陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

見ている子供たち

2006-11-25 22:51:17 | weblog
見ている子供たち

しばらく前から朝日新聞の一面に「いじめ(て/られて)いる君へ」という読み切りのコラムが連載されている。各界著名人がおそらく中学生ぐらいの読者を想定して語りかけていて、正面写真がかならずついているのは、おそらく直接、顔の見える人間が語りかけている、という体裁を取っているからなのだろう。

最近、新聞の購読数は明らかに落ちていて、わたしの住むアパートでも、同じ階の並びで新聞を取っているのは、わたしのところのほか、もう一軒しかない。その家はリタイアしたご夫婦が住んでいらっしゃるところで、新聞を支えている年齢層というのは、かなり高くなっているのではあるまいか。
わたしは文句を言いながらも、結構な新聞読みなので、さしあたっては購読を続けるつもりなのだけれど、実際、ニュースを知るだけなら、インターネットのニュース配信でだいたい十分なのかもしれない。
忙しいなか、毎朝新聞を読むような人というのは、今日的には、限られて来ているのかもしれない。

少なくとも近所で見る限りでは、中学生がいる二軒は、新聞は取っていない。
そんな状況で、実際に中学生が読むのかどうなのか、かなり疑問なのだが、なかにはそれを読んで、なるほど、と思う子がいないとも限らないし、伝染しやすいネガティヴな情報を、自殺のニュースなどという形で振りまいているのだから、それと反対の読み物があるのは、バランス的にはいいのかもしれない。

ただ、わたしが思ったのは、その記事の効果のことではない。

「いじめ」というのは、いじめる側と、いじめられる側しかないわけではないだろう。
おそらく、割合からいけば、傍観者である子が一番多いのではないのだろうか。

いまの「いじめ」は、過去のそれとはちがう、とよく書いてあって、そうなのかもしれない、とも思う。それでも、クラスの全員が一致してひとりの人間をいじめる、ということはまれで、いじめるグループがいて、いじめられる被害者がひとりいて、まわりはそれを知りながら、かわいそうに、と思っても、自分に火の粉が飛んでくるのがいやさに、ただ、見ているのではないのだろうか。

そうして、そんな子はどんな気分でいるのだろう、と思うのだ。

ジョディ・フォスターが主演した『告発の行方』という映画がある。
これはレイプされた女性が、レイプした加害者ではなく、まわりで唆した男たちを教唆罪で告発していくものだった。
まわりで煽る人間がいなければ、加害者もレイプ行為にまでは及ばなかった、という判断が下されるのである。

観客の存在によって、逆にわたしたちは思ってもみなかった行動に出てしまうことがある。
つい、期待に応えてしまったり、期待とまではいかない、場の空気、としかいいようのないものに流されて、冷静な判断を失ってしまったり、あるいは、見ている人に向かって、自分はこんな人間だとアピールするために、行動をとることもあるだろう。
観客、というのは、そこにただいるだけで、自発的に何もしなかったとしても、行為者にとって大きな影響力をもってしまうのだ。

たとえばクラスにA君という子がいるとする。
A君は、些細な逸脱をしている。校則より髪がほんの少し長いのかもしれないし、校則では認められない色の靴下をはいているのかもしれないし、i-podをこっそりかばんにしのばせているのかもしれない。

このA君が悪い、と、B,C,D君らが糾弾を始めるとする。
このとき、残りのクラスメイトは「観客」である。
「観客」に対し、B,C,D君らは、糾弾の正当性を訴えるために、一層糾弾は激しくなっていくとする。B,C,D君に対する賛同者は増え、徐々に勢力は拡大していくかもしれない。糾弾の声はいよいよ苛烈に、いよいよ執拗に、片時もA君を許さないものになっていくかもしれない。
この段階では、もはやA君が謝ろうが(一体だれに?)、反省の弁を口にしようが、何を言っても、火に油をそそぐばかりとなってしまうかもしれない。
「悪かった」と言ったところで、「反省もしてないくせに」と揚げ足をとられ、一層の糾弾の正当化に利用されるだけかもしれない。

ここでも、「観客」の存在は、糾弾する側にとって、大きい。
そしてまた、糾弾される側、A君にとっても「観客」の存在は大きいだろう。彼からすれば、観客の目は自分を排除する視線でしかないはずだ。

さて、「いじめ」というのは、いったいどの段階から該当するのだろう。
A君は、B,C,D君らは、観客のクラスメートらは、どこから「いじめ」であると判定するのだろう。

実際に現場の雰囲気を知っているわけではないので、もしかしたらこんなものではないのかもしれない。
けれども、もし「いじめ」がこんな状態で始まっていくとしたら。
排除している側が「いじめている」とまったく自覚していないケースだって、なくはないと思うのだ。
ましてその場にいることで、直接何もしていなくても、結果として加担することになってしまった側としてみれば、自分に一体何の関係があるのか、と言いたくもなるかもしれない。

こういうことをどう考えたら良いのか、わたし自身よくわからないのだけれど、少なくとも、そういう状態にある人間に「やめる勇気を持とう」と呼びかけることなど、まったく意味をなさない、ということだけはわかる。

ただ、「いじめ」という物語の枠組みがここまで大量にストックされてくると、みんなに糾弾されて、息苦しさ、やりきれなさを覚えているA君は、すぐに「これはいじめだ」と気がついて、声をあげることができるかもしれない。
大量にストックされているせいで「いじめは悪い」と結びつきやすいために、とりあえず「いじめ」の声を聞いて、止めに入る誰かが登場するかもしれない。
たとえそれが根本的な解決にはほどとおいにせよ、対処療法的な役には立つのかもしれない。

おそらく、これだけ「いじめ」をめぐる物語がストックされていくと、そんなわかりやすい形での「いじめ」は、おそらく減っていくだろう。
けれども、つぎにそれがどんな形をとって現れてくるかは、だれもわからないのだ。


昨日読みにきてくださったかたへ

2006-11-25 06:06:15 | weblog
すいません。
昨日のログはコピペに失敗していました。

尻尾が切れてます。
残りをはっつけましたので、「米屋の親爺」がどうなのか、気になる方はどうか続きを見ておいてください。
タイトルの意味もわかるはずです。
ほんと、読みに来てくれた人、ごめんなさい。

うーん……。
またやってもうた……。