陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

食べることについて考えた

2006-02-17 19:01:28 | weblog
数日間、病院で食事をした。

ことさらいうまでもないことだけれど、病院の食事というのは、おいしいものではない。薄味、というより寝ぼけたような味だし、どれもぬるいし、おそらくは高齢者が嚥下しやすいようにという配慮なのだろうが、どれにもとろみがついていて、なんだかぬるぬるしたものばかり食べていた。

ただ、一日一度の診察と、検査に呼ばれて行くほかは、まったくメリハリのない生活なので、食事というのは、たとえそのようなものでも楽しみになってくる。
楽しみである以上は、あまり文句を言わず、楽しく食べたい。
ところが、病室というのは、カーテンで区切られた狭いスペース、小さなヘッドボードの引き出しにトレーを載せて、壁に向かって、もしくはTVに向かって食べるのだ。これでは「もそもそとめしを食う」(いがらしみきおのマンガ『ぼのぼの』より)しかない。

どうしたら少しでも優雅に食事ができるか。

となると、B.G.M.である。
わたしのi-podには、あまり背景音楽に向いたものは入っていないのだが、とりあえずキース・ジャレットをかけてみた(うなり声が気になるので、のちにチェット・ベイカーに変更)。

つぎに、お行儀は悪いけれど、本を読みながら食べてみる。
生憎、食事に適した本、という基準で本を選ばなかったのだが、仕方がないから手元にあった『貨幣の思想史』の続きを開いた。

すると、この食事が意外に本を読みながらに適していることに気がついた。取り分けたり、ほぐしたり、という苦労がないぶん、片手で楽に食べられるのである。
低い音でチェット・ベイカーがロマンティックに「枯葉」なんかを歌うのを聞きながら、19世紀の経済状況を読み、味のない食事をするのは、それほど味気ないものではなかった。

なんというか、食べ物に対して不平を言うのは、あまり好きではないのだ。
もちろんおいしいものを食べるのは好きだし、行列してまで食べようという熱意はないけれど、外食するならおいしいものが食べたい、とは思う。
それでも、出されたものは、少々期待に外れようと、クールに(笑)、ニール・テナントが歌うみたいに、超然として食べたい、という気がする。

実は、身近に(というのは、うちの母親なんだけれど)まずかったりすると、箸もつけない人間がいて、子供心に、ああいう態度はなんだか子供っぽいナーと思っていたのである。子供っぽい親を持つと、子供は早くにオトナになるのである。

ある面では給食で鍛えられた、ということもあるのだろう。
いまはずいぶんおいしくなり、ヴァラエティ豊かにもなったようだけれど、わたしが小学生のころは、まだまだおいしいというには程遠い時代だった。

なんといっても、食パンがダメだった。食用油そのもののようなマーガリンも、甘いだけのジャムも、ぱさぱさの焼きもしないパンを、ちっとも食べやすくはしてくれない。おまけに量も多くて、食が細かったわたしは、いつも持って帰っていた(あー、それはきっと捨てられてたんだろうなー)。

どうも給食における「教育的観点」というのは、もっぱら「時間以内にすみやかに食べる」ということと、「偏食をなくす」という、この二点のみに置かれていたのではあるまいか。
「ともに食べることで親睦を深める」とか、「さまざまな味や料理を経験する」という観点など、一切考慮されていなかったにちがいない。

偏食だけはなかったわたしは、その面ではそれほど苦労はしなかったけれど、教室の隅で掃除の時間になっても残って給食をもてあましている子の姿は、いまでも記憶に残っている。あれはつらかっただろうな。

いまはどうなんだろう。
アレルギーに対する配慮なんかもずいぶんされるようになったみたいだから、残すことにもおそらくはとやかく言われたりはしなくなったにちがいない。
それでも、どこまでいっても給食は給食で、どうしたってそこまではおいしくはないだろう、けれども「おいしくないものも文句を言わず、それなりに楽しく食べる」訓練だと思えば、やはり意味はある。

わたしは食べ物を残すのはいやだけれど、残したからといって「アフリカでは…」みたいな物言いをするのは好きではない。自分が残すことと、第三世界の食糧問題の間にはまったく因果関係はないし、そうした問題を「残す」か「がまんして全部食べてあとでおなかを痛くする」の次元で語ってはいけないと思う。
残さなきゃならなくなったら、「ああ、失敗したな、もったいないことをしたな」という経験として、自分のなかに蓄積していけばいいだけの話なんじゃないだろうか。自分が食が細かったから、ほんとうに声を大にして言いたいのだけれど、食べられなくなっても食べなきゃいけない、というのは、これまたつらいのだ。残したくて残しているわけではない。

食べることは、本来、楽しいことだ。
料理だって楽しいし、自分のところの猫の額ほどのベランダで取れたブルーベリーやバジルの葉っぱを料理に使うのも、ことのほか楽しい。

一緒にいて楽しい人と食事ができるのは、ほんとうに幸せなことだし、そうした経験は大切な思い出として、心に刻まれている。

問題なのは、そうではないときだ。だけど、そんなときでも、クールに自分の経験として刻んでいきたい。

それに、どんな食事であっても、つねに作り手はいるのだし、自分のために食材として調理された生き物(動物であれ植物であれ)がいたことも、忘れちゃいけないと思う。

ところでね、ときどき、まずいものって食べたくなりません?

いまの飲みやすいやつじゃなくて、昔のセロリくさい野菜ジュースが飲みたくなったり、胸の焼ける焼きソバが食べたくなったり。
これ、いままでわたしは共感してもらったことがないんだけど(笑)、たまに、「ああっ、マズいものが食べたいっ」って思うわたしはちょっとヘンなんでしょうか?(笑)

明日から復帰します

2006-02-16 21:13:26 | weblog
様子を気にかけてくださったみなさま、ご心配をおかけしました。
検査の結果無事退院が決まり、明日には帰ることができるようになりました。

Unknown さんも書き込みどうもありがとうございます。携帯からだとレスが入れられなかったんです。
またHNで書き込みしてくださいね。

実は結構元気で、昨日の朝なんかは家に帰ったりもしてたんですが。
ほんと、良かった。
ということで。
それじゃまた♪

おひさしぶりです

2006-02-15 20:14:32 | weblog
諸事情から携帯で書き込んでます。
うまくできるかな。

本を読みました。
『貨幣の思想史』(内山節)っていう本です。
この間、流しの洗い桶を買い替えました。百均で買ったんだけど、透明で、シンクを奇麗にしておくと、すごく気持ちいいんです。
とってもうれしかった(笑)。
えらく安上がり。

ここでもちょっと書いたんだけど、BOSEのスピーカー、買いました。これまた使い勝手が良くて、ほんと、うれしい買物でした。
三万円ちょっとだから、買うには覚悟が必要で、しばらく毎日見に行ってました。

この百円と三万円、どこでその価格が決まっていくのか?
考えると、不思議です。

この本は、お金という、本来なら何の実体もないものが、逆に人を支配し、生活や生産の実態を生んでいくプロセスと、それを古典経済学はどうとらえてきたか、わかりやすく書いてありました。

筆者の言う「貨幣を実体化する関係の縮小」っていうのがどういうことなのかよくわからないのだけれど、「人間の価値」が「その価値を成立させる関係と一体のもの」という指摘はその通りだと思った。

おっとこの携帯の字数制限だ。元気になったらまたサイトの更新しますね!

「知りたい」ということ

2006-02-11 22:33:36 | weblog
「「読むこと」を考える」のなかで、最初はもうちょっと「小説」のさまざまな機能を取り出すことにしようと考えていたのだ。たとえば、ストーリーやプロットとか、場面、あるいは描写と要約、会話。そうしたらどう考えても膨大なものになりそうなので、今回は見送ることにしたのだけれど、今日はまだ手直しが終わっていないので、ちょっとそこから派生したけれど関係ないことを書いてみる。

物語の喜びは、欲望にもとづいている。わたしたちは、「それからどうなった?」という欲望につき動かされ、秘密をあばき、結末を知り、真相を見つけだしたい、と願う。

事件が起こるたび、「動機の解明が待たれます」とアナウンサーが言うのも、新聞が「識者のコメント」を載せるのも、この欲望を満たそうとしているのである。

この「知る」ということは、「支配したい」という欲望と密接に関連している。

こういうとちょっと意外かもしれないけれど、たとえばジョージ・オーウェルの『1984』を例に取ると、うまく説明ができるかもしれない。

『1984』は、いまとなっては昔になってしまったけれど、これが書かれた1949年からすれば近未来を舞台にした小説だ。その社会は、独裁者「ビッグ・ブラザー」が人々を支配している。「ビッグ・ブラザーが見ている」という標語がいたるところに張り巡らされ、実際、人々の行動は、くまなく監視されている。そうして一切の本は出版されない。

ブラッドベリの『華氏451度』にも焚書が描かれているけれど、ブラッドベリの社会はさらに、人々が考えることに向かわないよう、薬物によるコントロールなど、その管理はいっそう徹底していた。ともかく、こうした小説では、専制的な支配を可能にするため、知識の制限と情報のコントロール、そうして監視が不可欠であることが描かれている。

つまり、完全に相手を支配しようと思えば、支配する側は、支配される側の情報を完全に掌握し、逆に、支配する側の情報は一切開かさなければ良いのだ。

何か、支配といってしまうと、身近ではないように思えるけれど、実際はごく身近なものでもある。

たとえばわたしは発症してから二十年以上になる持病を抱えているのだけれど、その治療のありかたもずいぶん変わってきたな、という実感がある。最初のころは、もちろん自分が子供だったということもあるのだろうけれど、検査してもその結果を親に対してさえ詳しく説明するわけでもなく、薬も何のための薬で、どういった効果を期待して……という説明もなく、ただ処方して、こちらも言われるままに薬を飲んで、という具合だったように思う。いろんな医者にかかったけれど、なかには「自分の言うことを聞いておきさえすればいいんだ」といわんばかりの人もいた。

けれども、「インフォームド・コンセント」という言葉が一般的になり始めたころから、これもずいぶん変わってきて、お医者さんも、あるいは処方薬局の薬剤師さんも、ずいぶん詳しく説明してくれるようになった。

つまり、「知識と技術を有する専門家」が患者を支配する、という構図から、患者を「判断能力のある存在」とみなして、情報を与え、理解をうながすことによって、同意する、ということに変わっていきつつあるのだと思う(もちろんこれに付随する問題などさまざまにあって、一概に言えないのだろうけれど)。


ここで、わたしはまたちがうことを思い出す。

ペローに「青髭」という童話がある。
わたしはこれを読んだとき、娘は何を探していたのだろう、とまず思ったのを覚えている。

もちろんこれにはヴァリエーションがいくつもある、洋の東西を問わず遍在する昔話がもとになっているのだけれど、たとえば戯曲『夕鶴』のもとになった「鶴女房」などとは、根本的にちがうような気がするのだ。

これからここで機を織りますからね、入らないでね、と言われたのだけれど、中から音はするし、どんな様子なのかが気になって、つい、障子を開けてしまう、というのは、日本家屋の開放的な構造もあるのだろうけれど、よくわかるような気がする。とくに、木下順二の戯曲では、鶴のシルエットがおぼろに浮かび上がっていたのではなかったか。

むしろ、「青髭」で重要なのは、その部屋のなかに何があるかを知りたい、ということではなく、「鍵を開ける」ということ、つまり、「開けてはいけない」という禁忌を破ることなのだ。

そう考えていくと、この「青髭」の話は、ポーの『盗まれた手紙』の原型なのかもしれない。『盗まれた手紙』では、この手紙の内容が問題なのではなく、その手紙を手に入れる、ということが問題なのだった。

隠されていることを知る、というのは、力を得るということであり、相手を支配する、ということなのだ。あるいは「青髭」の娘のように、支配されている側がその関係を逆転させようと思ったら、支配する側の「隠されたもの」を知ることなのである。

わたしが小学校を転校するとき、前の学校で仲の良かった数人から、鍵付きの日記帳をプレゼントされたことがある。うれしくて、さっそく書きこんで、鍵をかけ、その鍵は引き出しのなかに入れておいた。翌日、母が夕食の席で「鍵付きの日記に何を書いているのかと思ったら、『昨日りんご病になった』って書いてあったのよ」と、家族の前で話した。
わたしはそれ以来、二度とその日記帳に何かを書くことはなかった。

これはどこの家でもあるエピソードなのかもしれない。
子供が成長して、親の支配から外に出ようとするとき、親に「秘密」を持つ。それは、その内容ではなく、「隠されていること」が重要なのである。

そうして、親はこの「秘密」を知ろうとする。もちろん、保護という側面はあるだろう。けれども、親の側が完全にすべてを掌握していた幼児の状態に、子供を留めておきたい、という欲望も、そこにはあるのではないか。


一方で、知る、ということを、すべてこの「支配」ということに還元してしまっていいのだろうか、という疑問もある。

何だかオリンピックは今日から始まるのかな? ときかく世情に疎いわたしはよく知らないのだけれど、オリンピックともなると、とりあえず日本人選手を応援したくなる、というのは、多少なりとも知っているからなのだろう。

たとえばかつて自分の家の隣に住んでいた人物が、それまで聞いたこともなかった地球の反対側の小国からオリンピック代表に選ばれたとしたら、間違いなくその元隣人のほうを応援するはずだ。

わたしたちは、好意を持つ人のことを知りたいと思うし、逆に知っているということは、それが悪いことで知ったのでない限り、容易に好意に変わっていく。

たとえばリカちゃん人形に「リカちゃんの父親は香山ピエールで指揮者、お母さんは……」という物語がついているのも、それ自体はただの人形でしかない「リカちゃん」に、物語を与えることで、わたしたちがリカちゃんを「知り」、「好意」を喚起させようということだ。

わたしたちは、自分の親しい人間を深く理解したいと思う。理解のためには、まず相手を知らなければならない。その親しさが増すにつれ、知っていることも増えてくるけれど、反面、それにはきりがなく、親しくなればなるほど、いっそう知りたくなる。逆に、「この人間のことはよくわかった」と思うときは、「わかったから、もう十分」と、それ以上つきあうのをやめようとするときだ。「その話、もう聞いた」というのは、「話すのをやめろ」「自分は聞きたくない」という意思表示だ。よく知っていても、聞きたい話なら、わたしたちは何度でも耳を傾ける。

この相手を知りたい、理解したい、という気持ちと、相手を知ることによって支配したい、という欲望は、同じものなのだろうか。

けれども、「知る」ことと「理解する」ことは、必ずしも同じではないし、少なくとも知りたいという気持ちの背後には、相手を支配したい、という欲望があるのではないか、と、自分に問い返してみることには意味があると思う。自分が求めるのは、支配したりされたり、という関係ではない、と思うなら、「自分には知る必要のないことがら」の存在を認め、たとえ鍵を持っていたとしても、その部屋の前を通り過ぎる潔さを持ちたいと思う。

わたしにはよくわからない。
ただ、ここでもういちど物語のことを考えてみる。

わたしたちは先を知りたい、と思う。理由を知り、隠された秘密を暴き、結末を見届けたい。
たとえそれが、その物語を支配したい、という欲望にもとづいたものであっても。
けれども、気に入った物語をもういちど読みたくなるのは、なぜなのだろうか。先は知っている、結末も知っている、それでもどこまで行っても別の解釈はありうるし、理解はわたしたちの理解をすり抜けるからなのだろうか。あるいは、何度も何度も読み返し、知っていることを、その物語がわたしたちの支配下にあることを確認するためなのだろうか。

何か、分類不能のよくわからないことを書いてしまった……。

サイト更新しました

2006-02-10 22:58:12 | weblog
昨日まで連載していた「「読むこと」を考える」のなかでサンプルとして使った
「八人の見えない日本の紳士たち」に手を入れてアップしました。
http://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/
引き続き、本編のほうもアップしたいと思いますので、またお暇なとき、サイトに遊びにいらっしゃってください。

なんとなく風邪が本格的になったみたいで、ちょっと辛いんですが、なんとか寝込まずに乗り切りたいところです。早く暖かくならないかな、ってこれはサイトにも書いたんだ。
ほんと、寒いのは、もういいです。

どうかみなさん、お元気で。それではまた。


「読むこと」を考える その8.

2006-02-09 23:07:05 | 
(※昨日、キンギョの水換えをやったせいなのか、それとも一昨日に雪の中を自転車で走ったせいなのか、とにかく風邪で頭がぼーっとして書いたのを、そのまま読み返さずにアップしてしまいました。そんなに変なことは書いてないんだけど、何か妙にくどい……。ともかく変なところで切れていて申し訳ないんですが、とりあえず先に進みます。)


さて、登場人物を見ながら、つぎにタイトルを考えてみよう。
サンプルのタイトルは「八人の見えない日本の紳士たち」である。
なぜ「見えない」がついているのか?
観察眼を誇っているはずの「娘」に、見えなかったからである。一般人を代表する婚約者にすら見えていたのに。

つまり、「娘」には作家の資質が備わっていないことの決定的な証拠として、最後に語り手が差し出すのが「娘は日本の紳士たちに気がつかなかった」ということなのである。

これで、とりあえずはこの作品が「何を言ったものか」は掴んだ。さて、さらにもう一歩、ここから突っ込んで考えてみよう。

4.語り手を疑う

まず、この語り手はだれに話しているのだろうか。
語り手は、必ず聞き手の存在を前提としている。いくつかの手がかりをもとに、語り手が思い描いている聞き手を推理してみよう。

まず、この作品は英語で書かれている。
しかも、翻訳では「ホテル・ベントリーのレストラン」「19世紀初頭風」などと訳したけれど、原文は「ベントリー」「リージェンシー様式」と、イギリスの知識を持っていることを当然とした書きぶり、あるいは、女子大ふうのアクセント、19世紀末から20世紀初頭にかけて一世を風靡したヘンリー・ウォード夫人、といった固有名詞から、ある程度の教養を備えたイギリス人(でなくても、それに近い知識を持つ聞き手)を、聞き手として想定しているのである。

わたしたちはこの語り手が想定している聞き手として話を聞くだけではなく、こんどは「想定外の聞き手」として、語り手を疑ってみよう。

語り手が言っていることは正しいのか? 語り手は、自分が思っているほど、たいそうな観察眼を持っているのか。実は順調なスタートを切った新進作家を秘かに妬んでいるのではないのだろうか?

そう考えたのなら、もういちど読み返して証拠を集めなければならない。

「わたし」は、日本人をどこまで正確に見ているだろうか?
「魚料理」「お辞儀」「愛想笑い」…ステレオタイプの日本人像とは言えないか?
「わたし」の観察眼が自分が思っているほど正確ではないとすれば、「娘」の評価も鵜呑みにしてよいのだろうか。
そういう観点からもういちど、娘と婚約者の会話を読み直してみる。

このように、作品はさまざまな解釈が可能である。
けれども、それは「何でもアリ」ということではないのである。

その解釈を成り立たせる根拠が作品のなかになければならず、同時にその解釈は、人を説得しうるものでなければならない。
たとえそれが友人に内容を話すことであっても、ブログなどに感想を書くことであっても、あくまでもそれは解釈という行為であることにほかならない。

5.本を読む、ということ

語り手は時間軸に沿って出来事を語っていく(もちろんこの時間軸はひっくり返されるもの、バラバラにされるもの、一部分だけが前に、あるいは後ろに配置されるもの、さまざまである)。
けれども、この出来事というのは、人を描くために語られるのである。出来事の背後には、かならず人間がいるし、その出来事に反応する人間もいる。
E.M.フォースターが言うように、自分には理解できないほかの人々を理解するために、わたしたちは文学に向かうのだ。

そうして登場人物の描写は、作品が進んで行くにつれ徐々に進展し、ところどころで修正される。
わたしたちはその修正を受け、自分の記憶も修正する。

たとえば、サンプルでは、娘が、自分は鋭い観察眼を持っている、とドワイトさんが言った、と言えば、とりあえずそれは聞いておく。ところが、語り手はどうやらこの娘に対して、好意的ではないらしい。となると、この「鋭い観察眼」も怪しいぞ、と、修正する。そうして最後に娘が日本人の存在に気がついていなかった、という部分を読んで、娘の「観察眼」は杜撰なものである、と再度修正し、同時に語り手の見方の「正しさ」を補強する傍証として理解する。

わたしたちはページをめくりながら、意味にまとまりをつけながら読んでいく。けれども、この意味のまとまりのなかには、必ず満たされない空白の部分がある。

たとえば、娘が「ドワイトさんが言うには、この十年間に出た処女作のなかで、こんなに鋭い観察力を発揮した小説はなかったんだって」と言ったときに、婚約者が「そりゃすごいね」と言う口振りが「悲しげだった」とあるが、なぜ「悲しげ」なのだろう、と思う。この空白を解き明かしたいと願い、仮説を立て、先へ進む。この婚約者は、娘に成功してほしくないのだろうか?

読み進んでいくうちに、この仮説はたいがいの場合、修正を余儀なくされる。後の会話のなかから、婚約者は、娘の作品が当たるとは思っていない。そこでわたしたちは、自分の記憶も修正する。

この「空白」→「仮説」→「修正」は決して終わることがない。単一の絶対的な解釈がある作品があるとすれば、それは文学作品としては、読む価値がないものである。


わたしたちは小説を読む。悲しいことに、ほとんどのことは忘れてしまうだろう、と思いながら、それでもなんらかの価値があるだろうと思って、本を読む。

ところがひどく漠然とした印象を受けただけで読み終えてしまった場合、自分に読む力がないか、作者に問題があるか、あるいはそのどちらでもない(多くの場合「自分には合わない、という言葉で表現される)、と考えてしまう。

そうではなく、いくつかの点に留意すれば、読書体験からより多くのものが引き出されるのではないか、と思うのである。その一助になれば、これほどうれしいことはない。

それでは、よい読書体験を。

(この項終わり)


(※近日中に手を入れてサイトにアップしますので、そのときはよろしく。風邪っぽいんですが。いやあ、U2、グラミー取りましたねー、って、まだそのアルバム、聞いてないんですが。スピーカー買ったんでお金なくなったし、図書館、まだ買ってくれてないし。仕方ないから、前のアルバム聞きながら、うまか棒(貧乏になったので、ハーゲンダッツからランクを落とした)食べてお祝いすることにします、って風邪引いてるんだよね。まぁいいや、うまか棒だから。)

「読むこと」を考える その7.

2006-02-08 22:39:56 | 
(※サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」はhttp://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/gentleman.htmlで読むことができます。)

わたしたちは本を読むとき、まずストーリーを追っていく。
ストーリーとは、E.M.フォースターの定義によると、「それからどうなった?」という質問に答えるもの、「時間の進行に従って事件や出来事を語ったもの」である。

けれども、実際の小説は、出来事が時間軸にそったままの形で提示されることばかりではないし、とりわけ出来事や作品内の時間が限られる短編では、ストーリーを追っただけでは、何の話なのかさえわからないことが多い。

サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」のストーリーをためしに見てみよう。

「わたし」がベントリーに入っていくと、日本人の一団が食事をしており、若いカップルはワインを飲んでいる。ふたりは婚約しているらしいこと、娘は本を出版する予定であることがわかるが、結婚の時期をめぐって口論になる。ワインを飲み終えたふたりは出ていくが、娘の方は日本人がいたことに気づいていなかった。

ストーリーを追うだけでは、何の話かよくわからない。つまり、わたしたちはストーリーを追いながら、プロット(出来事の因果関係)を見つけることができない。最大の疑問は、「なぜこの話が語られなければならなかったのか?」ということである。

劇的な出来事が起きたわけでもない。
めずらしいこと、おもしろいこと、悲劇的なこと、何であれ、語るに足るような出来事をわたしたちは見つけることができない。

そういうとき、わたしたちは、つい、「作者は何が言いたかったのか?」と言ってしまいそうになる。
けれども、作者はロラン・バルトが殺してしまったので、わたしたちはもう作者に聞くことはできない。

だから、語り手と、誰が見ているのか、そうして見ている先の登場人物に注目するのである。

1.誰が語っているのか?
2.誰の話なのか?
 a.主要な登場人物はだれか?
 b.副次的登場人物はだれか? また、彼らはどのような機能を担っているか?
3.誰が見ているのか?
 a.この話はいつの時点で語られているのか?
 b.見ている人物は、登場人物についてどこまで知っているのか?

サンプルの語り手は非常にわかりやすい。「わたし」である。内容から、中年のおそらくは男性(性別を明らかにはしていないが、まず美しい娘に目が行くことから、おそらく男性であると理解していいだろう)の、それなりに経験を積んだ作家であることがわかる。

2.は後回しにして、3.を見よう。
この作品は、おそらく出来事が起こってまだ間がないうちであることが予想される。というのも、娘の作品が出版されたかどうか、それが成功したかどうかは、語りの時点では明らかにされていないからである。
語り手は、ほかの登場人物(娘、婚約者、八人の日本人)について、初対面で何らの知識もない。

さて、登場人物は、語り手である「わたし」、「娘」、「婚約者」、「八人の日本の紳士」、「ウェイトレス」である。ほかに会話のなかに「ドワイトさん」「婚約者の母親」「婚約者の伯父」が登場する。

主要な登場人物は誰だろう?
ここではまず、もっとも多く語られる「娘」であると仮定してみよう。

「娘」は「小作りで愛らしい」「人形のような」容貌で、女子大を出て間がない、おそらくは当世風の乱暴なしゃべり方をする、と描かれる。
駆け出しの作家であり、「観察力」を買われている。

つぎに「婚約者」を見てみよう。
婚約者の話に出てくるのは
・娘に結婚式を持ちかけられ
・伯父からはワインの商いをするよう勧められ
・母親からはおそらくすぐに結婚しないように言われていることが想像される。
以上のことから、婚約者は明確な意志を持たない弱い存在であることが描かれる。

娘の強さを強調するための弱さ。
娘が乗り出そうとする文学と、ワインの商いという世俗的な道へ進もうとするの対比。

では、つぎの登場人物、八人の日本人紳士を見てみよう。
彼らの描写で特徴的なのは、
・互いによく似ていること
・礼儀正しく、つねに笑みを浮かべていること
・相手に対して思い遣りを持ったふるまいをすること

これは何と対比させているのだろうか?
娘と婚約者は、日本人と同じように、よく似ている。
だが、その関係は支配的な娘とそれに引きずり回されている婚約者といったように、まったく対照的である。
あるいは彼らの話は、聞いている「わたし」には、まるで理解できない。
同業であるために完璧に理解できる話と、異なる言葉で話されているために、まったく理解できない会話。そういう対照構造ももっている。

さて、ここで語り手のことをもういちど考えてみよう。
語り手の「わたし」は、表面的には、この描かれる出来事のどれにも参加していない。

食事をし、あるいはワインを飲む登場人物のように、語り手がいったい何を食べているのか、あるいは飲んでいるのか、あるいは運ばれてくるのを待っているのか、注文したのかは描かれない。

けれども、見ることによって、聞くことによって、「わたし」は、この出来事に中心人物として関与している、とも言えるのである。

「娘」は最初、美しさで作家の興味を引く。
つぎに作家の同業者であることから、作家の興味はいっそう深いものになる。
「娘」のことを作家はどう見ているか?
「娘」が駆け出しの作家であることを知ったときから、「もっと彼女に見合った人生があるはずだ」という、決して好意的ではなかったあった作家の視線は、ふたりの話を聞きくうちにますます厳しいもの、「わたしは自分が『チェルシーの潮流』が惨憺たる結果に終わったあげく、娘が写真のモデルになり、青年はセント・ジェイムズ街でワインの商いで堅実に身を立てることになればいい、と考えていることに気がついた。」というまでになっていく。

「娘」のことを語りながら、作家である自分の仕事のことを語っている、とも言えるのである。

娘を主要人物として見ることもできるし、作家を主要人物と見ることもできる。

(すいません、今日は終わらなかったのでもうすこし続けます。明日が最終回です)

「読むこと」を考える その6.

2006-02-07 22:07:39 | 
(※サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」はhttp://f59.aaa.livedoor.jp/~walkinon/gentleman.htmlで読むことができます。)

3.焦点化 ――誰が見ているのか

物語には、わたしたちに話す語り手とは別に、誰の見方が提示されているか、という問題がある。

たとえば森鴎外の『雁』は、語り手は「僕」であるが、このような場面がある。

 岡田は窓の女に会釈をするようになってから余程久しくなっても、その女の身の上を探って見ようともしなかった。無論家の様子や、女の身なりで、囲物だろうとは察した。しかし別段それを不快にも思わない。名も知らぬが、強いて知ろうともしない。標札を見たら、名が分かるだろうと思ったこともあるが、窓に女のいる時は女に遠慮をする。そうでない時は近処の人や、往来の人の人目を憚る。とうとう庇の蔭(かげ)になっている小さい木札に、どんな字が書いてあるか見ずにいたのである。

「不快にも思わない」「知ろうともしない」は、語り手の「僕」ではなく、岡田の意識をである。この作品では、随所に岡田の観点、あるいはお玉の観点、末蔵の観点から出来事に焦点があてられている。ストーリーは必要に応じて、岡田を通して、あるいはお玉を、末蔵を通して焦点化されている。
焦点人物は、語り手と同じであることもあるし、異なっている場合もある。サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」のように、語り手=視点で、作品を通じて動かないものもあれば、『雁』のように、視点が移動する作品もある。

わたしたちは、語り手ばかりでなく、「誰の目を通して出来事が見られているのか」を理解しなければならない。

わたしたちは、日常生活でも「あなたがわたしの立場だったら、いま言っているようなことは言わなかったにちがいない」「あなたがそこにいたら、そんなことは言わないだろう」というように、立場が変わればものの見方、考え方も変わってくる。たとえば『こころ』が、静に焦点をあてて書かれていたら、まったくちがった作品になっただろう。

そうして、このことはつぎのふたつの問題を派生的に生むことになる。

a.いったいいつの時点で出来事に焦点を絞っているのだろうか?

 私が先生と知り合いになったのは鎌倉である。その時私はまだ若々しい書生であった。(『こころ』)

これは、出来事がすべて起こってしまった後、振り返って語っている。こうしたとき、語り手は何が起きるか、すべて理解しているし、多くの場合、その出来事の原因を理解しているし、その結果どうなったかまで知っている。


僕は、きょうから日記をつける。このごろの自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がして来たからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格がつくられると、ルソオだか誰だか言っていたそうだが、或いは、そんなものかも知れない。僕も、すでに十六歳である。十六になったら、僕という人間は、カタリという音をたてて変ってしまった。他の人には、気が附くまい。(太宰治『正義と微笑』)

この日記、あるいは書簡という形式は、できごとが起こったほとんど直後に記される。日記を書いたり手紙を書いたりしている人物は、出来事の全貌を知ってはいない。こういうとき、「つぎに起こる出来事」は、なんでも驚きになることもある。

サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」の語り手が焦点化している出来事について、いつ語っているのか?

b.焦点人物は、登場人物についてどこまで知っているか

 女王様はさっと赤くなった。もしかしたら、ただ日に焼けて赤くなってただけかもしれないんだけど、こんなに近くまで来て、やっとぼくはあの子が日に焼けてることに気がついたんだ。(アップダイク『A&P』私訳)

このサミーは「女王様」と彼が呼ぶ、水着のままスーパーマーケットに入ってきた女の子のことを、ほとんど知らない。彼女は、サミーが思っているような女の子ではまったくないかもしれない。

 振り返って王女を見つめた若者は、並み居る憂慮に満ちた面もちのなか、ひときわ蒼白な顔で坐している王女の眼をとらえた。魂の相寄るふたりだけが持つ、一瞬の以心伝心の能力でもって、若者は王女がどちらの扉の向こうに虎が身をかがめ、どちらの扉の向こうに女が立つか、知っていることを認めた。そうであってくれたら、と、かねてより望んでいたとおりに。(ストックトン『女か虎か』)

若者は王女のことを知っている。十分に知っているからこそ、この話に緊迫感が生まれる。

焦点化の軸となる意識は、出来事を、あるいは登場人物を、どこまで知っているのだろうか。その知識が限られたものである場合、まちがっている可能性は十分にある。注意深い、有能な読者は、この意識の誤りを指摘することもできるのである。

サンプル「八人の見えない日本の紳士たち」の焦点人物である「作家」は、どこまで「娘」や「婚約者」について知っているのだろう? 彼の認識は、まったく正しいのか?

ここまでであげた問題点をもういちどまとめてみよう。

1.誰が語っているのか?
2.誰の話なのか?
 a.主要な登場人物はだれか?
 b.副次的登場人物はだれか? また、彼らはどのような機能を担っているか?
3.誰が見ているのか?
 a.この話はいつの時点で語られているのか?
 b.見ている人物は、登場人物についてどこまで知っているのか?

このような観点から読んでいけば、この作品がぐっとよくわかる……ということはないだろうか?

(たぶん明日が最終回)

「読むこと」を考える その5.

2006-02-06 21:52:35 | 
(※始めに:昨日のブログは内容が未整理のままアップしたために、一部に用語の混乱が見られますので訂正いたしました。どうか本日分と併せて昨日分を再度お読みください)

2.誰の話なのか

物語のなかで、登場人物というのは、決定的に重要である。作品の中で起こるすべてのことは、そのなかの人物についての理解と関連する。逆に言えば、読者が登場人物に対して理解するために、あらゆるできごとは起こるのである。

それはたとえ、大きな鯨を追いかける話であろうが、人妻の不倫の話であろうが、学生が金貸しの老婆を殺そうが、くじびきの話であろうが、できごとは、かならず人物が(それは擬人化された動物である場合も、ロボットである場合もあるにせよ)それにたいしてどう考え、どう行動するかをひきだすために起こる。

したがって、小説を読むという経験の中心的なものは、人物を理解することなのである。

まず主要人物を確定する。
その人物に関心が当てられているか、複雑な性格を与えられているか、強い個性を与えられているか。

サンプルの「八人の見えない日本の紳士たち」の場合、非常にはっきりしている。「娘」である。

主要人物を確定したのち、この人物が表現しているものは何か、に気をつけながら読んでいく。

つぎに副次的人物を捜す。サンプルの場合、登場人物がきわめてかぎられているので、非常に見つけやすいのだが、登場人物が多くなると見つけにくいこともあるかもしれない。けれどもこの副次的人物というのは、きわめて重要な役割を背負っている。

・多くの場合、副次的人物というのは、最大公約数的人物である。平均的なものの見方をし、主要人物の個性を計る目安となる。あるいは、このサンプルのように、主要人物である「娘」の強さを引き立てるための「弱さ」を体現する存在として現れる。

・副次的人物は、場面に応じて複数であることもよくある。

わたしたちはこの副次的人物があまり目立たないことが多いため、その登場を見逃しやすい。けれどもこの副次的人物を忘れていると、主要人物の行動の特質も、十分に理解しないままになってしまうのである。

このサンプルでは「娘」に対比する存在として「婚約者」が描かれる。では、「八人の見えない日本の紳士たち」は、何なのだろう?

彼らもまた、副次的人物なのである。

「八人の見えない日本の紳士たち」と「娘」の何を対比させて見たらよいのだろう。
このように問題をたてることによって、わたしたちの「娘」に対する理解も深まっていく。

(この項つづく)