陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

声の話

2006-11-05 22:21:52 | weblog
学生時代に寮にいたころ、電話当番をやっていたことがある。
まだ携帯電話などない時代で、電話がかかってくると、その寮生を呼び出すのだった。

じき、受話器を取って、もしもし、という相手の声を聞くだけで、誰にあてた電話か、だいたいわかるようになってきた。呼びだした人間がやってくると、その場を離れることにはしていたが、それでも人間関係は次第につかめてくる。
「もしもし、××さん、お願いします」というだけでも、不思議なくらい、相手の気持ちというのはわかることを知った。

ああ、最近××さんにやたらかけてきてくるこの彼は、あの人が好きなんだな、とか、ああ、このふたりはダメになりかけているのだな、とか、△△さんのお母さんは、このところ△△さんの帰りが遅いから、心配してこの時間になるとかけてくるのだな、とか、たとえ詮索するつもりなどなくても、電話をとりつぐだけで、相手のプライバシーの一端を知ってしまうのだった。

不思議なことに、当人より、取り次ぐだけのわたしの方が気がつきやすいのかもしれない、と思うようなことも何度かあった。
彼女の名前を発音するのがうれしくてたまらないような声を出す彼なのに、彼女の方は、相手は自分のことをどう思っているのだろう、と悩んでいたり。
いかにも不安そうなお母さんに対して、子供の方は、うざいからいなくても風呂へ入ってる、とか、適当に言っておいて、とわたしに言ってきたり。
そういうときは、どこまで言ったらいいのか、そもそもそう聞いてしまうわたしの耳に、どこまで根拠があるのだろうか、と悩むこともあった。
意外と、自分が当事者になってしまうと、相手の気持ちというのはかえってわからなくなってしまうのかもしれない、と思ったのも、このときの経験だった。

ただ、その時期ほど、電話でさまざまな人の声を聞いたことはなかったし、声しか知らない相手が、苛立ったり、胸をときめかしたり、心配したりしながら、「もしもし、××さんお願いします」というのを聞きながら、その息づかいに耳をすませるような経験もなかった。声は、驚くほどさまざまなものを伝える、と思ったのだった。

いまは連絡を取り合うのも、メールが中心になってしまった。
メールの最大の弱点は、受話器を取った瞬間に、ぱっと相手の声が聞こえてくるというものではないことだ。
文字のやりとりだけだと、どうかすると、その向こうに人がいることを忘れそうになる。
実際には会ったこともない相手だとなおさら、具体的な「その人」は見えてこない。

それでも、その文字を読みながら、わたしはその向こうに聞こえる声に耳を澄まそう。
実際の声よりも、行間から聞こえてくる声は、もっと、おぼろげで、あやふやかもしれない。
聞きたい声をそこに読みこんでしまうのかもしれない。
それでも、ときに読み損なったり、受けとめ損なったりしたとしても、そのたびごとに修正していけば、少しずつチューニングも合ってくるのではあるまいか。