陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

言葉の話

2006-11-13 22:42:16 | weblog
こんな経験はないだろうか。

行ったことのない場所を地図をたよりに訪ねていく。たとえば駅を出てからでもいいのだけれど、見知らぬ土地、見知らぬ場所で探す目的地は、ひどく遠い。
ところがやっとのことで探り当て、用事が終わって戻る道のりは、どういうわけか、行きにくらべてひどく短いような気がするのだ。もう駅についてしまった、こんなに近かったのだろうか。行くときは、迷ったわけでもない、いまと同じ道をたどっていたのに。
そんな経験である。

自分がそれほど方向感覚の確かな人間ではないせいなのかもしれないけれど、知らないところに出かけて、帰ってくるたびに、こうした経験、「帰り道は近い」ということを思ってしまうのだ。

つまりこれは、言葉を換えれば、目的地がわかっている場所は近い、目的地がわからない場所は遠い、ということになるだろう。つまり、わたしが感じる「遠さ」「近さ」とは、目的地がわかっているか、いないかに左右されるものなのだ。

わからない状態、というのは、つらい。
わたしはときどき検査を受けるのだけれど、その結果が出るまでの二週間ほどは、実にきつい期間を過ごすことになってしまう。何度検査を受けたとしても、そのあとは何をしていても気持ちはそちらに向いてしまうし、もし結果が悪いものだったら、と、考えても仕方がないことを、いつのまにか考えてしまっている。いったんネガティヴな方向に向かった気持ちをまた立て直していくのは、簡単なことではない。
いつも思うのだけれど、その二週間は、ほんとうに長い。


もし言葉がなかったら、わたしたちはいろんなことを記憶することもできなかっただろう。
出くわすことは、いつだって新しい体験で、それが自分にとってどういう意味かを考えることもなく、ただそれを体験し、忘れ、思い出すこともなく、繰りかえすことなら動物のように「習慣」としてストックされるのかもしれないけれど、それも、一年前のあの日、あのとき、という形では決して記憶されず、そうして、こんなふうになにもかもが白紙のような状態では、わからないことがあたりまえで、そういうことを不安に思うこともない。

そうなのだ。
わたしたちがわからないことが不安なのは、過去の経験は自分のうちにストックされ、すでに「わかったこと」に分類されているからなのだ。
駅から目的地まで行く一回限りの経験であっても、わたしたちは、この道を通って、信号を渡って、三つ目の角、コンビニのあるところを右折して……という形でその経験をストックする。そうして、帰りにはそれを逆にたどっていけばいいわけで、すでにそれは「知っていること」なのだ。
こうして、知っていることが増えていけばいくほど、わからないことは不安になる。そうして、将来のt1時においてわかることがわかっているから、いまからそのt1時までは、宙づりにされてしまうのだ。その宙づりの状態がつらいということなのだろう。

けれども、考えてみれば、何ごとであれ、わたしたちは先のことはわからない。
わからないからこそ、予想をたて、刻み目をつけた時間を、未来にもあてはめ、過去の出来事から法則を見出して未来に当てはめようと、因果関係をさぐり、あるいは占いをし、ジンクスをでっちあげ、生まれた日時から太陽や月や星の位置を割り出してそれで何かを引っ張り出し、血液型やら、はてはコックリさんのお告げまで頼りにしようとする。
時間が過ぎて、かつての未来が現在に、一瞬のちには過去になっていっても、あいかわらず未来は未来のままで、わたしたちはそちらを不安の眼差しで見ている。
将来どうなっていくかを知ることができるt1時が来ないから、宙づりにされているわけではないけれど、それでも漠然とした不安をさまざまなことのうちにまぎらせている。

けれども、そのt1時が具体的にいつかわからなくても、それを意識しながら日々生きることを余儀なくされている人がいる。
余命を宣告されて生きる人、そして、その介護をしながら看取る人だ。

わたしはだれかを看取るという経験を、まだしたことはないけれど、これはつらいことだろう。
身近な人が日々弱っていくのを見ながら、同時にその宙づりにされた状態がいつまで続くのかわからない。その状態からの解放を願うことすら、できない。
その道のりは、どれほど長いことだろう。

けれどもわたしたちは、やはり言葉を持っている。
その日のつらさや苦しみを言葉にして、世界に出現させることができる。言葉を持っているおかげで、その経験を保存しておくことができるのだ。
去っていく人を、そこに留めることはできないけれど、去っていく人の思い出を言葉のうちに留めることならできる。
先のことはわからなくても、言葉につなぎとめた「いま」は、そこに並べて、またいつでも取りだして、眺めることができるのだ。
それは、渦中にある人を慰めるには、あまりに力が足りないものかもしれない。けれども、言葉のおかげで、「なにものか」は残るはずだと思うのだ。

わたしにはその経験を過去にされた人の、あるいは、いまその渦中にある人の、苦しみも辛さも実際にはわからないけれど、そうして、その苦しみや辛さをどうすることもできないけれど、言葉が、あなたとともにありますように、と祈る。

いつか、また、そのお話を、教えてください、と。