けた。向かいに座る夫の、両手ではさんだ丈の高いグラスから、氷がぶつかるカランという音が聞こえた。
メアリーにとっては、この瞬間が一日のうちでもこのうえないひとときなのだった。夫は最初の一杯を干してしまうまで、口をききたがらないことはよくわかっていたし、一日中、ひとりっきりで家にいたメアリーにしてみれば、自分と一緒に夫がいて、黙って座っているだけで、満ち足りた気持ちになるのだった。夫がそこにいるというだけで、豊かな気持ちになることがうれしかったし、あたかも日光浴をしている人が、太陽から受けるような暖かさが、ふたりきりでいるときの夫からは伝わってくるのだった。椅子にくつろいで座っているその姿も、ドアを開けて部屋に入ってくるところも、大股で部屋の中をのっそりと歩いているところも、大好きだった。熱のこもった、どこか遠くから見るような眼差しが自分の上に留まったままでいるのも、おもしろがってでもいるような唇の形も、なによりも、疲労に身を任せたまま、ウィスキーの酔いが、疲労を解きほぐしてくれるまで、静かに座っているところを、ほんとうに愛していたのだ。
「あなた、お疲れさまでした」
「ああ、今日は疲れたよ」
そう言うと夫は、ふだんならしないようなことをした。グラスを持ち上げると、ひと息にぐっとあおったのだ。たっぷり半分は、少なくとも半分は残っているウィスキーを……。メアリーはその動作を見ていたわけではなかったが、おろした夫の手の中で、空っぽのグラスの底に氷がぶつかる音がして、そのことを知った。しばらく、椅子に身を預けたままじっとしていた夫は、立ち上がるとゆっくりと部屋を横切って、もう一杯作った。
「あら、わたしがやるわ」あわてたメアリーは大きな声を出した。
「座ってなさい」夫が言った。
戻ってきた夫の手にあったのは、琥珀色をした生のウィスキーが入っているグラスだった。
「スリッパを持ってきましょうか」
「いや、いい」
(この項つづく)
気楽に訳せるもの、という規準で選んだごく軽いミステリです。
たぶん目安としては四日ぐらいで終わりますので、ちょっとずつ読みたくない、という人は、そのくらいに、あるいはサイトにアップしたところでまとめて読んでください。
邦訳では『おとなしい凶器』(短編集『あなたに似た人』所収)となっていますが、ここでは "Lamb to the Slaughter" という原題に近いものにしてみました。
もちろんこれは、屠所に連れて行かれる羊、という意味ばかりでなく、いくつかの掛詞でもあります。
原文は
http://www.classicshorts.com/stories/lamb.html で読むことができます。
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羊の殺戮 by ロアルド・ダール
羊の殺戮 by ロアルド・ダール
暖かい部屋はきちんと片づいて、カーテンが引かれ、ランプがふたつ――ひとつは彼女のもとに、もうひとつは向かいの空の椅子の傍らに――ともっていた。彼女の背後のサイドボードには、丈の高いグラスがふたつ、ソーダ水とウィスキー、アイスペールには、取りだしたばかりの氷が詰まっている。
メアリー・マロニーは夫が仕事から帰ってくるのを待っていた。
どうかすると時計を見上げてしまうのだが、やきもきしているせいではなく、針が進むたびに、だんだんあの人が帰ってくる時間に近づいてきた、と、うれしくなるからだった。メアリーの周囲にも、メアリーがやったことのひとつひとつにも、そのゆったりしてほほえましげな雰囲気が伝わっているのだった。縫い物をするためにうつむいた、そのうなじのあたりにも、たいそう和やかなものがあった。メアリの肌は、妊娠六ヶ月、ということもあって、美しく透き通り、口元はふっくらと、それまでになかった穏やかな色が加わった目は、いっそう大きく黒々と光っていた。時計が五時十分前を指すと、メアリーは耳を澄ます。まもなくいつものように時間通りに、外でタイヤが砂利を踏む音が聞こえ、車のドアがバタンと閉まる音、窓の傍らを過ぎていく足音、鍵を回す音がそれに続く。メアリーは縫い物を脇へどかし、立ち上がると、入ってくる夫にキスしようと足を踏み出した。
「お帰りなさい」
「ああ」
夫のコートを取ると、クローゼットにかけ、部屋を横切って飲み物を作り、強い方を夫に渡して、弱い方を手元に置く。それから自分の椅子に戻って、縫い物を続けた。向かいに座る夫の、両手ではさんだ丈の高いグラスから、氷がぶつかるカランという音が聞こえた。
メアリーにとっては、この瞬間が一日のうちでもこのうえないひとときなのだった。夫は最初の一杯を干してしまうまで、口をききたがらないことはよくわかっていたし、一日中、ひとりっきりで家にいたメアリーにしてみれば、自分と一緒に夫がいて、黙って座っているだけで、満ち足りた気持ちになるのだった。夫がそこにいるというだけで、豊かな気持ちになることがうれしかったし、あたかも日光浴をしている人が、太陽から受けるような暖かさが、ふたりきりでいるときの夫からは伝わってくるのだった。椅子にくつろいで座っているその姿も、ドアを開けて部屋に入ってくるところも、大股で部屋の中をのっそりと歩いているところも、大好きだった。熱のこもった、どこか遠くから見るような眼差しが自分の上に留まったままでいるのも、おもしろがってでもいるような唇の形も、なによりも、疲労に身を任せたまま、ウィスキーの酔いが、疲労を解きほぐしてくれるまで、静かに座っているところを、ほんとうに愛していたのだ。
「あなた、お疲れさまでした」
「ああ、今日は疲れたよ」
そう言うと夫は、ふだんならしないようなことをした。グラスを持ち上げると、ひと息にぐっとあおったのだ。たっぷり半分は、少なくとも半分は残っているウィスキーを……。メアリーはその動作を見ていたわけではなかったが、おろした夫の手の中で、空っぽのグラスの底に氷がぶつかる音がして、そのことを知った。しばらく、椅子に身を預けたままじっとしていた夫は、立ち上がるとゆっくりと部屋を横切って、もう一杯作った。
「あら、わたしがやるわ」あわてたメアリーは大きな声を出した。
「座ってなさい」夫が言った。
戻ってきた夫の手にあったのは、琥珀色をした生のウィスキーが入っているグラスだった。
「スリッパを持ってきましょうか」
「いや、いい」
(この項つづく)